中国の造形芸術の歴史先史時代:
人面等身近な意匠を描いた彩陶や黒陶が生まれた。殷王朝時代には甲骨文字や青銅器文化が発展。鴟鴞尊「婦好」銘は殷王朝の実在を証明した。
周代には華南で漆器が発展。青銅器は鋳造技術の発達により器形が豊富になり、装飾も金銀錯などが発展した。北方では遊牧民族の影響を受けた金冠飾等が生まれた。
秦漢王朝:
兵馬俑坑など皇帝・諸侯の陵墓埋葬品が特に重要。先史時代から貴重であった玉器は金褸玉衣に発展した。副葬された明器は当時の生活を知る大切な資料である。また神仙思想を反映した画像石が生まれた。
南北朝:
南朝で貴族文化が栄え、顧愷之の画、王羲之の書は記録としての画や書を超え芸術の域に押し上げた。北朝では仏教が広まり敦煌石窟、雲岡石窟、龍門石窟の中国三大巌窟が開鑿され、合計15万体以上の石仏が掘られた。特に龍門石窟の賓陽三洞は仏像に中国的な特徴が見られ、南朝で興隆した仏像様式が伝播したとされる。
隋・唐:
敦煌莫高窟の壁画が仏の教えを示すようになる。またインドの影響を受け、写実的な仏像が作られた。四川では世界最大の楽山大仏が治水と死者の弔いを目的として作られた。宮廷では西方文化を吸収した貴族文化が栄え、永泰公主墓の美人画が当時の宮廷生活を伝える。西安市何家村で発見された金銀器や正倉院に渡った螺鈿紫檀五弦琵琶など雅で精緻な工芸品が生まれ、書の世界では欧陽詢らが楷書の典型を完成させた。
五代十国・宋:
十国で禅宗などの中国的な仏教が発展した。文化の担手が地主に移り、仏像は生身の人間に近い表現をとる。 大足石刻の仏像の多くは宋代に作られ、 宝頂山石窟では庶民的な表現もみられた。北宋時代に山水画の発展が頂点に達し「平遠山水」の李成と「高遠山水」の范寛が華北山水画を二分した。後に郭煕がこれらを統合したが、その結果地域性や写実性が弱まり、より理想化された山水画の発展を促した。
南宋時代には宮中の画院を中心に南宋院体画が成立。馬遠と夏珪はこれを発展させ対角線構図や余白を用いた様式美を追求した。また禅宗では黒戯が支持され日本にも伝わった。
陶磁器は北宋では定窯で白磁が、南宋では各地で青磁が生産された。耀州窯はオリーブ色の釉薬、汝官窯は繊細な宮廷御用品を特徴とする。竜泉窯は民間の釜で、南宋から明にかけて淡青釉の青磁を生産した。
元・明・清:
元代に趙孟頫が王羲之への回帰を志し文人画が復興。黄公望は書法を用いた水墨画の大作「富春山居図」を描いた。道釈画が発展し顔輝の「蝦蟇鉄拐図」が有名。明代前半は職業画家の浙派が、後半には文人画家の暮派が活躍した。清代には個性的な画風の画家が各都市で活躍。中期に更に独創的になり、抽象画のような画風を持つ八大山人や外国人画家の郎世寧らが活躍した。
精緻を極めた陶磁器が各地で生産され、青花磁器の景徳鎮は世界で愛された。明代後期にはカラフルな五彩磁器、清代には琺瑯採器の技術が確立された。
本文総文字数 1199字
註・参考文献
参考文献
金子典正編 「アジアの芸術史 造形編1 中国の美術と工芸」、藝術学舎、2013年