或視点の行方 はるは、もう数えの六つになる。
身体の弱い母様にはしばらく会えていないが、ちいとも寂しくなかった。ただたまに、寺子屋の先生に褒めてもらった手習いを見せられなかったり、母親に手をひかれて帰る学友を見たときには、ご飯の味がしなくなる。
でも、はるの傍には、宿を営む家に雇われた、にいややねえやがたくさんいるのだ。みな優しく、暇をみては、はるの相手をしてくれる。手伝いをすれば褒め、飴などをくれるときもあった。元気なはずなのに顔も見せなくなってきた、お祖父様や父様よりよほど近くにいてくれる。
たまに会うお祖父様や父様は「おさむらい」の凄さを口を酸っぱくして語る。でも、はるが物心ついたときから知っている「おさむらい」は、ひとつは酒を飲んで博打を打ち、何かあれば腰の物に手をかける乱暴者だ。女中のねえやに嫌な物言いをしたりするのも好きではない。
もうひとつは、テレビや街角でたまに見かける、これ見よがしに帯刀して威張りくさって歩くおじさん達だ。偉そうな言葉使いをしていて、目の前で誰かが失敗すると激しく怒ったり、くすくす笑って馬鹿にしている。もちろん、はるはその人達のことも好きじゃない。
今は、おさむらいのお客さんが長い間、大勢うちの宿に泊まっていて、夜遅くまで行灯をともしている。酒が入ることもあり、大変騒がしい。そんなときは、ねえやがはるをそっと部屋まで送って、寝つくまで見守ってくれる。
だけどはるは、ここのところ、たまに寝つけなかった。あまり起きていると、優しいねえやが心配するから、最近は目を閉じて息をしずかにして、寝たふりをする。そうすると、ねえやはほっとして襖をしめ、部屋に戻っていく。
そうしてから、目をぱちりと明けて、はるは漫然としない夜をどう過ごそうか考えるのだ。今日も、ごろり、ごろりと寝返りをうっても、目は冴えてしまってちっとも眠くなんかない。はるは、もそりと身体をおこすと、散歩にいくことにした。たとえ見つかっても、厠に行きたかったと言えばいい。
だれかが来そうな厨はさっとぬけて、御手水のある内庭までくると、蛙の鳴き声がした。
――げぇげぇ、がーっ、げぇげぇーっ。
やたらと大きい上に、ずいぶんおかしな鳴き声だ。しかもちっとも止まない。うしかしら、がまかしら、と、はるは好奇心のままに足を向けた。
すると、蛙ではなく、人がげぇげぇと吐いていた。影と声からして、若い男性のようだ。おそらく、客のおさむらいだろう。彼は手拭で口もとを拭き取ると、またげぇーっげぇっとやりだして、それからやっと落ち着いたのか、ずるずると座り込んだ。疲れきった顔で、はぁ、と荒い息をはいている。ひどく酔ってしまったのだろうか。かわいそうに、とはるは思った。
だから、こっそり厨の裏手まで忍び足でもどると、湯呑みを拝借してきた。中には井戸水の汲み置きをいれてある。
「だいじょうぶですか」
声をかけて、水の入った湯呑みを差し出す。おさむらいは、まんまるの目をぱちくりとまたたいた。優しげな細面で、帯刀もしていない。少し顔が青くて、酸っぱいにおいがした。青年は「ありがとね」と、水を受けとり、美味しそうに飲み干した。
変わったおさむらいの客だ。お酒のにおいがするのに、穏やかだし、お礼もちゃんと言える。
眠いのかしら。部屋に案内しようかと申し出ると、丁寧に断って、またお礼を言ってきた。ますます変わっている。
きみはしっかりしてるね、と感心するおさむらいに
「はるは、ここの子だから」
と、少しおすまし顔をした。
彼は、いいこだね、と笑った。それはちっともこちらを馬鹿にしたようではなく、爽やかな物言いで、やはりこのおさむらいは変わっているな、と、はるは思った。
青年はぽつぽつとはるのことや宿のこと、お父様やお祖父様のことを聞いてきて、はるはそれに素直に答えた。床についていて会えない母様の話をすると、彼は優しく問いかけた。
「……きみは、おっかさんがいなくて、さみしくはないのかい?」
はるは答える。
「母様は、いないわけじゃないもの」
今は会えないだけだ。だから、はるはまた会えるときまでいい子にしている。そうすれば、また頭を撫でてくれるに違いないのだ。そう言うと、おさむらいは少し遠くを見るような目をして、そっか、とつぶやいた。
しばらくして眠くなったはるは、おやすみなさい、と言ってその場を去った。優しげで変なおさむらいは、うん、じゃあね。と手を振ってくれた。
次の昼、はるは宿の中にあのおさむらいがいないかと目を配ってみたが、いなかった。だが、驚きも悲しみもなかった。なんとなく、そんな気がしていたのだ。
その次の夜更けのことだった。
わあわあと叫ぶ声で目が覚めた。悲鳴、金属がぶつかる音と、重いものが倒れる音、壊れる音。嵐が家のなかで暴れまわっているようだ。
何もわからないが、なにか恐ろしいことが起きている。はるは布団から這い出て、そろりと外に顔を出した。客たちの泊まる座敷から、一番激しい音がする。座敷ははるの休む場所からは少し離れているのだけど、ひどく妙なにおいがただよっていて、別の方向から足音がだんだん近づいているのがわかる。
はるの小さい心の臓が、どんどん鼓動を早めていく。のどに何かがせりあがってきて、息がうまく出来なくなってきた。母様、ねえや、にいや、父様、お祖父様。助けての言葉も悲鳴すらも、頭の中で止まってしまって出てこない。
ふいに、近づく足音のほうからバタバタッと激しい音と、ギャアというつぶれた悲鳴。どさっと砂袋のような重いものが倒れる音がした。
ひ、と、はるの口から空気がもれる。廊下の角から、数人の黒服が出てきた。全員が抜刀している。頭のはげたいかつい男が、自分の耳に手をやって大声を出した。
「娘を発見! 確保後、下がらせます。どーぞ!」
その場の誰でもない掠れたような声が聞こえる。
「了解。十番隊はそのまま一番隊と連携! ネズミどもを逃すな。どーぞ!」
「了解!」
はげた男に顎でさされた一人が、はるの固まった身体を抱き上げる。目を閉じることもできないまま、はるは男の肩の上から、馴染んだ宿のなかを見た。あちこちに人が倒れ、赤黒いものが飛び散っている。はるは抱えられたまま、その上を飛び越えていく。まるで、夢のようだと思った。この手の震えも、のどの乾きも、言うことを聞かない足も――あのときのようだ、とぼんやり思う。
外に出ると、暗がりから着の身着のままのねえやが飛び出してきた。泣きながらはるの名前を呼び、渡された小さな身体を痛いほどに抱きしめたあとに、はるの感覚がない手足をさする。ほんに良かった。おそろしい。どこも大事ないか。青い顔で同じ言葉を繰り返す。ねえやが腕をゆるめ、やっとのことで自分の足で地面に立ったはるは、思うままに問うた。
「母様は?」
ねえやがはっとした顔になり、言葉を失う。その後ろには、煙草をくわえた目付きの悪い黒服が控えていた。
「母親? まだ誰かいるのか」
「いえ」
いぶかしげな男の言葉にねえやはくちごもり、はると男を交互に見る。
はるは、きゅ、と口を結んだ。
――母様。身体の弱い母様は、きっと床から出られないのだ。
あのおそろしい場所に今もいるに違いない。だって母様は、あのときから動けないのだから。
はるは居ても立っても居られず、その場を飛び出してかけていった。後ろからねえやの悲鳴と、慌てる男の声が聞こえる。
はるはふたたび宿の中に飛び込むと、内庭から自分たちの住まいのほうへと急いだ。途中、なにかしら柔らかいものを踏んでころんでしまったが、早く母様のもとに行きたい一心で起き上がり走った。
母様の部屋はここの角を曲がって奥で、今はお祖父様と父様しか入れない。でも、はるはまた入って、母様に撫でてもらうことができるはずなのだ。あのときもそうしてくれたのだから。
もう少しで襖に手がかかる。
「ダメだよ」
小さな手に、そっと誰かの手が乗った。
「……ダメだよ」
やさしげな、変なおさむらいだった。彼はささくれのある手で、はるの指を握った。
「そっちに、行っちゃダメだ」
とても優しい声だ。覗き込んでくる顔を見るとへらりと笑っているのに、泣いてるようにはるには思えた。彼の手に引かれるまま、自分の手を襖から引っ込めた。
「ザキィ! テメッ何を勝手にひとり突っ走ってやがる!」
ずいぶん若い、でも荒々しい声が飛び込んできた。
「ひっ、すんません沖田隊長! この子がさっき連絡あった、最後の民間人です!」
――本当はわかっていた。母様はもういないのだ。
――だって、床の母様が最期に撫でたのは、はるの頭だった。
変なおさむらいに顔を隠すように抱えられて、はるは外に出た。おさむらいは、はるを降ろすなり煙草をくわえた男に怒鳴られぽかりと殴られ、涙目になっていた。でも、はるから見たら、もう泣いてはいなかった。
◇◇◇
「亡くなった奥さんの部屋に匿った浮気相手が攘夷浪士どもとその軍資金とはねェ。なんともやりきれない話で。こいつァ奥さんも浮かばれませんぜ」
「その煎餅もお客用がアンタのおやつにされちゃあ、だいぶ浮かばれませんよ」
ぼりぼりと勝手に頂戴した煎餅をかじり、口先だけで嘆く沖田に、机で報告書を記す山崎は淡々と毒をはいた。その後に、もう二度と局長提案のゲーロス信号とかいう悪ふざけの極みでつなぎはとりたくないな、とぼくは思いました、とぼやく。言ったそのまま書くのか。また土方のヤローにどやされんぞ。沖田は呆れを含ませた目で観察する。
先日の宿に集う攘夷浪士たちは、すべて始末できた。これも変装しての潜入を行い証拠を集め、見取り図のみならず隠し口まで暴き、奴らの隙をついて裏口から真選組を手引きした真選組監察山崎退の大手柄だ。だのに、纏う空気は荒く刺々しい。
「……随分荒れてやしませんかィ」
ぽつり、と沖田がつぶやく。
「病んだガキだまくらかして、情報集めたのが堪えたかよ」
「まさか」
こんなの日常茶飯事でしょう、と報告書に筆を走らせる顔は涼しいものだ。つまらねェ。沖田はことさら音を立てて煎餅を齧ると、ふて寝をはじめた。
「ちょっと沖田隊長。ここでサボらんでください」
俺が副長にどやされる、と言いつつも、口だけで追い出す様子はない。しばしのしじまのあと、山崎がぽつり、とこぼした。
「……あの子のもん、全部とっちまいましたからねえ」
はる、という少女の祖父と父はその場で斬り捨てられた。宿は取り潰しにあい、今ごろ更地になっているだろう。あの子が母がいると信じていた部屋も、もうない。
沖田が、仕方ねェだろ、そういう稼業やってんだ。今さらかわいこぶっても遅ェだろ、って山崎に言ってやるのは簡単だ。でも、たまに、ほんのたまにかわいこぶりたくなるのは自分にも覚えがないこともない。だから黙って、ここで昼寝をキメてやることにした。寝てるやつに独り言しようが、それはザキがただのさみしいやつってだけだ。
「おーい山崎」
声と同時に襖を開けて、禿げ頭の巨漢が入ってきた。
「何だよ原田まで。ここはサボり部屋じゃねーぞ」
っつーか、こいつら監察の仕事わかってないのか。うるさそうに顔をあげた山崎がぶつぶつと不平をこぼす。原田は苦い顔で、山崎に紙の束をつきつけた。
「俺はすぐ出ていくよ。テメェにコレだ」
「へい、ありがとありがとー」
舌打ちしそうな顔の山崎が、紙たちを受け取りながら棒読みで礼を言う。沖田は、解せぬという顔で出ていく原田をアイマスクの下側から見送った。
しばしかさかさと紙をめくる音がして、そこから急に山崎が静かになった。どうしたのかと見ると、ぷるぷると肩を震わせている。なんだチワワでも乗り移ったのか。それともマヨネーズバカにくだらないマヨネーズ指令を出され、怒りのデスロードザキに進化しそうなのか。
沖田はそっと身体を起こして膝立ちになり、山崎の肩向こうを覗く。
「……なんでィ」
思わず気の抜けた声を出したら、なっさけねぇ顔でいい年の男が振り向いた。
「こりゃ、ガキにしてやられたなァ。ザキ」
半紙には堂々たる、寺子屋で花丸がもらえそうな字が書いてあった。
――おさむらいさん、ありがとう