ヴァシリにタイタニックしてもらった 第2話「Ты в порядке, Дион(絵がお上手ですね)」
不意にロシア語で話しかけられ、思わず振り向くと、身なりの良い、私よりわずかに年若な男が立っていた。
ユリカモメはどこかに飛んでいった。
セルゲイ・エリセーエフ(Сергей Елисеев)。
サンクトペテルブルク出身。
ロシアの高級食料品店業者「エリセーエフ商会」を営む大富豪の家の次男として生まれる。
『カラマーゾフの兄弟』、『アンナ・カレーニナ』の中でもエリセーエフの店の商品が描写されている。
1917年のロシア革命によってエリセーエフ家は全てを失い、政府に店を接収され「国営食料品第1号店」とされたが、人々は「エリセーエフの店」と呼び続けた。
現在でも豪奢な店舗がサンクトペテルブルクに残っている。モスクワにも店舗があったが新型コロナ禍による観光客の減少や安価なスーパーへの客の流出などで経営が悪化し、2021年に閉店。
ただ、モスクワ市は店舗の歴史的価値に鑑み、閉店後も店舗を保存する方針である。
セルゲイは少年時代に訪れたパリ万博をきっかけに東洋に興味をもち、日本留学を志す。
東京帝国大学に初の外国人学生として入学し、日本文学を研究した後、1914年にロシアに帰国するまでは夏目漱石の木曜会に通ったり、寄席や芸者遊びなどに興じたりなどして、日本文化に触れた。
ロシア革命後はフィンランドを経由してパリへ亡命し、ソルボンヌ大学で教鞭をとった。
その後ハーバード大学へ移り、エドウィン・ライシャワーをはじめとする日本研究者を育成した日本学の祖といえる人物である。
「あ、いきなり失礼しました。
私はセルゲイ・エリセーエフと申します。
久しぶりにロシアの方を見かけたものですから、つい…」
「………」
「日本に来てからロシア語を話す機会がめっきり減ってしまいまして…それで、つい貴方に…。
…ロシアの方、ですよね?」
……警戒する相手でもなさそうだったので、口元の覆いを外した。
「!?
その傷……戦争で、ですか…?」
「……」
私は首を横に振った。
「そう、ですか…。それで、バシュリクをそんな風に巻いてたんですね…。
…あの、もしよかったら筆談しませんか?」
そう言って彼は胸元から上質そうな手帳と万年筆を取り出し、私に差し出してきた。
特に断る理由もなく、船が次の港に着くまで数日はかかりそうなため、暇つぶしに付き合うことにした。
「御名前は?」
『 Васи́лий Павличенко 』
「ヴァシリさん、ですね。
それにしても絵がとてもお上手ですけど、美術学校に通っていたのですか?」
『行きたかった』
「…そう、でしたか。
いや、実は私の兄がサンクトペテルブルクの美術学校を出ていまして…。兄よりも遥かにお上手ですよ…。見せたいくらいだ…。
ところで、ヴァシリさんは何故日本へ?帰国なさらないのですか?」
『とある標的を追って日本に来た。
だが、もう終わったので日本から離れることにした。
このまま、アメリカまで行くつもりだ。
軍にはもう戻らないと決めたので、祖国にも戻らない。
お前は、アメリカまで行くのか?』
「標的、ですか…?
そうですか、ロシアにはもう帰らないのですね…。
でも、貴方ならきっとどこに行っても大丈夫そうですね。アメリカで画家として大成するかもしれませんし。
いえ、私は横浜で降ります。そこから東京の大学へ戻るところです。
冬休みを利用して北海道を旅行してたんですよ。」
ーーーーー
食事にはほとんど手をつけず、親族一同の形式的な会話に何も考えずに相槌を打っていた。
午餐が終われば男性は男性同士でウイスキーと煙草を手にしながら撞球に興じる。
女性は女性同士、噂話の茶会が始まる。
自分の結婚のための集まりではあるものの、実際は家同士の極めて政治的な催しに過ぎない。
だから、私自身がこの場を離れたところで気にする者はいない。
継母の隣にずっと座っていたせいか、香水の匂いで頭痛がしてきた。
外の空気を吸いに行くために、鈍い痛みがする頭を抱えながら私はテーブルからそっと離れた。
ーーーーー
セルゲイは見た目の通り人当たりが良く、この思わぬ話し相手に柄にもなく随分と話し込んでしまった。
海の色がオレンジ色に染まりつつあり、もう少しで日没だ。
ユリカモメの絵は途中で終わったままだ。
「じゃあ、ヴァシリさんはお酒よりもお茶が好きなんですね。
私もどちらかと言うと、お茶が好きなんですよ。付き合いで飲まなければならない時もありますが…。
食べ物だとウハー(уха : 魚のスープ)が好きで、日本にも美味しい魚料理がたくさんあって有難いです。
…そうだ、明日よかったら昼食をご一緒しませんか?
今晩は、読まなければならない本がありまして…。」
『構わない。明日、楽しみにしている。』
「ありがとうございます!
そういえば、ヴァシリさんはどちらの部屋にお泊りで?」
『私はここで寝る。』
「え」
『部屋は無い。』
「ここって…。外で寝るんですか?
…風邪ひきませんか?」
『慣れている。』
「は、はぁ…。そうですか…。」
『楽しかった。また明日。』
ーーーーー
3階のサンデッキに出たまま、少しずつ沈んで行く夕陽を眺めていた。
もう少しすれば日没だ。
晩餐会が始まれば、またあの場所に戻らなければならない。
本来ならば、今は既に部屋に戻ってイブニングドレスに着替えなければならない時間のはずだ。
しかし、全身が拒否反応を起こしているのか私の身体はいつまで経ってもそこから動こうとしなかった。
…きっと継母たちが私を探していることだろう。
ずっとこの夕陽を眺めていられたら、どんなに良いだろうか。
したくもない結婚なんかせずに。
ずっと、このままーーー。
ーーーバサッ。
「!」
ぼうっとしていたせいか、私の目の前にある欄干にいきなり止まってきた鳥に驚いてしまった。
ユリカモメ……?
ーーーーー
「はい、ではまた明日。」
ーーーバサッ。
セルゲイがそう言った瞬間、私たちの目の前にユリカモメが着地した。
昼間私が描いていたユリカモメだろうか。
「戻ってきたんですかね。」
セルゲイがそう言った瞬間、ユリカモメはまた羽ばたいた。
しかし、今度はすぐに上のデッキの方に飛んでいった。
なんとなく飛んでいった方向を目で追った。
ユリカモメが上の階のデッキの欄干に止まったかと思うと、そこには若い女が立っていた。
闇夜を糸にしたような黒髪を横に編み、上等そうな紫色の着物を着た、やたら品の良い女だった。
動物に例えるなら、雪原に佇む鶴のようだ。
この船には金持ちの連中もたくさん乗っているようだが、彼女はどこかその連中とは違って、すぐにでもここから逃げ出したいような目をしていた。
「綺麗な人ですね…。」
隣にいるセルゲイが言う。
「まさに大和撫子のような方ですね…。
日本女性の理想的な姿だ…。」
ヤマトナデシコが何なのかはよく分からなかったが、確かに慈愛に溢れた、聡明そうな顔立ちをしていた。
はでやかな美しさというよりかは、楚々とした一輪の花のような印象だった。
祖国で見かけた女とは全く異なり、国が違えばここまで違うものなのだろうか。
とはいえ、彼女の目はその黒髪に負けないくらい沈んだ色をしていた。
若くてきっと裕福であろうはずの彼女の目はなぜあんなに絶望の色をしているのだろうか。
「日本の古典の源氏物語に『桐壺更衣』という女性がいるのですが、まさにあのような方な気がします。
更衣という身分でありながら帝の寵愛を受けたが故に、ほかの身分の高い女房たちから妬まれたのです。
幼い主人公の光源氏を残して亡くなりましたけど…。
何というか、日本女性特有の儚さや憂いがありますね。」
セルゲイの教養溢れる台詞を聴き流しながら、私はその女を眺めていた。
「もしくは『浮舟』かもしれないですね。
源氏物語の宇治十帖という最終章に出てくる女性です。
薫大将と匂宮という二人の貴公子と関係をもった末に川に入水するんですが、未遂に終わるんです。
そして髪を切り、出家するのです。
薫大将が浮舟が生きていることを聞きつけて再度求婚するのですが、彼女は断り、そこで源氏物語は終わるのです。
紫式部がどんな意図をもって宇治十帖を書いたのかは興味深いですが、浮舟は『新しい時代の女』なのではないでしょうか。
男女の仲の悲喜交々をあれだけ書いておきながら、源氏物語の最後の女は彼女なのですから。
あの時代の日本の女性ですから、勿論今よりもっと選択肢が少ないでしょうけれど、きっと強い女性としての理想を浮舟に託したのでしょうね。
それに比べて、薫大将のような貴族の男はそれまで通りの平安貴族の恋愛をしようとしている。
紫式部は後に来る戦乱の時代を見越して、当時の貴族の凋落を表現したんでしょう…。」
「…………」
少しの間なのか暫くの間なのかは分からなかったが、私とセルゲイは彼女を眺めていた。
すると彼女の背後から、色彩の強い着物を着た年増の女と、彼女より歳下と思われる若い女二人が荒い口調で何かを彼女に言っている。勿論日本語なので何を言っているかは私にはわからない。
母親と妹だろうか。それにしては、彼女と全く似ていないような…。
年増の女とあとの若い女二人は顔立ちが似ているが…。
3対1という構図の中、彼女は女3人に半ば強制的に連れて行かれた。
「……どうやら、訳ありのようですね。」
ーーーーー
晩餐会がやっと終わり、窮屈なドレスを脱いで今はもう寝間着に着替えている。
ユリカモメをぼうっと見つめていたら、案の定、継母と異母妹たちがやってきた。
『貴方、自分の立場分かっているの?』
『お相手の方は貴方のこと気に入っているんだから、絶対捕まえておかなきゃ、私達は終わりなのよ!』
『アメリカで新婚生活を送るっていうから、わざわざこんな船旅に付き合ってるのに』
また、何も言い返せなかった。
ただ、ただ、流される自分が情けなくて悲しかった。
川をさまよう小さな笹舟のような自分がみじめで仕方なかった。
ユリカモメが羨ましかった。
自由気ままに、気の赴くままに空を飛び、好きな所に止まれるユリカモメが羨ましかった。
「まだ起きてらっしゃいますか。」
部屋の外から、男性の声。
ーーー婚約者の声だ。
無視するわけにもいかないので、
「は、はい…。
何か御用でしょうか…?」
「……貴方にお見せしたいものがあるので、来ていただけないでしょうか。」
時刻は既に0時を過ぎてはいたが、返事をしてしまったからには断る訳にもいかず、私は羽織を羽織ってドアを開けた。
婚約者は晩餐会に着ていたタキシードではなく、少し楽そうなスリーピーススーツを着ていた。
婚約者の部屋に通され、一体何があるのだろうと思ったら、そこには照明に照らされ、煌々と輝いている真っ白なウエディングドレスがあった。
「欧羅巴を視察していた時に、フランスのデザイナーに注文して作らせたものです。きっと貴方によく似合いますよ。」
「………」
真っ白に輝いているはずの美しいウエディングドレスはなぜか、私に真っ黒な光を放っているように見えた。
もう、後戻りできない。
この人の妻になるしかない。
これは、婚礼衣装などではない。
白い囚人服である。
「……お気に召しませんでしたか?」
「…いえ、あまりにも見事なドレスなもので…。私には勿体ない気がして…。」
「そんなことはありませんよ。貴方のために作らせたのですから。
挙式本番は、招待客は皆んな貴方に見惚れると思いますよ。」
「…ありがとうございます。」
「……」
「…素敵なものをお見せしてくださって、ありがとうございました。
もう遅いので、私はお暇いたします。
…おやすみなさい。」
心臓が嫌な鼓動を刻み始めたので、少し早口で私はそう言った。
「…お待ちください。」
それまでとは打って変わった低い声だった。
次の瞬間、私はベッドに押し倒されていた。
婚約者の吐息が首のあたりにかかり、一瞬で私の全身に緊張が走った。
「…もう、夫婦になるのだからいいでしょう?」
「……っ!」
荒い息をさせながら、婚約者は私の首の横に顔をうずめてきた。
そして片方の手で長襦袢の上から私の太腿を、もう片方の手で私の左胸を包むように撫で始めた。
全身が凍ったように動けず、天井の草花の模様をすがるような気持ちで見つめていた。
「君が幼い時から、ずっと想っていた。
きっとこの子は美しい娘に育つだろうと思った。
芸者だった継母と腹違いの妹たちにいじめられてたんだろう?可哀想に。
もう、大丈夫だからね。
私がたくさん愛してあげるからね。何も心配しなくていいよ。」
そう言って婚約者は私の長襦袢をたくし上げ、太腿の内側のさらに奥、脚の間に触れてきた。
「……っ、いやっっっ!」
「!」
全身の力を振り絞り、婚約者の身体から抜け出し、無我夢中で部屋から飛び出した。
ーーーーー
今夜は満月だ。
幸い雨も降らず、外で眠るのに面倒がなくてちょうど良かった。
とはいえ、特に疲れてもいないのでまだ目が冴えている。日付はとっくに変わっているだろう。
昼間の賑やかさがまるで嘘のように、船は深海を進んでいるかのように静かだ。
やはりこのような静けさの方が性に合っている気がし、このしんとした空気を愉しんでもいた。
…夕暮れに見たあの彼女はもう、眠っているだろうか。
きっと1等室の暖かいベッドの上で眠っているだろう。
……彼女は、一体何に絶望しているのだろうか。
彼女の身分なら、飢える恐怖などではないはずだ。
あの年頃で、そして3人の女たちに連れて行かれたとなると、やはり結婚絡みだろうか。
上流階級は、上流階級同士で結婚をするのが当たり前だろうから彼女もきっと裕福な男の妻になるのだろう。
裕福な男の妻にーーー。
ーーーーー
寝静まった廊下を突き抜け、何も考えずにとにかく外に出るつもりで走った。
羽織はあの部屋に置いたままだとふと思いつつも、取りに戻れる状況でもなく、もう何もかもがどうでもよくなった。
ーーーもう、いやだ。
ガラス張りのエントランスの扉を開けると、そこは水を打ったようにしんとしたデッキが広がっていた。
月明かりがデッキにあるテーブルや椅子を白々と照らしていた。
人が居ないだけでとても広く感じ、まるで終演後の舞台の上に一人で立っている心持ちになった。
その静けさに少しの恐ろしさと同時に安心感のようなものを感じた。
そして、私の脚はゆっくりと私を船首へと運んだ。
ーーーーー
「………」
しばらく月を眺めていた。
ーーータッタッタッタッ
「?」
1人分の足音が近づいて来た。
女……?
彼女だーーー。
夕方に見た時の着物ではなく、髪も結っていないが、間違いなく彼女だ。
満月の下、デッキに一人佇む彼女の姿はまるでこれからアリアを歌うプリマ・ドンナの
ようだった。
きっと、都会の人々はこんな舞台を観るのだろう。
私は観客のような心持ちで彼女を眺めていた。
静々と船首の方へ歩く彼女の姿は恐ろしいほど美しく、まばたきをするのすら惜しかった。
ーーーーー
船の先端にたどり着き、手すりに手をかけ、ゆっくりと夜の海を覗き込む。
空には満月がかかっているとはいえ、船のすぐ下の海の水は真っ黒である。
ーーーここに飛び込みさえすれば、全てが終わる。
足が甲板を離れ、船と縁が切れたその刹那に、急に命が惜しくなった。心の底からよせばよかったと思った。
けれども、もう遅い。自分はいやでも海の中へ入らなければならない。
目を閉じたが、身体はちっとも冷たくなく、濡れてこない。
まさか、もうあの世に着いたのかと思い、恐る恐る目を開けた。
ーーー私の腕を、誰かが後ろからつかんでいた。
✳︎「足が甲板を離れ〜」の部分は、夏目漱石の「夢十夜」の第七夜から引用してみました。