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    大人にしあず続き
    旭さん動きます

    #西東
    west-east
    #にしあず

    大人にしあず(3) 物事が動くきっかけを作るのは、他人か自分か。
     心に刻まれた言葉の意味は、ほんの数日後に思い知らされることとなる。

     いつもの朝。いつもの面子。
     定例会議の真っ最中、内ポケットからの短い通知音に滑らせる眼。

    『明日の朝、日本に帰ります』
     その短いメールを目にした途端、ひゅ、と喉から音が漏れ、デスクのコーヒーを盛大に零した。
     危うく濡らしかけたサンプル生地を回収し、ごめんと慌てふためき自分の上着でデスクを拭いて後輩に絶叫され。
     身内にご不幸ですか、とヘルプで来てくれている女の子に心配され、そうじゃないんだと言い訳しながら、自分の手が震えていることに初めて気がつく。
    「ごめ、ちょ・・・トイレ」
     よろける脚で、必死にお手洗いへ駆け込みへたり込む。
     急激に冷える体温。血の気が引く感覚。
     ふたたび通知音が鳴る胸元に手を伸ばし、取りだした拍子にかしゃんと床へ落ちた。
     目に飛び込む、短い文言。
    『旭さん、東京ですよね。会いに行きます』
     おええ、とえずきがこみ上げ、酸っぱい匂いが鼻をつく。
     口から飛び出しそうな心臓が、早鐘を打ってうるさい。
     ガンガンと耳元まで聞こえて頭が痛い。
     急激に戻った血流で顔が熱い。喉が焼ける。

     西谷が。西谷が日本に帰る?
     いつも手の届かないところにいる西谷が。
     細い糸のような連絡手段でしかなかった西谷が。
     なぜ。東京に。俺に?会いに?

    「東峰さん!」
     大丈夫ですかと、先日の男後輩が駆け込んできた。
    「・・・ごめ、すぐ戻る・・・」
    「休んでください。あとは引き継ぎます」
    「や、何言って」
    「帰ってきたんですよね、日本に。西谷さん」
    「っ」
     ツン、と目頭が痛くなった。
    「、!すみません、動揺させました」
    「っ・・・なんで・・・」
    「もうプランは固まってますから、俺たちに任せてください。もう会えるチャンス、ないかもなんでしょう」
    「でも、・・・」
    「いいえ、東峰さん絶対行くべきです、行ってください」
     普段にない強い口調に、東峰は驚いて目を向けた。
    「俺、今まで東峰さんと一緒に仕事して、東峰さんがとても真面目で真摯で、めったなことで取り乱したりしない方なのはわかってるつもりです。・・・でも、覚えていらっしゃらないと思いますけど、以前俺の部屋で飲んでたときめちゃくちゃ酔ってて。俺、あんなにあけすけに笑う東峰さん、初めて見たんです」
     真摯な眼が、ふっと和らいだ。
    「西谷さんの話しかしてなかったんですよ?東峰さん。歌うみたいに饒舌で、とろけるみたいな眼して、夢見るみたいに楽しそうで。・・・ああ、この人は西谷さんに心から焦がれてるんだな、って思ったら、羨ましくなるくらい」
    「・・・」
    「東峰さん自身のために、西谷さんを迎えに行ってあげてください。そのまましばらく一緒に過ごせば良いじゃないですか。そのための個人経営でしょう」
     迎えに行く準備とかあるでしょ、早く帰って支度しなきゃですよ!と胸を張る後輩がまぶしい。
     大きく深呼吸をひとつ、ふたつ。ゆっくりと吸って吐いて、己を取り戻す。
    「・・・本当に良いのか?」
    「くどいですよ!」
     ぽんと背中を推された勢いで東峰の脚はよろめき、一瞬迷い、・・・覚悟を決めたように走り出した。

    ***

    『さぁお待ちかね、・・・ザッ年代のヒット・・・ザザ、を見てみ・・・ぅ、ザザザザッピーーッ』
     大きなトンネルに入った瞬間、カーステレオから流れるラジオがぶつ斬りになった。
     眠くならないようにかけっぱなしにしていたが、当てが外れたとおもうほど目がさえてきた。めったに飲まないエナジードリンクを一気飲みしたときのような感覚。

     到着港まで、車で200kmあまり。
     普通ならためらう距離も、全く遠いと思わない。
     カーラジオからは高校時代の懐かしいナンバーが流れて、トンネルで途切れ、また聞こえて。秋葉原アイドル、韓国ユニット、唸るようなギターが特徴的なバンドや、数年前引退した歌姫。
     肝心のサビが聞こえなくてもメロディは口ずさめる。
     そうすることで、あの頃の自分と西谷が鮮やかによみがえる。

    『旭さん』
     西谷。強くて華やかで、まぶしい西谷。
    『旭さん』
     西谷。ああ。
     憧れに満ちて、到底敵わないと思えて、今もまだ羨ましさが拭えなくて。
     それでもほしいと、思わずにいられなくて。

    『旭さん、好きです。俺と付き合ってください』
     これ以上無い、堂々とした告白だった。
     自分たちの代の卒業式を終えて、いざ帰ろうと一人校門へ歩き始めたタイミングで、西谷に呼び止められた。
     告白されるだろうと思っていたから、特に驚きもしなかった。
     桜の花びらが彼の後ろに散って見えた。
     世界ですら彼を祝福しているのだと思えた。
     そしてもう、返事は用意していた。

    『ごめんな、西谷』

     あの日、西谷を拒んだ理由はいろいろある。
     彼に釣り合う男ではないとか、彼にはもっといい人がいるはずだ、とか、そんなのは言い訳だ。
     彼の隣が怖かった。
     自分をパートナーと、恋人だと紹介して回る西谷を想像するだけでいたたまれなかった。
     西谷から逃げた。
     バレーから逃げたあのときよりも、自分に西谷を受け入れる資格はないと思った。
     エースに復帰した時。トスからのアタックが成功した時。エースとしてのプライドを自覚し始めた時。宮城代表に選ばれた時。
     日に日に開花する己の存在価値と自信、ここにいてもいいという気持ちから自分じゃないとダメなんだと変わっていく、自己肯定感の目覚めに心が熱くなった。
     それでも、どうしても、何をしていても、西谷に対する壁は厚かった。
     彼を心底から受け入れる器には至らなかった。
     等身大の『東峰旭』は、どうしようもなくちっぽけで惨めだった。

     その時の西谷も、きっと一生忘れることはない。
     そうでしょうね、とか、なんでですか、とか、いろんな感情をない交ぜにしたような、くしゃっとした顔をしていた。

    『わかりました』
     たった一言、はっきり告げた後、くるりと向きを変えて立ち去っていった。
     振り返りもしなかった。あんなにかっこいい退場は、生涯ただ一度しかお目にかかれないだろう。

     多少食い下がってくれたら、どんなに良かったか。
     なんて思う自分も相当わがままで、残酷だったと思う。
     あの日の東峰旭が本当に愚かだったと思うまで、数年かかった。
     西谷には一生かけても償いきれない酷いことをしたと、自覚するまでもう数年かかった。
     西谷を受け入れたいと思えるようになるまで、もっとかかった。

     最後の一歩を踏み出すまでに、至れるだろうか。
     西谷に会って、確かめなければならない。

    ***

     港についた時にはすでに大きな客船が停泊していた。
     一瞬遅れたかと思ったが、下船まで多少時間がかかるらしい。
    「・・・すごいな」
     船舶を見上げて、東峰は思わず嘆息する。
     西谷の今までの話からあまりお金のかからない路程を組んでいるように思える。しかしこれはなかなかに豪華な一級客船ではないだろうか。
     こちらから確認できるだけでもデッキが5段重ねになっていて、黒い船底付近からも窓が見える。従業員とおぼしき人たちがあちらこちら駆け回っている様子がこちらからも見て取れる。まるでハイグレードマンションが海上にそびえ立ったようだ。
    「検疫班のチェックが終わるまで乗客は下船出来ないんだよ。日本には今年初めて来た船だから、ちょっとレアケースらしいね」
     すでに下船していた船員に聞いて、納得した。
     そうして初めて、迎えに行くとは返事していない事に気がつく。
     急にいてもたってもいられなくなった。すれ違ったらどうしよう。
    「あの、検疫が終わったら降りてくるんですよね」
    「もちろん。今デッキで一斉チェックが始まってるから、下船許可が出たらここ、波止場の正面広場に出てくるよ」
    「ありがとうございます」
     大人しく降りてくるまで待っていた方が賢明だろう。しかし、それを待つより先に連絡をした方が良いのではないだろうか。
    「・・・」
     一瞬スマホに指を滑らせ、やめた。
     西谷が本当に現れるのか、確かめたい気持ちが勝った。

     数年前に完成したと聞いたが、このターミナルはなんとも賑やかで広かった。
     入り口からすぐにテナントが並び、寿司やてんぷらなどの定番日本食屋さんが軒を連ねると思いきや、本格イタリアンを思わせる店構えや店先のショーガラス越しにナンを焼くターバン巻き料理人の姿も見える。
     皆、下船してくる客の入りを期待しているのだろうか。まだ開店前なのに、どの店も気ぜわしそうに右往左往しているのが見えた。
     荷造りに手間取ったせいで慌てて履いてきたスリッポンは外国製だからか少し底が薄くて、鉄格子状の階段の質感が直に感じられる。

     広いエントランスを抜けて、大きなエスカレーターを上れば、子供向けの体験ルームとハイグレードな中華料理やフランス料理の店が点在している。
     バターとデミグラスソースの混ざった香り。刺激的な八角の匂い。

     あっち見てきて。○○の準備出来てる?
     ジャッ、シャッ。カンカン、ジョワワーッ。
     それでは本日よろしくお願いします!よろしくお願いしまーす!

     少し歩いたところに、大きな展望デッキが見えた。
     周りより少し背の低い西谷を見つけるには、上から探した方が難しくないかもしれない。
    「うわっ」
     外へ出た途端、向かい風がびょごわわと歓迎した。
     潮の香りが心地良い。東峰はしばし目的を忘れて、デッキの端に肘をかけて外を見やった。
    「・・・気持ちいいな・・・」
     天気が良ければ、こんな風を受けて進む船旅も悪くないだろう。
     なんとなく周りをぐるりと見やって、すぐ下の広場に眼をやった。

     黒、白、黄色。
     カラフルな衣服や、バックパック。
     いろんな人がいる。
     きっとこんな中に西谷がいて、物怖じせず誰彼に話しかけて、身振り手振りで互いの意思を伝え合って気持ちよく笑っているのだろう。
     想像の中ですら西谷は底抜けに明るい。
     自分が入り込める隙はなく、きっと一緒にいても遠くから彼を見守っているんだろう。
     容易に想像できる己に、ちょっと気が滅入るような気もする。
    「・・・そういうのはダメって散々言われたのにな」



     タラップを降りてきた影を一目見て、すぐわかった。
     相も変わらず、逆立てた髪。
     くすんだTシャツとバックパック。
     後ろからぶら下がる薄汚れたバレーボール。
     両腕を一生懸命振って、びょんびょんと飛ぶように走り出す体躯。

     西谷だ。彼の周りが光って見える。
     西谷だ。あれが、・・・

     少し周りを見る様な仕草をする西谷が、手に持っている何かに指を走らせている。
     ほどなく、フォン、と東峰の胸元から音が漏れた。
    『無事日本につきました』
     またも短いメール。
     思わず苦笑した途端、追加のメッセージが届いた。
    『早く旭さんに会いたい』

     喉が熱い。
    「・・・あ・・・」
     西谷。西谷。西谷。西谷。

     震える指が受話ボタンに走った。
     慌てたようにスマホを持ち直し、耳に当てる西谷が見える。

    「もしもし?」
    『・・・旭さん?』
     ひゅ、と喉が鳴る。
     西谷の肉声。何年ぶりだろう。
    「うん、久しぶり」
     心臓が跳ねる。喉が渇く。
    『なんか、声違う気がする』
    「そうか?」
    『まだ仕事っすよね』
    「ううん」
     体の芯がくすぐったい。
    「建物の上、見てみろよ」



    『・・・旭さん、ですか?』
    「そう、迎えに来ちゃった」
     向けられた視線に堪えるように、軽く腕を振る。
    「あさひさーんっ!!!!」
     辺りに響き渡る声に、びぐんっ、と身体が硬直した。
     急に視線を集める己に構わず、誰よりも輝く鳶色の瞳をこちらに向けて、一心不乱にぴょんぴょん飛び跳ねながら手を振っている。
    「・・・に、っ」
     けぐっ、と喉が詰まった。
     声が出ない。
     全身が熱い。
     どうしてしまったんだ、俺の身体。
     こんなに、こんなに、こんなにこんなに、西谷に会いたかったのに。
    「・・・ははは、っ」
    『そっち行きます、待ってて』
     そのままブツッと切れた瞬間ダッとかけだす。
     よろめく身体を必死に手すりで支える。

     迎えに行く。
     俺が西谷を迎えに行く、そう決めたじゃないか。
     震える脚で、出口を目指す。
     ぐわん、ぐわん、ぐわん。
     足音に木板が反響して、心臓の音と共鳴する。

     西谷。西谷。西谷。

     上下階に通じるらせん階段へ出た瞬間、
    「旭さん」
     あっと思ったときにはもう、身体ごとぶつかってきた。
    「旭さんっ」
    「ぐっ」
    「旭さん、旭さん、旭さん」
     ぎゅう、ぅ、と両腕をつかむ手が痛い。
     痛い。なのに嫌じゃない。
     西谷だ。
     この遠慮のなさが、西谷だ。
     コレに合わせられるのは、俺だけだ。
    「に、し、・・・のや」
     腰が砕けた。
     へたり込むまま、西谷も膝をつく。
    「旭さん」
    「西谷」
     そっと、両腕に手を添えた。
     何年会ってなかったかわからないのに、出会った瞬間にはもう別れた直後に時間が戻ったようで。
     言いたいことがいっぱいあるのに、頭が真っ白でなにも出てこない。
    「・・・西谷」
     胸の中で顔をうずめる西谷の額に手をかざし、金色の前髪を上にやった。
    「おかえり」
     どうしても言いたかった、西谷への労い。
     やっと口にした。
    「・・・ただいまっす」
     小首をかしげてにへ、と破顔する西谷が、この上なくまぶしかった。
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