道化(No.2の場合) ナンバーワンにはなれない。
誰よりも自分がわかっている。生涯二番手で居続けるんだと理解したのは高二の夏、私のハジメテを奪った彼のカノジョが私にビンタした時だった。
誰からも褒められ愛される私が座るナンバーワンの椅子はなくて、みんな私じゃない誰かをその椅子に座らせている。だから「愛してる」って言ってキスしてくれたあの人には一生を約束した女がいたし、「一番の親友だよ」って言ってくれたあの子は私よりもカレシとの予定を優先した。ママもパパも、テストで頑張って上から数えて二番目を取った私じゃなくて一番下をとった弟のことが大好きだった。
運動で一番になれなかった小学生、勉強で一番になれなかった中学生、本気の恋で一番になれなかった高校生。堕ちても堕ちても私は誰かの一番になりたいと願い続けて、今は夜の世界で生きている。けれど、私はここでも一番にはなれないみたい。
この街でもトップクラスのお店にスカウトされてぐいぐい人気を上げても、どうしてもこのお店の一番にはなれずにずっと二番目でいる。
一番との差は本当に小さなものだと聞いている。初見さんが一人来るだけでひっくり返るほど小さな差。だけどそれをずっと超えられないから、私は一生二番目なのだ。超えようと何度思っても超えられない小さな差は、私にとっては大きな壁にしか思えない。
ある日、キャストが全員集まるように指示された。普段なら同伴で遅れてくる子もいると言うのに、一ヶ月前からその日は絶対に空けておくように言われていたため全員が集まっていた。
みんなの前に立っているのは店長と、見たことない男の人が二人。大きくてすらっとした人と銀フレームのメガネの人。一体誰だろうとみんながコソコソ話をする中で、私とナンバーワンのハナエさんだけは真っ直ぐ彼らを見ていた。
店長が手を叩いて視線を集めると、咳払いをした銀フレームが口を開いた。
「はじめまして、稀咲鉄太と申します。こっちは半間修二。簡単に自己紹介するなら……そうですね、東京卍會と言えばわかっていただけるでしょうか」
東京卍會といえば、最近台頭してきた半グレ集団じゃないか。
「オーナーとの交渉で、ここの用心棒を務めることと相成りました。これから何度かお世話になると思いますので、どうぞよろしくお願いします」
私たちにわかりやすいような言葉を選んで最後にニコリと笑ったその人、稀咲さんは今日は少し飲んで行かれるらしく、黒服たちが慌ただしく準備を始めた。
他のキャストもドレスに身を包んで、スマホと向き合ったり髪を綺麗に巻き直したり始めて、私とハナエさんは店長に呼び出された。
「稀咲さんと半間さんのお相手を頼む。全キャストを確認したいらしいから、常に君らと二人ずつヘルプに入れるように」
言われるがままに店の一番奥の席で待つ二人の前に通される。ハナエさんが半間さんの隣に座ったため、私は稀咲さんの隣に。
「はじめまして、ハナエといいます。ここで一番人気やらせてもらってます」
「二番人気のエリナです。よろしくお願いします」
ハナエさんはいつも通りの色っぽい笑顔だけれど、私は東京卍會の噂にビビって少しぎこちない。
すると、稀咲さんは微笑ってお冷をひと口飲んだ。
「そんなに畏まらなくていいですよ、僕たちはここの用心棒ですから。キャストを傷つけるようなことはありません」
さっきと同じ笑顔で、歯を見せて笑った。インテリな見た目のくせに、歯を見せて笑うんだ……。東京卍會という半グレ集団に所属している人にしては無邪気な笑い方をする稀咲さんのことが少し気になった。
稀咲さんと半間さんは宣言通り、キャスト全員と顔を合わせて帰って行った。ロッカールームの話題は半間さんのことでいっぱいだった。稀咲さんも半間さんも無理やり酒を飲ませようともせずキャストに質問して話を盛り上げたりする良客だったし、半間さんは分かりやすくいい男だったからみんな半間さんの虜だ。周りの話に耳を傾けながらにこやかに微笑うハナエさんも半間さん狙いらしい。でも私はいまいちピンと来なかったのが最初だった。
それから稀咲さんと半間さんはちょくちょく顔を出しにきた。集金やトラブル解決などの仕事はもちろんだけど、稀咲さんはプライベートでも来てくださって、その度に私を指名してくれる。
お仕事をしている時のゴミを見るような冷めた眼と、真一文字に引き結ばれた口元が不気味に歪む様、少し乱れた髪の全てが私を強く惹きつけた。さらに、プライベートでの優しげな笑顔とクツクツと笑う控えめな笑い声に私の心は奪われて、深い沼にハマってしまった。
「稀咲さんこんなに頻繁にいらして大丈夫なんですか?」
「うん?あぁ、仕事は片付けて来てるから大丈夫だな」
「そうじゃなくて、ほら、奥さんとか」
最近、稀咲さんは私には敬語を使わない。ハナエさんにすら敬語で話すのに、私だけ、特別。
この質問はきっとしちゃいけないとわかっていたけれど、でもどうしても気になってしまったから。
稀咲さんは顎に手を添えて少し考える素振りを見せる。稀咲さんの横顔が綺麗なのも私しか知らないの。
「残念だけど嫁はいないなぁ。今は一人の女で手一杯だから」
優しく微笑んだかと思えば、悪い顔をして私を手招き耳元で囁く。その一瞬、騒がしい店内には私と稀咲さんだけのように感じた。
「ふふっ、稀咲さんってばお上手なんだから」
ここは夜の街、言うことやること全部本気にしてちゃ敵わない。冗談めかして笑った私は誤魔化せないほど顔が赤かったと思う。
「嬉しいこと言ってくれたから、稀咲さんのお願いなんでもひとつ聞いてあげる」
だから、ねえ稀咲さん、私をあなたの一番にして。
稀咲さんはしばらく悩んで何かを思い出した。
「エリナの担当に川石鉄鋼の社長がいただろ?少しお近づきになりたいと思ってるんだが……情報を集めてもらえないか?」
「もう、ビジネスの話?」
「はは、やっぱりダメだよな」
本当はプライバシーとかそういう関係でダメだろうけど、しょうがないじゃない、半グレ集団のトップに「なんでも」って言っちゃったんだもん。断ったら何されるかわかんないもん。しょうがないでしょ。
「いいですよ。どんなこと聞いてほしいとかありますか?」
メガネのレンズの向こうで細められた目の奥、ギラリと輝くその瞳に私はまた堕ちていく。
「……どんな些細なことでもいい。好きな色、食べ物、逆に嫌いなもの、家庭の状況、愚痴の内容、あらゆる情報が欲しい。一ヶ月半の間で得られたもの全てを俺に教えてくれ」
都合のいいことに、その次の日に川石さんがお店に来てくれた。月に一回来ればいい方のお客様だけど、情報がほしいから必死の手練手管で三日に一回来てもらうことに成功した。奥さんとの仲が冷え切っているのも原因の一つ。
そしてあの日からきっかり一ヶ月半後、稀咲さんが来店して、その日は集金と情報の提出だけで終わった。その後も川石さんは度々訪れてくれたのだが、以前と比べてはるかに羽振りが良くなっていった。
その二週間後、稀咲さんがプライベートで訪れた。少し待たせて席に行くと、稀咲さんは今までにないほどご機嫌だった。
「エリナ!」
「どうしたんですか、珍しく大きな声出して」
聞けば、川石さんとの商談がうまくいったのだとか。
「エリナのおかげだ、ありがとう。今日は好きなものを好きなだけ頼んでくれ」
その言葉通り好きなだけ好きなものを頼んだら、その日だけでも私はこの店のナンバーワンになれただろう。でも私が頼んだのは一本のお酒。稀咲さんが来るたびに飲んでいるもの。それだけでいいのかって稀咲さんは言うけど、これがいいの。稀咲さんの一番近くで、稀咲さんと喜びを静かに分かち合えるならなんでもいいの。
「稀咲さんおめでとうございます」
「ありがとう、これからもよろしく」
お互いのグラスに琥珀色の液体を注いで、チンっと小さく音を鳴らして乾杯する。シャンパンタワーなんてなくていい、ずっと、永遠に、このまま稀咲さんの近くで稀咲さんの幸せを見続けることができたなら、それ以上を望んだりしない。そう思っていたのに。
「ハナエさんの話聞いた?半間さんと寝たって」
「やっぱ?てかあの二人今同棲してんじゃない?」
ロッカールームで毎日のように繰り広げられる、なんてことない世間話。真偽不明だがそれが私の中の何かをひどく抉った。半間さんとハナエさんが出会ったのも、稀咲さんと私が出会ったのも同じ日で、二人は一緒に来るから会ってる回数も同じはずなのに、二人の関係が違うという事実が私の中でぐるぐると渦巻く。気づいた時には稀咲さんとのトーク画面に、絶対稀咲さんには言わないと決めていた言葉が表示されていた。
「稀咲さん、本当にいいんですか」
もう部屋の照明は落とされて、ベッドの上でお互い生まれたままの姿でいるというのに今更、何を処女のように戸惑っているのだろうと思う。けれどこんなことを望んでよかったのか、それを叶えてもらって良いのだろうかと不安になってしまう。
そんな私を見た稀咲さんはメガネをヘッドボードに置いて私を柔らかなベッドへと押し倒す。私の真上で微笑う稀咲さんは今まで以上に妖美だけれど、メガネがないせいか髪が下りているせいか少し幼く見えた。少しカサついた唇が初めて私に触れた瞬間、私は柔らかな牢獄へと閉じ込められたのだ。
名前を呼んでくれなくてもいい、むしろ本名なんて知らないで欲しい。本名を思い出すと、あの惨めだった頃の記憶が蘇ってくるから。稀咲さんの隣にいる私は新宿でも指折りのトップキャバ嬢でいたいから。前からシてくれなくてもいい、ただ稀咲さんが求めてくれるなら私はこの身体を売っても構わない。相手が祖父と同じかそれ以上の年齢であろうとも、稀咲さんの期待に応えられたら稀咲さんが上書きしてくれるから。稀咲さんが他の店の女の子と歩いている姿を見ても気にならない。だって私は稀咲さんの特別だから。あんな垢抜けない芋女とは、若さだけが売りのバカ女とは、乳のデカさだけのビッチとは違うんだから。
稀咲さんが求めてくれるのは私だけ。例え稀咲さんが他の女を抱いていたとしても、稀咲さんが「特別だ」と言ってくれるのは私だけ。そう、私だけなの。
「たちばな、ってどなたですか」
いつも通りお客様のうちの一人のお相手をした次の週、稀咲さんに求めてもらって、静かに眠る稀咲さんの寝顔を見ていたら珍しく稀咲さんが寝言を言ったのだ。「たちばな……」と。
私じゃない誰かを求めているの?私が一番なんじゃないの?不安な気持ちのままに稀咲さんを叩き起こしたかったけれど、嫌われたくない気持ちが勝って啜り泣いていると稀咲さんが目を覚ましたから、思いのままに聞いてしまった。
お願い、仕事相手って言って。利用しようと思ってる女の子だって言って。私が一番だって言って。
「エリナは気にしなくていいんだよ」
返ってきたのは稀咲さんの優しい笑みだった。伸ばされた腕の中に自ら飛び込んで、私の髪をすいてくれる稀咲さんの男の人らしい手とその腕の中の体温に溺れてしまいたかった。けれど、稀咲さんが私ではない誰か、「たちばな」さんを求めていることはわかってしまった。それが辛かった。
「エリナ、今夜来てくれるか」
稀咲さんから来てほしいと言われるのは初めてだ。嬉しい。休みだったから全然用意ができていなくて、迎えに来てくれるという時間まで余裕がない中急いで身支度を整えた。精一杯可愛くして、マンションの前で待っていると見慣れた黒のスモークガラスが私の前で停まる。窓が開いて、中で稀咲さんが手招く。私は未だにドキドキしながらこの車に乗り込んだ。
「稀咲さん、」
しばらく会っていなかった間のことをお話しして喉が渇いたから、稀咲さんが用意していたお酒を口にする。甘くて、後から辛味が、きて、ゆめ、み、ごこち。
寒くて目が覚める。身動きが取れない。自分がどこにいるのかもわからない。口には何か咥えさせらていて、声も出せない。
「ー!!んぅー!!」
必死に声を絞り出すと、上から声が聞こえてきた。
「起きたな。気分は?よくわからない、と言ったところか」
稀咲さん。ねえどういうこと、稀咲さん。
稀咲さんは私のすぐ頭上から話しかけてくる。後ろから注ぐ照明や背景のお陰でここが工事現場だということがわかる。私は今、人一人が入ることができる隙間に裸で立たされている。背中に触れる冷たく固いものはおそらく目の前にあるものと同じ鉄筋だろう。
「お前は一生懸命俺に尽くしてくれたな」
うん。いっぱい尽くしたよ。ナンバーツーという地位も名誉も放って下の子たちのお客様も奪ったし、枕も今まで一回もしてこなかったけどいっぱいしたよ。それもこれも全部稀咲さんのためにやったんだよ。
「なぁ工藤穂花、言わぬが花って言葉知ってるか?」
どうして稀咲さんが私の名前を知ってるの。本名が書かれているものは全て持ち歩かないようにしていたし、店長にも本名を教えていないのに、どうして。稀咲さんは笑って、私の過去を暴くなんて簡単なんだと教えてくれた。
「あの時大人しく寝ていればなぁ……全く、お前はもっと使えると思っていたよ」
そう言って稀咲さんが私に投げたのは、昔の、妬みや嫉妬でいじめられていた頃の、いじめられている写真だった。落書きをされていたり、真っ裸だったり、汚い水をかけられていたり。消させたはずの写真を一枚ずつ私の上に落とす稀咲さんは、一ミリも笑ってなどいなかった。あ、あ、そんな冷めた目で私を見ないで。今までみたいに私が溶けてしまうような熱い視線で私を見て。私が一番じゃないの、特別だって言ってくれたじゃない。
私の気持ちに気がついたのか、稀咲さんは最後の一枚を私の額に置いて私の視界を封じ、額に熱いキスを落とした。きっとその時の稀咲さんは優しく微笑んでいてくれただろう。
「一番だとは一度も言ったことねえだろうが、調子乗りやがって。そこそこ使えたが……後処理が面倒だったな」
「そんなこと言いますけど、わざわざ自分の手を汚す必要なかったじゃないですか」
「俺以外誰がやんだよ。店の説得がめんどうになんだろうが」
未だに熱を持つサイレンサーが取り付けられた拳銃を横に立つ半間に手渡し、二人がその場を離れると、深夜だというのにコンクリートが流し込まれる。固まったら、また広めに鉄筋を組んでもう一度コンクリートを流し込むのだ。もしかしたらこのマンションの壁から幽霊が出るなんて七不思議ができるかもしれない。
「俺は絶対こんなマンション住みたくねえなぁ」
半間は笑って、先を歩く稀咲を追いかけた。
「ねえハナエちゃん、なんか最近あった怖い話とかないの?夜の街特有のさ」
最近調子がいいらしいベンチャー企業の社長が、ハナエの胸の谷間を凝視しながら間を持たせるために話しかける。
ハナエはいつものように艶かしく微笑んで真っ赤に塗れた唇を動かす。
「しーぃ……知らない方がいいことも世の中いっぱいあるのよ。むしろその方が多いんだから」
白く柔らかで冷たい人差し指が、男のカサついた唇に当てられた。