或難事の陰日向 うららかな日が、仕事場の与兵衛の膝下に明かり溜りを作っていた。与兵衛は飾り職人である。今のお江戸では、天人のもたらした技術で自動化のすすんだ工場が立ち並んでいた。可憐な細工物であったり、絵付けは今や量産され、民衆に広まっている。
しかし、与兵衛のような昔ながらの手仕事も、常連客がつけばそこそこに暮らしていける。少なくとも、妻と赤ん坊を養うのには十分だ。
与兵衛が小さなトンカチをふるうたび、魔法のように土台に乗せた銅板に絵が描かれる。ひとつ工程を終え、静かに息をついた。すっと戸を開けて、妻のおふくが顔をのぞかせた。
「あなた」
少し冷ました茶を手に、廊下から声をかける。与兵衛が頷いた。
「坊は」
「寝ましたよ」
「そうか」
「あなたのノミの音が好きで、ぐっすり」
親子ですね、とおふくが笑うと、与兵衛は頬を歪める。職人らしく、寡黙で一本気、笑い方の不器用な男だ。明るくおしゃべりのおふくは、見合いの席では与兵衛のぶっきらぼうさに閉口し、これはたまらないと思った。しかし、付き合ってみれば優しく一途な彼の真心に惹かれ、結婚した。可愛い息子にも恵まれ、おふくは幸せであった。
夫婦の穏やかな午後のひとときは、玄関の呼び鈴で中断された。おふくがはい、と立ち上がる間に、扉が乱暴に開けられる。
「御用改めである!」
男の声が響く。おふくの足が止まった。代わりに数人の靴音が家の中に立ち入る。仕事場の戸がバタン、と音を立てた。揃いの黒服の襟裾に金モールをあしらい、帯刀した男が二人、並んでこちらをねめつけている。一人の男が、なにやらの書かれた紙をこちらに広げた。
「飾り職人、与兵衛。重要参考人として同行してもらう」
立ちすくんでいたおふくの横で、与兵衛がゆっくりと立ち上がった。おふくは目だけをかろうじて動かし、その様子を見ていた。与兵衛が頷き、両手のひらを上にして男たちに腕を差し出している。それを確認した地味な風体の男が、縄を取り出した。
「待ってください」
おふくが喉を震わせる。
「何かの、何かの間違いです。うちの人が」
よろめきながら足を出すと、縄で手首を戒められながら与兵衛が振り返った。
「大丈夫だ」
陽だまりのようなほほえみだった。おふくは自分の足から力が抜けていくのを感じた。
座り込んだおふくが気づくと、まるで、夫も男たちも夢だったかのように消えている。隣の部屋から、赤ん坊の泣く声が聞こえる。ああ、坊やだ。起きてしまったの。今、そちらに行くからね。ふらりと立ち上がり、おふくは幽鬼のようななりで部屋を出た。残された銅板の描きかけの絵が、夕日に照らされている。
◇◇◇
真選組屯所にて、タバコを咥えた目つきの鋭い男がひとり、縁側にあぐらをかいていた。隣の灰皿はとうに収容量を超えて、灰が板にこぼれている。
真選組副長、土方十四郎はちらりと自分のいる所より離れた別棟のほうに目を向けた。そこは重要参考人の詮議を行う場だ。ものによっては、それは拷問をも意味する。攘夷浪士への対抗として結成された、武装警察真選組の公然の秘密である。
先日、重要参考人としてひったてた飾り職人。名を与兵衛。祖父の代からの職人で、その腕は取引先の商人からも評判が良い。妻と子ひとり。江戸の町中に居と仕事場を構え、ほそぼそと暮らす一般人――というのが、表向きの話。裏をとった情報によれば、彼は凄腕の錠前破りにして偽鍵職人である。その仕事の早さ、確実さは並のものではなく、裏の世界で重宝されていた。そして先日、とある過激派攘夷浪士の組織が与兵衛と接触していると情報が入った。
罪科こそまだ立証できないものの、放っておくわけにはいかず強制的に踏み入り、連行した。与兵衛はおとなしく協力的であったという。だが、屯所にて牢につないでからというもの、連日の取り調べにはだんまりを貫いている。
「まァだ例の奴さんはゲロりませんかィ」
煙草の本数を増やす土方の隣に、アイマスクを額につけた沖田が歩いてきた。
「ずいぶんと甘ェんじゃねェですか。拷問でもなんでもやって、とっととゲロらせたほうが奴さんもこっちも手早く楽に済みまさァ。鬼の副長ともあろうお方が、甘党に鞍替えですかィ。糖尿になって死ね土方」
「この案件、そう単純にはいかねえんだよ死ね総悟」
鋭い目を沖田に向け、土方は吸い差しを陶器の灰皿のふちに押し付ける。
「今朝方の会議でも、最近、真選組の規模を縮小する意見が松平のとっつぁんの元にあげられたと言ったろう」
「そうでしたかィ? 俺は土方さんの命の規模を縮小する案を模索してたら夢路に旅立ってやした」
「寝てんじゃねーよ! っつーか、会議中に何を模索してんだテメーは!!」
ったく、とぼやくと、土方は新しい一本に火をつける。深く吸い、一度紫煙を吐き出した。
「つまり、だ。今、罪科のない重要参考人相手に強引な取り調べをするのも、俺たちを気に入らない連中にとっては格好の材料ってわけだ」
「……ちっ、気に入らねェな」
沖田は舌打ちをすると、平坦な声で続ける。
「それに、手遅れじゃねえですかィ。ほら今日も」
視線をやる先は、屯所の表門だ。そこから、女の叫び声が聞こえる。
「――お願いいたします! 夫に、夫に会わせてください! せめてこの子の顔だけでも!」
今度は土方が苦々しく舌打ちをする番だった。
門前では、赤ん坊を抱えたおふくが門番に頭を下げ続けている。明くる日に連行理由は説明してもらったものの、おふくには理解ができなかった。愛する夫に会い、その口から聞くまで納得できる気がしない。毎日屯所前で懇願し、門番に止められていた。
「毎日のアレは、町ではとっくに噂になってますぜ。さっさと吐かせねェと、それこそ上から釈放のお達しがあるかもしれねェ」
土方はフィルターをギリギリと噛む。そんなことは重々承知だ。
だが、評判を気にした上の判断で釈放となれば、再度の連行は格段に難しくなる。最悪の場合、与兵衛が逃亡する、もしくは攘夷浪士の尻尾切りで殺害される恐れもある。
今の状態ならば攘夷浪士はうかつに動くこともできず、与兵衛を巻き込む予定だった計画をどうするか、逃げるタイミングをどうするかの判断期間がある。なんとか与兵衛に攘夷浪士の情報を吐かせ、そこをつき大量捕縛に持ち込みたいのだ。
「――とにかく、この件に関しては他のやつに任せてある」
「そうですかィ」
フィルターがつぶれた吸い殻が灰皿に追加された。間をおかず、土方は新しい一本に手を伸ばす。
「上手くいくといいですがねェ」
「……いかなきゃ切腹だバカヤロー」
呑気な沖田の声に、土方は長く煙を吐くと、苛つきをおさえきれない声でぼやく。沖田はぽんっと土方の肩に手をおき、優しく告げた。
「まァ、土方さんの介錯は俺に任せてくださいよ」
「俺じゃねーよ!!」
◇◇◇
「――っくしゅ。あ、すいません」
パイプ椅子の背を前にし、よりかかって座る山崎は、頭をかきながら牢の中の人物に謝った。あぐらをかいて背を曲げた与兵衛の顔は、見えない。彼は、山崎がここに連行してからというもの、一度も口を開かなかった。だが、山崎はそれを気にしてないかのように今日も一方的に話しかける。
「慣れました? あ、でも牢に慣れるのもおかしいか」
あはは、と一人で笑う山崎に、与兵衛は身じろぎひとつしない。
「……まだ、話す気にはなれませんか」
鎮めた声で語りかける。
「アンタが高名な錠前破りと偽鍵職人というのは裏が取れている。話では、鍵の実物を見ずして作ることすらできるとか。それは天人の技術があっても通じるものがあるという」
淡々と事実を告げる声が与兵衛に降り積もった。
「何を頼まれた?」
与兵衛は動かない。
「アンタが関わった攘夷浪士、コイツは何人もやっている危険人物だ。こちらとしても、このままでは多少強引に動かざるを得なくてね」
一定のトーンで語られる内容は、先日の繰り返しに近い。拷問こそないが、山崎による詮議の手は一向に緩まない。きっかり一刻、彼は毎日与兵衛の牢に顔を出して、尋問をする。声こそ落ち着いており、恫喝もない。しかし、声も表情も冷酷で何の感情もうつしていない。ただ、与兵衛をゆさぶり、真実を聞き出すことのみを目的に口を動かしている。やがて時間がきたのだろう。山崎はパイプ椅子を手に立ち上がる。別れる際の言葉はない。与兵衛は彼の背を見送るときにだけ、少し顔を上げた。その唇はかたく結ばれている。
◇◇◇
腕の中の息子がぐずりだしたおふくは、門前から立ち去った。疲れた足を引きずって、誰も待っていない家に帰る。そんなことを毎日繰り返していた。幸せにふくらんでいた頬はこけ、着物にもシワがよっている。赤ん坊を揺らしてあやす声は枯れていた。
息子の機嫌はなおらず、おふくの腕の中で今にも泣きそうな顔をする。小走りでおふくは通りの端に寄り、懐からおもちゃをとりだした。組み紐の先に金属を伸ばした紐が丸く複雑に絡み合い格子となり、中央で球が揺れている。この飾りは、与兵衛が最近作ったものだった。仕事場を片付けていたら見つけたそれを息子は気に入り、目の前で揺らすと機嫌が良い。
おふくは無理やりほほえみを作ると、細い声で歌いながらおもちゃを揺らした。んっと泣き声を飲み込んだ息子が小さな手を伸ばしたので、持たせてやった。ぷくぷくとした手で、紐を力強く握った息子が笑うと、おふくは嬉しさと同時にどうしようもない不安に襲われる。目に熱いものがせりあがり、しかし息子の前で泣くわけにはいかぬと母の矜持でこらえた。前を向き、歩みはじめようとしたとき、視界の端で何かが光った。
路地裏から、刃物を抱えた影がこちらに向かって突進してくる。気づいたおふくにできるのは、咄嗟に息子を抱いて背を向けることだけだった。
悲鳴があがる。
――おふくのものではない。
「あっぶねー!」
通りからの気の抜けた声と、路地裏からのうめき声におふくは挟まれていた。流血する腕をおさえた浪士が、反転して逃れようとする。
「おーっと、ここからは行かせない、ぜ!」
だが、禿頭の巨漢がどこからともなくぬうっと現れ、驚く男の顎に一撃を加えた。のびた男をそのまま担ぎ上げると、窮屈な路地裏から通りにのっそりと身体を出す。
「俺がこっちかよ」
「予想外だったんだよ。もうちょい先で起こすかと思った。乙は?」
「沖田隊長がヒマだからやらせろってさ」
「あー」
そりゃ、運がないな。気の抜けた声の地味な風貌が、着物の肩をすくめた。息子を抱え、ぽかんと口を開けたおふくを挟んだまま、男たちはひとことふたこと言葉をかわす。ふと、地味な風貌の男がこちらに微笑みかけた。
「――奥さん、大丈夫ですか?」
おふくは、ただ無言でこくこくと頷いた。
◇◇◇
今日も山崎がパイプ椅子を手に、与兵衛の前に現れる。時間の測れない牢での、一種の儀式のようであった。変わらず与兵衛はうつむいて、口をつぐんでいる。
「与兵衛さん」
チャリ、と金属の音がして、それが耳慣れたものに聞こえた与兵衛は顔を上げた。組紐の先で薄く伸ばした金属が絡み合い、中で球が揺れている飾りを、山崎は与兵衛に向けていた。与兵衛はカッと目を見開くと、素早い動きで格子をつかんだ。鋼鉄の檻を壊さんばかりの勢いを見せられても、山崎は動じなかった。
「……これが与兵衛の仕込み鍵。なるほど、一種のからくり細工ですね。これを手順通り組み立てれば、鍵となる」
「何故」
青ざめた顔の与兵衛は、かろうじてそれだけをつぶやいた。感心した顔で鍵をいじっていた山崎が、与兵衛を見てふっと笑う。
「アンタの奥さんも息子さんも、無事だよ。見張ってた奴らはふんじばったし、俺たちがこれからも保護しつづける」
こいつと一緒にね。鍵をゆらす山崎の前で、与兵衛は膝から崩れ落ちる。
「だから――大丈夫だ」
牢に、与兵衛の嗚咽が響いた。
真選組が大物攘夷党を次々と逮捕した。世間は一面ニュースで盛り上がる。
「なにせ、芋づる式に見つかっていくもんで」
牢が足りませんぜ。午後の日和に照らされた禿頭をなでながら、原田は隣の局長・近藤勲にぼやいた。
「なあに、他のあまってるところを借りりゃいいさ。あいつらをぶちこむほど、江戸がちょっとずつ安全になる」
腕を組んでガッハッハと陽気に笑う姿につられ、ハッハッハと原田も笑う。そこに、抜刀した土方が乗り込んできた。
「近藤さん! 総悟のヤローを見てねえか」
「見てないが……トシ、どうしたんだ」
抜刀していることには触れず、のんきに近藤が聞く。
「あんのヤロー、この前の捕物でまたバズーカぶっぱなした始末書がまだなんだよ!」
フィルターをねじ切れそうなほど噛む様子に、これは口を出さないほうが安全と原田は気配を消した。
「局長、副長! 原田隊長!」
そこにもうひとり、土方の小姓である佐々木鉄之助が小走りでやってくる。
「剣を抜いて鍛錬ッスか? お疲れ様ッス! 山崎さん見ませんでしたか!? お手紙が届いてるッス!」
見事に勘違いをしながら、直角にお辞儀をした。両手に先ほど届いたらしい文を大事に持っている。今日の手紙仕分け当番だったらしい。近藤が首を傾げた。
「ザキ? 原田、知ってるか?」
「いや、しばらく見てませんねぇ」
「この前の捕物にもいなかったしなぁ」
地味だからいても気づかないし。と、ぽろっとヤバいことを近藤は言い、土方に顔を向けた。
「トシ、ザキ知らないか?」
「山崎ぃ?」
刀をひとまず鞘におさめながら、土方はぶっきらぼうに答えた。
「知らねえな」
◇◇◇
山崎は安アパートの一室、体育座りでばりっとあんパンの袋を開けた。
「だいたいあんこって何であんこの味なんだよ。もっとラーメン味とかあってもいいと思う。でも張り込みの神様がね、俺にはあんパンと牛乳の加護だって言ってるからね。ラーメンが邪道って言われたらそこで試合終了だから、安西先生がダッシュで殴りに来たら困るじゃん? だから俺は今日もあんパンを食らう」
死んだ目でぶつぶつと呪文のようなものを唱えながら、まずそうにパンをかじって牛乳で押し込む。できればこれ以上長引かないでほしい。じゃないと自分が何するかわからない気がするのだ。
はたして神に願いは届いたらしい。薄く開けた窓から凝視していたターゲットの家に、笠を深くかぶり周りを気にしながら男が入ろうとしていた。音を立てず前のめりになると、周囲に目を配る。片手が懐の通信機にのびた。
「――山崎です」
さあ、真選組監察の時間だ。