彼女の祝い。彼の呪い。 忘れられない光景がある。
無限の空間。無音の世界。
茫漠たるその世界の深淵。界王の世界で、今代の界王となったマスターの歪んだ笑顔。一筋だけこぼれた涙。
「私のことなんか忘れて。幸せになってね」
そう言い、マスターはご自身の心臓に神剣を突き刺した。
初めて見た彼女の涙に戸惑っていた自分は、それを止められなかった。
マスターの身体が、糸の切れた人形の様に崩折れる。その小さな体を抱き止めたくても、まるで根が生えたかのように自分の足は動かない。
現実が受け止められず、呆然としながらよろよろとマスターの側で膝をつく。
生命を無くした彼女は、笑みを湛えていた。
どうして。
その言葉を皮切りに、思考の濁流が脳内を襲った。
どうして彼女は笑っているのだろう。どうして彼女は涙を流したのだろう。どうして彼女はあんな歪な笑みを浮かべたのだろう。どうして彼女は自らの生命を終わらせたのだろう。
分からない。人だった彼女の心が、ポーンである自分には分からない。
増え続ける疑問符に脳が内側から圧迫される。心臓が脈打つ度、こめかみが痛くなる。強い不安と焦燥感。背筋が総毛立って、胸の内側が締め付けられる感覚に陥った。
唐突な浮遊。界王の世界に空いた穴に、マスターと自分は落とされたのだ。離れていく。マスターの身体が、自分から離れて下へ下へと落ちていく。
手をのばす。いかないで。離れていかないで。私をおいていかないで。
「マスター!!」
喉の奥から出た叫び。空をかき続ける手。それでも彼女だけを視界に写して、届け届けと体全体で彼女へ手をのばす。
そうして強い衝撃に気を失って、次に目覚めるとマスターを写した身体になっていた。ポーンの証は無い。魂の転移。かつて覚者であったソフィアと、そのポーン、セレナの結末を思い出す。マスターが居なくなって、まるでその代わりになるように、私は人間になったのだ。
「私のことなんか忘れて。幸せになってね」
マスターの最期の言葉が脳裏に蘇る。
忘れない。貴女との記憶を、絶対に私は忘れない。忘れてなるものか。
それが私に初めて芽生えた意思だった。