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    TaigaTorazo

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    TaigaTorazo

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    ・vsr夢
    ・明治軸

    ヴァシリにタイタニックしてもらった 最終話アメリカへの船旅は今のところ順調のようだ。
    愛用の香水を首や耳元につけながら、そんなことを考えていた。
    私はトメ姐さんのように、子どもを身籠った末に茨城の田舎に引っ込むなんてことは絶対にしたくない。彼女は妙に聞き分けが良いせいで、茨城の鄙びたところへ移り住んだが、私なら願い下げだ。
    都会の良い家に住み、良い服を着て、良いものを食べるーーー。
    これこそが人生において最も大切なこと。
    特に女に産まれたからには。
    だから私は高価な着物を着て、舶来の香水だってつけてみせる。
    男がなにもかも仕切るこの時代において、女はとことん男を利用するしかないのだ。
    あの人が亡くなってから、この家は没落まっしぐらであることは明白だ。
    なんとしても、あの娘を金持ちのところへ嫁がせなければならない。
    あの娘には遠くとも皇族の血も入っているし、器量もまあ良い方であるから、成り上がりの金融業を営んでいるあの男はすぐに食いついた。
    まあ、あの娘が幼い時からあの眼鏡男は彼女のことを知っていたようだが…。
    そうでなければ、私は質の良い着物や香水が買えないし、私の娘達も女学校に通い続けることができない。
    幸い、相手の男は彼女をいたく気に入っているようだし、もっといえばアメリカに着くまでにあの男が彼女と子作りをしてしまえば万々歳だ。
    「お母さん、またあの人どっかいなくなってるわよ!」
    「今日の晩餐会はダンスがあるというのに…!婚約者の人を一人にさせておく気かしら!」
    もう時間がない…。
    仕方がない、会場に行って婚約者の男には私から適当にはぐらかしておこう。

    「ご機嫌麗しゅう、マダム」
    「こんばんは」
    煌びやかなシャンデリアの下、着飾った人々がホールに賑わい、まるで絵画のようだった。
    娘二人にも友禅の振袖を着させ、化粧も念入りに施し、美しく着飾らせた。あの娘はもう嫁入りするので、この振袖もこのまま娘たちのものにするつもりだ。
    この晩餐会は上流階級の人間が招かれているので、御曹司や洋行帰りの若い男なんかが見初めてくれれば御の字だ。
    そんなことを考えながら、するべき人間に挨拶を手際良くこなしていく。
    「あら、お久しぶり。相変わらずお綺麗ね。新しいお召し物もよくお似合いよ」
    「こんばんは。この度はアメリカで挙式をするそうですな。いやあ、景気が良くて羨ましい限りです。」
    「なんたって飛ぶ鳥を落とす勢いの銀行家に嫁ぐんですものな。これでお家も一安心でしょう。」
    「娘さん二人もすっかり大人らしくなって…。嫁入りの準備もさぞかし大変でしょう。」
    「その前に、亡き大佐の娘さんがいらっしゃるのでしょう?ホラ、今言ってたアメリカでお式を挙げるっていう…」
    「その花嫁は今晩はどちらにいらっしゃるのですか?是非お目にかかりたいものですな。聡明で美しいお嬢さまだと聞いておりますよ。」
    「それが、今はちょっと……。」
    早速返事に窮したその刹那、その場にうごめいていた人間がある一点に視線を向けたまま静止した。
    まるで、時が止まったかのように。
    視線の先に私も目をやる。
    すると、そこにはすらりとした純白のドレスを着た若い女とタキシードに身を包んだ見慣れぬ外国人の若い男が立っていた。


    その場にいる誰もがあまりにも美しい二人に釘づけになり、言葉を発する者はいなかった。
    「品」とはこういうものなのだろうか。
    死んだあの娘の母親にもあったような、何か侵し難い空気を感じた。
    「どこの宮家の方だ?」
    「なんて可愛らしい人だ…」
    「どこぞの国の皇太子夫妻か?」
    「いや、日本人とあれは明らかに西洋人だろう。王族ではないはずだが…。」
    「あ、あの人…どうしちゃったのよ…。外国人なんか連れて…。しかもあのドレス、婚礼用のじゃない…?何考えてるの…?」
    「あんなのあの眼鏡男に見られたらまずいんじゃないんの、お母さん!」
    娘たちの声にハッと気が付き、あの娘に問い詰めようとした時にはもうたくさんの人々が彼女たち二人を取り囲んでいた。
    「今晩は、素敵なお嬢さん」仏蘭西人の老紳士が話しかけた。
    「こんばんは。ムッシュー」流麗な仏蘭西語で答えた。
    「とても美しいドレスですな。貴方によく似合う。」
    「ありがとう。フランスのデザイナーが仕立ててくださったものですの。」
    「隣の男性はフィアンセですかな?」
    「いえ。彼は、ご覧のとおり傷でうまくしゃべれないので私が彼の口になるつもりでいますわ。」
    「それは素敵ですな。お二人にたくさんの幸せがありますように」
    「ありがとう」



    今夜の晩餐会は途中でダンスがある。
    そこで彼女と踊ってみせれば、私たちは周囲からも夫婦だと扱われる。
    ようやくだ。
    幼いあの娘を見たあの時から私のものにしたいと思った。
    親が二人とも死んだのは想定外だったが、あの浅草で芸者をしてたとかいう妾に金を渡すことと引き換えに、あの娘を手に入れることができるので問題ない。
    あの夜、彼女を抱こうとしたが拒まれた。
    部屋にも戻っておらず、なんとはなしにデッキに出てみたら、外国の男にのしかかっていたではないか。それも兵士ときた。
    あの大人しい女がどういうことだったのだろうか。
    魔が差してそういうことをしたとも思ったが、そんな行動はできない女のはずだ。
    今朝念押しで聞いたが、あの反応からいって何もなかったことが伺えた。
    あのロシア兵が何故彼女とあんなことになっていたのかは不明だが、婚約者である私の女と抱擁してたことは許し難い。
    自分の女が異国の男に取られるなんてことはあってはならない。
    あの娘は俺のものだ。



    「今晩は」
    「今晩は」
    「もうすぐご結婚されるそうですね。おめでとうございます。」
    「ありがとうございます。」
    「で、花嫁はどちらに?」
    「…あぁ、支度に手間取っているようでしてね。ここで落ち合うことになっているんですよ。もうすぐ…」
    どよめきが一瞬起こり、その場にいた人間の目がある一点へと集中した。何かと思い、同じく視線を移すと、そこにはあの娘と外国人がまるで新婚夫婦のように寄り添っていた。
    あの男は、あの時のロシア人か。
    「あれ…?あの女性がもしや貴殿の花嫁で?何やら西洋人と一緒にいるようですが…」
    目の前にいる無知な老いぼれ紳士がそう言うと、
    「ええ、洋行帰りの私ですら驚くほど妻は外国語に堪能でしてね、今夜の晩餐会では外国人の通訳も兼ねて出席することにしてもらってるんですよ。自慢の妻です。」
    流れるように言葉が口から吐き出た。
    あの男…。



    大人しそうな彼女はどうやら英語やフランス語が達者であることに私は内心驚くとともに彼女がこんなに輝いている姿を真近で見られることに自分の幸運を感じた。
    そう、本来ならば上流階級であろう彼女はこのようなドレスを着てやわらかな絨毯の上で優雅な会話をする人生をこれからも歩んでいくはず…。やはり彼女にはこういった場所がふさわしい。…あの何もない冷たい風が吹く夜のデッキなどではなく。
    そんなことを思いながらこの会場で一番輝いている彼女の隣に私はいた。
    「…御二方、あちらのテーブルで夕食はいかがですか?」
    正面からあの時の眼鏡の男、つまり彼女の婚約者が声をかけてきた。明らかに嫉妬に満ちた目線を私に向けながらーーー。


    彼女の左隣に座り、彼女の向かい側の正面には彼女の婚約者が座った。7、8人ほど座れそうな長方形の長テーブルの残りの席には彼女の親族が座った。彼女に似ていない妹達と母親もいた。それぞれ怪訝そうな目を私と彼女に向けていた。
    私は明らかに部外者だった。
    「…そちらの方は?」
    彼女の継母という女が口を開いた。
    「昨日知り合った人です。」
    彼女はさらりと答えた。
    「昨日って…ほぼ初対面の外国の男性にエスコートしていただくなんて、貴方も大胆なことをするのねぇ。」
    「どこの国のお方?」
    彼女の義妹の一人が探るように言う。
    「ロシアからいらっしゃったそうです。ヴァシリ・パヴリチェンコさんです。」
    彼女は旧くからの友人のことを話すようにやわらかな微笑みと澄んだ瞳で答えた。心なしか私の名前を言う時にその澄んだ目が一層輝きを増していたように見えた。
    向かい側に座る眼鏡の男はきっと私のことをよく思っていないだろう。だが殴りかかるようなことはせずに周りで取り囲むようにして値踏みするように見つめてくるのはこういった階級の人間であるからだと思われる。
    それゆえにあえて部外者である私を彼女の隣の席に座らせ、会話は全て日本語なのだろう。まぁ、私に関しては良く言っていないことは伝わってくるのだが…。
    「実は私も昨夜お見かけしたのですが、ヴァシリさんは軍人でいらっしゃいますよねぇ?そのお顔の傷は日露戦争で?」
    眼鏡の男がねちっこい口調で私を見つめながら彼女に問う。この傷のことを言っているのだろうか。
    「ええ、でももう退役されていますの。それからとても絵がお上手なんですよ、ほら。」
    そういって彼女は私が描いた彼女の絵を見せた。
    「ヘェ、上手いじゃない。写真みたい。」
    彼女のもう一人の妹が若い娘らしく好奇心旺盛な目で見つめた。
    「まぁでも絵描きさんじゃあ、ねェ…。」
    別の義妹が言う。どこか嘲笑するような表情だった。
    「私たちの挙式の際に肖像画でも描いてもらいましょうかねぇ。これだけ彼女を上手く描けるのなら、ウエディングドレスをちゃんと着た姿を描いてもらった方が良いでしょうから。今は装飾を大分取り外して着てきたみたいだからねぇ。」
    眼鏡の男が言う。
    「いいえ、その必要はありませんわ。私この絵だけで十分ですから。私はヴァシリさんが描きたいものを描いてほしいと思ってますわ。」
    「随分と仲が良いんですね、知り合って間もないその方と。」
    「もうお暇していただいたらいかがです?あまりお酒も召し上がらないようですし。ヴァシリさんも慣れない環境で疲れるでしょう。」
    「そうですわね、もうお暇していただきましょう。私達だれもロシア語なんてしゃべれませんもの。この方だって退屈でしょう。」

    『…』

    どうやら私は退席するべき人間のようだ。その空気を察した為、私は立ち上がった。
    そして隣に座っている彼女の手を取り、グローブ越しの彼女の手の甲に触れるだけのキスを落とした。


    「…」『…』

    私は周りの連中の目線などは構わず、彼女の手を意味ありげに握りしめながら彼女の目を見つめた。
    そしてその場を去った。




    彼の手の温もりがまだある手には何かが入っていた。
    テーブルの下で誰にも見られないようにそっとその小さな紙きれを開いてみた。
    『…!』




    やっと晩餐が終わり、私は部屋にも戻らず先ほど彼がくれた紙を握りしめながら足早に大きな時計台のあるロビーへと向かって行った。辺りを見回すと人はまばらで、部屋に戻る人もいた。
    ここで待っていればいい…はず…

    あ…


    見覚えのある彼の後ろ姿が見えた。なにやら時計台の立派な装飾に見入っている様子だ。タキシードではなく彼がいつも着ているであろうシャツ姿だった。
    なんて声をかければよいのか、と思った瞬間に彼がこちらに振り向いた。
    この時の私たちに言葉は要らなかった。



    私も彼も何を言うでもなく、私はただただ彼の半歩後ろから彼の後をついて行った。着いた先は一等船室のとある部屋の扉の前。
    彼が扉を開けると、
    「待ってました、おねえさま!」
    「今晩は、ようこそいらっしゃいました。」
    なんとチヨタロウちゃんと昼間お会いしたセルゲイさんがいた。
    ということは、ここはセルゲイさんのお部屋…?
    『まぁ…まさかずっと待っていてくださったんですか?』
    「ヴァシリさんの発案なんですよ、貴方のためにお茶会を開こうって。」
    よく見ればさっきからいい香りが漂っていると思ったら…。綺麗なティーセットや西洋菓子がテーブルに並べてある。
    『皆さん…どうもありがとう…。』


    「(喜んでもらえてるようでよかったですね)」
    隣に座っているセルゲイが私に小声で言った。
    私は無言でうなづいた。
    先ほどの夕食の席とは比べものにならないほど質素な席だが、彼女の表情はこちらにいる時の方が瑞々しく見える気がする。セルゲイにはすまないが、堅苦しい服を着ているよりも普段着ている服のまま、こうして温かい茶を飲んでいる方が私自身、性に合っている。…彼女も同じ気持ちでいてくれるだろうか。
    そんなことを考えながら血縁者である少年の隣で微笑む彼女の顔を見つめていた。


    楽しい時間はあっという間に過ぎてしまった。もう日付が変わっている。子どもであるチヨタロウちゃんにもこんな時間まで付き合わせてしまった。(それにもかかわらず、全く眠くなさそうなのがすごいと思った)ご両親には明日改めて私の方から謝ろう。
    『皆さん、本当にありがとうございました。こんなに楽しい時間は本当に久しぶりです。
    …これで、心おきなく嫁ぎに行けます。』
    努めて笑顔でそう言った。
    チヨタロウちゃんが寂しそうな顔をし、セルゲイさんはじっと何かを思案しているような眼差しを私に向け、ヴァシリさんもどこか私の笑顔のぎこちなさを見抜いたのか、黙って私を見つめていた。
    「これ、貴方に差し上げます。」
    そういってセルゲイさんからもらったのは、小さい文庫本くらいの本のようなものだった。
    これは…
    「露日辞典です。貴方ならきっと使いこなせると思って。私のお古で恐縮ですが。」
    『…ありがとう、ございます。』


    チヨタロウちゃんを部屋まで見送り、今はヴァシリさんと二人、私の部屋に向かっている。
    …いつまでも、こうしてこの人とこうして歩いてみたい。
    そんなことを考えながら、永遠に部屋に着かなければいいのに、なんてことを思っていた。そして自分の部屋の前に来た時、どちらからともなく私たちは抱擁した。
    言葉が話せない彼と、彼の言葉が分からない私ーーー。
    彼のことをもっと知りたい、彼を理解したい。
    そして、もし許されるのならば彼とーーー。
    彼の胸の中で目をつむり、揺れ動く自分がいた。


    抱擁した後、私が『おやすみなさい』と言うと、伝わったのかヴァシリさんはじっと見つめてから去っていった。部屋の中に入り、シャワーを浴びてから寝間着に着替えた後、ベッドの中で私はセルゲイさんからもらった露日辞典を未知の世界への通行手形のような気持ちでページをめくり始めた。


    「珈琲は?」
    給仕の女性の声で寝不足の頭が現実に戻った。
    『あ、結構です。どうもありがとう…。』
    今朝もまたよく晴れており、朝日に照らされたカトラリーや皿が煌めいている。
    「夕べずっと待っていたんだよ。」
    よく磨かれた眼鏡越しに睨みつけるような目線で婚約者であるはずの彼が言った。
    『…ちょっと、疲れていたんです。』
    「そりゃあ、言葉も通じない外国人とずっと一緒にいればねぇ。」
    『…』
    「ああいう行動は二度ととらないでくれよ、いいねぇ?」
    『…私は貴方の銀行の従業員じゃないです、命令しないでください。…私は貴方のフィアンセです。』
    「…フィアンセか。あぁ、僕はフィアンセだ!フィアンセでもあり、君は僕の妻だッッ!!」
    そう怒鳴ると彼はテーブルクロスを勢いよく引っ掴み、大きな音をたててテーブルの上にあったポットやティーカップや皿が床へ落ちた。
    『…ッ』
    「式を挙げてなくても事実上の妻だ!もっと僕を敬え!君は妻として夫である僕を敬うべきだ。顔を潰すような真似は許さない。何か不服があるかね?」
    『ッ、いいえ』
    「そうか、よし。失礼する。」
    そう言って彼はさっと去っていった。
    『ッッ、ぅう…うっ…』
    耐えていた涙が勝手にこぼれてきた。
    「お嬢さま、大丈夫ですか⁉︎」
    そばにいた給仕の女性が駆け寄ってきた。
    『っ、なんでもない、みたい…。…テーブルが、ごめんなさいッ…。私もッ、…手伝うわ。』
    「いいえ、いいんですよ。」
    やわらかい声で私よりずっと年嵩の女給は床に落ちた食器の破片を集め始めた。
    私は嗚咽が止まらなかった。

    ガチャッッ。
    着物を着替えていると、継母が部屋に入ってきた。
    「あの顔に傷のあるロシア人の男にはもう会わないで。…分かってるでしょ?許しませんよ。」
    『やめて、…お母様。…興奮すると血圧が上がるわ。』
    「ふざけないで頂戴!これは深刻な問題よ。私たちにはお金が無いの。」
    『分かってるわ、そんなこと。毎日聞かされてるもの。』
    「…亡くなった貴方のお父様が遺していったのは”家名“だけ。私たちはその”家名“を切り札に使うしかないのよ。…何が不服なの?あの成金一族なら申し分ない縁組だわ。これで生き延びられるのよ。」
    『…私一人に押し付けないでください。』
    「よくそんな身勝手なことをッ…」
    『身勝手なのはどっちですかッ…』
    「…私に女工にでもなれって言うの?家も、残りのわずかな家具や着物も競売にかけるっていうの?」
    『…不公平ですわ。』
    「不公平で当たり前よ。女はね、思い通りには生きられないの。」


    露日辞典を着物の袖にしのばせて身支度を終わらせた。
    継母とフィアンセと三人で操舵室にて船長とこの船の設計士と話していたところ、
    「失礼します、船長。また氷山の警報です。」
    「あぁ、分かった。すぐ行く。いやぁ、ご心配なく。この季節には当たり前のことです。今速度を上げてますから。ーーー残りのボイラーに点火して。」
    豊かな髭をたくわえた船長は好好爺然として微笑みを浮かべながらそう言った。


    横浜港。
    開港以来、船は沖合に停泊し波止場まで貨物や乗客を運ぶため、専用の小舟である艀(はしけ)が使用された。「新港埠頭」は、この艀を使用せずに岸壁に接岸できる「横浜港」初の近代的な埠頭として、明治後期から大正期にかけて建設された。「新港埠頭」には保税倉庫などが置かれたほか、貨物を中心とする駅・鉄道も設けられ、物流の拠点となった。
    「セルゲイの兄ちゃん、もうお別れなの?」
    「授業がまた始まるからね。このまま東京に戻るよ。君も万国博覧会、いつか見に行けるといいね。」
    「うん、その頃には僕もっと大人になってるよ。」
    「ヴァシリさんも、ありがとうございました。おかげで退屈せずに良い船旅になりましたよ。」
    私は偶然にも出会った同じ国の人間に存外親しみをもっていた。だが、この男もまた私とは異なる世界に生きる人間なのだろう。
    私は無言でセルゲイを見送った。


    設計士とフィアンセと継母とデッキを歩きながら、
    『私、計算してみたんです。救命ボートの数に収容可能な人数を掛けると、失礼ですけど…乗客全員は乗らないのではありませんか?』
    「乗客の約半数です。貴方は実に鋭いですね。最初はこのダビット(船首や舷側の、ボートやいかりなどの揚げ降ろしに用いる、先が曲がった柱状の懸吊装置)を設置した時、もう一列並べるはずでした。…ここの内側に。しかし、それは却下されました。“デッキが狭くなる”ってね。それで変更を余儀なくされました。」
    腑に落ちないように思いながら、私は相槌を打った。
    「ふん、そんなもの無駄ですよ。沈まない船に。」
    フィアンセが言った。
    「心配しなくても大丈夫です。私の造った船は頑丈にできています。次は機関室にご案内しますよ。」



    セルゲイを見送った後、キャラメル少年とも別れ、天気も良いのでデッキの欄干にもたれかかって海を眺めていると、
    『ーーー私、計算してみたんです。』
    彼女の声が聞こえた。
    鮮やかな青い着物を着ており、袖にはクリーム色の雲のような模様があり、深紅や橙の花があしらわれている。
    「ーーー次は機関室へご案内しますよ。」
    彼らの最後尾を歩いている彼女の肩を強くしないように私は掴んだ。
    『ッ⁉︎』
    彼女がすぐさま振り返り、
    10メートルほど前を歩いていった眼鏡の男たちに気づかれないよう、私は彼女をすぐそばの室内へ連れて行った。


    『ヴァシリ、さん…』
    誰もいない船内のスペースには午前中の日が差してはいるものの、誰もいないせいか部屋全体がセピア色のようだった。
    「…」
    『…Я больше не могу тебя видеть(もう、会えないわ)』
    昨晩何度も覚えたフレーズを私は慎重に発音した。
    「…」
    じっとした眼差しを彼は向けた。
    『Я обручен(私は、婚約している身です)』
    すると彼は懐から紙と鉛筆を取り出し、
    “Я не тупой Кажется, я понимаю, как устроен мир.Вы попали в их клетку. Если вы не освободитесь от него, вы умрете. Ты, должно быть, отчаянно терпишь это сейчас.“
    キリル文字を書き始めた。
    一つ一つの単語を辞書で引きながら彼の綴った言葉を私は読んでいった。


    「私は、愚か、ではない。
    世の中の、仕組みくらい、分かっている、つもり、だ。
    君は、奴らの、檻に、閉じ込められて、いる。
    そこから、自由に、ならなければ、死んで、しまう。
    今は、必死に、耐えているけれど。」

    『…』

    ”Я люблю тихое огненное пламя, которое горит внутри тебя. Но когда-нибудь он исчезнет.“

    「君の中で、燃えている、静かで、激しい、炎、が、私は、たまらなく、好きだ。いつか、きっと、それは、消えてしまう。」
    ヴァシリさんの男らしい手が私の左頬をそっと撫でた。
    『ッ…』
    お互いの唇がもう少しで触れてしまいそうなその距離の近さに私の心臓の鼓動は高鳴った。しかし、それは決して嫌な響きではなかった。
    このまま、彼に身を委ねたら、一体私はどうなってしまうのだろうかーーー。
    『…Мне нужно идти.
    Пожалуйста, не обращай на меня внимания.
    (…行かなくては。もう、私に構わないでください。)』
    私は彼の手を両手でそっと包んで下ろし、部屋を後にした。

    継母や親族の女性達と昼の食事をしている時も、午後の茶会をしている時も、私は上の空で彼女達の会話を何一つ聞いていなかった。
    視界に映る楽しげな親子や老夫婦の姿をぼんやりと眺めていた。
    彼らもまた彼らの人生を歩んでいるのだろうかーーー。
    そんなことを考えながら。
    夕闇が迫り、船内が濃いオレンジ色に染まる時刻にはもう一人になっていた。


    船首に立って大海原の景色を眺めていたらいつの間にか日が沈みかけていた。欄干に置いていた自分の手が夕焼けに染まっていた。吹きつける海風はその強さのわりにはあまり冷たくなかった。
    昼間、彼女に気持ちを伝えてから一体私は何を考えていたのだろう。
    既に社会的地位のありそうな婚約者がいる彼女を攫って自分のものにしたい?
    もっと彼女の姿をこの手で描きたい?
    彼女のそばにいて、私はーーー。
    オレンジ色に染まる海面に立つ波を眺めながら、ふと背後に気配がしたので振り返ると、彼女がいた。昼間と同じ青い着物を着ていたが、今度はあたたかい眼差しと少しぎこちなさげな微笑を浮かべていた。
    『…隣、いいですか』
    私は無言で頷き、手を差し伸べた。私の手に彼女のすらりとした手が重なる。見つめ合ったまま私は彼女の手を引き、そっと彼女のまぶたを手で下ろした。彼女は何かを察したように、微笑みながらゆっくりとそのまま目を閉じた。夕陽に照らされたその顔はまるで聖母像のような清冽さがある顔だった。
    そして彼女の手を持ったままさらに舳先の方へ彼女を歩かせ、私が彼女の背後に回る。
    後ろから両手で彼女の両腕の真ん中あたりを掴み、彼女を欄干の一番下の縁へと登らせる。私も後ろから彼女の脚の外側に足を乗っける。彼女は微笑んだまま私に身を任せた。そして彼女の両腕を後ろから横に伸ばし、私の身体に磔にされたような格好をさせた。彼女の豊かな黒髪が海風に揺れていた。彼女の両腕を伸ばしたまま、私は彼女の腰回りを両手で支えた。
    後ろから彼女に耳打ちするように、私は
    「Открой свои глаза
     (目を開けてくれ)」
    赤ん坊が話すような舌ったらずな声だったが、一つ一つ出せる限りの発音をした。
    『!…Да(ええ)』
    ゆっくりとまぶたが開き、長いまつ毛に縁どられた黒真珠のような目が再び見えた。そしてその宝石のような目は夕焼けに染まる大海原の景色に吸い寄せられるように揺れ動いていた。
    『わ…』
    これまで見たことのないくらい、彼女の顔が綻んだ。そして私たちはお互いの両手の指をからめた。背後にいる私の方に彼女は顔を振り向かせ、私も彼女に顔を近づけた。

    『…』
    彼女は再び目を閉じた。そして私たちは口づけをした。角度を変えながら、何度も何度も。


    私の部屋に彼を連れて来る途中、私はある決心をした。私を、描いてもらう。ありのままの姿の、私を。そして引き出しにしまってあった、本来ならばう挙式につける予定だったパールのネックレスを取り出し、
    『私を、描いてくれませんか?このネックレスをつけて。このネックレスだけ、をつけて。』



    私の部屋の構造は入り口のドアがあるスペースとは別に扉を挟んで奥に8畳ほどの部屋がついている。彼には扉の向こう側で待ってもらい、奥の部屋の鏡台の前で私は編んでいた髪を解いた。帯を解き、腰紐も全て外し、白い長襦袢だけを羽織り、胸の前で合わせただけの格好になった。そして少し震える手で扉の取っ手を握った。

    ガチャッ。

    「…」

    『…』

    どうやら二人がけのソファを動かしたらしく、彼はその前に座っていた。
    『冷たい陶器のお人形のようには描かないでくださいね。…お金は、払いますから。どうぞ見たままに描いてください。』
    私は緊張しながら、しかし、同時に穏やかな気持ちで彼に1枚の100ドル札を握らせた。
    そして長襦袢を彼が見ている前で脱いだ。


    肌触りの良さそうな着物が絨毯に落ちると、彼女は文字通り一糸纏わぬ姿となった。
    傷ひとつない、粉でも入ってそうな肌。
    形の良い乳房、それぞれの中心にある淡い色の先端。
    薄く脂肪のついた腹、そしてその下にある可憐な場所。
    私は手でソファに横になるように促した。




    ーーー彼が描き始めてからどのくらい経ったのだろう。
    密室の中で私だけが裸であり、服を着た彼にずっと見つめられるのは最初は心臓がけたたましく動いていたが、徐々に彼の真剣な眼差しに見惚れていたせいか落ち着いていた。
    紙に走らす鉛筆の音が私の肌を愛撫するかのように室内に静かにしっかりと響いていた。
    しかし不思議と淫靡な空気は流れておらず、私はとても穏やかな気持ちでいた。ひょっとすると、今まで生きてきた中で、一番穏やかな気持ちでいられた時間だったかもしれない。
    彼の姿は純粋に絵を描くのに夢中になっている普通の青年だった。
    兵士であれば、おそらく先の戦争にも従軍したのであろう。戦場では目を背けたくなるような光景もたくさん目にしてきたのだと思う。だからなのか、生前の父もそうであったがどこか心が遠くにあるような、軍人独特の険しい影が顔に刻まれているように見えた。
    でもきっと幼い時から好きだったのであろう、絵を描いている時は彼の綺麗な色の目は北海道にいた頃に見た森閑とした朝のつららのような光が宿るように感じた。
    このまま、時が止まればいいと本気で思った。
    そして無垢である私の肉体もこのまま捧げてもいいと思った。
    しかし、その時の彼はどこまでも「画家」だった。
    描き終わったのかと思い、長襦袢を羽織って座っている彼の後ろに行くと、上手に描かれた私の絵を見せてくれた。

    『…ありがとう』
    私たちはやさしく口づけをした。




    日はすっかり沈み、濃紺に染まった夜の操舵室は不気味なくらいの静寂さに包まれていた。
    「快晴だ」
    「そうですねぇ、こんな静かな海は見たことがありません。」
    「まるで貯水池だ。風も無いし。」
    「ただ、氷山が見えにくくなります。氷のふちで波が砕けないと。」
    船長は手に持っていた淹れたばかりの飴色のアールグレイ・ティーを金色のティースプーンで掬いながら怪物のように黒い夜の大海原を見つめると、
    「…休むぞ。このままの速度と進行を維持しろ。」
    若い船員はあくびを噛み殺しながら、
    「ーーーはい、船長。」



    本格的に冷え込んできた。
    しばらくお互い何も話さずに夢心地のような気分でいた。
    コンコンッ
    せっかちにドアをノックする音が、しっかりと聞こえた。
    ーーーきっとあのフィアンセだ。
    ヴァシリさんもドアの方に目を向けている。
    『こっちから出られます。』
    私は彼の手を握って小走りに別のドアから廊下へ出た。


    エレベーターで地下におり、蒸気に満ちたボイラー室を通り抜け、誰もいない大きな倉庫のような空間にたどり着いた。
    埃っぽい積荷が多くあったが、一台の車を見つけた。
    デザインからするとアメリカというより、欧州…フランス製だろうか。
    私たちはなんとはなしにその瀟洒な車の中へ入った。
    長襦袢と羽織だけのせいか、少し冷えてきた。
    大人二人が入ると大分窮屈になるくらいの空間で私たちはさらに身を寄せ合った。
    そしてまた口づけをした。




    黒い大海原を煌々とした明かりを点けた豪華客船が進んで行く。
    年若な船員たちの口からは白い息が出ている。
    「くそぉ、寒いなぁ…」
    「氷があるとな、匂いで分かるんだ。」
    「嘘つけ」
    「俺は分かるんだよ」
    「んじゃ、見回り行ってくるよ」
    「あぁ、じゃあな」





    ーーー彼の髪や肌はしっとりと濡れていた。
    ゆっくりと唇を離し、見つめ合う。
    この薄暗く狭い車内でつい先刻まで私たちは一つになっていた。
    身体から火が出ているのではないかと思うくらい熱く、私の中で彼がやさしく、激しくほとばしる愛を注いでくれた。彼の耳のあたりを撫で、髪を後ろに梳るようにした。そしてもう一度やわらかくキスをし、私の裸の胸に寝転ぶように抱き寄せた。
    汗をかいた彼の髪の毛は湿っていてやわらかく、手触りが良かった。自分の黒い髪とは異なる、金色の、西洋画から出てきたような綺麗で不思議な色をしていた。
    …初めて会った時は、私が彼の上に乗っかってしまったけれど、今は逆だ。
    長いまつ毛にふちどられた彼の美しい目元をぼうっと見つめ、私はある決意をした。


    晩餐にも来ない妻の部屋を訪ねてみたものの、もぬけの殻だった。しかし、確実に先ほどまで人がいた形跡があり、おそらくあのロシア兵と行動を共にしている。
    マスターキーをフロントでもらってから再度妻の部屋に入ると、ソファが動かしてあり、ソファの前には一人用の椅子が置かれていた。…妻を描いていたのだろうか。
    そして傍のテーブルに一枚の紙が残されていた。
    写真のような美麗さの乳房もあらわな妻の肢体が描かれていた。ーーーそうか、夕食も食べずにこの部屋であの男と…。瞬間的にベッドに目をやったが、シーツは一切乱れていなかった。




    夜風が吹きつけるデッキに彼女と行った。そして彼女は私の目をまっすぐに見つめ、
    『…あなたと一緒に行くわ。私、あなたの「言葉」になりたい。』
    そして彼女の方から激しい口づけをした。





    「いいねぇ~、おい、来てみろよ。」
    「くぅ~見てくれ、アレ。日本人の女とありゃ、フランス人か?アメリカ人か?抱き合ってるぜ。」
    「あったかそうでいいなぁ…。」
    「いくらあったまるからって、お前と接吻なんてごめんだよぉっと。」
    「ハハッ。ふぅ~、寒いなぁ…」
    下卑た冗談を言って寒さを紛らわそうとした船員たちはぼうっと目の前の真っ黒な海を見つめていた。
    すると次の瞬間、目の前に怪物のようにてらてらと不気味に光る氷山がぬぼおっと現れた。
    「「⁉︎」」
    すぐに電話機を鳴らし、
    「何やってんだ!早く出ろッッッ!!!」
    操舵室にけたたましくベルが鳴ると、コツコツとよく磨かれた革靴の音をたてながら別の船員が受話器をとった。
    「おい大変だッッッ!!!」
    「あぁ、何を見つけたんだ?」眠そうに受話器を取る壮年の船員。
    「真っ直ぐ前方に氷山です!!!!」
    「!」



    監視塔周りのデッキはにわかに尋常では無い雰囲気が立ちこみ始めた。
    「前方に氷山発見ッッッ!!!」
    一人の船員は力一杯舵を回し始めた。
    「全速後進ッッッ!!!」
    「舵一杯ッッッ!!!舵一杯ですッッッ!!!!」
    「エンジンを後進に置き換えろッッッ!!!」
    デッキの上の船員は目の前に迫り来る氷山に、
    「なんで曲がらねぇんだよッッッ!!!」
    「舵は一杯なのかッッッ」
    「はい、そうですッッッ!」
    「曲がれ…曲がれ……曲がってくれ…」
    デッキから目の前の氷山を見つめる船員たちの顔は脂汗でいっぱいだった。
    船はゆったりと着実な速さで氷山の左側面へと進んで行った。
    「ぶつかるぞぉッッ」
    ガゴオオオオンッッッッーーーー!!!
    強い地震のような揺れが船内に轟いた。



    『⁉︎』
    「⁉︎」
    尋常ではない揺れに地震かと思い、私たちは唇を離した。


    船底の後方の部分が氷山を荒々しく削り、地下に怒涛の勢いで海水が流れこみ始めた。

    船内のホールの豪華絢爛なシャンデリアが大きく揺れ、1等室にいた設計士の机の上のワイングラスがカタカタッと倒れそうになった。


    「右舵一杯ッッッ!!!」
    「右舵一杯ッッッ!!!」

    先程まである二人の情事に使われていたルノー製の車が置いてある倉庫室にも海水がドアをぶち破り、濁流のように水が流れ込む。
    オレンジ色に燃えるボイラー室にも海水が津波のように押し寄せ、髭を生やした作業員たちはずぶ濡れになりながら必死に出口へと向かった。
    防水シャッターが閉まりきらないうちに飛び込んで行ったが、シャッターの手前で取り残された者もいた。


    「あ、危なかった…。もう少しで正面衝突するところだった…。」
    「直ちに情報を集めよッ!」
    シャツ姿の船長が、帽子も被らないまま今起きてきたように、
    「一体何事だッ」
    船員は脂汗を額にじんわりかきながら、
    「ーーー氷山です。」
    「まず左舵一杯と全速後進の号令をかけましたが、近すぎて…。その後、舵を右舷に切って避けようとしましたが接触…」
    船長はそれだけ聞くと、シャツの第一ボタンを外したまま操舵室を出、窓から身を乗り出すようにして海面を確認し、
    「エンジン停止ッ!!!」
    眉間に皺を寄せながらデッキにバラバラに散らばった真っ白にヒヤリと光る大ぶりな氷の破片を一瞥した。



    地下の三等室のある廊下は大人のふくらはぎが浸かるくらいに浸水しており、三等室の乗客たちは寝ぼけ眼のままの者もおり、着の身着のまま慌ただしく荷物を引っ掴んで上の階へ行こうと階段に向かっていた。
    一方、一等室のある階は揺れが起きただけで浸水はしておらず、やわらかな深紅の絨毯が敷かれた廊下には煌々と明かりが照らされていた。
    サーモンピンクのネグリジェを着た気の強そうな若い貴婦人が訝しげに近くにいた年老いたボーイに、
    「ねぇ、なぜエンジンが止まったの?少し揺れたくらいで」
    「ご心配なく、プロペラの羽根が落ちたようでーーー。揺れたのは、そのせいです。何かお持ちしますか?」
    「いいわ、ありがとう。」
    その横を、黒いコートを着た設計士が緊迫した様子で足早に設計図を抱えながら通り過ぎて行った。
    ネズミと共にデッキへと逃れた三等室の乗客のつぎはぎの服を着た少年たちは、転がっている氷をサッカーボールにして遊び始めた。


    「中々上手ですな。」
    妻の裸体を描いた紙をつまみながらほうっと眺めている壮年の紳士がそう言うと、より一層腹立たしさが増し、思わずその紙を奪い取った。
    「これは問題だッ!私の妻のこんな姿を描くなんて…。きっと、あのロシア人が無理矢理脱がせたに違いないッ!あいつを捕まえろッッッ」
    花嫁とヴァシリは船に異常事態が起きていると察し、フィアンセや継母が集まっているであろう部屋に向かっていた。ドアの前の廊下には壮年のボーイがおり、向かってくる二人に気付き、
    「探してたんですよ、お嬢さん。」
    二人とも返答はせず、そのまま足早に歩みを止めずに一同が揃っている部屋に向かう途中、その壮年のボーイは懐から花嫁のパールのネックレスを巧みな動作で音も無くヴァシリの首の後ろにあるバシュリクの中へ入れた。


    相変わらず強い香水の匂いをふり撒いている花嫁の継母がふと部屋のドアの方を見やると、妻であるはずの女と例のロシア兵がいた。
    『今、大変なことが起きています。』
    私は眼鏡をかけ直し、
    「その通りだ。」
    打ち合わせた通り、壮年のボーイは私に向かって目配せをしたのを確認すると、
    今夜私の大事なものが二つ無くなった。一つは言うまでも無く、もう一つは…見当はついている。…調べろ。」
    すかさず周囲にいた二人の中年の男がヴァシリに近寄り、コートを脱がせた。
    『彼に何をするんですかッ…一体なんなんですか、今こんなことしてる場合じゃないんですよッ…』
    するとヴァシリを調べていた中年の男がバシュリクの中から恭しくパールのネックレスをつまみ上げると、
    「これでございますか?」
    「そうだ。」
    『なぜそれが…あり得ないわ…』
    「簡単さ。この男ならこれくらいお手のものだろう。」
    『でも、私たちずっと一緒にいたんですよッ…』
    「…おそらく君が服を着る時盗ったんだろ。」
    低い声で花嫁の耳のそばで眼鏡の男はねちっこい湿度を帯びた調子で言った。
    『あなたたちが謀って彼の帽子に入れたのですッッ!』
    「黙れッ!…連れてけ」
    『ヴァシリさんッッッ!!!』


    「とんだ失態だな、船長。」
    操舵室にて設計士が走ってきたのか息を切らしながら設計図を広げた。
    「10分間で、水はキール(竜骨)の上4メートルに達した。3つの船倉、第6ボイラー室まで浸水している。」
    「その通りです。」
    「それでいつになったら動き出すんだねッ」
    設計士は眉間に皺を寄せながら、
    「既に…」
    「…もう無理だ」
    「船首から沈み始め、海水が水密化区域を超えて流れ込み、Eデッキをつたって1区画ずつ後ろへ後ろへと…留めようがない」
    設計図に手をやりながら設計士は言った。
    「それでは、船全体の水密扉を「時間がないッッッ時間は稼げても、…ほんの数分だ。
    今から何をやったって、この船は沈没する…。」
    設計士の言葉に空気は凍りつき、その場にいた全員の目が動揺の光を浮かべ、額から脂汗がつぅっと垂れた。
    船長はしっかりと威厳のある声で、
    「…残された時間は?」
    設計士は誰と目を合わせるでもなく、
    「………1時間か、…もって2時間でしょう。」
    船長の眼の光が再び大きく揺らいだ。
    「…乗客乗員数は」
    傍にいた若い船員が額にじっとりと汗をかきながら、ごくりと唾を飲みこみ、
    「…合わせて二千二百名です。」

    ヴァシリが別室に連れられた後、花嫁とその夫となるはずの男は二人きりで部屋におり、しばしの沈黙を経て眼鏡の男は彼女の頬を平手打ちにした。
    『ッッッ…、』
    「大したアバズレ女だ。こっちを向けッッッ!!」
    コンコンッ
    礼儀正しいノックの音が響いた。
    「今はダメだ、後にしてくれッ」
    「恐れ入りますが、お客様、救命胴衣を着けてデッキにお越しください」
    「後にしろと言ってるんだッ!」
    「申し訳ありませんが、これは船長の命令です。なるべく暖かくしておいでください。外は大変冷えますので、外套とお帽子をお持ちになることをお勧めします。」
    「何をバカなことを…」
    「あぁ、ご心配なく、用心のためだと思いますよ。」
    三十代半ばくらいのそのボーイは、腫れた左頬を押さえている花嫁に向かって穏やかに言った。

    深夜にも関わらず船内は全て明かりが灯り、まるで昼間の優雅なダンスパーティーのように人々が集まっていた。
    楽団が楽器を携えて格調高いクラシックを演奏している中、いかにも上流階級の乗客たちは分厚い上質なコートの下に不恰好な救命胴衣をつけて不満げにしていた。
    「一体なんなのよ…」
    「呼びつけておいてほったらかしなのかしら」
    「誰も状況を知らないみたいねぇ」
    花嫁の継母や義妹たちも救命胴衣を着けて継母はそばにいた年若いメイドに、
    「部屋を暖めて頂戴。戻ったらお茶をいただきたいわ。」
    「はい、奥様。」
    真っ昼間のような中、何も知らない人々がざわめいている中を残酷な真実を知る設計士がゆっくりと眉間に皺を寄せながら歩いていると、
    『あの、私…氷山を見たんです。何かあったんですよね…?本当のことを教えてください。』
    フィアンセを連れた花嫁が真っ直ぐな瞳で設計士に問いかけた。
    二人とも救命胴衣はまだ着けていなかった。
    設計士は花嫁の左肩にそっと手を置いて人の少ない方へ促し、一層眉間に皺を寄せながら、そして哀しみの色を目に浮かべ、唇を小刻みに震わせながら、
    「…この船は沈没する。」
    『…本当ですか。』
    「ええ。一時間かそこらで、全てが海の底です…。
    このことは、限られた人にだけ…。パニックを起こさせたくないので…。ボートにお乗りください、誰よりも早く!
    …貴方とボートの数について話したことを、覚えていますね…?」
    『…!…分かりました。』
    花嫁の目に大きな影が落ち、瞳が動揺でせわしなく動き始めた。

    「船長ッッッ、日光丸がこっちに向かっていますッ!」
    「応答があったのはその一隻か?」
    「近い所では…。四時間で到着できると言っています。」
    「四時間だとッ…」
    船長の眉間に苦痛の皺が寄ったが、数秒すると目つきがにわかに穏やかになり、口元に微笑を浮かべ、その若い船員に向かって
    「…ありがとう。」
    通信を担当している若い船員が室内に戻ると、船長は周りを見渡しながら、
    「…間に合わん。」誰にも聞こえない低い声でつぶやいた。


    救命ボートの準備が次々と進み、その周りには大勢の人が集まり、デッキが人でごった返してきた。
    「船長、ボートの準備ができました。ボートにはまず、女性と子どもを乗せてよろしいですね?…船長?」
    「あぁ、女性と子どもが先だ…。」
    「分かりました。」
    「乗客の皆さん、お待たせしました。どうぞ、こちらにお進みくださいッッッ」
    救命胴衣を着け、着膨れた上流階級の人々は不安げな眼差しで船員の指示に耳をすませている。
    「差し当たって、まずご婦人と子どもさんからボートに乗っていただきます。」

    「よし、ここにしよう。」
    楽団一行が椅子と楽器を持ちながらデッキに移動してきた。救命胴衣は着けておらず、タキシードのままである。
    第一ボタンまで締め、蝶ネクタイをきっちり着けた面長で口髭を蓄えた指揮者は聡明な声色で楽団員に
    「船長に言われた通り、明るく陽気になる曲だ。パニックを防ぐんだ。」と指示をした。
    ヴァイオリンの男がすかさず、「ウエディング・ダンスだ」と言い、優雅な音色を奏で始めた。煌々と照らされた深夜のデッキにヴァイオリン、チェロ、ヴィオラのメロディーが心地良く流れた。


    まだ浸水していない二等船室の廊下に汗だくの若いベルボーイが両腕に救命胴衣を抱えながら慌ただしく駆けまわっていた。
    「救命胴衣ですッ!これを着けてくださいッ、持ってない人はまだいませんかぁッッッ」
    二等船室の乗客たちは戸惑いながら救命胴衣を各々慣れぬ手つきで着始めた。
    「それじゃあ、裏返しだッ。こっちが表だッ」
    船員がメガホンで、
    「皆さん、落ち着いて、パニックになる必要はありません。ボートへは後ほどご案内します。」
    と言いつつも二等船室から上の階へ上がれないように既に階段のシャッターは閉まっており、シャッターの前に大勢の人間が群がり、怒号が飛び交っていた。


    既に2隻の救命ボートがまず海面に降ろされようとしていた。1隻1隻のボートには人々がすし詰めにされており、夜の海面に降下するのを真冬の寒さに震えながら乗客は不安そうに辺りを見回していた。
    「ゆっくりだ、ゆっくりだぞッッッ」
    「右だけ傾いているッ、一旦調整しろッッッ」
    「よし、左右バランスがとれてるッいいぞッッッ」
    その瞬間、救難信号の花火が5発打ち上がり、一時人々は思わずその美しさに見惚れていた。
    救命胴衣を着け、ボートに乗っていたチヨタロウもその美しさに思わず目を輝かせていた。


    船底のとある一室に手錠でくくりつけられたヴァシリは、小窓から外の様子を鋭い目付きで見ていた。


    「順番にお乗りください、順番ですッッッ」
    フィアンセの男は
    「男性が一人くらい入れるスペースは無いのかね?」と聞くと、船員は
    「今は女性と子どもだけです。」とすぐに答えた。
    すると継母は
    「座席は等級別に分かれてるんでしょうねぇ?狭苦しいのは嫌ですもの。」
    と高飛車に言うと、
    『御義母様ッ、まだ分からないのッ⁉︎ 黙って乗りなさいッ!!!
    ボートの数は足りないの、…乗客の半分も乗れないわ。氷水のような海で、…乗客の半分は死ぬしかないのよ。』
    フィアンセの男は
    「無用な連中はね。」
    「何やっとるんだ、後ろがつかえてるんだぞッッ」と後方で中年の男のガラガラした怒号が響いた。
    「ほら、乗るわよ。」
    「花嫁さんも、ホラ、乗ってください。」
    「貴方の番よ。早く乗って。」
    『…』
    「何してるのッ」
    『…さよなら、御義母様』
    花嫁は列から抜けて、駆け出した。フィアンセの男がすかさず追いかけ花嫁の腕を掴み、
    「待てッ、どこへ行く?アイツか、あのロシア人の情婦になりたいのかッッッ」
    『貴方と一緒にいるくらいなら、死んだ方がマシだわッ…』力一杯フィアンセの腕を振り切り、彼女は船内へ駆けて行った。
    「ちょっとあの人頭おかしんじゃない⁉︎ねぇ、お母さん!」
    「戻りなさいッッ!!!」
    継母の叫びも空しく、彼女らを乗せた救命ボートは降下して行った。


    船底の部屋に手錠で柱に繋がれたヴァシリは、窓の外が水槽のようになっていることから、いよいよ船が確実に沈むのが理解できたものの、口がきけないために助けを呼ぶこともできないままでいた。彼の荷物が入った鞄は彼女をスケッチした部屋に置いてきたままであるため、銃も手元に無い。そうこうしている内に、
    「!」
    ヴァシリが閉じ込められている部屋にもドアの下から水が流れ込み始めてきた。


    「はぁッ…はぁッ…」髪を振り乱しながら花嫁は船内の人の合間を縫い、エレベーターに乗ろうとした瞬間、年嵩のボーイがすかさず彼女を止め、
    「どこへ行くのです、エレベーターは閉鎖されています。」
    『そんなのどうだっていいわッッッ、早く下へッ!!!』思わぬ気迫にボーイは怯み、花嫁は下の階へとレバーを引いた。

    「ッ、ッッ…!」
    ヴァシリはなんとか手錠が外せないか不自由な両手で動かしていた。

    花嫁とボーイが乗ったエレベーターが下に着くと、暗い色の海水が膝のあたりまでエレベーター内にドーッッッッと流れ込んできた。
    『ッッッーーー!』
    「戻りましょう、お嬢様!!!」
    『ダメよッッッダメッッッ!!!』彼女はボーイが閉めたエレベーターの扉を手で開け、長襦袢の膝下がずぶ濡れのまま廊下に進んだ。
    「お嬢様、おやめ下さいッ!!!戻りますよッ、上に戻りますからねッッッ!!」そう言ってボーイは一人エレベーターで上に戻ってしまった。既に水位は花嫁の太ももの辺りまで達していた。
    『ヴァシリさんッッッーーー!!!ヴァシリさんッーーー!!!』

    いくら叫んでも、彼のいる部屋が分からない。当然だった。彼は口が聞けないのだから、と今更になって思った。それならせめてもう一人でも手分けして探してくれる誰かを探そうと思った。びしょ濡れのまま上の階へ登るとまだその階は浸水してはいなかったが、廊下に木箱やタオルが散らばっており、人の気配は全くしなかった。それでも、
    『誰か、誰かいませんかッッッ、誰かぁッッッーーー!!!』
    するとフッと明かりが消え、真っ黒な廊下の端っこにある小さな非常灯のオレンジ色のぼうっとした光だけがぼんやりと点き始めた。
    『⁉︎』
    恐怖が一気に襲いかかった。すると数秒した後にまた元通りに廊下の明かりが点いた。早くしないとここは電気が消えて真っ暗になる。
    『誰も…いないんですか…』
    諦めかけたその時、目の前に消火ホースがあることに気づいた。そしてその隣にはガラス張りのケースに入った小ぶりな斧。私は消火ホースの先端部分でそのガラスケースを叩き割り、藁にもすがる思いで斧を手にして再び浸水している下の階へと向かった。


    デッキは既に濁流のように海水が浸かり、乗客は一人もいなかった。

    下の階は先ほどよりも水位がぐんと高くなっており、私の口元まで達していた。天井にある配管にぶら下りながら斧を落とさないように進んだ。口に水が時々入り、首まで水に浸かっていた。すると、一つだけ明かりのついた部屋を見つけた。一縷の望みを賭けてそこへ向かうと、なんと手錠に繋がれた彼がいた。
    『ヴァシリさんッッッ!』
    水をかきながら彼のもとへ寄る。泣きそうになりながら、私はキスをした。
    そして、手錠の鎖の中心を必死に斧で叩き割った。
    『お願い…、外れてッッッ』
    何十回も半ば狂ったように叩き、するとパキイィンッ!と甲高い音がし、彼の手が自由になった。
    『アッ…』「!」
    『急ぎましょうッ!』

    継母たちを乗せた救命ボートは客船から100メートルほど離れた位置にまで移動しており、船尾が既に海面に浸かっている様子を恐ろしげに眺めていた。乗客たちが救命ボートに殺到しており、中には定員に達する前に降下し始めたボートもあった。そのボートに無理矢理飛び乗る者も出始め、海に落ちた者もいた。船上はパニックに陥った人で溢れかえっていた。二等船室の乗客たちを阻んでいたシャッターがようやく解錠され、あふれるような人だかりが上の階へと駆け出した。


    花嫁とヴァシリはまだ海面に浸かっていない船首の方のデッキに出た。
    『あのッ、まだボートは残っているんでしょうか?』
    するとその場にいた老夫婦の夫の方が答えた。
    「あぁ、この先の方ならまだあるそうだよ」
    それを聞いた途端、花嫁はヴァシリの手をとってその方向へと駆け出した。二人が通り過ぎて行った傍らで演奏をしていた楽団員は、
    「ムダだ。もう誰も聴いちゃいない。」
    「ディナーの時だってそうだっただろう。さぁ、続けよう。」
    それぞれまた楽器を構えなおし、ジャック・オッフェンバックの「天国と地獄」を奏で始めた。


    「見つけました、船首の方にいます。…あのロシア人と一緒に。」
    「…そうか。」
    「男性の皆さんも乗ってくださいッ用意ができましたッッッ」
    背の高い乗組員がメガホンで声がかれるくらい呼びかけた。
    「…俺はどうかしているな。」
    フィアンセの男は救命ボートに乗らず、花嫁のいる方角へ向かった。

    もはやこの混乱に乗じてあの二人を殺そう。
    先ほどの彼女の艶めいた肌を見た瞬間にあの二人がすでに男女の交わりを経たのだと分かった。本来ならば自分が抱くはずだった女の身体を得体の知れぬ異国の男に鳶のように奪われたことは男として耐えがたい程の屈辱であった。高い税金を納めて所有が許された短銃をジャケットの下に忍ばせながら殺意に満ちた冷たい光を眼に宿した目線の先にあの二人がいた。
    「君達まだいたのか。」
    『…貴方も、まだいたんですね。とっくにボートに乗ったものだと思っていました。』
    「そんなことするわけないだろう。まだこの船でやることがあるのだから。」
    『やること…?』
    「…あぁ。」
    その瞬間乾いた発砲音が二発響いた。


    一瞬の出来事であったが、彼女は自分が生きていることがようやく分かった。そして目の前に数刻前まで自分を抱いていた異国の男の腕に包まれていることも。
    恐る恐るフィアンセの男が立っていた方を向くと男は倒れていた。心臓の近くからどくどくと血が流れており、かけていた眼鏡と銃がそれぞれ数メートル先の方に飛んでいた。
    『…Он умер(死んだのですか?)』
    ヴァシリは低い声で「Нет」と答えた。接近戦用の銃は既に懐にしまっていた。船は既に大分傾いていた。


    豪華客船はその15分後に完全に転覆しボートに乗り切らなかった数百名に及ぶ乗客は黒い冬の海に吸い込まれた。その後史上最大の大型客船の事故として世界中の新聞に報じられた。









    「…Открой свои глаза」
    ぽつりと誰にも聞こえないような声が星空の下に誰かに向かって囁いていた。その声の主は誰にも分からない。
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    😭💖
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