Recent Search
    Sign in to register your favorite tags
    Sign Up, Sign In

    しじみ

    @MadamSIZIMI

    Twitterに載せたものの保管庫。
    イラストメイン、文字もまれにあるかもしれない。何でも許せる人向け。
    #DivineFleet:創作海軍
    #Triangle_plus:コミッションで書いて頂いた作品の逆輸入二次創作
    (作者様の公開ページ→ https://www.pixiv.net/novel/series/8525203
    #Sando_Witchcraft:コミッションで書いて頂いた作品の逆輸入二次創作
    (作者様の公開ページ→ https://www.pixiv.net/novel/series/9031524

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 46

    しじみ

    ☆quiet follow

    創作海軍の海が出てこないSS。

     極華神国櫻城州。伝統と西海の文化が入り混じる有明の都に暮らす州立大学の学生、犹守弥栄は学費を稼ぐために軍の社会貢献活動に協力する仕事をしている。
    仕事の内容は有明で起こる原因不明の奇妙な事件の調査。
    「人喰い廊下」で子供が消えた。そんな話を聞き、弥栄と軍人安達真純はある学校に向かう。

    #DivineFleet

    人喰い廊下 休憩時間を知らせる鐘が鳴ると待ちわびていたように扉という扉から生徒たちが飛び出す。座学ばかりで有り余った力のやり場を求めて生徒たちは思い思いの遊びに興じ始める。その日、級友たちとじゃれ合い、ふざけて追いかけ合っていた少年は気付けば三階の廊下のつきあたりにやって来ていた。何も考えていなかったとは言え、このひと気のない廊下にやって来たことを彼は少し後悔した。

     ――人喰い廊下で転んではいけない。

     学校ではそんな噂がささやかれていた。その場所で転ぶとついさっきまでそこにいたはずの人が瞬きほどの間に煙のように消えてしまうのだという。実際に人が消えるところを見たわけではなく普段は噂を思い出すこともないが、今はそんな噂がやけに胸に引っかかり気味悪く感じられた。少年がまごついている間に背後から追いかけてきた級友の声が聞こえてきた。聞き慣れた声に安堵し不安な気持ちを振り切るように再び駆け出そうとした少年は、しかしそのとき不意に何かに足を取られてしまった。すぐにでも立ち上がりたいと思いながらもじわじわと足首から伝わる冷たい感覚が先ほどから身に迫る不穏な気配を強くして、彼は床に両膝をついた姿勢のまま動けない。恐る恐る肩越しに振り向いた少年は、水でも浴びたように全身が冷えていくのを感じた。
     視線の先では、真っ白な手が彼の足首をしっかりと掴んでいた。

    ***

     夕日が投げかける光が校庭を橙色に染める。最後の生徒が校門を出ていく様子を窓から見届けると犹守弥栄(いづもりやさか)は部屋の中に向き直った。使丁室には彼と白髪の使丁、そして弥栄と変わらない年頃の男がいる。男の名前は安達真純(あだちまさずみ)。革の上着がひときわ目を引く変わった出で立ちからは想像し難いが、彼はこの櫻城州に本府を置く神国海軍の軍人であり弥栄の仕事仲間でもある。

    「さて、それじゃあ早めに片付けて失礼するとしようか」

    木で出来た簡素な椅子から腰を上げると真純はこの場に似つかわしくないほど呑気な笑顔で弥栄を仕事へと促した。二人が向かうのは櫻城で起こる不可解な事件や現象を調査し、それを解決する仕事だ。
     何歩か譲っても弥栄にはそれが海軍の仕事とは思えないが、目に見える形で市民のために貢献することを今の神国海軍総帥は非常に重要視しているのだとかつて真純は語っていた。街の近くに本府や軍港、海軍学校を構える海軍にとって、地域の人々と融和することが仕事のやりやすさにかかわるのはもちろんだが、海軍が市民の人気を得ようとすることには別の事情もあるらしい。

     真純から聞いた話を平たく言えば、海軍はこの国の中枢にいる人々に好かれていない。総帥こそ櫻城の公子を戴いているものの、平民や支配者階級の中でも地位の低い者ばかりが集まった新設の組織が上流階級の人間から鼻つまみ者にされるというのはいかにもありそうなことだと思える。その海軍が微妙な均衡状態を保っている西海諸国を訪ね回っては結果として国内へ西海の文化だけでなく厄介事も持ち込むので、特に保守的な為政者たちからはすこぶる評判が悪い。海軍がその存在意義を世に認められることは国の中枢でくすぶり続ける、海軍の権限と活動を抑制すべきという論調を跳ねのけるために役立つという事情もあるのだ。そんな彼らに寄せられる市民からの依頼は海難救助から市民向けの講習、力仕事まで多岐にわたるが、真純と弥栄が担当する案件はもっぱら原因のわからない奇妙な事件ばかりだった。
     州立大学の一学生としてここ有明の都に暮らしている弥栄は海軍の難しい立場を理解しているわけでもなく、かといって怪異に悩む市民を助けることに使命感を覚えているわけでもない。ただ、一学生として大学に通うには学費が必要であり、はるか北の故郷を離れて下宿をするにも金がいる。そんな単純で切実な理由から彼はいわゆる内職(アルバイト)として非常勤の軍人をしている。決して気が向く仕事ではないが、払いの良さに惹かれたことは素直に認めなければならなかった。

     「三階の廊下のつきあたりでしたっけ。その、生徒が消えたっていうのは」

    「はあ、そのようで……」

    校舎の方を見上げたまま弥栄が訊ねると、使丁は彼以上に戸惑った様子で返事をする。事の顛末を聞けばその気持ちは弥栄にも理解できた。
     この学校には人が消えると噂される廊下がある。口の字型の校舎北西の角から短く突き出るようなその廊下は一階こそ部屋に繋がっているものの、二階と三階は教室もなければ窓もないただの行き止まりになっている。元々この建物自体が一から作られたものではなく、別の場所にあった建物の一部を移築して校舎として利用しているそうなのだが、構造上の問題で移築の際にどうしても一緒に持ってくるしかなかったのだという。話を聞きながら案内された廊下には説明以上のことはなく、行き場のない備品がいくつか置かれたその場所に生徒たちは積極的に立ち寄らないという話も噂とは関係なく単に用がないからではないかと思われた。

    「それにしても人喰い廊下とは……どこの学校にもその手の怪談があるんだな。僕の通った初等学校にもあったな。動く絵画とか延々と続いて終わらない階段とか」

    「海軍学校にも人喰い鏡があったそうだよ。本当に人を食べるから撤去されたらしい」

    「僕はもっとかわいげのある話をしていたつもりなんだけど」

    不穏なことを世間話のように言ってのける真純へ困惑気味に向けた視線を戻すと夕日も入らない廊下は何となく不気味に見えた。使丁によれば人喰い廊下の噂は彼が勤め始めた頃から生徒たちの間に伝えられていたものだが、今まで人が消えたことがあったわけではないという。しかし数日前、休憩時間中に廊下で遊んでいた生徒の一人が忽然と姿を消したことで事情は大きく変わった。幸い、生徒は数時間後に見つかったが、その現れ方も消えた時と同じくらい唐突だった。生徒を探す人々がひっきりなしに行き来していた校舎の入り口にぼんやりと立っていたところを教師が見つけたのだ。どこに行っていたのかと問いただしてもその答えは要領を得ず、今まで三階の廊下にいたはずだと首を傾げるばかりだったという。

    「犹守君、何か感じるかい?」

    真純に問われた弥栄は鼻をこすると眉をひそめる。

    「何だか鼻がむずむずするけど、はっきりとはわからないな」

     弥栄がこの奇妙な仕事への協力を求められたのはひとえにこの特異な体質のためだった。彼は怪異の存在を体の変調により感じ取ることができる。先天的なものではなく彼がここ櫻城の都、有明で巻き込まれたある事件のいわば後遺症として得たもので、怪異に対して体が過敏に拒否反応を示しているのだと弥栄は理解していた。昔から体を持たないものに寄り付かれやすい彼にはそういうものが近付くたびにくしゃみや目のかゆみ、耳鳴りなどが起こる。もう少し他の反応はなかったのかという不平はあるが、激しい腹痛などよりはましと考えるほかない。

    「自分で確かめてない以上は何とも言えないけど、人が消えるとか瞬時に別の場所に移動するなんて論理的には考えにくい」

    「論理的にはどんなことが考えられるだろう?」

    真純は純粋に弥栄の見解を心待ちにしているようだった。

    「例えば、見えないようになっていたとか。光が当たらない物は人の目には見えないから」

    へえ、と言いながら傾げられた相棒の顔に手をかざすと弥栄は続ける。

    「こうすると手の陰になっている部分は見えないだろう? 僕の顔に反射して君の目に入るはずの光が手に遮られているからだ」

    「改めて説明されると納得だね。僕も見えなくなったと考えるのが現実的だと思う。地祇の術なら物を別の場所に転移させることが可能だけど、これがとんでもなく難しいんだ。そうそうできることじゃないからね」

    そんなまったく別の自然法則に照らして納得されても、というつぶやきを聞いているのかいないのか、今度は真純が語り始めた。

    「見た目が近い現象にはいわゆる神隠しがあるけど、あれは人や物が転移しているのではなくてこの世と異界が重なる部分に入り込んでしまって見えなくなるものだと言われているよ。異界には現世のような意味での場所も時もないから、本人はその場を動いていないつもりでも重ね目を抜けたときに現世とずれが生じるんだとか」

    「安達君はここで神隠しがあったんだと思うか?」

    訊ねると意外にも彼は首を横に振った。

    「犾守君が異変を感じているなら別の要因だと思うよ。異界がたゆたいながら時々現世と重なるのは怪異じゃなくて自然の理だから」

     ――自然の理。
     事も無げに放たれた言葉に弥栄は少し苦い顔をする。真純は神国に影響力を持った神祇と総称される神族のうち、地祇族の加護を受けているのだという。彼のような人間は地祇の術という異能を使って瞬時に物を作ったり壊したり、弥栄の知っている物理法則を悠々と超えていく。弥栄にとっては怪異も加護も異界の在りようも物理法則に従わないという点で大した差はないが、神学を修めた真純に言わせればそれぞれが少しずつ違うらしい。真純の語る理に耳を傾ける価値がないとは考えていなかったが、この場でそれを追究するわけにもいかないので弥栄は改めて人喰い廊下を見回した。

    「見た限り何もないけど、どうする?」

    「うーん、そうだね……」

    真純は相変わらず誠実そうだが感情の読めない表情で首を傾げた。これが生来の気質らしく、弥栄はこれまで彼が怒って声を荒げたり大笑いして騒いだりするのを見たことがない。

    「鬼ごっこでもしようか」

    思わず見つめ返した真純の顔つきはこのときも真面目そのものだった。

    ***

     外に出た弥栄と真純、そして使丁は藍色の夕闇に染まり始めた校舎を改めて見上げていた。生徒が一時姿を消した原因はわからないが、とにかく生徒が消えた状況をひととおり再現してみようという真純の提案で彼らは消えた生徒と同様に追いかけ合いをしてみることにした。何事も実験し事実を観察しないことには始まらないのだから弥栄としても方針自体に否やはないが、再現とは言っても時間は放課後をとうに過ぎ、遊んでいるのもいい年の大人たちであることが結果にどう影響するのかは早々に考えるのをやめていた。

    「僕が鬼をするから、犹守君は逃げて人喰い廊下へ向かってほしい……あれ?」

    三階の廊下を指さした真純が不意に訝しげな顔をして動きを止めたのでその視線を追うと、その先にはぶつ切りにされた建物の断面がのぞいていた。

    「扉がある」

    真純の言うとおり、廊下の突き当りには建物の中から見たときには気付かなかった扉があった。

    「元の建物にはあの先にも部屋があったらしくて。危ないんで今はふさいじまってます」

    これまで説明を求められない限り二人の会話に加わろうとしなかった使丁は、大した話をしていたわけでもないのにやけに緊張した様子で口を挟んだ。彼の言うとおり扉の外は一階の屋根まで垂直の壁になっていて、落ちれば無事では済まないだろうということは見ているだけで伝わってくる。それでも真純は大げさなくらいにしきりに相槌を打った。

     「それじゃあ十数えたら全力で追いかけるから、全力で逃げるんだよ」

    真純は言い終わるとすぐに間延びした声で一から数え始めたので弥栄も小走りに校舎へ向かう。手を使わずに下足を脱ぎ捨てて校舎の階段を駆け上る彼に合わせて床が大きく軋んだ。踊り場の窓から見える空は一層宵の彩を深くして、ビロードを広げたようにつややかな紫紺の天幕が広がっている。家並みと同じ高さに残った陽の色はまるで街が燃えているように見えて弥栄の心を騒がせた。空に目を奪われていた彼は視界の端に校舎へ猛然と駆けていく真純の姿をとらえ、すぐに自分の仕事を思い出した。真純が長靴を脱ぐのに手間取っているであろう隙に弥栄は二階を過ぎ、三階の廊下へたどり着く。丁字路になっている廊下を曲がると現れた人喰い廊下は先ほどと何も変わらない。体にもはっきりとした変調は現れず、むずむずとどこか落ち着きのない鼻を弥栄は再びこすった。
     突き当りまで進んで壁を確かめてみると壁には几帳面に板が打ち付けてある。壁材のようにも見えるが叩くと軽い音がよく響くので使丁の言うとおりこの下にかつての扉があるようだった。しかしそこに怪異どころか生徒が隠れられるような隙間があるわけでもなく、よそよそしいほど静まり返った廊下は怪異を探してやかましく走り回る自分を場違いと責めているようにすら感じられた。
     ふと心細い気持ちになって彼は服についているすべてのポケットと斜にかけた鞄に手を伸ばす。そこには紙を結んだような形の護符飾りがある。幼い頃から何かと怪異につきまとわれる弥栄を心配して、同じような体質の祖母が会う度に持たせてくれるものだ。実際にこれを持っていれば悪いものは近付いてこないのだが、たとえ効果がなくても祖父母に可愛がられて育った弥栄には祖母が自分を思う気持ちを感じればそれだけで心強い。

     弥栄がどうしたものかと思案していると、床が軋む音がはっきりとこちらに近付いてくるのがわかった。怪異が現れなかったので真純とこの後の対応を話し合わなくてはいけない。短いため息とともに歩き出した弥栄は、自分の意思に足がついてこないような奇妙な感覚を覚えた次の瞬間、つんのめり床に膝をついて転んでしまった。足が重たい原因を確かめるよりも先に襲ってきたのは真冬のような冷たい感触。服の上からでもそれが人の手であることがわかった。熱を奪われるようにさっと体が冷えたが、弥栄にはさほど恐怖はなかった。

    「犾守君、何かあったかい?」

    一拍遅れて曲がり角から真純がひょっこりと顔を覗かせる。ここにいるのが何であれ、彼がいる限り弥栄の安全は守られる。それは信頼というより確信だった。自分の足元に何かがいる、そう答えようとしたが、その声は首筋をかすめて伸びてきた手によって弥栄の口の中に押し込められてしまった。

     ――ここにいて。

     小さく冷たい、声と手のひら。振りほどかねばと焦る心に反して意識は急速にぼやけていく。何を捉えているのかも判然としなくなってきた視界に真純がきょろきょろとあたりを見回している様が映る。

    「犾守君?」

    甲高い耳鳴りが自分を探す声をかき消していく。音が大きくなるにつれてますます頭はぼんやりと霞がかり、その裏から堪え切れなくなった別の感覚が急速に浮かび上がってきた。

    「へ……っくし!」

    先ほどから増していた違和感がついにくしゃみとなって弥栄の体の外に出ていく。ここにいるのが怪異の類だと体が知らせてきたわけだが、弥栄は堰を切ったようにくしゃみが止まらずそれどころではない。そんな彼の様子に戸惑うように気が付くと白く冷たい手は彼の口から離れていた。

    「安達く……えくしっ!」

    やっとの思いで呼びかけたのとほぼ同時、視界に一筋光が走る。何が起きたのか弥栄が理解する前にその線を境に景色が水面のように揺らめいて霧消する。その向こうには同じ廊下の景色。そして白刃を持った真純の姿があった。

    「なるほど。見えなくする、ね」

    感心した様子で独りごちた彼は床に座り込んだままの弥栄に手を差し伸べる。

    「何が起きたんだ?」

    「どうやら誰もいない廊下の幻を作り出して、その裏に君を隠していたみたいだ」

    「今の、幕みたいなのが?」

    「そう。目に見えさえすればかたちにできるからね」

    取り出したハンカチで鼻をかみつつ訊ねると真純は頷いた。

     これが彼の異能を他と隔する彼だけの特技だった。
     真純には弥栄とは違う形で人の目に映らないものが見えるのだという。人の感情や強い思念のようなものが彼の印象と結び付き、はっきりとした形として認識される。それを、物質を操り、物を作り出す地祇の術によって現実に顕現させるのだ。今も目に見えるが実体のない幻にかたちを与え、物として切り捨てた。自ら確かめたもの以外は信じられないと常々口にしている弥栄だが、『真純に見える』という一点だけで存在しないものを現出させ、目に見えないものに形を与えるというのだから、自分の目に映るということの意味はいかほどかと時折考えてしまう。

     改めて人喰い廊下のつきあたりに目を向けるとそこには白い人影がたたずんでいた。季節外れの半袖シャツと黒い半ズボンから伸びる頼りない肢体が異様なほど青白く、暗い廊下でぼんやりと光っているようにすら見える。

    「子供……?」

    先ほど弥栄を捕らえていた手が彼のものであることを直感する。子供は穴が空いているようなうつろな目を二人に向けるばかりでその真意は測れない。彼が自分たちを害するものなのかを見定めようとしていたとき、二人の背後で短い悲鳴が上がった。二人を追ってきた使丁が蒼白な顔を歪めてその場で震えている。その様子は単に怪異に怯えているのとは違う、言い表し難い違和感を弥栄に与えた。

    「一体どうしたんだ……?」

    「……膨れ上がった恐怖と、恐らく、罪の意識」

    真純は弥栄の覚えた違和感をそう言い当てた。子供と使丁の間に横たわる暗い廊下をしげしげと眺めて何かを感じ取っている。

    「それが鎖のようにこの子をここに縛っている」

    真純の見て取ったものが重たい音を立てて床に落ちる。錆の浮いた大きな鎖の両端は子供と使丁の胸に深々と埋もれて離れがたく繋がっているように見えた。それを目にした使丁が頭を抱えて錯乱したように大声を上げる。相変わらず何を訴えるでもなく佇んでいる少年とは対照的に、すっかり取り乱したその声は慟哭に似ていた。
     その様子に弥栄は理由もわからず、しかしはっきりと憐憫の情を抱いた。弥栄の祖母はいつも怪異に心を寄せてはいけないと言っていた。共感は怪異がつけ入る隙を与えてしまうからと。しかし二人を重苦しく結び付ける鎖が彼らを苦しめているという確信が胸を締め付け、強く揺さぶって弥栄に彼の役目を思い出させた。

    「僕がその鎖を壊してやる」

    弥栄が決意と共に語りかけると、少年はうなずくように首をかすかに動かしたように見えた。

     外套をはねのけて学生服の上着に縫い止めた護符を手にすると、弥栄は真純の目を見つめ返した。その意図を感じ取ったらしい真純は弥栄の護符に意識を集中するようにしばし視線を止め、伸ばした手で弥栄の目の前の中空を斜になで上げる。その軌跡を追うように手の中にあるものが新たな形を得て、すらりと伸びる黒い弓幹(ゆがら)に真朱の弦を張った弓と矢じりのない矢が顕現した。
     くしゃみをこらえようと息を止め、弓を大きく引き絞って弥栄は長く伸びた鎖に狙いを定める。祖母の祈りと、障りを散らし怪異を鎮める護符の力が火のように揺らめき矢じりの形をなすと、彼は迷わずそれを放った。重たげな鎖は矢を受けて大きく跳ねながら飴細工のように軽く砕け散る。使丁が持ち込んだランタンの光を受けて塵のように崩れ去り虚空へ消えていくそれはきらきらと金色に輝く火の粉のようだった。
     胸をふさいでいた鎖が消え、自らを捕らえるものがなくなった少年はうつろな瞳を使丁に向け、それから弥栄たちにも向ける。何かを伝えようとしているのかと言葉を待ったが彼はなおも棒のように立ち尽くすばかりだ。

    「……すまなかった」

    長い沈黙を破って使丁がかすれた声で少年に声をかけた。次の瞬間、彼の姿は彼が作り出した幻と同じように徐々に見えなくなりついに消えてしまった。使丁はその場に座り込み、放心した様子で少年が消えた人食い廊下をいつまでも見つめていた。

    ***

     詰所に帰り、ようやく落ち着きを取り戻した使丁は真純と弥栄の前でぽつりぽつりと語り始めた。
     彼が使丁として働き始めて間もない頃、学校でひとつの事故があった。ある夜、彼が見回りのため校舎を歩いていたときに一人の男子生徒が校舎内に残っているのを見つけた。当時は今よりも警備が大雑把だったので時折忘れ物やいたずらのために夜の学校に忍び込む生徒がいたが、どんな事情があったとしても校門が閉まっている時間に校内へ入ることは校則違反だった。声をかけられた生徒は咎められると思ったらしく、そのまま慌てた様子で逃げ出した。放っておくわけにはいかず追いかければ生徒は更に必死に階段を駆け上がり、使丁をまこうと逃げ回る。しばしの逃走劇の末、ついに使丁は三階の人喰い廊下へ生徒を追い詰めた。しかし、行き止まりのはずの廊下に生徒の姿はなかった。廊下の奥の開け放たれた扉から夜の風が寒々と吹き込んでくる光景を今でも鮮明に覚えている、と使丁は遠い目をした。

     「その時から扉がふさがれるようになったんですね」

    真純の言葉に使丁は力なく頷いた。
    自分から逃げようとしていた生徒が結果的に命を落としてしまったことに自責の念を感じていた彼は、だからこそ職を追われることを恐れて事の顛末を報告することができなかったという。学校に残された記録には校舎外を巡回していた使丁が転落した生徒を見つけたと記載があり、今後もそう記され続ける。いずれにせよ、もはやこの廊下で人が消えることはないだろう。そう真純が宣言し、今回の件は幕を引くこととなった。

     「自分と同じように追われて人喰い廊下に逃げ込んだ人を匿うつもりだったのかな」

    閉ざされた校門を見上げて真純は誰にともなくつぶやく。あの時自分の耳に届いた言葉を思い返しながら弥栄は首を傾げた。

    「さあ、彼の考えを確かめたわけじゃないからな」

    そもそも彼が先のない扉から転落したときに何があったのかさえ、誰も見てはいないのだ。ただきっと無念だっただろうと弥栄は感じていた。なぜ彼は死ななければならなかったのか、その答えを求めようとしても人喰い廊下はすでに夜の一部となっている。

    「安達君はあると思うか? その場所自体が悪意を持って人に害をなそうとする、そんなことが」

    思わず口をついた考えを真純は笑い飛ばすことも、彼のよく知る理に照らして語ることもしなかった。しばし目を瞬きながら何か思案し、やがてどこか底の知れない笑みを浮かべて答える。

    「論理的には考えにくいかな」

    短く鼻で笑うと弥栄は怪異が一つ消えた世界に背を向けて歩き始める。

    「すっかり遅くなってしまった。蕎麦でも食べて帰ろう」

    弥栄に同意するように真純も彼と並んで歩き出す。

     有明の都は闇を隠すように煌々と輝き、今宵も二人を迎え入れる。

                                       了
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    💖❤👏👏👏👏👏
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    related works

    しじみ

    DOODLE創作海軍の海が出てこないSS。

     極華神国櫻城州。伝統と西海の文化が入り混じる有明の都に暮らす州立大学の学生、犹守弥栄は学費を稼ぐために軍の社会貢献活動に協力する仕事をしている。
    仕事の内容は有明で起こる原因不明の奇妙な事件の調査。
    「人喰い廊下」で子供が消えた。そんな話を聞き、弥栄と軍人安達真純はある学校に向かう。
    人喰い廊下 休憩時間を知らせる鐘が鳴ると待ちわびていたように扉という扉から生徒たちが飛び出す。座学ばかりで有り余った力のやり場を求めて生徒たちは思い思いの遊びに興じ始める。その日、級友たちとじゃれ合い、ふざけて追いかけ合っていた少年は気付けば三階の廊下のつきあたりにやって来ていた。何も考えていなかったとは言え、このひと気のない廊下にやって来たことを彼は少し後悔した。

     ――人喰い廊下で転んではいけない。

     学校ではそんな噂がささやかれていた。その場所で転ぶとついさっきまでそこにいたはずの人が瞬きほどの間に煙のように消えてしまうのだという。実際に人が消えるところを見たわけではなく普段は噂を思い出すこともないが、今はそんな噂がやけに胸に引っかかり気味悪く感じられた。少年がまごついている間に背後から追いかけてきた級友の声が聞こえてきた。聞き慣れた声に安堵し不安な気持ちを振り切るように再び駆け出そうとした少年は、しかしそのとき不意に何かに足を取られてしまった。すぐにでも立ち上がりたいと思いながらもじわじわと足首から伝わる冷たい感覚が先ほどから身に迫る不穏な気配を強くして、彼は床に両膝をついた姿勢のまま動けない。恐る恐る肩越しに振り向いた少年は、水でも浴びたように全身が冷えていくのを感じた。
    9243

    recommended works