馴れ初め修真界には、魂に刻まれた第三の性というのが存在する。
肉体の性とは違い、それは主と従。またはどちらかであるか、どちらでもないか…というモノだ。
主は、支配欲に庇護欲や世話を焼いたり褒美を与えたりする欲を持つ者の事。
従は、服従する事を喜びとし、尽くしかまってほしい褒めて欲しいという欲を持つ者の事だ。
主は従に命令する事ができるし、従はそれに従う事を悦びとしている。
従が主に信頼を預けるか否かで、主従関係は結ばれ魂の契約となる。
「……」
「……」
二人の仙師が、黙って見つめ合っていた。
見目麗しい春の日差しのように穏やかな顔の男は、目を見開き口を押えている。
そして、もう一人のいつも雷のように警戒心の強い男は、青ざめた顔で相手の男の命令を遂行してしまった。
これは、ただの事故のようなモノだったのだ。
姑蘇と雲夢での共闘で、宗主が出る程の事ではなかったが門弟を指導する引率をしていたのだ。
雲夢江氏の門弟が前線に出て、姑蘇藍氏の門弟が楽で補佐をする。
その連携は、上手く行われていた。
しかし、門弟たちだけでは解決できない魔道の使い手が現れた事により事態は一変した。
数体の邪崇を操り、門弟たちに取りつかせてしまったのだ。
しかも魔道の使い手は、制御しきれずに発狂するという事態に陥った。
制御不能になった邪崇が憑りついた門弟たちは、次々に仲間を襲いかかってしまった。
藍宗主が裂氷で邪崇の気を静めて、江宗主が紫電で祓うという作戦だったのだ。
その作戦もまた上手く言っていたのだが、その後発狂した魔道の使い手を江宗主が必要以上に打ちのめした。
「”おやめなさい”!!!これ以上は、死んでしまう!!」
藍宗主が霊力を無意識に込めた命令により、江宗主がぴたりと攻撃をやめたのだ。
身体が縛られるような感覚もなければ、それは自ら彼の言葉に従ってやめた行動である。
そして、お互いにお互いの第三の性に気づいてしまったのだ。
「……江宗主…」
「なんだ」
「”後でお話してください”」
「わかった……」
怪我人を宿に運び入れたのちに、二人の宗主は宿の一等よい部屋で膝を突き合わせている。
膝を突き合わせていると言うのは言い過ぎかもしれないが、卓を挟んで向かい合っていた。
「私は、お気付きかもしれませんが主です。ねえ、江宗主……”話してください”」
「……俺は、従だ」
ぽつりとつぶやくように話すと、眉間にしわが寄っていた。
しかし主である藍曦臣の命令を聞いたことにより、魂が安定を取り戻しているのかいつも雷の様に鋭い瞳が和らいでいる。
宗主が、従という事は珍しい事だ。あの聶懐桑ですら、主である。
藍曦臣が知る限りでは、従の宗主は義弟の金光瑶とあと数名ほどいた気がする。
金光瑶は、聶明玦の従であった。彼が死んでから、金光瑶は静かに狂って行って命を散らした。
「長い付き合いだったはずなのですが、どうして気づいて差し上げられなかったのか」
「……別に、俺は貴方の庇護を求めちゃいない。あんたには金光瑶が居ただろう」
「いえ、阿瑶とは主従の関係は結んでおりませんよ」
ならどうしてあんなに庇っていた守っていたという目を向けられて、主の本能が働いていたからだとは思う。
誰にでも優しく平等の藍曦臣は、慈愛に満ちた慈悲深い人である。
主の仲でも庇護欲が強いためか、主であっても優しく接触するのは当たり前の事だった。
「もう、いいだろう。疲れた」
「……解りました。”横になってください”」
無意識なのか藍曦臣は、言葉に霊力が込めてしまう。
ぷいっと顔を背けて、寝台に向かって立ち上がる。
お互い湯あみも夕食も済ませており、後は寝るだけだった。
夜狩で疲れた体に、主が側にいる事による精神的疲労もあってか江晩吟は意識を手放したかったのだ。
素直に寝台に横になり、布団をかぶる。するとすぐそばに藍曦臣がやってきて、ぎょっと驚いた。
「今までよく頑張りましたね」
頭を撫でられて、それだけで乾いていた器が満たされる感覚になる。
主の多い宗主の中で、威圧されることは多々あった。
けれど、それを修位の高さと気質で跳ねのけてきた。その度に、主の命令に逆らったと体調を崩してしまっていたのだ。
「……以前にもこうして褒めてくれた」
すり…と自ら頭をこすりつける江晩吟に、藍曦臣は驚いた顔をする。
「そうでしたか?」
「……座学の時に、水妖を退治した…後に……」
あの時は、弟の藍忘機が彼の従者である魏無羨に興味を示していた。
その為に同室にしてやろうと、将来の宗主同士で同室になる事にしたのだ。
二人の助力があったからこそ水妖を退治するまでには至らなかったが、封じる事ができた。
その晩に『名乗り出たのに、お役に立てずに申し訳ございません』と、江晩吟は深々と頭を下げてきた。
「ああ、あの時に……」
思い出したようにつぶやくと、うんと頷いた。
「それが、それだけが嬉しくて……今日まで……」
疲労も限界だったのだろう江晩吟は、最後まで言わずに眠りについてしまった。
今日まで?もしや、あの褒美だけで今日まで誰にも従わずに意識を保ってきたというのか……。
それは、どうしたって哀れみの対象にしかならなかった。
あの日から、彼の人生は己と同じような歩みだったはずだ。
故郷を焼かれ家族を失い、姉の忘れ形見を育て、再興してきた。
いくら周りに修士が居ると言っても、江晩吟が信頼できる者は少なく信頼できたとしても彼らに実力は供合わなかっただろう。
しかも従である江晩吟が、率いるというのはかなりの重責だったに違いない。
庇護欲や甘やかしたいという欲に駆り立てられて、藍曦臣は眠る江晩吟の頭を優しく撫でる。
「おい!!なぁ、起きろ!風邪をひくぞ!!」
身体を揺さぶられて目を覚ますと、まだ卯の刻にもなっていない真夜中である。
顔を上げるとそこには、従の姿があった。
「なんで、貴方は寝台の外で寝てるんだ」
「あ…ああ、そうでした」
今の時間は、すでに藍氏は眠っている時間だ。しかも深く。
だから、覚醒したように見えても頭はまだ夢の中である。
身体をのそりと起こすと、ふらり……と目の前の寝台に入る。
それに驚くのは、むろん相手である。相手の寝間着を引っ張り剥がそうと追い出そうとする。
「ま!お前の寝台はここじゃな!!くっそ、重い!!!」
「……”静かに””大人しくして”」
ゆっくりと包み込むように相手を抱きしめて、騒ぐ従に主は命じる。
すると騒いでいた従は、静かになり大人しく腕の中に納まった。
「いい子だね。おやすみ」
「……っつ、おやすみ…なさい」
主に褒められた従は、心や体が満たされたように力が抜けてしまう。
もうこの温もりに身を委ねてしまえ…と、硬く瞼を閉じた。
―――翌朝。いつも通りに起きた藍曦臣は、腕の中で眠る江晩吟を見て驚いた。
夜中に一度起こされた記憶がある。ただし、それが夢か現か解らずじまいだった。
こうして見れば、あれは現実であった事を思い出させた。
朝の支度をしなければ……と思うのだが、しっかりと寝間着を掴まれており外す事が叶わない。
それどころか、傍にあった体温が離れた事に寒さか寂しさでも感じたのか「ん…」と少し甘い声で唸り引き寄せてくる。
その甘えた姿を見てしまえば、生まれた時から従を持っていない藍曦臣は陥落せざる得ない。
主の本能に従い、本来の藍宗主として藍氏のお手本にならなければならないのに、布団の中へと戻った。
普段は誤差的な身長差ではあるが、横になれば包むように見下ろす事は可能だ。
頬杖をついて自分の頭を固定から、江晩吟の背中に手を回して、一定の律動で優しく撫でる。
すると、眠っていても眉間に皺が寄っていたのがほぐれていく。
江氏の門弟もいるのだ、藍氏が早起きした所で宗主が起きてこない事で動く者はそうそうにいないだろう。
内弟子もまたいる為、早起きしたとしても彼らが指揮をだす。
「……ん、んん?」
それから、半刻が過ぎた頃だろう。長いまつげが揺れて、瞼から菫色の瞳があらわになる。
「おはようございます、江宗主」
「…………」
寝ぼけているのか覚醒しているのか解らないが、じっと藍曦臣を見上げてくる。
そして、その美しい身がこぼれんばかりに瞼を開花させたのだ。
「!?!!!????」
声にならないくらいに驚いたのか、口をぱくぱくとしながら体を引いて勢いよく起き上がる。
当たりを見回して、自分が使うはずだった寝台だという事を確認する。
自分の寝間着が昨晩と何ら変わりない事を確かめてから、大きく息を吐き捨てた。
その光景をずっと眺めていると、恨みがましい目で振り返ってくる。
「……起きたならなんで、支度をしていないんです」
「だって、江宗主が放してくださらなかったから」
まるで生娘のように恥じらう仕草をしながら、体を起こして口もとを袖で隠す藍曦臣。
この姿を見たら、きっと誰もが江宗主が藍宗主を手籠めにしたのでは???と勘違いしてしまう程に、美しく可愛らしい仕草だ。
身長も体格も生娘からかけ離れている癖に、その顔と仕草により主の癖に守りたいと思わせてしまう。
「そ、そもそも!あなたが、俺の寝台に入ってきたんだろうが!!」
「そうですね」
「し、しかも!命じただろう!!」
「そうですね」
羞恥からなのか悔しさからなのか、顔を紅潮させて敬語もなくなっている。
外向きの「私」から内々に向けている「俺」という呼称に変わっている事も、きっと江晩吟は気づいていない。
彼の言い分を全て肯定すると、ぐぬぬ…と唸るように唇を強く閉ざした。
そして、彼がいまだに気づいていない事がある。
「ねぇ、江宗主」
「な、なんだよ」
ずいっと体をそちらに寄せると、反射的に離れようとする。
しかし…それと同時に、藍曦臣の寝間着が引っ張られるように崩れた。
驚いた様子に、自分が今何を掴んでいるのか江晩吟は気づいたらしい。
「あ、おあ、え???」
混乱したまま自分の手元を、見つめる。白に近いけれど淡く藍に染まっている寝間着が、がっちりと掴んでいるのだ。
それは理性では放さなければならないと思いながらも、本能ではこの主を離したくないと言わんばかりに強い力だ。
思考と体が別々になったみたいで、さらに混乱をするのだが……。
はらり…と、寝間着が落ちれば雪のように白い藍曦臣の肌が露わになってしまう。
「おや」
「……な、なんで内衣を着てないんだよ!!!」
「下は履いてますから」
「あ、当たり前だ!!!恥知らず!!!」
かぁああああ!!とこれ以上にない程に赤く染まり涙目になる江晩吟が、可愛らしく見える。
頬に手を添えて、その瞼に口づけを落としたらどういう反応をするだろう?
ああ、でも江晩吟は藍忘機と魏無羨の仲を毛嫌いしているという情報もあるから、断袖のような事をされたら嫌われてしまうかな。
とりあえず頬に添えようとしていた手を、未だ寝間着を掴んでいる江晩吟の手に重ねる。
「”放して”ください」
「……」
するりと、掴んでいた指から力が抜けた。寝間着が放されて、自由の身になるとすぐに着替える寝間着を整える。
しかし、整えている途中で相手を見た。
淋しそうな顔をして、代わりになりそうな物を無意識に探している。
「そのような顔をなさらないで」
「は?」
自分がどんな顔をしているのか解らなかったのか、眉間に皺を寄せながら「何言ってんだ?」という一言を一音にまとめる。
「私も名残惜しいですけど、さすがに辰の刻には江氏も起きる頃合いでは?」
「……」
そう言えば、廊下から生活音が大きくなっている。
外から「宗主、起きておいでですか。朝餉をお持ちしました」と門弟の声が聞こえて「起きて居る、入ってこい」と返事をする。
寝台から降りようと身を動かす江晩吟の頬に、我慢していたはずの手が添えられた。
「ねぇ、江宗主。私を”見て”」
「なん!?」
命じられたから、そちらに顔を向けると目が離せなくなる。
扉が開く音が聞こえてきて「あ!!!」という声が重なって聞こえた。
藍曦臣に添えられいるとしても、門弟からは二人が口づけをしているように見えてしまうだろう。
そんな角度だ。
「「し、失礼しました!!!」」
「ご、誤解だ!!馬鹿!!戻ってこい!!!」
悲鳴のようにも聞こえる門弟の声に戻ってこいと言うのだが、目が藍曦臣から離せない。
藍曦臣が、それをよしとしてくれないのだ。
勢いよく戸が絞められて『宗主はまだ眠っておられる!!近づいてはいけない!!』と、大きな声が聞こえた。
「……何てことを」
「私は、見てと言っただけですよ」
「誤解されるだろう」
「どのように?」
「藍双璧は、そろって断袖だと……」
己との関係ではないのか……と、思いながらくすりと笑う。
「んー…私は、主従の関係にも恋愛にも興味が無かったんですよね」
「あー…解るわ」
藍曦臣は、誰にでも優しくて平等。
彼に接する者なら、大切にされているのだと思ってしまうような態度で接してくる。
勿論、彼にだって優先順位はちゃんと存在していた。
何よりも優先すべきは、姑蘇藍氏。雲深不知処。次に弟や叔父だろう。さらには義兄弟。といった所だ。
しかし、それ以外は本当に平等すぎて、逆に興味が無いのではないかと思う。
江晩吟も平等の中の一人。再建について手を貸してくれたし根回しもしてくれた事は知っている。
年に一度の清談会では、必ず隣に据えてくれていた。藍氏主宰だったとしても、聶氏や金氏の隣であった。
客坊も、三尊の近くに位置付けられている。
江氏は三尊のおまけだとかいう輩もいたけれど、さりげなくだがそんな者からも守ってくれていた。
しかし、それは藍曦臣の博愛からくるもので特別ではなかった。
従であったと知っていたなら、主として守らねばならないと思うのは当然であったろう。
しかし、江晩吟は自分の第三の性を隠し通した。
だから、昨日まで藍曦臣に知られなかったのだ。
うんうんと頷いていると、藍曦臣は苦笑する。
「それに自分の子を成す事なんて、ありえない……」
「え?」
「どうして、叔父上が未婚のままなのかお解りですか?」
いきなり藍啓仁の事を出されて、首をかしげる。
そう言えば、そうだな。と、嘗ての師を思い浮かべた。
髭を生やしているけれど、外見的には衰えていない。推定ではあるが、もう六十は過ぎているはずだが修位が高いためか他と比べれば若々しい。
見目もさすがは姑蘇藍氏直系と言えるだけあって、目の前の男と同じほどに美しい。
年齢を重ねているだけあって味が出ているし、持ち合わせた知性は品格を強調している。
では、内面は?厳しくもあるけれど、自分の意見や意志ははっきりとしている。
好き嫌いもあるが弟子には平等に接しており、彼らが問題を起こせばどちらの意見も聞き入れ裁きをしてくれた。
息子のように育てた藍忘機に手を出された事には、かなり一方的に怒っているが……あれは義兄の態度が悪いのがいけない。
経済面でも安定しているし知識に貪欲なだけで欲も仙師の鑑のように、少ない。
藍双璧を立派に育て上げた事から育児方面に関しても、江晩吟から見ても尊敬できる御仁だ。
それなのに―――未婚のまま。
「……叔父上も私も自分の子を残したくないのですよ」
「……どうして」
「父の醜態の因果を、叔父は身をもって知っているからです」
父の醜態の因果……そう言った時に、藍曦臣は己に手を添えた。
まるでそれが自分で、自分たちであるかのような仕草だった。
「私も、両親を見てきて恐ろしくなりました」
「……」
「私の父は、母を軟禁したのです。
母は父の恩師を殺したのに、恋をした事で罰しなければならないはずの母を攫って隠しました。
父もまたそんな自分を罰するように、別の室で閉関をした」
「あ……」
思い当たる陰口を江晩吟は思い出した。
いつかの談会だったかは思い出せないけれど、誰にでも平等な藍曦臣をよく思わない者が言っていた。
詳しく聞くほど興味はなかったけれど、藍氏の醜態のように言われていた。
「……私は叔父上に育てられました。
だから、月に一度会う父と側にいてくれた叔父がどちらに好意があったかと言えば、叔父上でした。
叔父上が、忘機と無羨の仲を毛嫌いしているのは、無羨だけではなく忘機の執着が原因なんですよ」
「……」
「この執着は、祖から藍氏直系に受け継がれている。特別を作ってしまえば、特別になってしまえば……世界を敵に回してでも特別を愛してしまう」
ぐっと、整えた寝間着を皺になるくらい掴む。
藍曦臣も藍啓仁もそれを身近で二人も見てきてしまっており、両親は藍氏の醜態などと言われている。
「で、でも、貴方のご両親は愛し合っていたのでは?」
「いいえ」
「え」
「父の一方的な想いですよ。私が生まれたのだって、そこに母からの愛はなかったでしょう。
本人に確認した事はありませんが、父からそう伝えられております」
確認できる理解できる年齢になる前に、己の母は死んだ。
兄弟に対しての母からの愛情を疑う事はなかったけれど、母が父を愛していなかった事は父からも周囲からも聞かされてきた。
「私はね、特別なんて作りたくない」
「……」
「作りたくなかった」
白い手に力が入っているのか、血管が浮き出ている。
支えようと手を差し出すと、まるで罠のように掴まれた。
「どうして、あなたは……」
「藍宗主?」
「私の欲を掻き立てるの。どうして、穏やかでいさせてはくれないの」
苦しむような顔をして、厚い胸板に鼻がぶつかるくらいに勢いよく引き寄せれれる。
「”大人しくして”」
「っつ」
「”私に寄り添って”」
藍曦臣に言われるがまま江晩吟は、彼に寄り添った。それから、体が軋むほどに強く抱きしめられた。
「どうして、貴方が従なのです」
「……藍宗主?」
苦し気なまま肩に頭を埋められて、背に手を回した方がいいのかと悩む。
背を撫でやれば、この菩薩か如来の様な男は落ち着くだろうか。
特別を作らないと言っていた彼は、きっと主従も結ぼうとは思っていなかったんだろう。
「思い返せば、思い当たる事は幾つもありました」
「……」
「貴方は、素直に言う事を聞いてくれていた。無意識に、命令を出していたのでしょう」
「それは」
お互いに無意識的に主従の行為を行っていたかもしれない。
本能的に、互いの第三の性を嗅ぎ分けていた。
だけど、藍曦臣の命令は日常的な言葉に混ぜられていて、どれが命令だったのか解らない。
「そうだとしても、藍宗主が俺に何かを言ってきたのは家宴の時ぐらいだろう」
「……」
「呑みすぎるなとか、ちゃんと歩きなさいとか」
「ちゃんと食事をしなさいと言っても、ちゃんと寝てくださいと言っても断られましたよ」
「……」
正式な主従じゃないから、主の命令の効力は弱まる。
従は主の命令を断る事ができる。
だから、藍曦臣に命じられた事でも江晩吟の中の優先順位で断る事もよくあった。
「江宗主」
「なんだ」
「……私、もう我慢ができない」
「え?」
抱きしめられたまま寝台に押し倒されて、こぼれた黒髪の檻が作られる。
「貴方を支配したい」
「は?」
ちゅっと、額に口づけが落とされる。
「貴方の世話がしたい」
「ちょ??」
右の瞼に、唇が触れる。
「貴方を守りたい」
「必要ない」
左の瞼から、音が奏でられる。
「貴方を褒めたい」
「!?」
右の頬に、柔らかい唇が押し付けられる。
「貴方を甘やかしたい」
「そんな」
左の頬に、口づけをされる。
「貴方の信頼が欲しい」
「んん?!」
唇に、同じものが落とされる。
口づけをするのは主従のする事だったか?!と、足をばたつかせる。
「ねぇ、江宗主。私を受け入れて?」
「……」
それは命令だったのか、それともただの願いだったのか江晩吟には解らない。
ばたつかせていた足を大人しくさせると、眉に皺が寄る。
「……信頼なら、とっくに捧げている」
「え?」
「で、でなきゃ、あんたが寝台に入ってきた時に蹴り落としている!!」
「……」
「……」
顔を見る事ができなくて、ぷいっと背ける。
「藍宗主が主だろうが無かろうが……貴方じゃなければ、言う事など聞こうと思わない」
「……江宗主」
「お、俺が、どれだけっ」
貴方の背を見つめてきたか知らないだろう!と、ぽろりと涙がこぼれた。
正直言って、受給過多だ。今まで一滴でよかった、振り返って微笑んでくれるだけで声をかけてくれるだけでよかった。
この人は、誰のモノにもならない。この人は平等で、特別を作らない。そう解っていたからこそ、少しだけでよかった。
なのに、今朝になってどうだ。
朝起きれば、包むように寝そべっており背中を優しく撫でてくれていた。
何度も何度も命令を下して、それを遂行すれば褒めてくれた。
特別を作らない理由を教えてくれたかと思えば、抱きしめて我慢ができないという。
口づけまで何度もしてくれる。
「どれだけ、貴方に褒めて欲しかったか……構ってほしかったかなんて…知らないくせに」
「ええ、知りませんでした。ごめんなさい」
こうして、優しく抱きしめられる。
「これからは、主として貴方を守ります」
「……」
「もう間接的にお守りしなくていいのですよね?江宗主を、ちゃんと守って褒めて差し上げてよろしいんですよね?」
「は?どういうことだよ」
「私たち三尊に頼ろうとせず一人で駆けていく貴方が愛しかった。
だけど、貴方は私の世話なんて必要ない。そうせざる得なくても貴方は、誰かに頼ろうとせずにここまで頑張っていた。
私は江晩吟、あなただからずっと守りたかった。支えたかった」
「それじゃ、まるで……俺が、貴方の特別じゃないか」
特別を作りたくないって、興味が無かったって言ってたじゃないか。そう続きを零せば、藍曦臣は苦笑した。
「本当に、興味はありませんでしたよ。あなた以外には」
「い、いつからだよ」
「いつから、と言われたならきっとあなたが座学の時にいらした時より前だと思います」
「は?それって……」
もはや二十数年は、経っているのではなかろうか?
「怖かった」
「……」
「貴方を特別にしてしまえば、私の欲があふれてしまいそうで怖かった。
正直に言えば、貴方に触れるモノ全ての手を切り落としたい衝動だってありました。
貴方に威圧をかけるような輩の口を塞いで締め上げてしまいたくもなった。
お見合いをしたと聞けば、失敗してしまえなんて呪ったりもしました。
貴方が誰かに笑いかければ、攫いたくなるし隠したくなる。私だけを見つめて欲しい、私だけに微笑んでほしい、私だけに…って。
義兄様や阿瑶もそれを知ってか知らずか、貴方から私を遠ざけていた」
ぎゅっと、朝の何度目か解らない抱擁をされる。
「貴方を、私から守る者はもういません」
「……そ、それは」
「ねぇ、私のモノになって?」
まるで命令の様なお願いに、逆らえるはずもなかった。