華葬 突然に、言葉は花と散る。
「あ…?」
「ミスタ…?」
出掛ける予定の無い休日、少しクッションのヘタレたフェイクレザーのソファ、硝子のローテーブルに並ぶ違う飲み物の入った2つのマグカップ、身を寄せ合って体温を分かち合う生きる時間の違う二人のイキモノ。
その足元に。
薔薇様の芳香を纏った硬い靴で踏み躙じられた萼片と茎の苦い青味の中心に、雫型の5枚の花弁の小花が幾つか寄添った白い球体がひとつ。
「天竺葵Geranium…気に入らないな」
床に転がる花を横目に、己の吐瀉物を凝視したまま一時停止したミスタへ聴こえる様に、強く低くヴォックスは唸った。
「何で?オレは…」
脳内でぐるぐると巡るミスタの思考。いつか終わりの来るこの恋を致し方無いと飲み込んで、シアワセを享受すると決めたのに。今ここに或る『アイ』を怖がっていると悟られたく無かったのに。
「嘔吐中枢花被性疾患。『花吐き病』だったか…?」
ヴォックスは白い花球を見るとも無しに眺め、知識を反芻してから、未だ混乱状態のミスタから花への視線を遮るように引き寄せ、眉間、鼻筋、頬にバードキスを数回落として此方に帰って来るよう促した。
「ヴォックス、こ、れは、ちがくて…」
「ミスタ、この花の意味を知ってる?」
「え?知らな」
戸惑うミスタの言葉を遮って、ゆるりと長い指先が延びた。白い小さな手鞠を拾い、あぐりと口に放り込んで咀嚼する。しなやかな天鵞絨の薄い花弁と細い茎は強い蜜の香りと対称的に、僅かに苦味を残して胃の腑に落ちる。
花を運んだ指先は、形の良い顎に添えられ半眼に臥せられた切れ長の眼が思考に揺れた。
「WTF!?おまっ、感染っ!」
ヴォックスの一連の行動に一瞬呆気に取られていたミスタが、我に返って肩を掴むと、戯けた顔でべえ。と舌を出して空の口腔内を開示した。
「ハ。たった今私は壮大な片想いで在る事を自覚したからな。お前と共に罹患したいと思った訳だ」
「は…?」
緊張による血圧低下で冷えたミスタの米上から頬へ指を滑らせ、掌からの熱を移す様に包み込む。
不安定に揺れる孔雀蒼の瞳を覗き込んでから、そっと唇を合わせた。渇いた下唇のかさりと角張った薄皮を舌でなぞって、おずおずと開かれる歯列の間に侵攻する。濡れた粘膜を広くザラリと舐め、同じ温度になる迄口内を蹂躙してゆく。
舌先に伝わる歓喜のリズムを刻む鼓動の裏で、想い人は届かぬ未来に絶望していたと、知って。
「ぐ…っ」
ガサガサと喉を這い上がる不快感に顔を顰め、何方共無く唇を離す。朝露を点す蜘蛛の糸の様な細い繋がりが、名残を引いた。
ヴォックスの唇の空隙から、青藍に染まる前の夜空の色、薄青紫の蒼孔雀gentianがほろほろと落ちる。
驚き、苦しそうに歪んだミスタの唇を割って、アドニスの血から生まれた美しい萼を持つ大輪の紅花翁草anemoneが、ごぼり。と這い出した。
「ヴォ…ックス。どうして、鬼なのに」
「恋に患う憐れな鬼だ。おかしくも無い。男所帯に華やかで良いじゃ無いか」
飾っておけば良い。とその金水晶の中、黒曜石の瞳孔を細めて鬼は笑った。
その日から、ヴォックスとミスタは花を吐き、吐いた花を水盆に活ける事を日常生活に加えた。マスクがファッションの一部と成った世情のお陰で多少の外出にも影響は無い。
白を基調としたダイニングにビタミンを添える様なオレンジとイエローが。飴色のアンティーク家具の背景となる落着いたモダングレーのダイニングの壁には淡い色調の大輪が。溢れる様に咲く。
スチールと黒い遮音樹脂の壁に囲まれた互いの仕事部屋にさえ、時に青、薄紅や梔子の小さな花弁が水と共に円筒の硝子瓶に納められ、ゆらゆらと揺れている。
配信終了後に灯りを落した部屋でpower indicationの仄暗いLEDに照らされた、無機質な棚に並び小さな気泡を手放して沈む様は、ホルマリン漬けの標本を連想させて少し胸にチクリと悼みを落とす。
衰弱しないよう、前にも増して食生活に気を配るヴォックスにミスタは呆れ、呑み込む思いを知らずに花に載せるミスタにヴォックスは相好を崩す。
花を吐く度に。
胡蝶草Schizanthus、花水木dogwood、九重葛Bougainvillea、胡蝶蘭Phalaenopsis、千日紅Globe amaranth、山茶花Sasanqua、時に向日葵tournesol。呼応する様に大仰に、想いを乘せた大輪を吐き出し、意味を知らぬと呵うヴォックス。
白粧花Four o'clock、待雪草snowdrop、虎百合Tigridia、姫桐草Streptocarpus、万寿菊marigold。秘めた想いを知らず小さな花に込めるミスタ。
ミスタが紫の花泊夫藍Crocusを吐いた日には、ヴォックスも黄色の同じ花を舌に乗せ、強引に一日中手を繋ぐ。別の日には檀香梅Linderaを吐いて深く口付けられる。
壊れたジュークボックスから流れる、掠れたoldiesでぎこち無く踊る、踊らされている糸繰り人形。
ヴォックスはとても機嫌が良い。
一日の終わりに、吐かれた花を活けると引換に、前日の残滓はヴォックスが何処かへ処分する。
吐き出されては腐ちてゆく速度さえ、二つのイキモノの差は詳らかだ。鬼の愛は重く永く咲き誇る。
「なんで、平気なの?」
「何の事だ?」
まだ、枯れてないの、に。と喉の奥に留めた科白にヴォックスは、あぁ。と呼応して笑った。
「私が思うに華コレは思念の残滓だ。凡百の言葉を並べるのと同じ。相手に届かなければ吐いた瞬間に不要になるモノだろう?……私の興味を惹くのはお前が落とした華だけだ」
処分するのには躊躇いなどないよ。なんて言うから、ミスタは黒種草Love in a mistを吐いた。
■
ミスタはその日、朝から調子が悪かったのだ。ディスられても巧く返せず、笑いが取れない。ダセェ。ゴメンな。と、配信を終え、シャワールームに飛び込んだ。
バスタブに座り込んで、ミストの様な肌当たりの水流に身を任せ放心する。
気密性の高いプラスティックの室内は蒸気に満たされ、渇いた鼻腔と喉が潤おう感覚が水中で呼吸をしている様な錯覚を起こす。
産毛に乗った水滴を取込み流れた汗が、口の端から甘い塩味を舌に寄越す。
ぎゅっと目を閉じ、肺の底から息を吐いて、ザバリと絡み付く水牢から身を引き剥がし起きた。
乾いたケンケンと鳴る咳と、血痕の様に丸い花弁をほたほたと散らし、廊下を歩く。自室のドアノブに手を掛けようとして。
「鋸草Yarrowなんか吐いて。ミスタ、君は勇敢だ。しかし、一人で思い悩むのは私が寂しいな。少し位頼ってくれたって良いだろう?」
「ハハハッ。悪魔の囁きってきっとこの事だよネ」
後ろから頸動脈を甘噛みする様抱きすくめられて、背中にじんわり拡がる体温にミスタの意識は暗転する。
■
「ヤダよ!エロAMSRの後はいっつもタガ外れるじゃん!」
「それはkindredにどんな事をしたのかいじらしくお前が尋ねるからだろう?」
「その花吐くときはオレを丸め込もうとしてる時ジャン。そろそろ覚えたわ!」
「おや。賢い」
ベロリとヴォックスの口から現れた人の掌程の大きな純白の曼陀罗花daturaは、どろりと喉の奥深くに固まる様な重く甘い香りを放ち、頭痛を引き起こす。
大きな手で掴まれた腰はダルく快感を拾い、熱がじんわりと廻り始めて、香りに酩酊した大脳を奮い立たせて一握りの抵抗を試みる、お約束。
歪な日常生活の中で判明した、(ヤるヤらないは別として)ヴォックスと同衾した翌日に花を吐かない事実は、誰かと顔を合わせる時にと、一緒のベッドで眠る言訳となった。
温かい微睡みは身体を癒す。
「いやそれオカシイから。気付いて?!」
「…時々ヴォックスって、いきなり過保護になるじゃん?それだよソレ」
ディスプレイの小窓に映る菫色の瞳の兄弟が、大袈裟に天を仰いで額に手を宛てた。
ミスタはバツが悪そうにハハっと笑い、画面から視線を横に滑らせながら自分でも雑な内容だと思う言葉を返す。
もういい加減それは恋愛が成就しているだろうとか言われるかも知れないが、溺れる事に躊躇する意気地のないオレは、まだ銀の百合を吐かないことに安心しているのだ。
昔の映画監督が「長続きするたった一つの愛は片思い」なんて言っていた。正しくその通りだ。
「…それってヴォックスの匙加減過ぎデショ」
ディスコードの通話を切って、シュウは密やかに溜息を吐いた。古来より鬼と植物は密接な関係を持っている話も多い。椿は人の命の数だと示した話も。それをトレードマークにしている彼が花吐き病に罹患する事自体が疑わしい。唯、その胸中は決して誹りを受ける類のものでは無いのだろうけれど。だって、ミスタのあの穏やかな表情は。
其れでも、あの優しい不器用な兄弟にもう少し人としての安寧を望んでしまうのは我儘だろうか。
アルカイックスマイルを浮かべながら、ヒトに非ざるモノに苦言を呈す。
「だけどヴォックス。僕たちの鼓動は君のソレより何倍も速いよ。君が思ってるよりずっと、ね」
■
「化生の執着が一代限りだなんて優しい嘘を信じて居るのか?いや、それ以上は追うなと云う意味かな?」
其れは無理な話だ。画面のメッセージに穏やかにひとりごちたヴォックスは、ミスタの吐いた白い菟葵Eranthisの散るバスタブに身を沈めて目を閉じた。
■
安寧は容易く破られる。
あまりにも自然に、ヴォックスは自分に愛を強要しないから、甘やかな上辺だけを受け取って見ぬ振りをしていた。
声に乘せずとも適切に適量に与えられるぬくもりを手放せるヒト等居るものか。
「う、ぇ…が、は…っ」
シルクの滑らかさが喉を滑り、こぼれ落ちた微細な産毛が金属光沢を宿し白銀に輝く、六枚で盃を成す花被片の、鋭利なひとひら。
淡く燐光を発し白く霞んで視えるのは己の幻覚か。
全身が火照って冷たい汗が噴き出す。ザワザワと心臓の周りを小さな羽虫が飛び回る様な不快感。なんて、不完全な。不実な。出来損ないの感情。覚悟も放棄も出来ないままの。俺、の。
ガタガタと震える手足を持て余して、崩れ落ち痛みを感じる膝。極限まで開いた眼は焦点を失って尚、白い刃を映している。
書き殴られたボールペンの筆跡の様に、シュルシュルと黒く細い鋼線が徐々に感情を削り塗り潰して総てが混沌に支配されて征く。
「あぁ、ミスタ。なんて美しい」
ぽたり。
金冠に縁取られた紅いあかい、言葉が灯る。
「私が…貰っても良いだろうか?」
闇を壊るのは何時も更に濃い闇だ。
ウットリと、愛おしそうにそっと両手で包み込まれたカケラに、罪悪感と憎悪が募る。
「ソンなので良いなら、好きにすれば?」
「有難う。花の形に成るのが楽しみだ」
「それ以上、進展しないかもね」
「まぁ、気長に待つさ」
赦されて、いる。と憶えたココロは容易く溢れ。
暗闇から幾多に咲く華の中。
思い出した様に不完全な銀色の刃が吐き捨てられ混じる。
その都度、形を成さないソレを恭しく手中に納める鬼が。愛でられるソレが。憎いニクイ憎い。
「なんで怒らないの?」
ヴォックスお前、そんなに気が長い方じゃ無かったよな?
「……前にも問うた気がするが、ミスタは自分の吐いた花の事を調べた事はあるか?」
「無いけど。花の名前なんて知らないし」
「…私は心躍る毎日を過ごさせて貰って居るからね」
「物好きだ」
そうだね。と穏やかに口角を上げてヴォックスは微笑った。様に見えた。
伏せた眦の朱が、ヤケに視界に焼き付いて、緑の残像を結んだ。
■
「ゔぁぁぁあぁぁぁあ!!!」
検索結果の表示されたスマホを床に叩き付けそうになるのを既所で堪え、頭を抱え込んで転げ廻った。
流石に自分の病に関係なくとも、百合位は知っている。この、白く大きな品種は遠い極東の島国で品種改良されたのだと云う。隣國の有名な紋章は実はアヤメである。なんて思考逃避した。
だって、こんな。
前半は笑っていられたのだ。『威厳・純潔・無垢・純粋・純愛・純血・貞操・処女性・貴重・稀少・洗練された美・高貴な品性・自尊心』良くある美辞麗句に、俺達は1つも適合していない。薄汚く、懸命に、滑稽に泥臭く生きている。と。
なんだ。後半の、コレは。『貴方は偽れない・待ちきれない思い・愛の告白』吐く。ザラザラと水晶糖を羞恥の色に着色して。
慄える指先で、記憶の中の花の名称をタップする。小さな丸い毛玉花を付けた、四葉のクローバーは『約束・幸運・私のものになって』
ママがプランターに寄植えていた、夏にカラフルに窓を彩るペチュニアは『あなたと一緒なら心がやわらぐ』
ヴォックス、アイツの微笑み。犬歯を覗かせてバターの滴りそうなCrescent moon。全部、理解っていた笑い。
俺が呑み込んだ想いはカタチを為して全部、識られてしまっていて。
「shit!shit!shit!grin like a Cheshire catじゃねぇか!」
「ミスタ、花を」
「ぎゃう!」
続きのダイニングからひょっと半身を覗かせたヴォックスへ、見事なカートゥーンのお約束みたいに飛び上がる。
ミスタの突然の奇っ怪な動作に硬直したヴォックスが、ゆっくり肩を弛緩させてニンマリと猫の笑みを創った。
「ミスタ、知ったのか」
「不本意デスがぁ?」
ミスタのため息と共にこぼれた花は正四面体の展開図を思わせる、正三角形の虎百合。苦も無く慣れた所作で吐いたその花を掌に受けると、端正な男の顔に投げ付けた。
「虎百合はね、『HELP ME』と言う意味だけれど、ナニから助けて欲しいの?」
空気抵抗でフワリと己の掌に踊るように寄越された、淡い橙に縦方向へ黒い斑を散らした花の芯に唇を寄せながらヴォックスが問う。
「汲み取って?」
今迄して来たみたいに。開き直って微かな怯えと期待に揺れる指先を伸ばすと、緩やかに一回り大きな手が包み込む。当然の様にクルリと返し、手の甲に落とされる唇。
「だぁれがHandkussしろっつったの。答え合わせしてくれンでしょ?」
掌を立てる序でに指先で薄い唇を支える顎を掬う。為されるまま屈めていた上半身が緩やかに持ち上がって、柔らかく溶けた笑みで恭しく差し添えた手が引かれた。
「正解というものでは無いが。一方的なのはアンフェアだからね」
「いちいち回り諄いなぁ」
面倒そうに顔を歪ませてみるものの、純白大理石 の指先から 伝わる熱は、絡み付いた不安をゆるゆると解すには充分で。誘導される儘バックガーデンに歩を進め、納屋と呼ぶには小さ過ぎる物置小屋の前に至る。
鍵も無いその無垢材のドアに手を掛ければ、この國の住人には馴染みの、其処此処で咲き乱れる国花、フェネチルアルコールとゲラニオールの強い芳香。
『あなたを愛してます』『私はあなたにふさわしい』『愛の誓い』赤、白、ピンク?それ等全部を詰め込んだ?
「ベタじゃん。まぁ、ヴォックスらしいね」
「そう?」
「俺でも薔薇の花言葉位知ってる」
お披露目の為にぎっしり飾って有るんだろ?ハート模様なんかにしちゃってたり?軽い気持ちになって勢い良く押し入った空間は。
「知って居てくれて嬉しいよ」
そっと肩に置かれた手。首を擽る漆黒の髪。少し後ろから鼓膜を揺らす、吐息混じりの低い聲。
常夜灯の下に広がる紅い闇。
酸素を手放したヘモグロビンとぬらりと艷やかに光る脂が混じり滴る、血溜まりから湧き咲いた黒い薔薇。
「Louis XIV、Black Baccara、Oklahoma、Papa Meilland、kuroshinju、Cora…これ等の花言葉はね」
酩酊を誘う規則性と意外性が混ざり合う旋律が蝸牛を弾く。
胸の奥底から、ズルリ、ズルリと這い上がる白。
「決して滅びることのない愛」
クラクラと呼吸を抑制する程に神経を侵す薫りに痛みさえ忘れ。
喉を切り裂きながら白銀の刃が。
ガタガタと震えるミスタの体躯を腹に回した腕と胸で受け止め、縋るように巡らせた孔雀碧の瞳が映す赤葡萄の如き柘榴石の瞳の主。
唇をこじ開けて咲いた白銀の百合は切先に色温度の低い燈火を静かに灯す。ヴォックスは鉄の百合を指先でなぞり、そのまま頬に掌を滑らせ包み込むと、音も無く涙を落とす想い人に笑い掛け頬を寄せた。
「貴方はあくまで私のもの」