「恋」とは呼べない 異界の覚者に呼ばれ、守り、付き従う。覚者の命令を遵守し、覚者の敵と戦い、勝利する。
それがスヴェルというポーンのすべてだった。そのはず、だったのだ。
きっかけは岩場にひっそりと咲く花を見つけた時だった。小さく、調合材料にもならないもの。だというのにその花にスヴェルのマスター、セラの笑顔を思い浮かべて足を止めてしまった。
セラは決して植物ではない。人間である。覚者である。それは他の覚者と変わらない。認識機能に障害でも出たのだろうかと万能薬を服用してその場を後にした。
しかしながらこの症状は変わらなかった。いや、より悪化したというべきか。
曙光。暖かい空気。人々が笑い合う空間。暗闇の中に浮かぶ焚き火の明かり。花の匂い。その全てにセラを思い浮かべてしまう様になったのだ。
これは一体どういう事なのか。理解出来ない。セラを、彼女を思うだけで胸の奥がツンと締め付けられるような心地になる。今彼女は何を見て何を思うのか、そわそわ落ち着かない心地になる。彼女が視界に入れば見つめずにはいられない。彼女の笑顔が見たい。彼女が自分につけたその名前を、何度でも呼んで欲しい。スヴェルのかつてのマスターや他の覚者には決して起こらなかった現象だ。
それを「恋」と理解したのは恋人のいる覚者に、自分に起きている症状は恋によるものだと教えられてからだった。
恋というものを得たスヴェルの世界は変わった。
世界はこんなにも穏やかで暖かいものだったのか。心というものの、なんとおもしろく不可思議なことか。日に日に心の中で大きくなっていくセラの存在が、どれほどスヴェルの活力になっていくことか。
かつて抱いた「セラという存在を忘れない」という決意と共に「恋」という想いがスヴェルの視界を輝かせた。
だが輝いた世界は長続きしなかった。
一度みた夢が全てを黒く塗りつぶしたのだ。
夢の中でスヴェルはセラを組み敷き、その欲望をぶつけていた。嫌がり涙を流す彼女に、何度も何度も。
彼女を慈しみたいのに。その笑顔を守りたいのに。その願いに嘘はなかったハズなのに。彼女を欲望のまま汚し尽くして、そうしてゾクゾクした充足感をあの夢の中自分は確かに得ていた。
彼女を閉じ込めてしまいたい。自分だけを見つめてほしい。他の者に奪われたくない。そんな一方的な欲や執着がセラへの想いに混じって輝いた世界を黒く染めてゆく。
「どうしてアンタなのよ」
かつてのスヴェルのマスター、アルマという女性の言葉がスヴェルの脳裏に蘇った。
まったくもってその通りだった。どうして自分だったのだ。何故セラのメインポーンに選ばれてしまったのか。他のポーンであれば、ただただ純粋にセラを守っていたであろうに。
本当にセラの事を思うのならば、スヴェルはメインポーンの座から身を引くべきだっただろう。だが出来なかった。もうセラとの繋がりを失った自分を考えることも出来なかった。
セラへの想いを告げる事も出来ず、去る事も出来ず、欲望と執着にまみれた黒い泥に足をとられて何処へも行けない感情がスヴェルの中で押し込まれてぐるぐるとまわっている。
こんな独善的で汚いものを「恋」とは呼べない。