「由比、お帰り」
「あぁ、…もう仕事はいいのか?」
「ええ、」
そんなやりとりをしながら目を合わせるのは、高そうな革靴が一足だけ土間に出ている玄関。照明を品良く反射する床に、それらしい光沢を保ったステアの靴で踏み入れば、背後ではオートロックの音がした。
「お疲れ様」
「ありがとう、朝晴も」
由比はくく、と口角が釣り上がるのを抑えながら朝晴を見た。
───玄関まで来るなんて。
自宅に帰ってきてからも家業に忙しい彼がこの時間をゆったりと使うことは珍しかった。コーヒーと書類片手にリビングで「おかえりなさい」「ただいま」と一言だけ交わす日の方が多いくらいだ。言葉が少なくとも嫌な感じはせず、気の置ける関係らしくてそれが好きだったりする。
そんな朝晴が玄関まで迎えに来て、そして仕事はもういいと言っている。よっぽど今日が……正しくは数時間後に迎える明日、5月5日が楽しみだったんじゃないだろうか。
俺は昔に比べたら遥かに、世界に誇れるほどに彼のことがわかるようになってしまった。学生時代、大人びて見えていた彼には案外可愛らしいところがある。イベント事や挑戦に意欲的で、何より友人との時間が好きらしかった彼は、今も例に漏れずワクワクしているのだと確信する。
荷を解きながら言葉を交わす。
「アリサの調子は?」
「連日の寒暖差に胃腸を弱らせたようでした。今日の時点で既に回復していると」
「そうか、良かったな」
「はい、本当に」
昨日、朝晴の愛犬の片割れであるアリサが体調を崩していた。気がかりだったが、朝晴の表情から大事には至らない様子が窺えて安心する。
「シャワーを浴びてくる」
「はい、いってらっしゃい」
にこり、と笑顔を見せた朝晴に胸が暖かくなるのを感じながらリビングを後にした。
脱いだ服をカゴに入れ、シャワーを浴びて、部屋着を着る。鏡の中の自分と目が合えば、少しにやけている気がしなくもない。自分もかなり…自覚以上に浮かれているのだろう。
明日は5月5日。朝晴と恋人となることを誓いあってから、もう何度も迎えてきた誕生日がまた巡ってきた。初々しい期待感や高揚感はなくなってしまっている。が、明日は数年ぶりに互いに休日なこともあり、例年よりはイベント感があるのかもしれない。
◆❖◇◇❖◆
この部屋は自分が社会人になった時、朝晴と2人で住むために借りた部屋だ。朝晴は多忙な中でもタスクを持ち歩き、週に3日はこちらの家で過ごしている。そんな半同棲を始めて、もう2年経とうとしていた。
身の回りを整えさっぱりした気分でリビングに足を踏み入れれば、既に夕食のいい香りがしていた。テーブルに取り皿を並べていた朝晴がゆったりと振り向き、目が合う。
「由比、こっちへ来て」
「ん、」
先にも述べたが、俺は朝晴のことなら大抵は分かるようになった。今、俺を呼んだ理由も。…これからどうなるかまでは流石に分からないけれど。その場で緩く腕を広げる朝晴の方へ歩を進め、彼の薄い右肩に顎を乗せるように首を傾ける。
そのままいつものように ぎゅ、と音がしそうなハグをした。
腰に回された腕の感触と温もりに安心したのも束の間、首筋に顔を埋められてしまうと風呂上がりにも関わらずべたりと汗をかいたような気分になった。
「ん…あつい」
「ふふ、」
彼と体を近づけると、いつも微かに甘い花のような香りがするのだ。抱擁が当たり前になった現在でも、毎回「いい香りだ」と思わされている。今も、いつものようにくらり、と甘い気分になった。
「明日は、お誕生日ですね」
「あぁ、」
ハグをしたまま会話を始める朝晴にあついぞと届かぬ視線を送る。が、すっかり体に馴染んでしまった彼の骨格に愛おしさを感じて、抵抗はできなかった。
「……由比くん」
「……………あ、」
耳朶に吐息がかかるような距離で発された言葉。
それは学生時代に何度も聞いた、敬称付きの彼からの呼び掛けだった。懐かしい響きに、顔に熱が集まっていく。
「由比くん、私は…今日がとても楽しみでした。」
「あ、……あさはる…」
いつからだったか気づけば互いに名前だけで呼び合うようになっていた。敬愛の気持ちが無くなった訳じゃなく、互いに愛を囁き、未来を誓い合う度に砕けた関係になっていったと思う。どんなに砕けてしまっても、視線を絡めれば、彼との信頼関係は変わらぬものであると確信できるから……。
「由比くん、大好きです。今年も、一緒にいられてよかった」
彼の甘い声を聞いているうち、当時を懐かしむような気持ちの他に、どこかソワソワと落ち着かない気分になってくる。
「由比くんは、どう感じていますか?」
「どうって…あ、…」
体が反るように抱き寄せられ、口をつぐむ。朝晴の柔らかい髪がさらりと揺れ、花のような香りがまた鼻腔をくすぐった。
「ねぇ?」
「あ、…朝晴…どの…」
「ふふふ」
懐かしい呼び方が口をついて出てしまい、しまった、とまた顔が熱くなる。彼はというと喉の奥でくすくすと笑って完全に楽しんでいる様子で…。本当に、彼はそういうところがある。
…しかし今の自分はそれを『仕方の無い人だ』と流すことは到底できない状態になっていた。
焦る思考の中で、学生時代の…付き合いたてのドギマギとしていた自分が思い出される。人を恋愛的に好きになることも知らなかった自分、彼への気持ちの答えを焦るように探した青春時代の自分。
ウブな頃を思い出した事による羞恥と、過去の自分に戻ったかのような朝晴への照れが押し寄せてくる。
そんな俺を知ってか知らずか…、いや、知っていながら……。彼はTシャツの裾から手を滑り込ませると細い指先で直に腹に触れてきた。
反射的に体がはねてしまう。それすらも、昔に戻ってしまったように。体を反らせれば、唇を盗まれそうになり思わず顔を背けた。
「あ、待って…待ってくれ、離して」
「どうして?由比くん…キス、したいです」
「…ど、…どうしてもだ…、一度…離せ」
「うふふ」
わざと直接的な言葉を選んでいる。なのに、わざとあの頃のように少し優しく抱きしめている。わざと、わざと…全部…
堪らずに ぐ、と体を押し返すと、案外簡単に抱擁は解かれた。
「ふふ、ご飯が冷めますから、また後にしましょう」
朝晴は随分あっさりとそう言うと、椅子を引いてくれる。促されて座れば、何事も無かったかのように料理をとりにキッチンへ向かっていった。あぁ、思わず座ってしまった。いつもなら配膳を手伝うが、今はそんな気力がない。
「……っ、心臓に悪い」
ぼそりと呟けば丁度グラスを持ってきた彼に聞かれてしまって。またくすくすと笑う朝晴の顔を見れば、先程まで思い浮かべていた高校生の頃よりも当然ながら男らしく…またドキリとしてしまう。
「由比くん、ごめんね、つい、からかってしまった」
不意に甘く柔らかい口調でそう言われてしまうと、別に怒っていたわけではないが全部許してしまいたくなる。実際悪い気はしないのだ。ただ、悔しいような、切ないような不思議な感情が心の中でふわふわとしている。
「さっきは私の気持ちばかり伝えてしまいましたね…あとで、由比くんの気持ちも…教えてください、
たくさん、…応えて欲しい」
そう呟いた朝晴の、色気のある眼差しに胸の奥がぎゅうと鳴った。
「……あぁ、」
精一杯の返事を絞り出すと、彼はニコリと笑ってくれた。それから さて、と仕切り直すようにいつもの調子で話し始める。
「今夜と明日の主役は由比くんですから…、何かしたいことは? なんでも、聞きますよ」
そんな事を問われても…
「意地悪だ…」
「うふふ」
そんな事を問われてももう自分の頭の中は朝晴でいっぱいで、誕生日らしいことはなにも浮かんでこなかった。一緒にいたい…そんな子供でも言えるような、素直な、愛に飢えた愛が溢れる。
互いに慣れ切ってしまって、しかしそれが心地よい幸せと思っていたのに。どこか焦りに似た、高揚感のあるこの感情は間違いなくあの時と同じ恋で。俺はまた、彼に何度目かの恋をしてしまったのだ。正確には甘く鈍った恋心を呼び覚まされてしまった。
俺はきっとこれから先も彼に愛され、何度も恋に落ちるのだ。そしてその度に、自覚以上に彼を求めている自分に気付かされるのだろう。
あと数時間で誕生日を迎える…、そんな由比の思考は甘く幸せな期待と確信で占められていた。