京の伏見の神社には
日が落ちて行ったらあかんよ
赤い鳥居が照らされて
夜は一等美しいけれど
それはあちらの景色やから
一、
白黒のセブンイレブンに茶色いマクドナルド。
景観を損なわないよう低く建てられた家々のおかげで、初夏の空はいつもの街よりずいぶん広く見える。
「学生さんら、修学旅行やろ。どっから来はったん」
車の揺れに身を任せ、まどろんでいた耳に方言まじりの言葉が飛び込んできた。
追って「東京です!」と答える元気な声。助手席に座る近藤さんだ。
「また遠くから!ええなぁ、東京。京都は暑いやろ」
運転手は青信号を確認するとアクセルを踏む。座席にもたれていた背中がムギュと潰され、車はぐんぐんスピードを上げた。結構荒い運転をするな、とアクリル板越しに見える少し薄い後頭部を眺める。
確かに運転手の言う通り、まだ五月の終わりだというのに京都の空気はぬるく湿気を含み、街を歩いているとじっとりと汗がにじんだ。車内に巡るクーラーの風が気持ちいい。
高校の修学旅行。
俺達の学校は例年、三年の五月末に行くことになっている。
向かう先は大阪、京都、奈良。コテコテ関西セットである。
三泊四日の日程で、本日は三日目。京都で朝から班ごとの自由行動の日だった。
朝一で金閣寺を巡り、続いて清水寺へ行った後、伏見稲荷へ向かうという少々ハードな計画にしたせいで班の皆はやや疲れていた。元気なのは近藤さんくらいである。
清水寺から伏見稲荷までは少し距離がある。清水寺は思っていたより広く、土産屋もたくさんあったためつい寄り道し過ぎてしまい、時間が押していた。早く、そして電車に乗る値段とそう変わらないという理由からタクシーを捕まえ、乗り込んだ次第だ。
「この頃はもう日も長いし大丈夫やろうけど、あんまり長居はせんほうがええよ」
暑いし、涼しくなる話したろ。と、タクシーの運転手は話しだした。これから向かう伏見稲荷の、千本鳥居にまつわる話だった。
京都、伏見の稲荷大社に夜一人で行ってはいけない。
帰れなくなってしまうからだ。
伏見稲荷にある、赤い鳥居がズラリと並ぶ「千本鳥居」。夜中、その道に一人で登るといつの間にか目の前に白い着物を着た女の子が立っているそうだ。
人懐こく笑うその女の子は手招きをして、もっと綺麗に見える場所まで道案内をしてくれると言う。鳥居と鳥居の間に隠れては時折顔を覗かせ、まるで鬼ごっこをするようにヒラリヒラリと誘う少女。
しかし、着いて行ってはいけない。少女の正体は化けた狐。連れて行く先はあちらの世界で、二度と戻れなくなってしまう。
……そんな話だった。
話し終えた運転手はガハハと豪快に笑った。
「学生さん方、くれぐれもキツネにバカされんようになぁ」
「怖いよォおじさん!俺たち今からそこ行くんですけど!」同じようにガハハと笑いながら近藤さんが返す。
俺は静かに腕まくりをしていたシャツの袖を伸ばした。少し寒い。鳥肌が立っている。どうやらクーラーで冷えすぎたようである。うん。
そんな話を聞いているとあっという間に伏見稲荷へ到着した。タクシーから降り、少し歩くと西日に照らされ堂々と輝く朱色の大鳥居に迎えられた。どっしりと構えられた大きな門は、なかなかの迫力である。
門の左右。よく狛犬がいるその場所には、赤い前掛けがつけられた「狐」が座っている。伏見稲荷の神の使いは狐である。そのため、門以外にも至るところで狐の像が姿を現した。
ひとまず、門の前で写真を数枚。それから本堂に向かい賽銭を投げ入れた。
ニ礼、二拍手、一礼。
本堂の周りを歩いていると「千本鳥居 こちら」という看板が見えた。伏見稲荷のメイン、朱色の鳥居がズラリと連なる、千本鳥居への案内だ。
看板の矢印に従って少し歩くと鳥居が見えてきた。森の中、緩やかな坂道には真っ赤な鳥居がいくつも続いている。
鳥居のトンネルをくぐり、坂道を登る。
旅行前に調べていたのでネットで写真は見ていたものの、本物は全然違った。鳥居の朱色は思っていたよりずっと鮮やかだし、これ程長く鳥居が並ぶ道を見たのは初めてだった。
こういうものはある程度の間隔を空けて並ぶものだと思っていたが、上へ行くにつれ人が通れる隙間もない程、所狭しと並べられている。
登れば登るほど鳥居同士の間隔は狭まり、真っ赤な鳥居がギチギチに詰まるその風景は異様であった。
そんな風に並んでいるものだから、日も昇っているというのに外からの光はあまり入らず鳥居の中は薄暗い。夕方とはいえまだ十六時頃なのに、だ。
鳥居の内側についているライトは全て灯されて道を照らし、ここだけ一足早く夜を迎えたようである。
タクシー運転手の話を思い出す。
鳥居の中に現れ、あちらの世界へと誘う白い着物の女の子。
やめとけばいいのに鳥居と鳥居の隙間を見てしまう。
鳥居の外は木々が茂っており、小さな鳥居や苔の生えた狐の石像があるのが見えた。
その隙間から小さな青白い手がソロリと伸びる光景を想像してしまい、思わず目をそらす。決して怖がっている訳ではない。ただ少し、気味が悪いだけだ。
班の皆は喜んで写真を撮っていたが、俺はどうにもそういう気分にはなれず、黙々と登った。
鳥居を抜けると、こじんまりとした社があった。
社の前に、白い男が立っている。
一瞬、着物を着た神主さんかと思ったが、よく見るとその服は着物ではなく白衣だ。
「おい、やっと来たか」
遅せぇぞてめーら、と頭をかきながらこちらへ向かってきたのは俺達の担任だった。そういえば、班行動の最終チェックポイントに引率の教師が立っていると言っていた。
伏見稲荷は銀八の担当だったというわけだ。
真っ赤な神社にいる、白衣を着た、白髪頭の男。あまりにもミスマッチな人物を前に、他の観光客はギョッとした顔でジロジロ見ている。例にもれず、俺達も旅行初日の集合場所で白衣を着て立っている担任の姿を見た時はギョッとしたものだが、こちとらもう共に過ごして三日目である。見慣れてしまった。
まだまだ鳥居の道は続くそうだが、この社の周りを一周してから下ろうということになった。ぐるりと歩いていると社の裏に若干の人だかりができている。
なにやら、胸の高さ程の石でできた灯籠が二つ建っており、一人ずつその前へ行って上に乗っている石に両手を当てている。ボーリングの玉より一回り程小さい、丸い石だ。
横に建てられている説明書きを読むと、「おもかる石」というものらしい。
灯籠の前に立ち、心の中で願い事を思い浮かべ、上の石を持ち上げる。持ち上げた際に「軽い」と感じれば願いは叶い、「重い」と感じれば願いが叶うのは難しい、という一種の占いのようなものだそうだ。
「おめーらこういうの好きだろうが。写真とってやるからやってきたら」
銀八はポケットからデジカメを取り出すと、やや面倒くさそうに促す。もちろん、こういうのが好きな俺達は、ワイワイと順番待ちの列に並んだ。
班の女子は楽しそうに何のお願いをしようか話し合っている。近藤さんはもちろん意中の女子との今後を占うと鼻息荒くしている。そうこうしてる内に俺の番が来た。石の前に立ち、願い事を思い浮かべる。両手で石に触れると、しっとりと冷たい。ひとつ息をついて、腕に力を込める。
ピコン、と気の抜けたデジカメの音が後ろから聞こえた。
二、
夜は京都にある少し古いホテルに泊まった。中心街からは外れた、緑の多い静かな場所だ。旅行最終日の夜ということもあり、部屋でそこそこ騒いでいたが疲れも溜まっていたのだろう、日付をまたぐ頃にはみんな寝てしまっていた。
俺もうつらうつらと横になっていたが、喉の乾きで目が覚めた。一度気になったらどんどん喉が乾いてくる気がする。
確か、ロビーに自販機があったはずだ。財布だけ手に持ち、部屋のみんなを起こさないよう静かにドアを開けて部屋の外に出た。
廊下の明かりは薄暗く壁に手を添わせながら階段を降りロビーへたどり着く。受付に人はおらず、赤い自販機だけがやけに明るい。
ライトで照らされた千本鳥居の奇妙さを思い出してしまったその時、ホテルの入口、自動扉の外に白く揺れる人がいるのを確認してしまった。
「ヒィッッ……………!!」
思わず情けない声が出たが恐怖からではない。ちょっとビックリしただけだ。
おおおおおオバケか?オバケなのか!?
自販機に身を隠しその姿をじっと観察すると、案外正体はすぐにわかった。ガチガチになっていた肩から力が抜ける。
なんてことない。オバケの正体は白衣をまとった銀八の後ろ姿だった。
正体はわかったものの奇妙さは残る。こんな時間にあんなヘンテコな格好で何をしてるのだろうか。あの人、私服でも白衣を着てるんだろうか。
銀八はフラリフラリと左右に揺れ、おかしな様子のまま門の外へ向かっている。何となく、追いかけないといけない気持ちになって、自動ドアの前に立った。しかし扉が開かない。ふと横を見ると従業員用の扉が開きっぱなしになっていたので、そこからそっと外へと抜け出した。京都は暑いとは言っていたが夜中に半袖で出るにはまだ少し肌寒い。
「先、生……?」
ホテルを出たところで声をかけた。絞り出した小さな声だったが、銀八は弾かれたように振り向く。
睨んだようにこちらを見たので思わず後ずさってしまったが、銀八は俺の姿を確認すると目を細め
「やァ、」
と声を上げると
「とーしろくんやぁ」
と呟き、笑った。
その笑顔にゾッとして立ち止まる。銀八は音もなくヌルリと近づいて来ると「あァ、かいらしなぁ、かいらしなぁ、」とうっとり呟きながら、愛おしそうに俺の頬を撫ではじめた。銀八…………ぎんぱち、か……?
目の前にいるのは、確かに自分の担任だ。そのように、見える。しかし、どうにも雰囲気がおかしい。別人のようである。
されるがまま撫でられ、混乱しながら固まっているうちに冷たい汗がダラダラ流れてきた。頭で理解するより早く身体が反応したということだ。
得体のしれないこの男を怖がっているのだとやっと自覚した。
男は目を細くして笑っている。
「とーしろくん、おれに気づいて、来てくれたん?」
なおも頬を撫でる手を払えない。身体が固まって動けなかった。
「とーしろくん……なんで来てしもうたん?」
撫でていた手をヒタと止め、俺の目を覗き込みながらそいつは言った。
「誰だ、てめー……」
「誰やって……サカタ先生よぉ?」
グフフ、と笑うその顔を見て頭の後ろが熱くなった。ギリ、と拳に力がこもる。するとそいつは少し慌てた様子でパッと頬から手を離すとヒラヒラ振ってみせた。
「ごめんごめん。ちょっと身体借りとるだけやんか。そんな怒らんといて。
おれ、とーしろくんと話したかってん」
そう言うと
「とーしろくん、この男のこと好いとんやろ」
と片手で自分の顔を触りながら話しだした。
「石ンとこでえらい熱心にお願いしとったもんなぁ」
ちィっとも石、持ち上がらなんだけど。そう言ってコロコロ笑った。
「それ見てな。おれ、君のこと気に入ってしもうてん。
そんで、こんなにとーしろくんに見られとるこの男のこと、羨ましなったんよ。おれも見てほしいなぁ、て」
そんで、ちょっと、身体借りよう思って。
今から伏見稲荷行くとこやってん……。そう言いながら少し後ろを振り向き、遠くの山を見つめながらそいつは続ける。
「神社行くんは、ほんまは白い着物がよかったんやけど。この人、ちょうどええの持っとったしな」
そう言うと、白衣の裾を摘んでヒラリとはためかせてみせた。
「こんな時間に、神社行って、何するつもりだ」
噛みしめるようにしか言葉が発せない。
えー?んふふ。と曖昧に笑うと、なぁとーしろくん。とそいつは質問に答える変わりに提案をしてきた。
「ひと月でええんよ。この身体借りれんやろか。
おれ、結構カシコイからこの男の真似、誰にも知られんとみィんな上手いことできるよ」
とーしろくんが黙っといてくれたらやけど……とチラリと目線を寄越して呟く。
「身体入ったからわかるけど、この男、とーしろくんのこと何とも思ってないで。
人間が気にする男とか女とかとか年齢とか、やないよ。ほんまに君に興味ないんやわ」
ドクドクと心臓が早くなるのかわかった。
「とーしろくんはこんな遠くに来ても、あんなに一生懸命お祈りしとんのになぁ。可愛そう……。
可愛そうやわ、とーしろくん」
息が荒くなる。押し黙る俺を見て微笑むと、そいつは俺の右手を両方の手でそっと包んで自分の胸へ押し当てた。添えられた手はしっとりと冷たく、伏見稲荷で触れた石を思い出した。
「とーしろくんの好きにしてええよ」
そいつは呟いた。
「ひと月で、この男としたいこと、この男の身体でみんなしたげる。
ひと月たったら、ちゃんと返すしな。その頃にはおれも、帰らなあかんし」
風が吹いて、月明かりに照らされた銀髪がサラサラ揺れる。
「七月になぁ、大きい祭りがあるんよ。祇園祭ゆうんやけど。聞いたことくらいあるやろ?
うちの神社は関係ないんやけど、まーあその間、京都にわんさか人間が来てなぁ。
それに紛れてあんまよくないモンも入ってくるから神社にはおらなあかんくて……。
あかん?」
「……いいわけ、ないだろ!」
やっと口が動いた。恐怖より苛立ちが勝ってきた。
「あかんかぁ」
そうかぁ、あかんかぁと残念そうに繰り返し呟く。
「とーしろくん。またおれに会いに来てな。
待っとるよ」
胸に当てていた俺の右手を頬に滑らせ、名残惜しそうに擦り寄せるとそいつは目を閉じた。
その途端、操り人形の糸が切れたみたいに膝からガクっと崩れ落ち、銀八の身体が倒れ込んできた。
俺に覆い被さる形になり、慌てて受け止めようと背中に手を回すものの、その重さによろめき尻餅をつく。
大人が意識を失う姿は初めて見たし、意識の無い身体は驚くほど重かった。それに、あいつに魂を抜かれて死んでしまったのではないかと思うとゾッとした。
「……お、い……!おい銀八」
しっかりしろ!と大声でわめきながら両肩を持って揺する。されるがままにグラグラ揺れる頭が怖かった。視界が滲んで頬を伝う。なんの涙かはわからない。拭うこともせず俺は必死で名前を呼んだ。
しばらくして銀八の薄く目が開いた。ぼんやりした黒目がウロウロさまよって、俺の顔を捉える。
「……ひじ、かた?」
「おい、大丈夫か」
「へ、ぇ……泣いてんの?……なに、こわ……」
「怖かったのはのはこっちだ」
「……ッ……頭いってぇ……」
人の気もしれず、首の後ろをさする。
安堵と恐怖が混じって俺は銀八を強く抱きしめた。手は震えていた。
三、
コンコンチキチン、コンチキチン
特徴的な祭囃子で目が覚めた。
「おい、てめー。自習に使わせてもらってる部屋で居眠りこくたぁどういうつもりだ」
生徒の惰眠を咎めるその口元はよだれでテカっている。明らかに自分も寝てたのはバレバレだが、そこは一旦スルーした。
先ほどの祭囃子はテレビから流れてきていた。京都の特集をしているようだ。
「明日、七月一日を皮切りに、一ヶ月間。京都の街は祇園祭で賑わいます」
顔を赤くしたリポーターが汗を流しつつ、祭りの準備の様子を楽しげに実況している。
京都と聞いてあの出来事を思い出す。断じて、怖くて忘れられないのではない。しかし、強烈な体験であった。
修学旅行から一ヶ月が経とうとしていた。
あの日、銀八の意識が戻った後、俺は今まであった出来事を銀八に話した。色々な感情が混じり、涙も混じり、支離滅裂なめちゃくちゃな説明だったが、銀八は静かに全部聞いていた。
銀八曰く、記憶は全く無いらしい。
その後の学校生活だが、俺と銀八との間に少しだけ変化はあった。
ある時は本当に覚えてないのか伺う、という口実で銀八に話しかけ、ある時は昨日のホンコワ見たか?キツネのお化けの話だったけど泣かなかったか?とからかわれる形で話しかけられ。
それからなんとなく距離が縮まり、ちょくちょく国語準備室で自習をさせてもらえるまでになった。
コンコンチキチン、コンチキチン
テレビからはまだ祭囃子が流れている。
じっとニュースを見ていた銀八がため息をついた。
「ダラダラダラダラ、一ヶ月も続けなくてもよぉ。もっとコンパクトにできねぇもんかね」
珍しく苛ついた声で銀八は呟く。正直、俺は遠い地方の祭りがどれだけ長かろうが大して興味はないので「そうですね」とだけ答えた。
祇園祭が開催される一ヶ月間。伏見稲荷にも多くの観光客が訪れるのだろう。あの赤い鳥居をたくさんの人がくぐって。
俺のように気に入られる人もいるのだろうか。
銀八のように取り憑かれる人もいるのだろうか。
「たくさんの人間に混じってよくないモノも入ってくる」確かそう言っていた。
今頃、京都のあの神社を護らんと、警備的な仕事をしているのだろうか。もしかするとあいつも、先ほどの銀八のような愚痴をこぼしてるかもしれないと思うと、少し面白かった。
「土方ぁアレ、アレ買ってきて。こないだくれたアレ。うすーい紅色の、あまーいアレ。」
回りくどい言い方をしているが、確実にいちご牛乳のことである。一昨日、国語準備室を使わせてもらっているお礼に購買で買って渡したのだ。それに味をしめたのだろう。
「自分で買いに行ってください」
えぇー。と大袈裟に嘆く残念そうな声。
「あんなうめぇモン、はじめて飲んだ」
「なーにトボけたこと言ってんだ。ところ構わず引くほど飲んでただろう、が……」
そういえば、ここ最近銀八がピンクのパッケージを持つ姿を見ていない。そして、先程から薄っすらと感じていた言葉の端々にある、違和感。俺は勢いよく顔を上げて銀八を見た。
「まぁまぁ、そんな怖ぇ顔すんなって」
今日で終わりだし……と目を細めて笑った。
「な?うまいこと、やれてたやろ?」