Reach for the moon「――離せ! フロイド」
「なぁんでえ? ねえ、遊ぼうよ。金魚ちゃん」
ナイトレイブンカレッジ。名門校にふさわしい、石造りの豪奢な校舎の中庭に面した渡り廊下。庭に面して等間隔に背の高い柱が並ぶ美しい景観に騒々しいやり取りの声が聞こえる。
赤毛の小柄な少年、リドル・ローズハート。
その小さな背中に取りつく青色の髪の大柄な少年はフロイド・リーチ。
二人の対照的な体格は、まるで彼らの性格をあらわすようだと周囲の者は目を眇め、関わらぬようにと速やかに距離を取った。この対応は日常的な物であり、学園で平和に過ごすコツの一つだ。
厳格な精神を信条とするハーツラビュル寮の寮長リドル・ローズハ―トは品行方正そのもの。
常に襟を正し、己を厳しく律して学園生活を送っている。周囲の者の行いにも眼光鋭く、彼の前で規範を反する行いをすれば、直ちにその膨大な魔力で矯正を食らう。
一方、フロイド・リーチはオクタヴィネル寮に所属する、寮長の腹心と言える少年。寮の信条は慈悲のはずだが、寮長やその腹心の二人は海千山千と言った様子で、若年ながら交渉術に長け実力も高い事で有名だ。
彼は常に襟元をだらしなく開き、露わになる首元にタイが巻かれる事はない。そのような風体でリドルの前に立つことは一般生徒の認識からすれば「命知らず」なのだが、彼に関しては例外だった。
「僕は忙しい、この後は自習の時間なんだ」
「金魚ちゃんはえらいねえ。ご褒美あげるから、ついでおいでよ」
「っ……!」
瞬時にリドルの顔が赤く染まる。
赤らむ顔を下に向け、屈辱に唇を噛むひと時。振り返りざまに詠唱を唱える。
「オフ・ウィズ・ユア・ヘッド!」
「バインド・ザ・ハァ~ト!」
リドルがフロイドに手を焼く理由は、互いの固有魔法の相性の悪さがある。罪人の首に錠を嵌め、魔力を封じるリドルの必殺魔法。フロイドの持つ固有魔法は他人の魔法の軌道を逸らすもの。
弾かれた大げさな鉄製の錠前は中庭の方向に飛んでいき、消滅する。リドルは続けて蔦を生やす魔法を唱え始めたが、振り返る事によってフロイドの表情に目を見開いた。
「タルトさ、作ったんだよお。金魚ちゃんが好きそうな、色んなフルーツがのってる……クレームダマンドのレシピも変えて、今日のはジェイドが絶賛してるんだからさ」
ジェイドは何でも食うけど、ジェイドがうまいって言ったら本当においしいから。
人魚の彼が歌うように唱えた言葉は、丸で彼の独り言だった。
このところ、リドルはフロイドの様子に困惑している。
入学時からの戦闘まじりの戯れ合いならば、不本意ながら慣れたものだ。戦い方も、いなし方も。
回数をこなす内に、フロイドが本気の攻撃を仕掛けて来ていない事を理解し、こちらも本気で応じる事もなくなった。
彼とのそれは言わば手合わせで、お互いに適度なガス抜きを得ているのだと頭のどこかで納得していた。
しかし、いつからか彼は変わった。
リドルがフロイドを遠ざけるため二人の間に生やした太い蔦の壁。それに彼は大きな両手を柔らかく添える。
どういった理屈か、細胞に過剰な水を与えられた蔦はたちまち、ぐずぐずに腐食していく。
「ナパージュに色変え魔法をかけたらキレイでさ」
魔法はイマジネーション。
フロイドが触れた植物は自壊し、足元の大きな緑の水たまりとなった。
「……夜の流氷を思い出して作ったの」
彼の語る、厚めに焼かれたゴールデンブラウンのタルトに詰まれたフルーツを想像する。輝くゼラチン液でてらてらと光る様は、夜の紺に映える流氷のきらめきを思わせるのだろう。
夢のような想像を乱す、足元の深い緑。
フロイドは、深い沼に佇んでいるようだ。
薄気味の悪い魔法を操った大きな手は、僕の手を優しく掬った。
飄々としているようで沈んだ目をしたフロイドの様子に、拒む言葉は早々に失くした。リドルはためらいを抱いたまま、教科書を抱えたまま彼の勤めるカフェ・モストロラウンジに辿り着く。
水槽の水が反射する幻想的なオクタヴィネル寮の廊下を通りながら、そもそも今日のこいつは僕の話なんて聞く気がなかったのだと息を吐いた。
フロイドの気分の変調は激しく、直前まで笑顔で話していた後で急に「飽きた」と吐き捨て去る。
その彼と親しい人間ほど見慣れ、対応も自然と慣れていく。
そこまで考えてリドルは瞬きをする。
いつからだ。
フロイドの「飽きた」を久しく聞いていない。
決まり文句をいう事もなければ、「小さい」「飼ってあげる」などと、リドルの地雷を敢えて踏む台詞も暫く聞いていない。
今日のように妙にくどい行動も珍しく、無意識に感じていたフロイドリーチへの疑惑が急に膨れ上がる。
弱った風な静かな様子をして、僕の手を掴んでカフェの席に案内する彼に違和感を覚える。
「……どうしたんだい、フロイド」
「金魚ちゃん」
気づかわし気に尋ねるリドルを振り返る。普段通りの笑顔だが、一度芽生えた疑念は消えない。
「ここに座って。一番眺めがいい席だから」
「ああ、……」
営業時間前のモストロラウンジは静かすぎて、店内を飾る大きな水槽のためのモーター音が聞こえる。
リドルは何かを言おうとしたが、フロイドはそれを封じた。リドルは何か言わなければと考えながら、一度そうされて尚言い募れるほど、言葉がうまいわけでもない。
言われた通り、大水槽の正面のボックス席に座る。滑らかに整えられた濃紺のビロード生地のソファは、小柄な少年の身を簡単に隠すほど広く、背凭れが高い。
彼は一人残され、去った彼の事を漠然と考えながら水槽に煌めく光の軌跡を目で追うだけ。
提供されたタルトの出来は素晴らしかった。
所属する寮のパーティで定期的に菓子を見るため、タルトに見慣れたリドルでも息をのむほど美しい。
黄金色に焼きあがった完璧なタルト台は小麦の香りも馨しく、上に敷かれた純白のホイップクリームとの調和を期待させる。
わざとラフに塗られたホイップに、丁寧に詰まれたフルーツたち。
メインはざっくりとカットされたメロン。あしらいにハーフカットされたブルーベリーがメロンの淡い緑を引き立てる。中央に高さの出るようにデザインされ、きらきら揺らめきながら色を変えるナパージュが丸でオーロラのよう。
「すごい……!」
「紅茶はバニラのフレーバードね、マリアージュとかは調べてないけど。つまりは調和の事だって、ジェイドが言うから」
どこかのピースが合えば良い。嘯いてフロイドは紅茶を注いだカップをリドルの皿の横に置く。カップからあたたかな熱気が立ち上り、バニラの安らぐ香りがする。
ティータイムの準備を終え、フロイドはリドルの横に腰かけた。
大柄な彼が座る事で、ようやく大きすぎたソファの座りが良くなることに不思議と安堵する。フロイドの表情はいくらか普段の機嫌がいい時に近づいたが、先程までの様子にいくらかの不安が残った。
「食べないの?」
いつの間にかフロイドの顔が眼前に迫っていた。
(2023/03/08)