When life gives you lemons, make lemonade.「ヴォックスのばか!ヒトデナシ!」
「如何にも。私は鬼だよ…ルカ」
昼下りの午後、青と白の陽光で満ちたダイニングにルカの批難の声が響く。
とんとんとん。自室から階段を降りながらシュウは苦笑した。
ダイニングを覗くと、ヴォックスは眉を下げて困った顔をしながら、手馴れた動作でホールケーキをカットして、皿に取り分けて。
ひと切れになった白いクリームの表面を掌で撫でる様に動かすと、甘く僅かに苦味を帯びた芳ばしい香りが拡がり、薔薇のような模様が現れた。
本日のケーキはメレンゲ仕立てらしい。
鬼火をバーナー代わりにしてるのはどうかと思うけど。
同じ動作を4度繰り返して、ミントの葉とライムの輪切りがたっぷり入った大きなデカンタと共にテーブルにサーブしてゆく。
「ルカ、グラス出すの手伝ってよ」
「シュウ〜」
別にヴォックスへの助け舟じゃ無いけれど、ルカの意識を逸らしながら自分もカトラリーを取り出してテーブルに並べる。
細い柄の部分には七宝でそれぞれのカラーが施されていて、丸くツルリとしたエナメルが手に馴染む。
この家に集まった時、ヴォックスが一揃え特注で設えたものだ。ケーキフォークのカトラリーボックスにオレンジ色が残される。
「わぁ!レモン・メレンゲ・パイだね。夏の風物詩って感じ。あ、ヴォックス、モヒートドリンクなら、炭酸で割りたいな」
「OKアイク。ペリエなら冷えてるよ」
残りのピースを硝子のケーキドームに移して冷蔵庫の棚に置き、ドアポケットからグリーンの瓶を指に掛けて取り出して、たん。とテーブルに置く。
ルカはぷぅと頬を膨らませたまま、丈のあるストレートグラスを3つ片手に納めて、ピッチャーから器用に柑橘とメントールの溶けあったドリンクを注いだ。
「だって、ヴォックスは『Luxiemはずっと5人だ。』って言ったジャン!」
「もー。それは何度も話し合ったでしょ。ヴォックスを責めてもしょうがないよルカ」
「ルカはミスタが見つけた次のステップを応援してあげられないの?」
「してる!してるけど。シェアハウスを出て行かなくてもいいじゃないか!」
「私達は5人でこの世に顕現したんだ。その事実は変わらないよ。ミスタ自身が線引きとして選んだんだ。祝福し尊重するべきだろう」
そう。僕等の愛すべき同僚、ミスタ・リアスは退職し、近々この家を出て行く。
新しい環境の手配や残務整理のアレコレで、今日も彼は朝から出掛けているのだ。
ミスタの居ない時に、行き場の無い寂しさを主にヴォックスにぶつけるのが最近のルカのルーティンになってしまっている。
『このメンバーは家族で、Luxiemは家だ!』
この言葉を切欠に、じゃぁ、拠点を用意しなくっちゃね!なんてノリと勢いで集まって作り上げた秘密基地。
いつかは無くなってしまうと解った気になって、享受していた5人の日常が破られた事に向き合うと、意外と傷は大きくて。
「社宅じゃないのに」
「ルカ、メレンゲがダレ無いうちに食べてくれ」
小さな子を諭す様なヴォックスの口調に、しぶしぶシュウから渡されたフォークを握り、ルカは本日のおやつに取り掛かった。
角を焦がしたメレンゲにぷしゅ。とフォークを突き立てて、底のクラスト生地迄一気に割り裂く。
削り取ったケーキの断面は、少し透明感のある白と黄色の断面が蛍石の原石のようにツヤツヤと光る。
光に透かそうとして持ち上げて、とろんと崩れそうになったのを慌てて口に入れた。
モフッと死ぬほど甘い泡が青苦さを含んだレモンの酸味と舌の上でミキシングされて、ギュッと顔の中央にチカラが集まる。クリームの頼り無い触感をかりぱりしっとり小麦のクラストが支えていて、咀嚼するうちに口内が落ち着いた。
「酸っぱ!コレ、絶対ミスタ食べられないよ」
「おや。味見はしたつもりだったのだけどね。蜂蜜でもかける?」
「いらない。ヴォックスなんてミスタに怒られればいいよ」
「あらら。まだご機嫌ナナメだ。ルカらしくなーい」
「んはは。甘えただねぇ」
戸棚から取り出した、夏の花から採取した百花蜜は透明な金色の影をテーブルに落とす。
瓶の厚みの分、トーンが下がって琥珀色になったその色は、ヴォックスの瞳の様に穏やかだ。
そう。誰かの卒業に対して、彼の態度は一貫して、言祝ぎ、送り出す姿勢を崩さない。
「まぁ、でもルカがヴォックスに当たるのもわかる気はする。一番寂しがると思ってたもん」
炭酸水にほんの少し味が付いたかな?位のグラスを手の中で弄りながらアイクが首を傾げてヴォックスを見る。
やわらかな新緑の瞳に、知的好奇心を満たしたいという欲が淡く滲んでいる。
「アイクまでそんな事を言うのか?泣いてしまいそうだ」
ヴォックスはすらりと長い指先で涙を払う仕種をしてから、いつも通りの笑顔で答えを紡ぐ。
「ミスタは生きているのだから、心配する事は無いだろう?あぁ、連絡して貰えなくなる程嫌われてしまったら悲しいけれど」
からからと咲いながら楽しそうに指を折る。
「少しばかりスケジュールの調整が面倒だが、世界中何処へでも行けるじゃ無いか。地方都市ならヘリやセスナをチャーターしよう。便利な世の中になった」
ワクワクする様な提案がつらつらと列べられているのに、重く濃いワインを揺すった様に下腹から黒い澱がザワザワと舞い上がる。
立ち上がろうとして、がたりと鳴らした椅子は、ふ。と笑みを濃くしたヴォックスの眼に制される。
「ヴォッ…」
「後4〜50年は壮健だろう?あぁ、サナトリウムにだって訪問して」
「ヴォックス!」
「ちゃんと皆を看取るよ。毎年墓前へ恥ずかしくなる位の花を捧げて」
「タダイマ〜。何?今日レモンパイなの!ラッキー!」
安心と空元気の混じった声と、熱を孕んだ空気がリビングに飛び込んで、凍りはじめた時間を溶かした。
「? どうしたン?」
「ミスタ、シンクで良いから手を洗って。すぐサーブするから」
くるりと身を翻したヴォックスの表情は見えなかった。僕は、カトラリーボックスからオレンジ色のケーキフォークを取り出してミスタの席にセットする。
「やべー。メレンゲ焼き立て?weep
してないじゃん」
「ふふん。手間を惜しまなければ相応のモノになる」
「Lemonだけに?」
「あぁ。Lemonだけに」
クスクスと自虐ネタで笑う二人はいつもと同じ表情。
「オレ、Lemonの意味解かんない」
「アメリカやカナダでは良く使うスラングですね。…困難とか欠陥品とか」
「法律あったよね。欠陥車に関する州法だっけ?」
「イギリス人の生活にはLemonは欠かせないからな。上手く付き合うのさ」
「マジでパセリ」
「Fuck!ミスタお前な」
ヴォックスはグシャグシャと乱暴にミスタの頭を乱すと自室へ戻って行った。
それを見送ったルカとミスタが片付けを賭けてジャンケンを始めている。
アイクはボトルをラックに放り込むと、冷蔵庫からエナドリを出してソファに向かった。
僕は予定表を映したタブレットに目を落とすフリをして、先程少し触れてしまったヴォックスの畢生を脳裏に過らせる。
『生きているならそれで良い』と彼は言ったのだ。
嘗て、自分の群れから離れる者を厭い屠った人外が。
人は、声から忘れるのだろう?
彼は、最期まで忘れないのが声だと言った。視覚・触覚・味覚・嗅覚。鬼がその他の感覚を失う順番なんてどうだか知らないけれど。
段々とそれらの輪郭が曖昧になってゆく恐怖を彼は知っている。
だから、送り、祝う?
「ちょっとスパンが長過ぎるんですよね」
軽く頭を振って紅い椿の幻影を祓う。長く密度の高い睫毛の奥で、ゆらゆらと桔梗色の瞳が一瞬迷い、すぅ。と落ち着いた。
「優先順位は間違えない様にしないと」
つぃ。とタブレットの表面をなぞると、パチパチと紫電が走り、ミスタへと伸びる糸の様な靄が断ち切れた。
「ミスタ、オレの紹介した人どうだった?」
「あ~、マジ助かったわ。国を跨ると手続きタイヘンな」
「役に立ったなら良かったよ!」
POG!とルカは嬉しそうに鳴いて、グラスに残る水分をクロスで拭き取った。二人は仲良く並んで作業を分担する事に落ち着いた様だ。ミスタが手渡す、濯いだ筈の皿には時々虹色の小さな泡が水分と共に溢れるが、受け取る側もさほど気にしていない。
飲まなければ害にならない位の認識なのでしょうがない。気にするのは水の豊かな極東の国出身者位であろうが、此処には居ないので。
「ミスタ、音楽機材の必要クオリティを纏めておいたよ。本格的にやるなら初期投資はきちんとしておいた方が後で買い換えなくて済むよ。メーカーは好みで選びなよ」
「うぉ!めっちゃ参考になるわ。サンキューアイク」
この音が拾えるのと拾えないのじゃ全然違うから。後ね、…
早口で語るアイクに笑いながらミスタは相槌を打つ。
明日も明後日も変らない様な、変わる生活の為の会話と光景。
ヴォックスは同調と共感を持って自己肯定感の底上げを。
ルカは紹介による生活基盤の安定を。
アイクは目標設定の具体化を。
僕は、ニュートラルなシュウを。
僕等は怒っている。
そりゃあ、観客に近しいこの商売だから、多少なりとも線引きの危ういヒトからの攻撃を受けるのは想定内だ。
だけれど。
ミスタへのアレは、彼の優しさに漬け込んだ搾取だ。ペルソナ?シャドウ?知った事じゃ無いですね。
そんなつまらないものでミスタを疲弊させないで。
そして僕等は恐怖した。
彼は、諦める事を知っているから。
ソレは誰かの為に。
不毛な遣り取りを見せたくないと、同僚を巻き込みたくないと、家族を護りたいと。
きっと、彼はとても上手に消えてしまう。
だから、僕等が隠す事にした。
舞台から降りる手助けを。ミスタの重荷にならない様に、されど確実に切れない縁を結ぶ。
Luxiemとの心因的関係の固定化をヴォックスが。
介在する第三者の選定をルカが。
創作意欲の継続をアイクが。
悪意の祓除をシュウが。
大多数のキミ達は、全く悪く無いのを知っているから、少し心苦しいのだけれど、僕等はミスタが大事なんですよ。
シュウは薄く整った唇の両端をつぃ。と上げて、素晴らしく晴れた抜ける様な高い青空を見上げ、小さく呟いた。
「ごめんね」
いつか、このLemonがLemonadeになるのを待っててくださいね。