はんぶんこ 鬼太郎に、今日はひとりで寝てみたい、と告げられた。
ああ、もうそんな歳になるのか、と水木は思った。
両腕がくたびれるまで抱いて揺すって寝かしつけていた日々は遠い。夜中に目が覚めて火の付いたように泣き出されることもなければ、最後におねしょをされた日のこともよく思い出せない。墓場で水木が取り上げたその日から、鬼太郎は確実に大きく育っていた。
一抹の淋しさが水木の胸の内を吹き抜けていったが、水木は「そうか」と受け止めた。子の成長を親が喜べなくてどうする。
意外だったのは、ゲゲ郎もうんうんと頷くのみであったこと。いやじゃいやじゃ、一緒に寝てくれ、と泣きわめき、愛息子にすがりつくかと思ったのだが。子離れする心算はできていたらしい。
「今日からここが鬼太郎の寝床だ」
続き間に鬼太郎の布団を敷いてやると、鬼太郎はいそいそと布団にもぐりこんだ。
「トイレはすませたな? 何かあったら遠慮なく呼べよ」
掛け布団から鼻頭をのぞかせた鬼太郎がひとつ頷いたのを見届けてから、水木は「おやすみ」と声をかけて襖を閉めた。
間に挟んでいた鬼太郎が居なくなるとどうするかと思えば、ゲゲ郎は水木になんの断りもなくさっさと自分と水木の布団をくっつけてしまった。他に寝る部屋もなし、それが自然なのだろうが、どうにも落ち着かない。ゲゲ郎は今、布団に座る水木の膝にすがりついてさめざめと泣いていた。はらはらと大粒の涙をこぼしながらも声を堪えているのは鬼太郎を憚ってのことだろう。なんのことはない、息子の前では本心を押し隠して聞き分けの良い親の顔をしていただけのようだ。感心した気持ちを返せと言いたい。
「いつまでメソメソしてるつもりだ」
「うう〜」
「もういい加減泣き止めよ」
水木は小さく息を吐く。
ゲゲ郎の顔が触れているあたりがじんわりと生あたたかい。大量の涙を吸って浴衣が湿っているのだ。胸がざわざわと騒いで落ち着かないのでそろそろやめてほしい。出会った頃を思えばずいぶんな懐かれ様だ。庭の隅からこちらをうかがっていた野良猫が、日に日に近づいてきて、ついに膝の上に乗った心地とでも言おうか。野生の獣を手懐けたようで悪い気はしない。それどころか、妻を亡くした幽霊族の男が今や唯一心を預けられる存在が自分なのかもしれないと思うと優越感すら覚える。まったく、どうしようもない。
「お前の寝床はそっちだ、ろ!」
水木はゲゲ郎をがばりと引き剥がして、とっとと床に就いた。布団の上に転がったゲゲ郎から恨みがましい視線を感じる。
「なんと冷たいやつじゃて」
「おやすみ」
涙交じりの非難には聞こえない振りをして、ゲゲ郎に背を向ける形で寝る体勢をとった。前夜までは、眠りに落ちてゆく鬼太郎の顔を共に眺め、その後しばらくひそめた声で言葉を交わすこともあったのに、間にいた鬼太郎がいなくなった途端の、この急激な変化をゲゲ郎はどう思うか。思い遣る余裕は水木にはなかった。
背後から聞こえる寝息が次第に乱れなくゆっくりとした律動を刻み始める。水木は、大事をとって、それからたっぷり十五分は待ってからそっと身を起こした。
寝息の主を振り返るもゲゲ郎が起きる気配はない。水木はしばらくその白い横顔を眺め続けた。
境界線があいまいなまでに距離が近づきすぎている。警戒心を解いてその内側に受け入れられることは優越感をくすぐる一方で、足元の床が抜けるような恐怖ももたらした。この底知れない存在にどこまで踏み込んでいいのか。
恐らくゲゲ郎の行動にはなんの含みもない。きっと、なんの考えもなしに隣に布団を敷き、水木の膝に顔を寄せた。水木だけが変にあれこれ思いを巡らせて頭を悩ませている。そう思うと、無性に腹が立ってきた。呑気に寝こけやがって。
「くそ」
水木は頭を冷やすため床を抜け出した。
縁側に片手をついて腰を下ろし、煙草とマッチの箱を取り出す。煙草を一本口に咥え勢いよくマッチを擦るも途中でポキリと折れてしまった。
「ちっ」
新しいマッチ棒を取り出してもう一度擦る。今度はうまく火がついた。片手で風除けをつくり咥えた煙草に近づける。月夜の薄暗闇の中、水木が見つめる先でその穂先が蛍の尻のように大きく光った。
一口吸うたびに血の気がすうっと引いていくのが分かる。これだこれ。冷静になるにはこれが一番手っ取り早い。ゆっくりと煙を口の中に溜め、肺まで吸い込み、一気に吐く。しばらく無心でそれを繰り返していると、常であれば暗闇に散り消えてゆく紫煙が寄り集まってひとつの像を結び始めた。つるべ火、ではない。起きたと思っていたが夢でも見ているのだろうか。それはやがて、確かにこの手で埋葬したゲゲ郎の妻の姿になった。
「こんばんは」
「こ、んばんは……」
思わず応えたものの言葉が続かない。幽霊族の父子と暮らすうち、多少の怪異には慣れたと思っていたが、さすがに死者と対峙するのは初めてのことである。咥えていた煙草がポロリと口の端から落ちる。思わずのけ反った体を縁側に手をついて支えた。
「ゲ、ゲゲ郎の、細君?」
「はい」
「俺、じゃない僕は、水木と申します」
「はい、存じております。水木さん、少し、お話しませんか」
「え、ええ、喜んで」
と言ったものの、ゲゲ郎の妻は夢枕に立つ相手を間違えている。すぐそこに夫も息子もいるというのになぜ水木の前に現れたのか。まさか幽霊族には人間の頭の中を透視する力があるわけではなかろうが、ゲゲ郎の妻は「間違っておりませんよ。水木さんにお礼を言いたくて参りました。愛をもって息子を育てていただき、ありがとうございます」と深々と頭を下げた。
「いえ、そんな、顔を上げてください!」
「水木さんのお陰で、またひとつ立派に育った姿を見ることができました」
はれぼったく閉じた目の端に涙が光る。独り寝のことを言っているのだろうか。それであれば水木は何もしていない。鬼太郎の心身が伸びやかに育っているだけだ。
「これからも、鬼太郎とあのひとをよろしくお願いいたします」
言葉に詰まった水木に、ゲゲ郎の妻は小首をかしげる。
「はい、とは言ってくださらない」
「それは、」
「水木さんは私に遠慮していらっしゃる」
とっさに目をそらしたのが悪かった。そんなことをすればその通りですと言っているも同じだ。
「そんな必要はありません」
「ですが、」
「私はもう私にできることはすべてしたと思っています」
穏やかな中に確かな強さがあった。そう思い込もうとしているのでも、諦めているのでもない。この女性は紛れもなく子を守ることに全力を費やしたのだ。息を飲むばかりの水木に、ゲゲ郎の妻はふっと柔らかく笑んだ。
「はんぶんこした、と思っていただけませんか?」
「はんぶんこ?」
「ええ。鬼太郎とあのひとと過ごす時間を。私はお腹にいた鬼太郎と十年間、あのひととはもっと長い時間を共にしました。ここからは水木さんが一緒にいてやってください。人間の世界で、二人きりで生きていくのは心許ありません。なにより、淋しがりなひとですから」
たおやかな笑み、またその声色には深い慈愛がにじみ出ていた。
心残りがないはずがない。本当であれば自らの手で世話をし、すぐ側でゲゲ郎と共に成長を見つめたかったに違いない。託された思いの重さに胸が軋む。
「わかりました」
そう言うより他なかった。これに応えないなど男ではない。
「約束ですよ」
ゲゲ郎の妻はその言葉を残して、夜闇の中に跡形も残さず消えていった。
出た時と同じくそっと布団に入るや否や、背後から羽交い締めにあう。胸の周りに、固く締まった筋肉ののった腕が回される。とっさに首元に手をやり首絞めを回避しようとするのはもはや習い性となっていた。
「なにすんだよ」
わずかに振り向けば、目の端に涙をため、短い眉を吊り上げたゲゲ郎の顔が触れんばかりの距離にあった。
「おぬしは本当に冷たいやつじゃ。鬼太郎に続いて、おぬしにまでおいて行かれたわしの気持ちよ」
「んな大袈裟な」
「大袈裟でないわ」
薄い唇に鋭い犬歯が食い込んでいる。少し淋しがりすぎやしませんか、どれだけ甘やかしたのですか、と消えてしまった妻をなじりたい。
「鬼太郎に独り寝出来て、どうしてお前に出来ないかねぇ」
胸の前に回された腕を伝い、太く固い肩を通って、白い頭に手をやる。ふわふわとした猫っ毛を後ろ手にわさわさ撫でてやると、ゲゲ郎の嘆きがぴたりと止んだ。
「おぬし……」
「なんだ?」
「……いや」
「なんだよ、はっきりしないやつだな」
ゲゲ郎は納得いかない空気を漂わせながらも、大人しく頭を撫でられ続けていた。
「ほらもう寝るぞ。明日も早い」
ゲゲ郎を背中に張り付かせたままもぞもぞと寝る体勢を整える。
「もう振り払わんのか」
「ああ。でもそこで寝るつもりならもう少し体温を上げてくれないか? 電気アンカにしちゃ寒過ぎる」
「おぬし〜〜〜〜〜〜〜……承知」
鬼太郎が初めて独り寝をした夜。
隣の部屋では大の男二人が一組の布団で狭苦しい夜を越した。