赤色行進曲覚えていることがあった。あまり記憶しておけない自分の頭に残っていること。暖かい手が自分の右手を握ってくれていたこと。青い空のような、ビー玉のような丸いもの。時折夢に見る、太陽の下で誰かと遊ぶ自分の姿。夕暮れの道を歩く自分と誰か。それが何なのか分からないまま、吸血鬼はシクシクと泣いていた。
輝く星空を眺めながら、吸血鬼は自分の指を吸う。こうしていると大声を出して泣きたい気持ちを少しばかり抑えていられた。指がふやけるまで吸っていると、おかあさんが怒ったので吸血鬼はいつも隠れて指を吸っていた。おとうさんは吸血鬼のことを愛しているからたくさん痛いことをする。そうして細切れになった身体がやっと元に戻ったから星を眺めている。吸血鬼のおかあさんと人間のおとうさんは深い森の奥に住んでいた。
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「それで吸血鬼の容態は……」
夜が明けてからヒヨシは吸血鬼対策課に駆け込んだ。昨日の事件、もとい騒動を鎮圧してみせたのは彼だ。危険度の高い吸血鬼が暴れていたとしても経緯や現場の状況、実弾使用の違法性が無かったかなどの事情は話さなければならない。それと弟の状況も早く知りたかった。
「落ち着いて退治人くん」
「事情を知りたいんじゃ」
吸血鬼の頭を吹っ飛ばして周りの民間人をかなり怯えさせた。霧にも塵にもならなかった吸血鬼を暴力で黙らせたのだ。普通の人間が見れば不安になる。まるで罪人になった気持ちで椅子に座るヒヨシの前で黒髪の男がペンを片手で回している。
「さっきからその事ばかりだ」
にっこりと笑った吸対の男は面白そうにヒヨシを見ている。興味がありますと顔面に書いてあるんじゃないかと思うほど。居心地が悪い。
吸対の職員は杓子定規な対応が多いものだ。これは退治人人生で理解している部分になる。しかし目の前の男は調書を書き始めるどころかヒヨシの焦った顔を見て楽しそうにしている。最悪な気分だった。猫が弱った獲物を嬲るのと同じだ。
「吸血鬼の状態が気になる?」
「……それは、そうじゃろ……俺が撃ったんじゃ。どうなったのか知る権利くらいある」
当たり障りのない言葉で誤魔化そうとした。いつもならスラスラと出てくる言葉も今は頭の中が真っ白になっていた。口の中が渇く。
「昨日運ばれていった彼、収容フロアの個人部屋に放り込まれてるみたいだ。いくつか検査を受けて、頭も心臓も元に戻ったと連絡があった」
「そ、そうか……」
安堵したことを悟らせないように言葉を返す。
「普通なら致命傷で死んでるはずだが、なんて言ってVRCの所長さんが大喜びしてたよ。ヨモツザカさんね」
センターの所長の名前が出てきた。研究しがいのある吸血鬼が運ばれてきて、さぞ楽しいだろう。新横浜は毒にも薬にもならないポンチ吸血鬼が多く出る。事務所で店番となっている死にやすい高等吸血鬼の顔が思い浮かんだ。
「それから昨日の対処にあたった職員の話を聞き集めたらレッド・バレットが彼を殺さないでくれと頼んだと聞いたんだ」
男が笑う。相手するには最悪の部類だとヒヨシはすぐさま判断した。パズルゲームの一部にされた心地で、男の言葉を聞き続けるしかない。思えば何故調書なのに他の吸対職員がいないのか、目の前にいる男の服が一般の者より装飾が多いのか、それら全てがヒヨシの頭から抜け落ちていた。
「退治人レッド・バレットと言えばシンヨコで大人気の男。そんな人が気にする吸血鬼なら俺も気になっちゃうだろ?」
「……まどろっこしい奴じゃな」
苛立った声をあげても我関せず。飄々と対応する男なんぞの相手をするのが馬鹿らしくなってきていた。
「なぁ、退治人くん。国家権力って市民が思ってる以上に何でも調べられちゃうんだよね」
「職権濫用のお知らせかの。真面目に調書を作らないんじゃったら帰らせてもらうが?」
「まぁまぁ怒らないでくれ、ヒヨシくん」
わざわざ本名で呼んでくるなど当てつけ以外の何物でもない。何か下心がある時の人間の顔だ。賢い大人、情報の使い方を分かってる人間。最善の一手のために何でも提案してくる享楽主義。ヒヨシの脳内では目の前の男を形容する言葉がポンポンと浮かんでくる。
「吸血鬼の検査結果、俺も見たんだけど。彼は元々人間で、何かしらの出来事の後に吸血鬼化。血液検査に人間だった頃の名残の成分が見られた。今の血液型は断定不可」
「元は、何型だったんじゃ……」
そんなこと聞かずとも知っている。弟はヒヨシと同じ血液型だった。O型だ。緊急時には皆んなに分け与えられるが、貰うのは同じ型からしかのみ。人によっては損だなんて言う血液型。重ねて、ヒヨシには血液型に関して些か嫌な思い出がある。
「O型……のrh-。稀血ではない。けれど注意は必要な型だ。大怪我での輸血時に周りから簡単には貰えない。そうだろ、ヒヨシくん?」
「個人情報なんぞ警察には筒抜けか」
ヒヨシは弟と同じ血液型だ。抗原に関わる部分も同じだった。日本では大多数の人間がRh+で、Rh-は少ない。以前に仕事中のヘマをして大出血。大変な目に遭った。
「SSR!って程じゃなくてもRhの要素はデータを篩にかける時に効果的だ。それから、少し調べてピンと来た。日本って結局は狭い島国だからさ、銀髪は珍しく映る。吸血鬼の肉体年齢は誤魔化してなければ二十代になるかどうか」
男の推理がヒヨシを刺していく。吸血鬼の正体に気付いているのだと理解した。吸対の人間でここまで自分勝手に動く人間が居たのかと揚げ足を取られた気分だった。まだ流石に気付かないだろうと思ったのだ。一日も経ってない。まさか吸血鬼と退治人の血縁を真っ先に疑うとは。
「もうやめてくれんか」
「なぁヒヨシくん。もし弟が生きていたら、あのぐらいの歳だろ。俺は妹が居るからさ、覚えてるんだ。あの八月の事件。未解決事件として有名だったのもある。センセーショナルに報道された。陵辱目的か、食糧目的か、それとも身内に殺されたかなんて騒ぎ立てた」
「やめろ」
「『△△△くん失踪事件』」
暑い夏の日。また弟の顔が脳裏をよぎった。幼い顔、血塗れになった顔。ずっと見つからなかった弟。何処で、どんな生活をしていたのか、どれほど怖かったのか。酷いことをされたのではないかと何年も何年も苦しんだ。何処かに遺体も捨てられて骨になってしまったと思った。
『にいちゃん』
兄の名前を呼んで助けを求めたであろう手を握ってやれなかった自分の無力感。罪悪感と混乱と色んなもので口の中がカラカラだ。何とか口を開いて言葉を吐き出す。
「気は済んだか?おみゃあの妄想には付き合えん」
椅子を吹っ飛ばすように立ち上がった。この男の前で何かを誤魔化すのは無理だと本能的に理解した。何かを言うだけで不利だ。ひとまず弟が無事であることが分かったのだから収穫はあった。VRCなら少なくとも研究が終わるまでは安全に過ごせる。ヒヨシの想定は間違っていない。
「VRCの所長がさ、彼をいたく気に入ってるんだ。どれくらいの『強度』があるのか試し出したら、彼はきっとバラバラにされる」
「……何を言っとるんじゃ」
「随分と珍しい吸血鬼だ。銀も平気、麻酔もニンニクも無効。これほど研究にうってつけの存在はいない。VRCも吸対も今後のために体の隅から隅まで調べたい」
「あの子を実験台にする気か」
「端的に言えば」
男の顔面を殴った。誰かしら入ってくると思ったが静かだ。誰も部屋の外から見ていなかったらしい。遂に手が出てしまった。兄として耐えられなかった。連れ去られて、世間からも散々に弄ばれて傷ついた弟をさらに害するなんて許せるはずがなかった。記憶が無かろうと種族が変わろうと弟であることには変わりない。
「イテテ……本気で殴るとは……」
「当たり前じゃ!俺の弟なんじゃぞ!俺が育てたんじゃ、そんな弟を傷付けることを許す訳ないじゃろうが!」
怒り狂って服を掴むヒヨシを前にしても男は落ち着いている。本気で殺してやろうかと殺意が芽生えた。右手を振り上げたところで、男の手がヒヨシの肩を叩いた。
「VRCは彼を解剖するつもりなんてない。さっきのは嘘。本当に弟なのか試したくてカマをかけただけ」
「は……?」
「失踪届の出ていた人間を勝手に実験台には出来ない。そこまでの権限をVRCは持ってない」
ヒヨシの腕から力が抜けていく。先ほどまであんなに荒れ果てていた思考がスッと大人しくなる。弟が傷付けられることはないのだ。安堵で涙が出そうになった。
「ただ、彼が社会に迎合できない性質であれば一生研究所暮らしだ。それだけは肝に命じておいてくれ退治人レッド・バレットくん」
男は髭を撫でながら楽しそうに笑った。
+++
吸対の男はヒヨシをさっさと解放すると、VRCの人間を呼びつけて事情を説明していた。昨日担ぎ込まれた吸血鬼の関係者だから合わせてやってくれないかと直談判したらしい。VRC職員たちは「本部長のご依頼であれば」と小さな声で溢した。そうしてヒヨシは何も分からないままVRCの職員に連れていかれたのだった。
「どうぞ」
地下の吸血鬼収容フロアに通される。VRCに協力的な吸血鬼ならば、かなり自由に動けると聞いたことがあった。どうやらそれは本当のようで弟のいる部屋に着くまで何人かの吸血鬼とすれ違った。人当たりの良い彼らは、外出も出来ると聞く。牢獄のような場所ではなくて安心した。
「この部屋です」
研究員がフロアの一番奥の部屋にヒヨシを通した。強化ガラスを一枚隔てて、吸血鬼が収容された部屋がある。中を見ると部屋には沢山のオモチャやぬいぐるみが置かれていた。
「少しでも落ち着かせようとしたら、こんな感じになってしまいまして……」
「はぁ……なるほど……?」
「部屋の角に居るのが例の吸血鬼です」
研究員が指差した方を見る。丸くなって眠っているらしい。服はVRCのもの。用意されたベッドで眠らず、大きな身体を無理矢理に縮めて眠る姿がヒヨシにはとても辛かった。
「彼、肉体は二十代くらいなのに精神面が小学生くらいのままなんです。難しい漢字は読めませんし、社会のルールも殆ど覚えていない。暴れることしか感情表現として使えない」
「そう、なんですか……」
「急に笑ったかと思ったら、次の瞬間には泣き出す。何も無いところに向かって怒り続ける。暴れ出してガラスにヒビを入れるの繰り返しです」
聞けば聞くほど、ヒヨシに絶望感を植え付けてくる。弟は居なくなった時のまま、大きな子供のようになってしまった。有り余る吸血鬼の力で周りを害する存在。このままでは、共存なんてとても出来ないだろう。
「この中に入ることは出来るんじゃろうか」
「部屋の中に、ですか……。危険ですのでやめられたほうが良いかと」
「俺は退治人じゃ。襲われても対処できる」
「……自己責任でお願いしますよ」
食い下がるヒヨシを前に所員が折れた。諦めたように部屋へ繋がる扉の鍵を開けていく。「本当に気をつけてくださいね」と言葉を背中に受けてヒヨシは部屋へと入った。血の匂いがする。恐らくは食事として提供された血液パックを溢したのだろう。床に血の跡がある。
ヒヨシが近づいてきたことに気づいたのか吸血鬼は飛び起きて部屋の隅で怯え出した。真冬に追い出されたかのように震えて、腕で頭を覆っている。手を伸ばした途端に聞こえてきた言葉に、ヒヨシこそ泣き出してしまいたかった。
「にいちゃん……こわいよぉ、たすけて、たすけて……こわい人がいる……」
「怖くない。大丈夫、怖くないぞ」
「あ、ぁああ、うぁあぁん」
「△△△、ほら兄ちゃんじゃ……わからんか」
驚かせないように屈んで弟に近づく。パニックを起こしかけているのは分かっていた。今の弟にとってヒヨシは知らない大人だ。とにかく害する意思は無いと伝えたくて左手を差し出した。怯えている弟の右手を優しく掴む。何度も握った弟の手。柔らかかった手は、大人の骨張った男の手に変わっていた。
「覚えとるか、一緒に出かけたじゃろ」
「にいちゃん……?あ、あ、あれ、ぁ」
青い目に一瞬だけ理性が戻った。それも次の瞬間にはパッと霧散する。青かった目に赤色が混じって、ヒヨシの左手を握り潰さんばかりに掴んできた。これはまずいとヒヨシが思った時には押し倒された。弟の顔が近づいてきている。ズキンと痛みが走って直ぐに熱くなった。
「ッ……!」
左肩に噛みつかれている。じゅるじゅると液体を啜る音。感じられるのは熱と痛みだ。部屋の外で所員が慌てている。人に害を与える吸血鬼だと判断されたら弟は終わりだ。それでも無理に引き剥がそうとするのはまずい。肩の肉ごと持っていかれるだろう。肉を千切られては治療に時間がかかる。しかし大きな弟の体が覆いかぶさった状態で何が出来るというのか。
「に、いちゃんに噛み付くなんて、悪い子じゃな……△△△、△△△……はなすんじゃ……」
所員が入ろうとしている。やめてくれと視線だけ送る。弟を怖がらせないでくれ、脅かさないでくれと。無事に伝わったのか、扉の近くで待機していることにしたらしい。
「△△△……」
痛みが強くなってきた。予防接種は受けているし、ここはVRCだ。最悪の事態にはならない。ヒマリを残して自分まで夜の住人になれるかという意地もある。必死に弟の頭を撫でて口を開かせようと宥めた。
「いい子じゃから、はなせ。ほら、兄ちゃんの言うこと聞いてくれ、にいちゃんに、おみゃあを殺させないでくれ……痛ッ」
筋肉から牙の抜ける感覚。注射の痛みを最高レベルまで引き上げたような痛みだった。というよりも医療用針と比べるのもアホらしいくらいの痛みがする。血で口元を汚した弟は幸せそうに笑っている。
「から揚げの味!」
「は、はは……兄ちゃんはから揚げか……」
「うん」
左肩を押さえて弟から距離を取る。彼の目は赤い。いつ次の吸血衝動が起こるか不明では残り時間のわからない時限爆弾と一緒に居るのと同じになってしまう。弟の視線は首に向いている。隙を見せれば噛みついてくるだろう。
「にいちゃんの色。おにいさんも好き?」
「赤は好きじゃ」
弟が笑っている。血に濡れた手を見て、赤色を見て、兄の色だと笑っている。目の前にいる人間が兄だとは分からないのに、赤に執着する弟の中にはまだレッド・バレットが居座っている。
「兄ちゃん、また、来るからの」
「ばいばい」
何とか呼吸をして痛みをやり過ごす。肉食獣の檻に落っこちた気分だった。弟に背中を向けないように扉から出て、外で待機していた所員が扉に鍵をかけるのを見た。血が流れている。視界が真っ暗になるまで一瞬。
+++
「ヌー」
目を開くとアルマジロがヒヨシを覗き込んでいた。それと真っ白な天井と消毒液の匂い。病院に担ぎ込まれたのだと分かった。
「目は覚めました?」
ドラルクも覗き込んでくる。見慣れた顔にヒヨシの精神も落ち着いた。かなり血を流した気もするが何とかなったらしい。病院と輸血パックの在庫に感謝した。
「いまは夜か?」
「もちろん」
カーテンの向こうは黒い空。
「退治人がこのザマじゃ」
「きっと彼は甘噛みですよ」
「じゃろうな。本気なら最初の噛みつきで頸動脈をやられて即死。いまごろ三途の川か」
「ヌヌヌ……!」
ジョンが慌てた顔でヒヨシの頬に手を当てた。
「心配かけた」
「退治人の相棒なので」
「ドラルク、聞いてくれ。返事はいらんから。ずっと大切にしてたんじゃ、何年も弟のことを心配していた。俺は一度も弟を忘れたことなんて無い。それなのに、弟はもう俺のことを覚えてない。あんまりじゃ」
ぐすぐすと鼻を啜る音だけが病室に響いた。