大人にしあず(2) 自宅へ戻ったあとの習慣はいつも決めている。
窓を開け、簡単なコーヒーを入れ、私用パソコンでメールチェックする。
一通り目を通したら、軽くシャワーを浴びてベッドに入る。
一人暮らしが長くなった東峰なりの、自己管理のためのルーティンだ。
「あぁ、・・・涼しい」
窓から吹き込む風は、すっかり秋の気配に変わった。
ほどよく冷えた空気を胸いっぱい吸った後、やかんに火を入れる。
『西谷さんが好きなんでしょ』
ぼわ、と音を立てて立ち上がるガス火と共に、先ほどの言葉がよみがえる。
「・・・簡単に言わないでくれよな・・・」
人前で見せない苦々しい表情を浮かべつつ、お湯が沸くまでの間にパソコンを立ち上げるため、モニターの主電源に指を伸ばした。
「あれ?」
デスクトップに表示される、短い通知。
「や、じゃ、く、どう・・・あっ」
差出人には、会社名と共に見慣れた名前が表示されていた。
***
「すみません!」
翌日の昼下がり、こざっぱりとしながら暖色の明かりが心地よいとある喫茶店に、ぱたぱたと駆け込む音が響く。現れたのは、相も変わらず慌てたような困ったようなあどけなさが残る顔。
「ほんと申し訳ないです、お手すきの際にご返信いただければと思ってたのに」
「いや、直にサンプル見てみたかったし、寧ろ俺のわがままで申し訳ないくらい。あ、さっき聞いたメニューもう頼んどいたよ」
「も~逆に気を遣わせてしまって申し訳ないです・・・」
「全然。ていうか、俺もやっちゃんに会いたかったから」
「・・・っ、私もです、東峰さんっ」
席に着くなりぺこんと頭を下げる律儀さに、思わず笑みがこぼれる。
広告デザイン会社に就職した谷地仁花とは、職業の違いはあれどクリエイターとして情報共有する仲になっている。高校時代よりも交流が増え、それに伴い互いの呼び方も少し砕けたような関係になった。東峰にはそれがとても心地よく、同時に頼もしく感じられる。端から見ればカップルのように見られたり扱われたりする事も多いが、いわゆる戦友に近いといっていい間柄だ。
「えっと、それで・・・これが今度使う広告のカラーサンプルです」
素朴なテーブルにすっと置かれる書類が、鮮やかな彩りを演出する。
仁花の作る色は、いつも東峰の心を躍らせるのだ。
「うん、昨日送ってくれたデータも目を通させてもらったけど、やっぱ好きだなぁやっちゃんの色使い」
「ひぇ・・・嬉しい」
「あの会社ならこの色で間違いないんじゃないかな。あとはハードな雰囲気の女優さんで広告打てば、イメージに合うと思う」
『あ、やっぱりですか。うちで起用するモデルさん、キュート系かポップ系が主なんですけど、そんな気がしてました。なんとか業者と交渉してみます」
ほっと安堵のため息が出たと同時に、失礼しますと店員がうやうやしく側に立った。
「ブレンドコーヒーのお客様」
「あ、はい」
「本日、コロンビアの深煎りを使用しております。お好みでミルクをお使い下さいませ」
ことん、と仁花の前にマグが置かれる。
「フルーツハーブティーのお客様」
「はい」
「こちら、本日当店に入ったばかりのフレッシュなイチゴを使用しております。ティースプーンで潰しながらお召し上がりください」
なみなみとお茶が入った大きなティーポットと、きめ細かいデザインのティーカップが東峰の前に並ぶ。
「お会計はテーブルで受け付けさせて頂きますので、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
にっこりと微笑んで立ち去るウェイターの後ろ姿に、思わず顔を見合わせる。
「いい店だね」
「でしょう?」
微笑み合い、互いの飲み物に口を付けホウとため息が漏れた。
贅沢な果実の香りに、身体の芯から暖まる。
店の隅にかけられたレコードからテノールのジャズがせつなげに響いて、心地よい時間がゆったりと流れる。
「はぁ~美味しい・・・ほんと東峰さんに相談して良かった」
「はは、大げさだよ」
「そんなことないです、東峰さん大手に勤めてたご経験がありますから、そういう方の意見は凄く貴重です。うちの会社まだまだ保守的な意見が多くて、この企画自体前例がないし、冒険しすぎかもって言われちゃいそうだし」
「全然。トレンドもちゃんと押さえられてるし、スモーキーさと明るさもマッチしてていいよ。堅実だけど今っぽい、やっちゃんデザインだって、わかる人にはすぐわかる色だよ」
「嬉しい~・・・会社に戻ったら、早速上司に提案してみますっ」
「おお、頑張れよ~」
ふんすと鼻息荒く意気込む後輩の気迫が微笑ましく、くくくと笑いを零しつつティーカップを傾けた。
「東峰さん、最近どうですか」
「俺?俺は別に、いつも通り。大きくはないけどそれなりに仕事の依頼があって、慕ってくれる後輩もいて、昨日も一緒に飲んでたし」
「・・・そうですか」
「・・・? どうして?」
「あの、気のせいかとも思うんですけど」
ためらうように視線を左右に揺らした後、カフェオレ色の瞳がこちらを向く。
「なんだか、普段よりお元気がないような気がして」
きょぐ、と飲み下す音が脳に響く。
「・・・ははっ、参ったな」
「あ、・・・す、すみません!変なこと言って、忘れてください」
「いやいいんだ。やっちゃんに言われると寧ろほっとする」
「西谷さんですか」
「・・・ん」
がりがりと後頭部を掻き、深い栗色の眼に影が落ちる。
「後輩にも叱られたよ。あいつとどうなんだ、って」
「・・・」
「よくわからないんだよな、自分でも。・・・西谷は縛れない、自由に飛び回ってるのが一番だって思ってるクセに連絡は欲しがってる自分がいて。・・・あいつにいい人が出来たらと思うとそれにも釈然としなくて。なんだよそれって、正直自分でも引く。こんな優柔不断なまま西谷とコンタクトを取るのも悪いような気もして、・・・ああいや、あいつとそういう話をしたわけじゃないんだけどさ」
無意識にポットに手が伸び、2杯目のお茶を注いだ。
カップに写る顔が、頼りなく揺れて見える。
「東峰さんは、西谷さんとどうなりたいんですか?」
さくりと切り込まれる問いに、東峰は言葉を失う。
「あっ・・・ご、ごめんなさい!無遠慮すぎました」
「いやいいんだ、続けてくれ。やっちゃんの意見が欲しい」
少し逡巡する顔を浮かべた仁花が、大事そうに両手に包んでいたコーヒーマグをとんと置く。
「その、・・・私の個人的な思いですけど、東峰さん自身がどうしたいのか、それに尽きるんじゃないかなって、そう思ったんです」
窓から差す光が午後の柔らかさを持ち始め、仁花の横顔を照らす。
切なそうで、それでいて切実な表情が、東峰の心を和らげる。
「本当にごめんなさい、月並みなことを偉そうに。・・・東峰さんは昔からとてもお優しくて、自分よりも他人とか、まず周りの環境を第一に考えてしまう方だから。それは、東峰さんの最大の魅力で、誰からも愛される要因だなって」
「でもだからこそ、本当に大事なことは、自分の気持ちと他の人への気遣いでごちゃごちゃになっちゃうんじゃないかって、マネージャーしてたときからなんとなく思ってました」
「・・・」
「すぐに答えは出さなくていいと思います。・・・あるいは、もう心の底で答えが出てるかもしれない。それを行動に移せるかどうかかな、って。そのきっかけを周りに委ねるか自分で作るか、何がいいかは私からどうこう言えないですけど」
曲が変わって、女性歌手のソプラノになった。
甘く陽気なメロディが、店内に響き渡る。
「・・・谷地さんありがとう。俺より何倍も大人の意見だわ」
「いえ、滅相もない!なんか結局訳わかんないこと言って、すみません…」
「いや。自分の気持ち、なんとなく腑に落ちたような気もする」
ぐいっと最後の一口を飲み干した瞬間、歌手の名前を唐突に思い出した。サラ・ヴォーンだ。
「俺、昔から何がしたいのかわかんないまま流されて終わるから・・・やっちゃんみたいな人が貴重だよ。悪いクセで、嫌になる」
「・・・東峰さん、それは違うんじゃないですか」
「え」
「多少強引でも、本当に欲しいものはちゃんと自分のものにしているでしょう?それも私、知ってますよ。烏野エースさん」