目を逸らさないでダーリン、こっち向いてハニー全く、今日は散々な日だ。
竈門炭治郎は苛立っていた。
朝は寝坊してしまって、先に出勤した恋人の顔が見られなかったし、お弁当が用意できなかったからとコンビニで買おうとした商品は目の前で別の人に取られるし、普通に歩いていただけなのにパンプスのヒールは折れるし、前を歩いていた女性集団のキツい香水の臭いにあてられて気分が悪いし、お腹の奥は鈍く痛い。
最後のひとつは女として生きる上で避けられないものなので仕方ないにしても、他はどうだ。ついてない日はとことんついてないものだと言うが、何故良くない事とは次々起こるのだろう。
辛うじて仕事はあまり大きなミスをすることも無く終えることが出来たのだが、些細な事でも苛ついてしまうし小さなミスで必要以上に落ち込んでしまう。
挙句の果てには。
「杏寿郎さん……?」
たまたま見かけたあなたの隣には、ぴったりと寄り添う見知らぬ女性。派手なネイルの施された細く美しい指が、彼のたくましい腕に絡んでいる。
人違いかと、思った。思いたかった。でも、見間違えるわけが無い。誰より大切な、私の杏寿郎さん。
見たくもない光景なのに。早く目を逸らしてしまいたいのに。足が地面に縫い留められたように動かない。
そのひとはだれ?仕事関係の人?友達?仲がいいの?
どうしてそんなにくっついているの。その腕は私のものなのに、どうして他の人が抱きついているの。どうして。
世界が急速に色を失い、何も音がしなくなるような感覚。ああ鼻が利かない、さっきの香水の匂いが鼻腔に絡みついて、あなたの匂いがわからない。この距離なら、ふんわりと風に乗った、大好きな彼の香りを感じることが出来るはずなのに。
「……っ」
物凄く悲しくなってきて、くるりと踵を返した。
今の期間、精神的に不安定なのは分かっているけれど、自分ではどうにもならないネガティブ思考はどんどん悪い想像を巡らせていく。
分かってる。彼が浮気なんてする訳無いって。
それでも、もしかして私に飽きたのかも、と、良くない考えがぐるぐると頭を巡る。
先程見た女性のような華やかな容姿も、露出の多いファッションが良く似合う抜群のスタイルも、自分には無いものだ。女としての面白味は完全に彼女に負けている。
「っ」
杏寿郎さんに寄り添う美しい女性を見つめていると、じわりと熱いものが目から溢れそうになり慌てて踵を返し家へと急いだ。
片方折れたヒールを庇いつつ家へ向かいながら、今朝の失態を思い出す。
朝の挨拶ができなかった
お弁当を作ることができなかった
寝坊したせいで今朝はキスをしていない
顔を見ていないから、こんなにも不安になるのだろうか
「はぁ……」
なんとか部屋に着いたが靴すら整えるのが億劫で、適当に脱ぎ散らかして振り返りもせず部屋にあがった。折れたヒールを庇って歩いたせいで足が痛いし、すぐに布団に潜り込んでしまいたい。でも、流石に外を歩いた服のままベッドに上がるのは気持ち悪かったのでのろのろと部屋着に着替え、倒れ込むようにベッドに沈んだ。
「んんん……」
生理前の為精神的に不安定になっているのを自覚していながら、一瞬でも彼の愛を疑ってしまった自分が嫌で嫌で仕方ない。部屋に飾られた、幸せそうにふたりで写っている写真から逃れるように、布団に潜り込んで泣いた。
どれくらいの時間が経ったのか。
泣き過ぎて痛む頭を押さえつつカーテンの外を見ると空の色はすっかり変わっていた。
「あ……」
耳を澄ますと、どうやら杏寿郎さんが帰ってきたらしく、鍵を回す音やドアが開く音が聞こえてくる。いつもなら大きな声でただいまを言ってくれる彼が黙って部屋に入ったのは、きっと脱ぎ散らかされた私の靴が目に入ったからだろう。普段なら先に帰った場合は揃えて端に置いておくから、いつもと違うと感じ取ったのだろう。
彼はきっとここに様子を見に来る。こんな泣き腫らした惨めな姿見せられないと、私は布団を被り直した。
鞄を置いて手を洗う音がして、極力抑えたのであろう足音が部屋に近付いてくる。少しの間を置いて、ガチャリ、と控え目に寝室のドアが開いた。
「……炭治郎?寝ているのか?」
杏寿郎さんの声にもぞりと反応を示してから、あ、しまったと思った。寝たふりをしてしまえば、彼はそっとしておいてくれただろうに。馬鹿正直に反応してしまった自分が嫌になる。
「体調でも悪いのか?」
ベッドに近付いてくる彼から香る、甘い女物の香水のにおい。今日すれ違った女性集団の、鼻を刺すようなキツいにおいじゃない。きっとあの、腕を絡めていた女性のものだ。くどくなくて品のいい、甘い香り。
良い香りなのだろうが、それでも……別の女の人の香りが寝室に広がるのが堪らなく嫌で、落ち着きかけた涙がまた溢れてきた。
「炭治郎?」
そっと布団が捲られ、隠れる場所を失う。最後の抵抗として、泣き顔を見られないよううつ伏せに体を丸めた。
「っ炭治郎?!どうした!どこか痛いのか??!」
しかし、どうもそれは逆効果だったらしく、彼は酷く狼狽えてやや強引に私の身体を反転させた。
仰向けにされて、見られたくなかった情けない顔を晒す羽目になり、涙腺が崩壊する。
「ふっ、うぅぅ〜……」
子供みたいにぼろぼろと泣き出してしまった私にぎょっとした様子で、杏寿郎さんは慌てて抱きしめてくれた。だが、そのせいでより一層香水のにおいを強く感じてしまって、また涙が溢れる。
「やだぁ、はなれてぇ……くさいぃ!」
「むぅ!!臭うか!?俺は臭いのか?!」
杏寿郎さんは慌てて袖を鼻に当てて、スンスンとにおいを嗅いだ。そんな風に嗅いだって、自分に付いたにおいは鼻が慣れてしまって分からないでしょう?
「すまない炭治郎!すぐにシャワーを浴びて……いやしかし、こんな状態の君をひとりにしておく訳には……!」
「やっ……!」
バタバタとバスルームに向かおうとする杏寿郎さんの袖を掴んで、必死に引き留める。違うの、そうじゃない。離れないで。側にいて欲しい。
「いや!行かないで」
「む!しかし、俺は臭いのだろう?!すぐに洗ってくるから少し待っていてくれ!」
「やだ、行かないで!そばにいて!」
自分でもどうしたいのか分からない。今すぐ香水のにおいを排除したいけれど、杏寿郎さんにそばに居て欲しい。今離れたら余計不安になってしまう。
べそべそと泣きながら腕に抱きついてぐりぐりとおでこを擦りつけていると、黙ってされるがままになっていた杏寿郎さんがフゥ、とため息を吐き、俯いた私のつむじにかかった。
泣くばかりで要領を得ない私に呆れたのだろうか。めんどくさい?嫌いになった?彼がどんな表情をしているのか怖くて顔が上げられないで居ると、暖かい手が頬に添えられ、優しく上を向かされた。
「ふぇ……?」
涙で歪んだ視界には、困ったように笑う彼の顔。
「どうか泣き止んでくれないか。君が泣いていると俺も悲しい。君が落ち着けるように、君のしたいようにするから、もうそんなに泣くんじゃない」
子供を宥めるみたいに優しく頭と背中を撫でてくれて、いつも通りの温もりに安心する。
「……っ今朝、起きら、れなくて、会えなかっ、た……お弁当、作れなかった、し、キスも……」
杏寿郎さんは、子どもみたいにしゃくり上げながら、あれが嫌だった、これが悲しかったと訴える私の話を「うん、うん」と優しく相槌を打ちながら聞いてくれた。
「そうか、すまなかった。君が寝坊するなんて珍しいと思って、今朝はわざと起こさずに家を出たんだ。それが仇になったな……悪かった」
「分かってます。私を思ってやってくれたことだって……ただ、私が勝手に不安になってしまっただけで」
「謝るな……。女性の心身の事は男の俺には全て理解するのは難しいが、仕方ない事なんだろう?」
背を撫でていた手はいつの間にか私を抱え込み、膝の上に抱いてくれていた。
抱っこしてくれるのは嬉しい。でも、1番嫌なのはこれだ。
「これ、嫌です。香水の匂い、移ってて」
つ、と指先でシャツをつつくと、杏寿郎さんは「分かった」と頷いてボタンを外しにかかる。
杏寿郎さんは私を膝に乗せたまま器用に袖から腕を抜くと、ぱさりとシャツをベッドに落とした。
「これでいいか?」
シャツを脱いだ杏寿郎さんの胸に鼻を寄せてすんと匂いを嗅ぐと、より素肌に近いインナーからは彼自身の匂いが強く香り、ほとんど香水の匂いはしない。
「……ん」
嫌なにおいを排除して、ようやく安心して深く息をする事ができた。杏寿郎さんの胸にしっかりと抱き着いて深呼吸を繰り返していると、ベッドの上に、脱ぎ捨てられたシャツが目に入った。
(……やだ)
このベッドの上に香水臭いシャツがあるのが気に食わない。ふたりの安寧の場所であるこのベッドに他人のにおいが移るのは耐えられない。
まるで大切な場所を踏み荒らされるようだ。このベッドに今日見た女性が腰掛けている絵面が頭に浮かんで、眉間に皺を寄せる。
(出ていって)
顔を顰めてシャツをベッドから落とすと、杏寿郎さんは眉尻を下げて困ったような顔をしていたが、無作法を叱られたりはしなかった。
「すまない、君が不安定になってしまった1番の原因はあの香水のにおいなのだろう?不快な思いをさせてすまなかった」
私は先程愚図っていた時、香水の話なんてしなかった。なのにどうして、彼は何も言わなくても察してくれるんだろう。
「……昼間に一緒にいた女の人とは、何も無いんですよね?」
ああ嫌だ。どうしてこんな、疑うような事を口走ってしまうんだろう。これじゃあまるで浮気を問い詰める、束縛の激しい面倒な女だ。
「見ていたのか?」
杏寿郎さんの声に焦りの色は見えない。それはそうだろう、何もやましい事は無いのだから。分かっているのに、こんな聞き方しか出来ない自分が嫌だ。
「はい」
「彼女はただの同僚だよ。悪い人では無いのだが、海外から帰ってきたばかりなせいか、やたらと距離が近いんだ。彼女には俺には大切な恋人が居ると伝えているし、彼女にも婚約者が居る。安心してくれ。俺が愛しているのは、心惹かれてやまないのは、君ひとりだけだよ」
そうだったんだ。やっぱり、浮気なんかじゃなかった。分かりきっていた事なのに、何故彼を信じられなかったんだろう。
真実を知り、ますます自分の言動が恥ずかしく、嫌になった。
「……ごめんなさい。子供みたいに癇癪起こしちゃって」
「謝らなくて良いんだ。君が鼻がいいのを知っていながら迂闊に他の女性のにおいを付けてしまった俺が悪い。不安にさせてすまなかった」
「いいえ、私の方こそ本当にごめんなさい。あなたが他の人と関係を持つ筈ないのに、分かっているのに、なんだか凄く不安になってしまって……。」
不安は、正直いつもある。だって杏寿郎さんがあまりにも魅力的な人だから。自分では釣り合いがとれないのでは、と、表には出さないが常に不安に思っている。いつもは隠している思いが口から出てしまうのは、きっとホルモンバランスの乱れのせいだ。
「今日の人は違ったとしても……他の女の人に言い寄られるのは仕方ないんです、貴方はとても魅力的だから。でも、他の人を見ないで。……私だけ見ててくださいね?」
どれだけ多くの女性に群がられても、私を選んで欲しい。私を見て欲しい。これはいつも胸に秘めている、私の切実な願いだ。
「勿論だとも。……しかし、俺からしたら、君の方が他の男にかっ攫われないかひやひやしているんだがな」
こっちは必死だというのに、余裕の笑みで甘やかに肯定された。更にはすりすりと指先で頬を撫でられ甘く囁かれ、大人の余裕を見せつけられたような気がして、焦りは募る。
「……ふんっ」
「!」
その余裕を崩してやりたくて、杏寿郎さんをベッドに押し倒し、素早く上に乗り上げた。彼は特に抵抗する事無く、素直にされるがままだ。何をする気だろうと不思議そうな顔をしつつも、手足を投げ出したまま静観している。私のしたいようにさせてくれるらしい。
では、好きにさせてもらおう。
そっと手を持ち上げ、ぷちん、ぷちん、と部屋着のボタンを一つ一つ外していく。
「炭治郎?」
「目を逸らさないで」
私と同じように、必死になって欲しい。理性なんて欠片も残さず、突き崩してやりたい。
全てのボタンを外し終わり、するりとトップスをシーツの上に落とした。あらわになった胸は生理前の為張っていて、いつものブラジャーからはみ出そうになっている。奥の方がツンと重たくて鈍く痛むが、張りがあって丸く大きく見えるから見栄えはいいかも知れない。
「見て」
次に、部屋着のショートパンツをゆっくりと下ろしていく。単純に下げるのではなく、あえてお尻を揺らし腰をくねらせて、精一杯色っぽく見えるように。
パンツを足から抜く際に上半身を倒して彼の胸に預け、胸を押し付ける。張っているせいで鈍く痛みが走ったが、そんなの気にしていられない。拙くても、精一杯色っぽく誘惑してやるのだ。彼が自分に夢中になってくれるように。
上半身を起こして目を合わせると、彼の頬はほんのり赤く染まっていた。
「たんじろ……」
「ちゃんと見てて下さい。目移りなんてしないように、しっかり目に焼き付けて……」
徐々に見える面積が広くなっていく肌を私の下でじっと見つめていた杏寿郎さんの喉がごくりと上下したのを見て、気を良くする。こんな貧相な身体でも、拙い誘い方でも、それでも彼はそそられてくれる。私を好いていてくれる。
下着だけになって杏寿郎さんに跨っていると自分の身体のすぐ下で、彼の下半身がゆるりと盛り上がっているのが分かった。
「あ……」
反応している。興奮してくれているんだ。
(うれしい)
すり、と下着越しに秘所を擦り付けて、さらに誘惑してみる。
「んん……」
「たんじろ……」
杏寿郎さんの手が腰やお尻を撫で、下着の内側に指が侵入してきた。
「ぁっ、や、まだだめ……」
あまり触られてしまうと、私は快楽を追うのに夢中になってしまって、せっかく握った主導権が奪われてしまう。
「ぁン、まだ、触っちゃダメ……」
「駄目なのか?」
こくりと頷くと、いやに素直な杏寿郎さんは下着から手を引き抜いてくれた。
「いいよ、君が良いと言うまで、触るのはよそう」
チュ、ヂュウ、と音を立てて肩口に吸い付きながら、杏寿郎さんは私を抱き締めるように背中に手を回し、下着の留め具に手を掛ける。
「外してもいい?」
「は、い」
返事を聞くが早いか、杏寿郎さんはクッと指に力を込めて簡単にホックを外してしまった。手元を見てもいないのに器用なものだ。
ぷちん、と軽い衝撃に、ふるんと僅かに胸が震える。ブラジャーの締め付けから解放され、早まる鼓動のせいで感じていた少しの息苦しさが楽になった。
「ぁあ……綺麗だ」
息がかかる程の近距離で見つめられて、うっとりとした声で囁かれる。素肌を撫でる濡れた吐息に興奮した。
「もう、触ってもいいか?」
「……いい、ですよ」
求められる歓びに胸がいっぱいで失念していた。そこが今どんな状態なのか。
大きな手がいつものように胸に触れ、(あ)と思った時にはもう指にくっと力を込められて、むにゅうと胸が形を変えた。
「いっ!」
「!」
張った胸に走った痛みに思わず声を上げると、杏寿郎さんは驚いて胸から手を離した。
「すまない!痛かったか?」
「い、いいえ……こちらこそ驚かせてしまってごめんなさい。生理前で胸が張っていて、敏感になってるんです」
「むう、そうか……そう言われてみれば確かに、いつもと違うな。見た目も、触った感じも」
そおっと胸に沿わされた手のひらは触れるか触れないかのフェザータッチで、くすぐったいが、私に痛い思いをさせまいとする彼の思いやりを感じて嬉しくなる。
「いつもより少し硬いな。触られると痛い?」
「少し。強く触ると、痛いです……」
「わかった」
さわさわと、指先が胸の輪郭をなぞり滑っていく。トップに触れることなく本当に表面を優しく撫でるだけの手に、焦れったさが募る。
「杏寿郎さん……それ、くすぐったい……」
「ん?でも触ると痛いんだろう?君に痛い思いはさせたくない」
「でも……」
それじゃ物足りない。優しすぎる触り方では、快感よりももどかしさが勝る。
お強請りなんて恥ずかしくて出来ない。でも、身体は疼いてしまって……。何も言えずもじもじしていると、杏寿郎さんがぱっと瞳を輝かせ言い放った。
「……じゃあ、手本を見せてくれ!」
「え?」
「まず君が触って、自分で痛くないくらいの力加減を教えてくれ」
「ええっ??」
戸惑う私の手を取り、杏寿郎さんはそっと胸に押し付けてきた。
「ほら、どのくらいなら痛くないのか教えてくれないか?」
(えっ……?自分で触るの?)
本当に?
突然の提案に理解が追い付かずにいると、耳元にずいと杏寿郎さんの顔が近付き、甘く甘く囁く。
「教えてくれたら、沢山気持ちよくしてあげるから」
甘い囁きと、耳に直接流し込まれる吐息に、背筋がぞくぞくした。
「不安なんて消し飛ぶくらい、愛し合おうな?」
「ふぁ……」
男の人なのに、女の私より色気があるなんて狡い。こんなセクシーに誘われたら、断ることなんてできる訳が無い。
「……。ん……」
意を決して、ふにふにと軽く形を変えるくらいの力加減でそっと胸を揉んでみる。痛みはないけれど、当然、気持ちよさは感じない。自分の手で自分の体を触っているのだから当たり前だ。
「これ、くらい……」
「成程。わかった」
言われた通りに加減を教えたら触ってくれるのかと思っていたのに、彼はぐにぐにと形を変える胸を凝視するばかりで触ってくれない。力加減を教えたら当然触ってくれるものと思っていたから、身体はもう杏寿郎さんに触れられるのを望んでいる。
「きょ、杏寿郎さん……?」
「ん?」
触ってくれないの?なんて恥ずかしくてとても口に出せない。
羞恥で顔を上げることができなくて、ちらりと視線だけ持ち上げた。そして、目に入った彼の顔は、にっっこりと満面の笑み。
(あ)
わざとだ。彼は私がもどかしさに負けてお強請りするのを待っている。余裕の態度が悔しくて、きゅうと唇を引き結んで睨みつけた。杏寿郎さんの意地悪!
「ほら、手を止めない。もっと俺に教えてくれ。君が痛みを感じない力加減……後は何処をどのように触ったら気持ちいい?」
「やっ」
彼の思い通りになるのは癪で、ふいっとそっぽを向いて胸から手を離そうとすると、離すことは許さないと言わんばかりに上から大きな手が重ねられた。
「ここでやめるなら、今日はこれでお終いだ。それでもいいんだな?」
「ぇ……」
そんな、これでお終い?期待をさせておいてそれは酷い。
不満を隠しもしない私の顔を見て、杏寿郎さんはただ、にこにこ微笑んだ。重ねた私の手をすりすりと撫でてあやしながら、こてんとあざとく首を傾けてみせる。
「うん?」
にこにこと弧を描く唇が憎たらしいけれど、早くその唇に触れたくて堪らない自分がいる。
「どうする?やめるか?」
「やめ……っ、ません」
頬に熱が集まる。遠回しに続きを強請る発言に、杏寿郎さんの笑みがみるみる深くなっていった。
重なっている手がきゅうと握りこまれて、指の1本1本まで絡められる。温かい手のひらに手の甲を愛おしげに撫でられて、悔しいけど気持ちがいい。
「いいこだ」
「では、続けよう」