冬のこども 2月14日といえばみんな浮き足立って、たったひとりから送られるありがとうを心待ちにしている。女傑はこの日のためにチョコレート作りに励み、豪傑はお返しの趣向を凝らす。皆々負けず嫌いだから、今日という日はこぞってとっておきを披露するので、施設中がにぎやかになる。その雰囲気は華々しくて見ていて楽しい。斯く言う僕も、誰にも負けないとっておきのお返しを渡したつもりである。
サーヴァントにとってマスターは特別な存在だけども、ここまでくると人柄が成せるわざとしか言いようがない。あの岡田君ですら、今日はマスターの部屋で飲むのが恒例だからと、僕の誘いも断って行ってしまった。生前からイベント毎になるとタイミングが合わないことが多い僕は慣れたもので、それならしょうがない、そうやってバツが悪そうな顔をした彼を見送って、今は一人で留守番しているところだ。
マスターの方が終わったら帰ってくるから待っていろだなんて、よくもそんな偉そうなことを言ったものである。おかげで僕は、彼の部屋で待ちぼうけを食う羽目になってしまった。見送りながら、僕にもマスターにも失礼だとは思わないのかと嫌味のひとつでもくれてやろうかと思ったが、今日ばかりは我慢してやる。あんな風に迷った顔を見せられては、つついてやるのは可哀想というものだろう。
けれどそのままでいるのも癪だから、かわりに万年床に寝っ転がって、彼が隠し持っていた酒を頂戴することにした。せっかく用意したプレゼントもお預けとなったのだから、これくらいは許されるはずだ。
今日のために僕が用意したのも酒である。少し趣向を変えて、日本酒や焼酎ではなくウイスキーを選んでみた。グレーンウイスキーというやつで、モルトウイスキーよりもすっきりした味わいの飲みやすい酒だった。セットで包装してあるおまけ程度のチョコレートはカカオが強めの、ウイスキーならこれが合うと購買で勧められて購入したものだった。いずれも少しずつは、僕の腹にも入る算段になっている。
岡田君は、あれで雑味の少ない酒を好む。見つけたのも土佐の酒、甘みのない淡麗辛口というやつで、酸のきれいなスッキリした酒だ。あそこの酒は清流のようにさらさらと喉を流れてしまうから、飲み過ぎてしまうのも無理はない。だからといって彼のアレは、あまりにも無鉄砲な、加減というものを知らない飲み方だと思うけど。
なるべく清潔そうなお猪口を見つけてくっと飲み干す。キリとした冷たい液体がすっと喉を通り過ぎる。冷蔵庫に入れていたわけではないからキチンと冷たいというふうにはいかないが、暖房のぼんやりした温かさのなかで飲むのもまた格別だ。ついプレゼント用のチョコレートに手が伸びそうになるが、ここはぐっと我慢する。つまみはなくても、せめて窓があって外の景色が覗けるといくらかいいのだけれど……と四方の白い壁を見る。これで雪でも降っていれば、風情があるというものだ。
ふと、彼の生まれた場所はどうだったのだろう、生まれた時どんなふうだったのだろう、そんな疑問が浮かぶ。寒い時期の生まれというものが、夏生まれの僕にはいまいち想像がつかない。土佐の気候には詳しくないが、僕の生まれ故郷とそうそう変わりはしないだろう。日本海に面している分、こちらの方が寒いかもしれない。あそこは見晴らしの良い場所であれば、海からの寒風が吹きつける。その風の鋭いこと鋭いこと。冷たくて、空気を吸い込んだ肺まで痛くなってくる。雪はあまり降らないが、降れば防長のなかでは降るほうだし、海でない方は山に囲まれているから身動きが取れなくなってしまう。せいぜい一日二日の出来事だが、三月までは油断ができない。
彼の生まれた日は、雪はちらついていただろうか。風は強かっただろうか。日本家屋は隙間風が多いから、その日ばかりは部屋をうんとあたたかくしていたに違いない。そうして生まれたのが男の子だから、父母も喜ばれたことだろう。それに、身体だけは丈夫そのもの。それで心配かけなかったというのは、僕からすれば羨ましいことだ。その分難儀な性格をしているけれど、年少の頃からそうだったのだろうか。
彼の育った景色を胸に描く。立ち寄ったこともないから、想像のまた想像だ。小さな坂本君や武市とともに、そこらじゅうを駆け回っている姿が目に浮かぶ。他人の家の柿でもとって、追い回されたりしたかもしれない。しかしあの二人といて、よくもまああんな風に育ったものだ。もう少し賢くったっていいんじゃないだろうか。
その寂しさは、彼が一番よく理解して引きずっていたに違いない。だって、今でも岡田君は他人に気をかけられたい男なのだ。僕にはたまに、彼が小さなこどもにみえることがある。ここへ来て彼はいくらか変わったようだけど、今でも些細な、本当にごく些細なことで、彼の瞳が揺らぐのを見ることがある。その瞳の中には小さな岡田君がいて、僕は彼を見つけると、つい構ってやりたい気になってしまう。
――これでは、浸りすぎだ。
親みたいなことを考えたものだと自嘲する。彼の方がひとつ年長なのに。酒だけを腹に入れているわけだから、酔いが気持ちに回ってきたのかもしれない。そう思うと、大して面白くもないのにクスクスと笑いがこぼれてしまう。壁掛け時計が示す時刻は午後11時30分。僕は体を返して大の字になって、しばらくの間そのまま笑っていた。
部屋の扉が開いたのは、ちょうどその時だった。部屋の主が戻ってきたと思いきやマスターも一緒で、目があった途端にマスターは気まずそうな顔をした。岡田君はといえばすっかりノびて、歳下のマスターに身体を支えられている。よく見ると伸ばしっぱなしの髪が見慣れない髪留めでひとまとめにされて、情けない赤ら顔がよく見えること。ぐでんぐでんに酔っ払って、一回全部出してきましたみたいな顔だった。
「以蔵さん、飲みすぎて吐いちゃって」
「アハハ、そりゃいいや。迷惑かけたね、あずかるよ」
マスターからでろでろになった岡田君を受け取る。おっととよろけると、すかさずマスターが大丈夫ですかと手を伸ばす。
「あの……邪魔しちゃったでしょうか」
「大丈夫さ、話は聞いていたからね。次も付き合ってやるといい、ものすごく喜ぶだろうから」
そういってやると、パッと表情が明るくなる。「もう大丈夫だから、戻りたまえよ」と言うとマスターは「それじゃ、失礼します。おやすみなさい」と一礼し、手を振りながら部屋を出ていった。
「ほら、起きろよ、飲み助、ロクデナシ」
礼儀正しい子供を見送って、ハアやれやれとだらしない男の背中を叩く。大の大人が、ぐずるように身を捩る。
「起きてるじゃないか。そら、しっかりしろ」
よっと持ち上げて自分で立たせようとしたけれどうまくいかず、僕らは二人してヨロヨロと一畳半ほどよろめいた。最後はなんとか僕が舵をきって、ドスンと布団に倒れ込む。せんべい布団だからクッションにはならないが、ないよりましというヤツだ。
「なあ起きろよ。いや、寝るのか?」
「まだ眠らん」
むくれた目を半分開けてそう答えるも、舌が回りきっていないせいで発音があいまいだった。そのくせ手は僕の寝巻きをぎっちりつかんで、ちょっとやそっとじゃ放してくれそうにない。ぺちぺちと頬を叩いても、おかまいなしだ。
「おはよう、飲兵衛。これ、誕生日プレゼント。心配しなくても酒とチョコだから、日を改めてあければいいさ」
「わしゃなんも用意しとらん」
「誕生日だって言ったじゃないか。どうしてもって言うのなら、勝手に酒を頂戴したからそれで勘弁してやるよ」
「期待しとらざったんか」
「こんな時に面倒臭さを発揮するなよ。しかし、情けないなぁ、いい大人が子供にメイワクかけるもんじゃないだろうに」
「やかましいちや……今日くらいえいろう」
時計をチラと見ると、日付が変わるまでもう少しある。それなら僕もひとつ可愛がってやろうと、顔を寄せる。そうやって触れた感触は、唇のものとはあまりにもかけ離れていた。唇に感じる、厚い皮膚の固い感触。わずかな距離を彼の手が遮っていた。
不満を込めて睨みつけると、彼はやつれたうつろな目を気だるげに開いた。
「あげたばかりじゃ。せんでえい」
「なんだ、そんな気遣いできたのか」
ぽかんと口を開けて彼を見つめる。今にも閉じそうになっている重たそうな瞼の下で、威勢をなくした黄金色がげっそりと落ち込んでいる。眉は垂れ下がるどころかギュッと寄せられて、眉間にしわを作っていた。赤みの浮いた頬の下は土気色にも近い。
「ひっどい顔……」
髪をほどいて、眉間をぐりぐりとほぐしてやる。すると彼はむにゃむにゃモゴつきながら、「悪かった」と言った。
「なんだよそれ、らしくない」
ほら、いた。
酒に酔っているせいだろうか、今度は変に気が小さくなってる瞳に、小さな彼が縮こまっているのを見つける。そのいじらしさに僕はなんだか頬がむずむずしてくるのを感じて、またクスクス笑いが漏れてくる。笑うほどに、指先に刻まれた眉間の皺がいっそう深くなる。
唇を遮る手が首に添えられて、あたたかな重みがのしかかる。やつれた瞳は見えたり隠れたり、緩やかな瞬きを繰り返していた。
僕は待ってましたとばかりに顔を近づけた。今度は遮るものは何もない。触れて、下唇を甘噛みして、最後にぺろりと唇を舐めて離れると、彼の驚いた顔が目に入る。狐につままれたみたいな表情がおかしくって、僕はふふっと声を抑えて笑った。彼は何か文句を言いたそうにして、しかしやがて諦めて大きなため息を吐いた。吐息は、少し甘いような、酒の匂いがした。
「変な味。少し酸っぱい気がする」
「ゲロったち言うたろがや」
「うん、アハハ」
笑っていると手が伸びてきて、顔を引き寄せられる。緩慢な仕草でさっき僕がしたみたいに口付ける。口はゆすいでいるだろうけど、やはり酸っぱいような変な味だ。彼の唇はカサついていて、たまに皮がひっかかる。無精ひげが肌をかすめてこそばゆい。その感覚が、なんだか楽しい。そのうちにますますスローモーションになって、目を開くと、彼は今にも寝てしまいそうにとろんとしている。
「もう寝るかい」
そうたずねると、コクコクと頷く。電気を消そうと思ったけれど離れるのも忍びなく、今日だけはしょうがない、横着をして掛け布団を頭からかぶる。岡田君は寝ぼけながら身を縮こませて、どうにか布団の中に体を入れこもうとしている。小さな頃、冬の寒い日はこうやって寝ていたのだろうか。
「ね、君の生まれた日、どんなだった?」
「知らん。覚えちょらん」
「それもそうだ」
やがてゆったりした呼吸が聞こえてきて、彼が眠ったことを知る。頬を赤くして冬のこどもみたいな顔で眠っている。
明日になったら、二日酔いを気にしながら冬の生まれ故郷を懐かしむ岡田君の姿を見られるだろうか。上面だけはあしらうような語り草で、けれど聞いていないことまで嬉しそうに話す姿が目に浮かぶ。ウイスキーをすすめたらさすがに嫌な顔をするかもしれないが、断りはしないだろう。
唇のかわりに額をあわせて、目を閉じる。思い出語りに登場する小さな彼の手を引いて、やがて訪れる春の温和な小道を散歩したいと夢想する。季節が変わり、夏になったら、今度はぎゅっと頭から抱きしめるのだ。そうして厳しい夏を越えて、ふたたび冬が訪れるまで、僕はその手を握っていてやりたい。
「じゃ、おやすみ。また明日」
大きな彼にくっついて、小さな彼の手を握りしめる。二人分の熱のこもった布団の、春の陽気のようなあたたかさに僕の意識がとろけるまで、時間はあまりかからなかった。
了