彼岸の花咲く俺の中で夢見た世界が音を立てて崩れたのは自分の存在の要であった母が死んだ時だった。
蒼生の片腕となり共に国を豊にしていく世界。
様々な種族と手を取り合って共存していく世界。
族長にならなくても、母が自分を愛してくれる世界。
根本が崩れた時、崩壊した世界で俺は全てを憎み、そして全てを諦めた。
鬼人族を滅ぼしたことにより、鬼族が最強の種族と言っても過言ではなくなった。
しかし、最強の種族に鬼族が族長になったところでその先に何があったのか。
褒めてくれる母はもういない。
父はこの手で命を奪った。
大切な半身はもう手の届かない所へやってしまった。
この手の中には何一つ残っていない。
求めていたものはなんだったのか、もう覚えていない。
いや、残っている物ならあるじゃないか。
自分を主と祭り上げて他種族を排他し虐げる鬼族。
壊れた世界で、何故鬼だけがのうのうと生き延びているんだ。
壊れてしまえばいい。そして全て絶えてしまえばいい。
……その時は、お前の手で、どうか。
鬼の治癒能力を甘く見ていた。
霞む目でぼんやりと見上げた薄暗い天井は見知らぬものだったが、罪人が死後に行くという地獄とは到底思えなかった。
僅かに身じろぐだけで全身に鈍い痛みが走る。おそらく痛み止めか何かが効いているのだろう。自分が死に損なったのだと、嫌でも分かった。指先を持ち上げることすら億劫でゆっくりと視線を横へとずらす。
部屋の隅に灯り取りがある以外は窓もなく薄暗い部屋だ。
さして広くない部屋の三方は土壁に覆われていたが、残りの一辺には壁ではなく鉄でできた頑丈な檻がはまっていた。その先は暗闇に飲まれて奥は見えない。
敷かれた布団の下に固い感触はなく、牢の中に畳が敷かれているとは、ずいぶんと手厚いことだ。ここ十年に渡り様々な種族を貶め、は致してきた鬼の統領に……自分の両親を殺した男に対して、なんて、なんて甘い。
「ど……し、て……」
漏れた声は酷く掠れていた。
咳き込む力もなく、息苦しさと胸の奥の痛みにうまく動かない身をよじらせたときだった。
「起きたのか、紅蓮」
懐かしい響きの声。
視線を寄越した先に居た男の姿は、できればもう二度と目にしたくはなかった。
「水は飲めるか?傷口はほとんどくっついたが、まだ治り切ってはいないんだ。安静にしてろ」
牢の鍵を開けて中に入ってきた男は勝手知ったるとばかりに枕元に胡坐をかいて座り込むと、そばにあったらしい水差しを手にして口元へと寄せてきた。
ゆっくりと侵入してきた水にまた咽かけてほとんどを零してしまったが、乾ききったそこは甘露のようなその雫を貪欲に吸収していく。
「まだ食事は無理だろうが、重湯くらいなら食えるか?果物をすりおろしたもの、お前昔好きだったよな」
「なぜ……」
僅かに潤ったそこは先程よりも滑らかに言葉が滑り落ちる。
「何故だ、蒼生」
「紅蓮……」
「どうして、死なせてくれなかった」
刃の冷たさ、熱が奪われ冷えて力の萎えた四肢。
薙いだ刃は深く身を抉り、骨まで達していたはずだ。すぐに死なずとも、この傷であれば放っておけば血が足りずにこと切れただろう。それで終わるはずだった。
俺も、鬼族も。憎しみの連鎖はそこで全て断ち切れたはずだったのに。
「どうして俺を助けた……何故、こんなところに俺を匿っている」
部屋の造りや様子を見るに、ここが罪人などを入れる通常の牢でないことは分かっている。貴人や商人が”なにか”を隠しておきたいときに使う個人的な牢、座敷牢なのだろうと見当はついた。こんなところに入れられているということは、これは政治的な理由ではなく蒼生の個人的な理由だということだ。本来なら大罪を犯した鬼を匿うなんてことはあってはならない。死後見せしめとして首を切られ、罪人として風化するまで晒され辱められるべきだというのに。
「……俺は一度殺す気でお前を切った。それでもうおしまいだ。二度目はもうない。お前をまた殺すなんてこと、できるわけがない」
「理由にならない。配下や、他種族への示しがつかないだろう」
「お前が生きていることはほとんどのやつは知らない。お前は俺が殺して亡骸は燃やしたと公には伝えてある」
「蒼生」
「鬼の角は悪いが証拠として切らせてもらった。傷の治りが悪いのは、多分それが原因だと思う」
「……それが、まかり通ると……」
「通させた!」
突然の大声に身体をすくませる。
見上げた蒼生の顔は痛みをこらえるかのように酷く歪んでいた。
伸ばされた腕を払う力もなく、頬に触れた指先は随分と冷え切っていた。
「もう誰も死んでほしくない……お願いだ。これ以上、俺から家族を奪わないでくれ、紅蓮」
「蒼生……」
家族などと、そんな腑抜けたことをまだ言っているのか。
そう言い返したかったが、傷んだ喉はそれ以上何の音も発することはできなかった。