素足をくすぐるような砂の感触が心地良い。春が来るのはまだこれからだから、打ち寄せる波はまだ冷たかったけれど。きらきらと波間を照らす陽射しのおかげで凍えることはなさそうだった。
ばしゃ、と波を蹴とばす。貝殻でも拾って帰ろうか。
「ハソン」
嗜めるような声音で名前を呼ばれ、ハソンは振り返った。ここまでハソンを連れてきた男――イ・ギュが、少し離れた所で難しい顔をして立っている。いつもそんなに難しい顔をしていて疲れないのだろうか、せっかく海にいるんだからもっと楽しそうな顔をすればいいのに。
海に行きたい。
ハソンがそう言い出したのは、江陵からソウルへ帰る車の中だった。名残惜しそうな目で窓の外を流れる海岸線を見る。月に一回、妹と義父に会いに行けること。それは、ハソンが自分によく似た少年と住むことになったときに交わしたいくつかのルールのうちの1つだった。
たまたま家族で出掛けたソウルで出会った壮年の男に、一生のうちで自分な稼げるはずのない金額を提示されたときからハソンの人生は大きく変わった。連れて行かれた先で出会ったのは、自分と瓜二つの顔をした男。名をイ・ホンという彼は、財閥の子息だそうだが所謂愛人の子で、そのために様々な厄介事に見舞われているらしい。そんな彼とそっくりな顔をしたハソンは良い意味でも悪い意味でも“使い道”があり、おかしな連中に悪用されるぐらいであれば手元に置いておくべきだ。イ・ホンの世話役であるイ・ギュという男はハソンにそう語り、法外な報酬とソウルでの暮らしを提案したのだった。上手い話には裏がある、と散々義父や妹からは止められたが、妹を大学にいかせてもまだ余りある報酬の魅力にはとても抗えない。そうしてハソンは、ソウルの高級マンションの一室に移り住むこととなったのだ。
初めて会うはずなのに、自分のことを見つめるイ・ギュの目にちらちらとこもっている情や、相対したイ・ホンの顔の隠しきれない怯えと怒りは努めて気にしないことにして。
「海?」
運転席のイ・ギュが怪訝そうな声をあげる。普段、ハソンの里帰りについてくるのは彼の部下だという無口で無愛想な男であったが、今回は珍しくイ・ギュによる送迎だった。半ば同居しているとはいえ、自分よりも体格がよく気難しげな顔の彼の同行でハソンはいつもより少し緊張していたが、帰る時分にはもうすっかり気が抜けている。久々に会った妹は憎まれ口を叩きながらもハソンが持ってきた土産を喜び、別れ際にはいつものように服の裾を握って離さなかった。そんな彼女の手をとって、また会いに来るからと優しく突き放した疲れがどっとのしかかっている今、運転席の男を気にしている余裕はない。
だから、ほとんど無意識に溢した言葉をきいたイ・ギュが、ハンドルを海への道に向けてきったとき。ハソンは思わずえ、と声をあげていた。だって、いつも難しい顔をした彼はハソンの頼み事など素気なく断るのが常だったから。
「行きたいんだろう。少しぐらいなら構わない」
そういったイ・ギュの表情は、フロントガラスから差し込む光のせいでハソンにはよく見えなかった。
「イ・ギュシも靴脱いだらどうですか?砂入っちゃいますよ」
靴下はポケットに突っ込み、片手に靴を持ったハソンが笑う。さりさりと足の裏に触れる砂で足はもう汚れていて、きっとこのまま車に乗ったら物凄く怒られるんだろうな、とぼんやり思った。
「ねえ、貝殻でも拾って帰りましょうか。ソウル生まれなら海なんてあんまり来ないでしょう。あ、でもこんなもの、って怒られるかな……どうしよう、王って海は好きですか?」
「いや……」
くるくるとよく動く口と表情がイ・ギュに向けられる。王というのはハソンがイ・ホンにつけたあだ名だった。同い年なのに偉そうで傲慢な彼に対するちょっとしたからかいも含めたそれは、舌にのせるたび不思議とぴったりと当てはまるような気がして、ハソンは気に入って使い続けている。
「あの人は、」
イ・ギュが歩み止めたので、数歩先を歩いていたハソンも怪訝そうに立ち止まった。波の音と潮風のせいで、何事かを口ごもるイ・ギュの声がよく聞こえない。日差しを反射して輝く波を背にして、どうしてか彼は途方に暮れたような顔をしていた。
同じような笑顔を、向けられたことがある。理知的な瞳がいたずらっぽく輝いていたのを、海の向こうへの憧れに頬を赤くしていたのを、イ・ギュは覚えていた。同じような、けれどもまったく違う笑顔。
「あの人は、海がお好きだったのだ」
ぱた、と雫が落ちて砂浜に滲む。すぐに波が打ち寄せて、塩辛いそれらが混じっていった。素っ頓狂なハソンの声に、ようやくイ・ギュは自分が泣いていることに気付く。
「どうしたんですか!?どこか痛い?具合でも悪くなったんですか!?」
「いや、大丈夫、大丈夫だ。私は……」
目の前の少年が、心配そうに駆け寄ってきて思わずイ・ギュは後退っていた。自分の雇い主によく似た少年。自分が手にかけたひとによく似た……。
――怖い
生まれてからずっと独りきりだったあの人は、たったひとりでそう泣いていた。感じたことなどないはずなのに、冷たくなった体を背負ったような重さがのしかかってくる気がしてイ・ギュの視界がぐらぐらと揺れる。
自分が仕える少年は、物心ついたときから誕生日が嫌いだった。誕生日のワカメスープも、他人から与えられる酒も、それから海も嫌いだった。そしてどうしようもなく、イ・ギュを恐がっているのに。
「イ・ギュシ……?」
あたたかな指が恐る恐る頬に触れて、頬を濡らす涙を拭った。そのままハソンはゆっくりとイ・ギュの体に手を回す。悲しいことがあったんですね。と、呟いた声を潮風がさらった。
その声も、体温も、すべてがどうしようもなく優しくて、イ・ギュはまた途方に暮れたような気持ちになる。
「悲しいことがあったときには、こうやって抱き締められると落ち着くでしょう。ダルレにもよくやっていたんです」
あまりにも似ているのに、似ているからこそ絶対に違うのだとわかった。なぜなら、イ・ギュにはもうわかっている。他でもない彼自身が、あの人から海を奪ったのだから。
(それなのに、私は)
ハソンの体温がうつってきたかのように、じわじわと体があつくなる。背中をとんとん、と叩くリズムが心地よくて、動けない自分がいることを認めたくなかった。自分が選び、理想を託したひとのことも、自分が見捨て、その手にかけたひとのことも、イ・ギュ自身が抱えていくものなのに。
「大丈夫ですよ」
その声に、こんなにも許された気持ちになってしまうなんて。