この日、ブラッドハウンドはプサマテにあるオクタンのマンションを訪れていた。
APEXゲームにレジェンドとして参戦すると、ドロップシップ内には個別の待機室が与えられる。
前シーズンのゲームで、ブラッドハウンドの待機室にオクタンが私物を忘れていったのだ。
携帯用の端末でその旨を伝え、以前教えられていた座標のマンションのロビーに到着する。
部屋まで行かずとも、ロビーまで降りてきてくれたら忘れ物を渡せる。すぐに帰るつもりだった。
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オクタンは驚愕した。
あのブラッドハウンドが、自分のマンションのロビーまで来ている。
実は、待機室に忘れ物をしていったのは故意だった。あのブラッドハウンドの部屋に、自分のものがあるという事実を作りたくて置いていったのだ。
マンションの座標を教えたのも、あわよくばと言うか。来てくれることがあればと言う下心だった。
結局、忘れ物作戦は失敗してしまったが、その失敗により部屋へ招こう作戦は成功した。
まあ概ね自分を褒めても良いだろう。ブラッドハウンドは進んで交友関係は作りたがらない。理由がなければ、わざわざ他人の家にまで来ないだろうから。
ただ、成功のタイミングがあまりにも悪い。
突然だったから、全く部屋が片付いていない。
ハウスキーパーを今から呼ぶなんて出来ない。自分で片付けると言っても、今まできちんと片付けなどしたこともない。それはメイドの仕事だったからだ。
もちろんロビーで会話を終わらせると言う案も浮かんではいる。しかし、ここまでブラッドハウンドが来てくれたのだから、部屋まで来てほしい。シップ内や、ゲーム中には話せないことも話したい。
しかし部屋が汚い。とんでもなく汚い。
オクタンは苦悩した。そして結局、部屋に招くことを選んだ。
幸い、高層階の部屋を借りているので、2Fにあるロビーからは到着まで少し時間がかかるだろう。
食べ物の残骸をゴミ袋に入れておくくらいは自分でも出来そうだった。
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チン、と控えめにベルの音が鳴り響き、目的の階層に到着する。
ロビーだけでなく、エレベーターや、降りた先のフロアまでもが豪華だ。
普段こんな場所には縁がない上、ゲーム中の格好のまま来てしまったせいでブラッドハウンドは自分が場違いだと感じて少し緊張してしまう。
教えられた部屋の前に立ち、一呼吸してから呼び鈴を鳴らすと、ものの数秒で鍵が開く音がした。
ガチャン!とすごい勢いでドアが開く。そこには、少し息を切らした様子のオクタンがいた。
いつものゴーグルや帽子はつけておらず、サングラスと無線のヘッドホン、タンクトップとハーフパンツと言うラフな格好だった。何か作業をしていたのだろう。動画の編集だろうか。
「よーブラッドハウンド!ウェルカム!と言いたいところだが、すまねえ、部屋が汚くてさ。もし気にならねえなら上がってくれるか?出せるもん炭酸飲料と水しかねえけど、」
初めて声をかけられた日のように饒舌だった。多分、オクタンも緊張しているのだろう。
「私は気にならないが…貴方が良いなら、上がらせてもらおう」
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招かれた部屋のリビングは、広かったが伝えられていた通りかなり雑然としていた。
中央に位置するソファには服がかけられており、その近くのローテーブルには読みかけの漫画と、空いていないスナック菓子の袋がある。漫画を読みながら食べようと思っていたのだろうか。床にはおそらく使用後のアドレナリンの空容器、エナジードリンクの缶、脱ぎ捨てられた靴下。一応部屋の隅に寄せてあるが、その所為で一角がゴミ捨て場のようになってしまっている。
おそらくプサマテの街が一望できるのであろう大きな窓は、何故か今はブラインドで遮られていた。
部屋に上がったブラッドハウンドは、何も言わずにリビングをキョロキョロと見回して、結局、とりあえずという雰囲気でソファの端っこに座った。
以前ライフラインを招いたときは、家の様子に驚愕され、小言を言われながら結局一緒に片付けることになってしまった。
しかし、ブラッドハウンドは何も言わない。本当に気にする様子もなく、ソファで持参したバッグの中をゴソゴソと探している。
いつもは堂々とした立ち居振る舞いをしているのに、ちょこんと空いたスペースに座る姿が少し可愛く見えた。
何も突っ込まないでくれるのはありがたいと思いながらも、それが逆になんだか気になってしまい、気恥ずかしい気持ちになる。
「それで、忘れ物を届けに来てくれたんだよな」
おそらく、忘れ物を渡したらブラッドハウンドはすぐに帰るのだろう。
オクタンは、次なる作戦を考えていた。
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新しいシーズンが始まった。
シーズンが始まると、まずは前シーズンでのレジェンド同士がエキシビションを行う。エキシビション後、オクタンはブラッドハウンドに声をかけた。
「ブラッドハウンド!今度うちに来いよ!」
「…何故?」
唐突に家に呼ばれる理由が思い当たらないブラッドハウンドは、つい怪訝そうに聞いてしまう。
「えーっと、アンタに見せたいものがあるんだ!ごめん、今度って言ったけど今日会えたし、今日来るか?今日にしねえか?なあなあ!」
「フフッ、わかった。では後で伺おう」
前回家に招いてもらったときの玄関先でも饒舌だったが、今日のオクタンは緊張しているわけではないとわかった。とにかく早く家に来て欲しいのだ。
そんなにも見せたい何かがあるのだろう。ワクワクして落ち着かない様子のオクタンを見て、ブラッドハウンドはつい笑みが溢れてしまう。
「よし!じゃあ後でな!座標は前と変わんねえから!じゃーな!」
了承をもらうと、オクタンは嬉しそうにどこかへ走っていった。
今でこそ話は遮らずゆっくり聞いてくれるようになったが、やはり溢れる衝動を抑えることが出来ないのは彼の生来の性格で、愛らしいところだ。
今日は手土産でも持って行こうかと考えながら、ブラッドハウンドは帰り支度を始めた。
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「あの椅子は前回はなかった気がする。何かあったのか?」
招かれた部屋は、前回より少し片付いていた。
床も綺麗だし、ソファにかかっている洋服はそのままだが、これはおそらく朝着替えたときに掛けてそのまま出てきてしまったのだろうと推測できた。
そして、窓側に椅子が一つ増えている。赤いクッションが敷き詰められたハンギングチェアだ。
スタンドから吊り下げられた丸く黒いバスケットは、ラタンで作られている。鳥籠のように囲われているが、丁寧に編まれたそれはほどよい透け感があり、背もたれも広く取られているため、守られているような安心感を得られそうだ。
クッションの深い赤色はブラッドハウンドをイメージしたのだろうか。ブラッドハウンドは装備がかなり多いが、このクッションの量ならそのまま座ったとしても背中が痛くないだろう。
ゆらりゆらりと揺れるハンギングチェアは、ドロップシップ内のブラッドハウンドの待機室にあるハンモックから着想を得たのだろう。見れば見るほど、きっと自分のことをたくさん考えて選んでくれたのだとわかる。
「アンタが座れるように買ったんだ。前うちに来てもらったときにさ、片付いてないのは良いとして…いや良くねーけど、アンタが座りづらそうだった気がして。ブラッドハウンド専用だぜ!」
「私の?」
「そうだ!だから買ってからはあの椅子だけは絶対に汚さないように頑張ったんだよ」
ブラッドハウンドは驚いてしまった。
正直なところ、前回招かれた際、ブラッドハウンドは部屋が雑然としていることに安堵していたのだ。豪華なロビーやフロアに気圧されていたので、これで家の中までピカピカに掃除されていたらどうしよう、居場所がないと感じそうとすら思っていた。
しかし自分のためを思って椅子まで購入してくれたオクタンの行動には、単純だと思うが嬉しくなってしまう。
それに、おそらく片付けが苦手な彼が、自分がこの部屋を訪れるまで椅子とその周りだけは必死に綺麗に保ってくれたことも。
心臓をギュッと掴まれたような気がした。
「…なんだか照れてしまうな」
「照れんなよ!俺の方が照れるだろ!」
「すまない。…すごく嬉しい。ありがとう」
「ヘヘッ、いいんだぜ!今日はなんと、紅茶も準備してある!」
「私は一緒に食べられるように焼き菓子を持ってきた。丁度良かったな」
「ヒュー!優雅だねえ」
早速紅茶の準備をしようとキッチンの方に向くと、後ろから控えめな声でブラッドハウンドが話しかけてきた。
「あの、先に椅子の場所を少し移動しても良いだろうか?えっと…実は高いところが苦手なのだ」
「そうだったのか!?知らなかったぜ、すまねえ。どこがいい?」
ブラッドハウンドは少し考えて答えた。
「貴方の隣ならどこでも」
「…その言い方、なんかすごい熱烈だな!」
オクタンが椅子に手をかける。
二人で場所を決めたら、紅茶を淹れて、たくさん会話をして、もし良いと言ってくれるならディナーだって一緒に食べたい。
ブラッドハウンドは外食よりも、家の中でデリバリーを取ったほうが喜ぶだろう。何か好きだろうか。
これから始まる二人だけの時間は、穏やかで楽しい時間になるだろう。
今日の午後はまだまだ長い。