1.
竹谷八左ヱ門が久々知兵助と出会ったのは簡単なこと、ただ部活が同じ、それだけだった。八左ヱ門が初めて兵助を見た時、子供の頃から剣道をしていた八左ヱ門には、真面目そうで体格の悪い兵助は自分と同じ剣道部だとは到底思えなかった。
八左ヱ門たち剣道部には1つ上の代に部員がおらず、1年生の春に3年生の先輩が引退したのを最後に先輩と呼べる存在がいなかったのだが、八左ヱ門たちの代が丁度5人だったのでギリギリで団体戦を組めた。まず先鋒(せんぽう)が竹谷。次の次鋒(じほう)が尾浜勘右衛門、3人目の中堅が久々知兵助。そして4人目の副将、鉢屋三郎が繋げるのは大将の不破雷蔵。
最初の1年、部室も武道場もガランとしていたが八左ヱ門たち5人は仲良く楽しく頑張った。先輩がいないものの、団体戦でも個人戦でも割といい成績を取った。
八左ヱ門は三郎と雷蔵とは同じクラスだったのだが、尾浜と久々知は違うクラスだったからかなかなか距離感が掴めなかった。部活の仲間としてアイツはこういうヤツ、なんては分かっていたが、高校生のI日なんて授業時間がほとんどだ。I日3時間ぽっちの部活だけでは細かい性格まで把握しきれない。授業中どんな態度で過ごすのか、教科書は開くタイプなのか閉じておくタイプなのか、はたまたハナから机から出さないタイプなのか。「さっき先生、授業中にスマホ鳴らしたよな」なんて会話も、クラスが同じじゃないと生まれてこない。高校生の仲にはそういう小さな部分で生まれる「差」がある。
2年生になっても新入部員はいなかった。仮入部には来たのに、なんて心の中で不満を漏らすが、それを昨年一緒に歩んできた仲間に言うほど野暮ではない。それに、この5人だけの部活の雰囲気が壊れるのも嫌だと思うところがあった。なんだかんだ言って八左ヱ門自身、この面子が気に入っている。俺たち5人でいけるとこまで頑張ろうな、なんて笑いあったが、八左ヱ門には小さな悩みの種があった。兵助と勘右衛門だ。
彼らはまた同じクラスだったのだ。かくいう八左ヱ門も三郎と雷蔵の3人で仲良く同じクラスなのだが。何が悩みと言うと、あいつら__勘右衛門と兵助__の言う「仲良し」というものがよく分からない、ということだ。
久々知兵助は、八左ヱ門からは勉強は出来るわスポーツも出来るわのまさに文武両道な男のように見えた。だがその分彼はすこぶる無口だった。
兵助は眼が凄く綺麗だったが、綺麗だからこそ何も言わずにジッと見られるとこちらがタジタジしてなんだか変な気分になる。
入部したての頃、八左ヱ門は何も考えずに「久々知ってクールだよね」と言ったことがあった。嫌味でも何でもなくただ純粋な感想を述べただけであったが、兵助はそんな八左ヱ門に目も合わせないで「仲良い人がいないだけ」とだけ返した。その口調からなんとなく「お前も“仲が良い枠”に入ってない」と言われている気がして、「そういうトコじゃね?」なんて思いつつ適当にへえ、と相槌を打った。それ以降、あまり八左ヱ門からは積極的に話しかけていない。
そして、勘右衛門は対称的に馬鹿騒ぎは好きだわ行事は好きだわのクラスのムードメーカー。勘右衛門の事嫌いなヤツなんていんの??とみんなが口を揃えて言うような、そんな人間。これで学級委員長で成績優秀なのがムカつくトコロだ。
よく「俺ああいうタイプ嫌いだわ」なんて勝手に人を選別して毛嫌いするヤツがいるが、勘右衛門はそんなことを一切しない。自分の性格で他人を攻撃しないし、他人の悪口なんか聞いたことがない。まさに「博愛主義」というか、学級委員長としてクラス皆が好きなんだろうな、というヤツだ。
俺__竹谷八左ヱ門__が最初にアイツらにモヤったのは1年の頃だった。
1年の時、まだまだ他人感が抜けきれてなかった俺らでカラオケに行ったことがあった。三郎はやたらと雷蔵とデュエットソングを歌いたがったり、かくいう雷蔵はどの曲を歌うかめちゃくちゃ迷ったりのお決まりの流れから、意外にも勘右衛門の歌声は渋いとか、兵助は流行りの曲を全然知らなかったりとか初めて知る面なんかもあった。
楽しかったよ。うん、楽しかった。
勘右衛門と兵助が2人きりで手を繋いでいるのを見るまではね。
たまたまだった。本当にたまたまだった。みんなで話し込んでいたら、最初は兵助がドリンクをおかわりしに席を離れて、すぐに勘右衛門が俺もー!なんて言って着いていった。じゃあ俺もトイレに行こうかな、なんて思って、それがダメだったんだ。
「へーすけ、」
部屋を出たら角を曲がってすぐのドリンクバーから声が聞こえた。
驚いた。
なんだ、この声は。
意味をなさない平仮名がただ羅列したような舌ったらずな発音に、声の低さに反比例した甘ったれた声。
声の主の正体が1人しかいないのは分かっていたが、俺はどうしてもこの目で見なければ納得出来なかった。
誰の何に気を遣ってか、俺は隠れるようにして声のした方向に視線を向けた。
指、だ。
血色の良い長い指と 白く美しい指が
恥ずかしそうに向かい合って、
少し触れ合って、
少し離れて、
ゆっくりと絡まり合って、
奥深くまで入り込んだ。
「へぇすけぇ」
勘右衛門だった。
確かに、勘右衛門だった。
でもあれは俺の知る勘右衛門じゃなかった。
だって、俺の知るアイツはあんな声を出さないから。
だって、俺の知るアイツはあんな顔をしないから。
なんとも言えない、あの愛おしそうな表情。人はふざけ半分であんな表情は出来ない。心の底から惜しみない愛情を表現している。少なくとも、俺にはそう見えた。
あの景色は、何だか絶対見ちゃあいけないモノのような、他人が生半可な気持ちでずかずかと踏み込んではいけないモノのような気がした。
俺は2人に気づかれないようにそっと部屋に戻ったが、その後の事はよく覚えていない。
2.
そのカラオケの件以降、八左ヱ門はますます勘右衛門と兵助に対して特異の目で見てしまう事が多くなった。
先に言っておくが、この時代同性愛なんて外野がやいやい言うようなモンでもなし、別に気になどしていない。だけど、あの2人はなんかこう、違う。
恋人同士なんかじゃない気がする。もっと深い、違うナニか。
テスト期間中、たまたま勉強中の兵助を見かけたことがあった。静かな教室の中で、黒縁メガネをかけて学校指定の紺色のカーディガンを羽織っている兵助を見て真面目なヤツだなと思いながら通り過ぎようとしたその瞬間、彼と向かい合うようにして誰かが一緒にノートを広げているのに気付いた。
へえ、兵助って一緒に勉強するような友達いたんだ、なんてちょっと失礼な事を考えてそいつの顔をちらと見た。見なきゃ良かったと、コンマ数秒前の自分を呪った。
お察しの通り、勘右衛門だったよ。そういやアイツ、あれでも成績優秀だったわ。
2人の親密そうな様子を見て、カラオケでの手繋ぎ事件(俺は勝手にそう呼んでいる)が蘇る。
少し気になって、それとなく廊下でスマホを弄るフリをしながらちょっとだけアイツらの様子を見ていた。
会話がない。全くない。シンとした空気が放課後の教室を満たしている。なのに、張り詰めたような雰囲気ではない。
不思議だ。
しばらくして、兵助がシャーペンを置いた。
「うーん。」
「難しい?兵助でも?」
「問題に全然集中出来ない。お腹ちょっと減っちゃった。集中力、足りないみたい。」
「うんうん、小腹減ったね。なんか甘いモン食べようよ。」
相変わらず途切れ途切れな兵助の言葉を最後まで受け止めた勘右衛門が、ガサガサとリュックから菓子を取り出した。なんでこの鞄にこんなに入るんだ?ってくらい大量の菓子、菓子、菓子。
「はいよ」
「ありがとう。いただきます。」
律儀に礼を言って、勘右衛門からスナック菓子の袋を受け取る。
バリっと音を立てて、兵助の白い指が、ごちゃごちゃと飾り立てた袋を開けた。
「どお??兵助」
「この味、今まで食べたことないよね。でも美味しい。意外にいけるかも。」
「おっ分かるか。期間限定だよ、コレ。」
さすが兵助ぇ、なんてニコニコ笑いながら勘右衛門が姿勢を崩す。場の空気が一気に溶けて、2人にバレないかな、と少しドキドキした。バレた所でやましい事なんて何もしてないのに。
結局、その日は委員会の後輩からLINEが入ってすぐ帰った。
兵助の言葉が、まるで『勘右衛門と自分は食べるものを共有しているのが当たり前だ』とでも言うように聞こえたのは、気のせいだと思うようにした。
これが、2年生になった春の出来事。
3.
ここまでが過去の話。今は高2の夏。終わらない(終わらせる気もない)課題にヒーヒー言いながら日々を過ごすのもまあ悪くない。
いや、そんな悠長な事を言いたい訳ではない。今は剣道部で合宿中なのだ。午前に3時間、 昼飯を食ってまた午後に3時間、とどめの夜練1時間。これがなんと3日もある。正直めちゃくちゃキツいけど、これも最後だと思うとなんだか気が軽い。それに部活の合宿はなんだかんだ言って楽しいもんだ。
1日目の慣れない環境下での稽古が終わって夜になった。お前たち、夕飯はどうするんだ?なんて顧問の木下先生は聞いてきたけど、俺たちの中で答えは既に固まっていた。合宿の夕飯といえば、誰がなんと言おうとカレーに決まっているでしょ!
やんややんやと騒ぎ立てる八左ヱ門たちを尻目に、木下先生は溜息を一つついた。
三郎の切った厚みの均一な人参と雷蔵が切ったごろごろのじゃがいもが仲良く混ざり合ったカレーを食べたら、あとは自由時間。ひとしきり駄弁ってゲームをしたあと、誰が1番に風呂に入る?みたいな空気になった。
風呂って入ると気持ちいいしあっという間だけど、入る前までが長いんだよな。それに、この楽しい雰囲気を終わらせたくもないし。
同じ事を考えていたのであろう雷蔵が、せっかくだしみんなで入ろうよ!なんて言い出した。確か近くに銭湯あったよね、とスマホをいじっている。
真っ先に賛成の意を唱えたのは言わずもがな三郎。ほんと、相変わらずだ。
意気揚々な2人が輝く瞳でこちらを見る。いや、三郎は雷蔵しか見てない。向きが違えよコラ。こっちを見んかい。
まあ、俺もまだみんなでくっちゃべっていたかったし、一人で学校の狭いシャワールームで済ますのは嫌だったので賛成した。雷蔵の言う通り、せっかくの合宿だ。裸の付き合いでいきましょうや。
雷蔵だけで良いよとゴネる三郎を軽くスルーして、雷蔵が勘右衛門と兵助にも了承を得ようと2人の顔を見る。
友達の多い勘右衛門はともかく、兵助なんかは人前で裸を見せるのを恥ずかしがるタイプかもしれない。断られるかなあなんて思っていたが、
「……いいよ、入ろ!」
ニカッと勘右衛門が笑った。
「ほら、兵助も準備して行くよ!」
勘右衛門が兵助を促して立たせると、兵助は否定も肯定もせずに勘右衛門の後ろからのそのそと続く。勘右衛門の声を合図に、雷蔵と(まだぶーたれてる)三郎も喋りながら準備を始めた。
あれ、俺てっきり兵助は断るかと思ったのに。予想しない結果に面食らう。
もしかしたら兵助のヤツ、場の流れで嫌だって言えなかったのかも…。
勘右衛門が雷蔵と三郎にじゃれついてる隙に、勘右衛門の隣を歩いている兵助にこっそり話しかける。
「なあ、裸見られるのイヤじゃないの?」
「え、」
八左ヱ門に話しかけられたのがよっぽど珍しかったのか、兵助が目を見開いて八左ヱ門を見上げる。兵助は、八左ヱ門より背が低い。
「あー…ほらあの、兵助って、みんなで風呂入るの苦手なタイプそうだから…」
なんとなく気恥ずかしくて、言葉の後半を濁らせる。
兵助は俺の顔を見ながら少し考えて「あ、そうか」と呟き、
「あんまり気にしたことなかった。」
と少しはにかみながら言った。
ここで驚くべきなのは、堅苦しい優等生の兵助が他人に裸を見せるということに躊躇しないということなんかではなかった。
兵助が八左ヱ門に対して感情を表した、ということだ。
微笑む姿は何度か見てきた。それも勘右衛門が指導してきたものだが。
爆笑すら見たことなかったのに、恥ずかしげな表情なんてもっての他だ。新鮮を通り越して、なんだか変に胸が鳴った。
「ありがとう。大丈夫。」
兵助の口からは必要最低限の単語しか出てこなかったが、その中には八左ヱ門への感謝が含まれていることはしっかり伝わってくる。
でも、もしかしたら要らないお節介だったかもしれない。何故か自分の行動ひとつひとつを思い返してしまう自分が滑稽で、八左ヱ門は可笑しさを覚えた。
「相変わらず雷蔵の肌すべすべだね♡かわいい♡」
「やっばwwwキショいって三郎www」
三郎と勘右衛門の学級委員長コンビがきゃっきゃしている横で、当の雷蔵は躊躇することなくバッサバッサと服を脱いでいる。こういう時はやけに男らしい。
三郎と笑い合う勘右衛門を見て、ふと兵助の存在を思い出した。いつもは勘右衛門の隣にいるのに見当たらない。
あ、俺の後ろか。
端に並んでいる兵助に思い切り背中を向けていたらしい。
「ごめん、会話遮ってた。」
兵助の視界を広げようと、一歩下がりながら振り返った。
「あ、」
1人で服を脱いでいた兵助と目が合う。急に話しかけられたからか少し驚いていた。
脱衣所という場所で不意に目が合ったのが気恥ずかしくなって、八左ヱ門は何も考えずつい視線を下に向けた。
何の準備も無しに兵助の裸体が飛び込む。ギクリと心臓が跳ねた。
白い肩が、
くっきりと浮かび上がった鎖骨が、
白の肌に浮かぶ2つの桃色が。
いけない。
ダメだ。
顔を上げられない。瞳の動きが止められない。
止まれ
止まれ
止まれ!!
「なあ、ハチもそう思うだろ?」
______!!
勘右衛門の声だ。
マズい、全然聞いてなかった。
「あ、ああ!!そうだよなぁ!俺もそう思うよ!」
慌ててテキトーに話を合わせた。心臓がバクバクとうるさい。
雷蔵たちとの会話に夢中になるフリをしながら服を脱いで浴場に入る。
落ち着け。落ち着け。落ち着け。
背中を流しあっている三郎と雷蔵の横で頭を洗って、身体を洗う。
意識を逸らそうとすればするほど、どうしてもさっきの光景が忘れられない。じわじわと体内を侵食してくる熱は躊躇いもなく一直線に下腹部に向かってくる。
「あ、」
え、ウソだろ???おいおいおい冗談じゃねえよ。
……………勃った。
途端にズシンとのしかかる絶望感と罪悪感。
何で??どうして??溜まってた??昨日しっかり抜いてきたのに。
冷や汗が止まらない。思い当たる節は一つしかないから。
バレたらどうしよう。なんて言って誤魔化そう。「いやあ、昨日抜くの忘れててさあ!」とか?「今、来たる彼女の為にオナ禁してて!」とか??ダメだ。絶対バカにされる。男湯でチンコ勃ち上がらせる男子高校生とか流石にヤバすぎるだろ。俺でも友達付き合いを考える。
ひとまず三郎と雷蔵には「忘れモンした」と言って浴場から出た。
一直線にトイレに向かってダッシュで扉を閉める。
よしよし、そのまま余計なことを考えろ。中学の頃に男子の先輩のフルチン見ちゃったこと、クラスの美人のくしゃみがオヤジ臭くてちょっとショックだったこと…。ええと、あとは…あとはなんだ??
先程の光景が脳裏に浮かぶ。あんなに近くでアイツの驚く顔なんて見たことなかったけど、睫毛長いし色白だし…、
そこいらの女子よりも……、
「綺麗だったよなぁ…。」
「!?!?!?!?」い、今もしかして口に出してた!?!?
バカ!!思い出したら意味無えよ!!
頭を掻きむしって項垂れる。あ、もういいや。十分萎えたわ。
フツーの状態に落ち着いた俺のブツと共にもう一度浴場に入ると、ちょうど他の4人が湯船に入るところだった。
「あ!ハチ来た!早くおいでよ!」
雷蔵に呼ばれ、ちょっとドギマギしながらみんなのところへ向かった。
湯船の温度は熱すぎず温すぎず。三郎は隣のじいちゃんと談笑している。じいちゃんの長話に「そうなんすよ」とか「へえ〜、そりゃ凄いっすね〜憧れます」とか相槌を打っているのを見ると、なんかカッコよく見える。
「やっぱりああいうトコ見ると、三郎って凄いよねぇ」
「あ、雷蔵もそう思う?」
雷蔵が微笑みながら話しかけてきた。なんだかんだ言って雷蔵も三郎を信頼しているし、お互いがお互いを尊敬しているのだろう。そのような関係が高校生のうちに確立しているのは正直羨ましい。2人ならこのまま一生の仲になるんだろうと、今からでも思う。
「兵助、逆上せちゃった?」
勘右衛門の声が耳に入ってきた。勘右衛門の方を見ると、隣の兵助の顔が真っ赤に染まっている。
「あ〜あ〜、すぐ逆上せちゃって。相変わらずだね」
「好きでこうなる訳じゃないよ。」
「あはは、冗談だよ、冗談。兵助のは慣れっこだもん、今更だよ」
「兵助逆上せちゃったみたいだから、俺先に兵助と上がるよ」
勘右衛門が兵助を連れて湯船から出た。途中で転ばないようにか、兵助の腰には勘右衛門の手が添えてある。
「ふふ、勘右衛門は相変わらず過保護だね」
「嫁入り前の娘じゃあるまいし」
雷蔵と三郎が笑い合うが、八左ヱ門は落ち着かなかった。カラオケ手繋ぎ事件が頭をよぎる。あの日の衝撃は余程のものであったが、日が経つと友人と友人の秘密を垣間見てしまったことへの思春期ならではの興味と好奇心が湧き上がってくるのもまた事実だった。
4.
合宿2日目は1番堪える。初日の疲れもあり、さらに明日もあると考えると肉体的にも精神的にも辛いものだ。
今日は朝から暑い。夜に喋りながら寝た時はクーラーのおかげで快適だったが、目が覚めた途端に汗でジャージがびっしょりだ。朝食中に見たテレビでは美人アナウンサーのピンク色の唇から「猛暑日」なんて単語が軽々と出てくる。心の底から道場に行きたくないと思うけれども、ただ無情に稽古は始まった。
準備体操も素振りも終わり、本格的に稽古が始まる。木下先生は定期的に水分補給の時間を設けてくれるが、なんせ猛暑日、突っ立ってても扇風機が恋しい。剣道は、普段着よりも通気性の低いくるぶしまである袴や重い防具をつけるため、自分が気づかないうちに大量に汗をかく。現に、ちょっと基本技を通しただけでも絞れるほど汗をかいている。
「あち〜〜」
「お疲れ〜。ほれ、アクエリ」
ジェット扇風機の前で涼んでいると、勘右衛門がニュッと顔を出した。疲れを微塵も思わせないような明るい笑顔をしているが、額には玉のような汗が光っている。そういうところも含めて、後輩から「爽やか」と言われ慕われるような魅力があるんだなあと静かに納得する。
「次、多分地稽古だよな」
「でしょうね〜。木下先生ったら容赦無いんだから」
勘右衛門から貰ったアクエリを飲みながらなんてことない会話を続ける。木下先生は勘右衛門と兵助のクラスの担任でもある。だからなのか勘右衛門はやたらと木下先生に懐いているが、こちらから見るといつ雷が落ちるのかとヒヤヒヤしっぱなしだ。しかし勘右衛門は人の許せるラインを上手く見極めるプロだ。木下先生からまだ本気で怒られたことはない。流石だ。
笑い合っていると三郎と雷蔵も加わり、遅れて兵助も入って5人でジェット扇風機の前に並んで涼む。木下先生が「なんだ、雀みたいだな」なんておっしゃって、想像するとなんだか可笑しかった。
休憩が終わり、八左ヱ門たちはまた面をつける。勘右衛門と八左ヱ門の予想通り、次は地稽古だ。地稽古というのは試合稽古の一種で、決められた時間まで勝敗を決めずに行う。ついついマンネリ化してしまいがちだが、相手によって色々戦法を考えなければならないので頭を使う。
「ハチ、次やろうよ」
雷蔵、三郎と続き、3回目に勘右衛門と組むことになった。次鋒の勘右衛門は頭の回転が速く、相手の思わぬところで技を出すのが得意だ。上手く相手を引き出して自分のモノにする、「一杯食わされた」と思わせる剣道だ。自分の試合の結果で後ろのメンバーの試合運びがしやすくもなり難しくもなるという絶妙なポジションにいる勘右衛門の剣道を、先鋒の八左ヱ門は常々関心する。
剣道の団体戦は5人中3人が勝てばチームの勝利となるが、ポジションによって戦い方がそれぞれ異なる。
先鋒の八左ヱ門はとにかくチームを盛り上げるための役職だ。要するに「勝てば良い」。このポジションを、八左ヱ門は結構気に入っている。チームの初っ端から負ける気なんかもちろん無いし、何より自分がチームの流れを作れるのが嬉しい。明るいだけが取り柄の自分が、その取り柄でチームに貢献できる。
次鋒の勘右衛門は八左ヱ門の試合結果で自分がどう流れを作るべきなのかを判断しなければならない。先鋒が勝てばその流れを維持し、先鋒が負けた場合、次鋒が無理をして勝ちにいくと逆に危ない場面は後の中堅に任せる。相手をみて、先もみる。それを試合をしながら見極めなければならない。自分には到底無理だと、八左ヱ門は思う。
中堅の兵助はチームの折り返しのポジションだ。中堅の結果次第であとの試合の流れは大きく変わる。強豪選手が多いこの役どころをしっかりこなす兵助を見て、やはり勉強だけの優等生ではないなと、何度脱帽したことか。
副将は大将を助ける役割だ。試合の流れによっては大将が必ず勝たなければチームが勝てない時がある。雷蔵厨の三郎は「雷蔵が不安になる流れは作らせない」と、高校に入ってから無敗神話を更新し続けている。前3人で既に勝敗が決まっている試合は引き分けたりもするが、「念のため」で一本勝ちすることが多い。よく、三郎の試合が終わった後に雷蔵が三郎の背中をポンと叩いて何か囁いている。試合場の端に座っている八左ヱ門からは聞こえないが、その後ルンルンで三郎が戻ってきて「この瞬間のために頑張ってる」と呟く。全く現金なヤツだ。
大将はチームからの信頼を得ている人が務める、いわば「最後の砦」だ。雷蔵は迷い癖があるが、それもチームを見ている故のものだというのも皆分かっている。たった一本が勝敗を決め、たった一秒で結果が変わる剣道で繰り出す彼の直感と経験は、他の人間にものを言わせぬ鋭さがある。
みんな強くなったなあ、と、勘右衛門と地稽古をしながら八左ヱ門は思った。勘右衛門と八左ヱ門はポジションが近めでもあるし、剣道の相性が良いので何度も剣を交えている。2年も一緒にいれば成長も進歩も共に歩むというものだ。
タイマーのブザーが鳴った。フッと竹刀の音が止み、お互いのアドバイスに入る。
「さっきの出ばな面良かったね、流石ハチ。あ、でも相変わらず単発技ばっかりだったよ」
「あ、マジか〜…最初らへんはちゃんと意識してたのに…」
くそッと八左ヱ門が唇を噛む。
「ありがとうございました」とお互いに礼を言い、じゃあ次のヤツを、と思った時だった。とんっと背中に軽い衝撃を受けた。反射的に振り返る。この背格好は兵助だ。八左ヱ門に身体を向けている訳ではなさそうで、ぶつかってしまったのだと直感的に八左ヱ門は理解した。
「あっ、ごめん」と体勢を整えて謝り、ついでに次の相手を頼んでしまおうと兵助を見る。
あれ、と思った。ぶつかった時、足がよろめいていた。面をつけていても分かる程顔が下を向いている。___もしかして、具合が悪い?
兵助、と声をかけた瞬間ぐにゃりと兵助の姿勢が曲がり、背中がこちらへ向かってきた。
____倒れる!
直感で腕が伸び、咄嗟に兵助の背中を支えた。バランスが悪くなった両脚が体重を支えることを諦め、兵助は膝からずるずると崩れ落ちた。それを八左ヱ門はゆっくりと下ろしていく。かろうじて頭を打つのは防ぐことができた。
「兵助!!大丈夫か、兵助!!」
いつもに増して声を張り上げてしまうのは面をつけているからなのだろうか。自分の声がやけに耳に響く。
どうした、と木下先生がやって来た。
「あ、いえ、兵助が」
「兵助!!!」
口を開いた瞬間、勘右衛門が血相を変えて走ってきた。八左ヱ門の口から出た言葉は行き場を見失って消え、止められていないタイマーから開始音が鳴り響く。
勘右衛門と木下先生が兵助を囲んで話しかけているのを、八左ヱ門は後ろからぼうっと見つめる。まだ心臓の音がうるさい。兵助の身に何もなくて良かった。驚きと安堵の鼓動だ。
いや、何かあったから倒れたんだろう、と心の中でツッコんでいると、兵助の容態をみた木下先生が口を開いた。
「熱中症だな。久々知、面を取って水を飲め。」
小さく返事をしている兵助の元へ、へーすけ、と勘右衛門がさらに駆け寄った。介抱を自分がするつもりなのか、小手を取っている。
「尾浜、お前は儂と地稽古の途中だっただろう。」
「はい、え、でも」
「竹谷に任せなさい。心配なのは分かるが。」
「……ハイ」
……『心配なのは分かるが』が気になってしょうがない。『兵助が』心配なのか、はたまた『俺が』心配なのか…。
という訳で、と言うように木下先生が八左ヱ門を見る。
「竹谷、お前なら介抱の仕方は分かるな。頼んでいいか。」
先生に返事をして、兵助を担いだ。八左ヱ門の生物好きは周知の事実だが、先生はそれを仰っているのだろう。
武道場を出てすぐの昇降口に兵助を降ろした。稽古の音が耳に響くといけないので武道場の扉を閉める。
「兵助、大丈夫か」
しんどそうに眉をひそめた兵助がコクリとうなづいた。顔色はいつにも増して青白く、360度どこから見ても病人だと見てとれる。ググ、と身体を曲げて膝に顔を埋めようとするが、胴と垂れがそれを阻んだ。こいつらを取った方が呼吸も姿勢もとりやすい。
「胴と垂れ、取るよ。」
そっと話しかける。兵助はまた同じように頷いた。
胴を取るために胴紐に手を伸ばして、その目の前の光景に少しドキリとした。
胴着を着ていても分かる兵助の薄い肩から紐を掬い上げ、紐の先端をゆっくり引っ張る。汗を吸ったせいか少し解けにくい。いやいやと駄々をこねる子供のようなそれを、17歳の八左ヱ門は力を入れてずるりと解く。
八左ヱ門の喉がごくり、と音を立てた。左手を伸ばして、もう片方の紐に手をかける。
兵助を見たい。
今この場で、勘右衛門ではなく俺に宛てた兵助の表情が見たい。
グッと紐を引っ張った。いきなりの衝動で兵助の頭がガクンと揺れ、驚いた兵助が顔を上げる。
自然と目が合った。それはもう、当たり前のように。
兵助の瞼が震える。
自分の袴の擦れる音が聞こえる。
あ、と漏らす兵助の吐息を、兵助の唇ごと自身の口で封じ込んだ。