ノスタルジアと、青と愛。 ――怒らせた。その事実が重く心にのしかかって、体の芯が凍ってしまったように冷たい。必死に息を吸い込んだが、みっともなく喉が震えて、自分の不甲斐なさがひしひしと感じられるだけだった。
きっかけは午前のこと。
今日は俗に言うバレンタインデーで、生徒たちは皆多かれ少なかれ浮き足立っていた。楽しそうな彼らにつられて、俺もおどけて「靴箱見たけどスッカラカンやで!張り紙でも貼っとこかな」と言ってみせたりしていたが、正直他人からのチョコなんてどうでもよかった。貰えるとしたら、ただ1人、彼からのそれを期待していた。
同じ教室、友人と談笑する彼のふわふわした笑い声が、やけに鮮明に聞こえる。恋人である彼との関係はあけすけに言いふらしているわけではないので、あまり大っぴらに見せつけるようなことはしないけれど、でも2人仲がいいのは周知の事実だと思う。それはともかく、楽しそうな様子の彼がしている会話が純粋に気になって、それとなく話題に入ると、友人と恋人はどうやらバレンタインデーの話をしていたようで。
「お、トーニョ。今なぁ、俺のモテ期の話しててん。俺が小学校の頃机の中にチョコ10コ入ってた話、コイツ信じてくれへんのよ」
お調子者のクラスメイトは、彼を指さしてそう話す。「だって嘘くさすぎるやん。お前、足遅いねんしモテへんかったやろぉ」とクスクス笑っている恋人の表情に、あほらしく「かわええなぁ」と思いながら、相槌をうった。
「……お前、嘘はあかんよ?バレんねんから」
「お前もそっち側か!」
本音を言うと、楽しそうな表情を引き出していたコイツに少しだけ嫉妬してしまったのだけれど、俺のもんやから!と牽制するのも恥ずかしいし、何より本人にイジられるのが嫌なのでしなかった。実際に彼の性格は猫のように気まぐれで、それゆえにサッパリした関係を望む人間だと思っているから。加えて、友人とのバレンタインの話題でも、話の流れから自分に関しては何も言っていなかったことが察せられたので、やっぱりこいつはバレンタインなどにあまり興味も思い入れもないんだろうと思った。
「(良かった……)」
実は昨日まで、悩んでいたのだ。
恋人になって初めてのバレンタイン。やはり恋人らしいことはしておきたい気持ちも否めないし、想いを伝えるいいキッカケになる日だから、彼にチョコを渡すべきか否か考えていた。しかし茶化されるかもしれないという臆病な気持ちと、興味がないために喜んでもらえないかもしれないという不安が綯い交ぜになって、自分を立ち止まらせていた。靴箱や机に忍ばせておこうか、それとも逆に真正面から渡してみようか、色んなシチュエーションで考えてみたけれど、どれも照れくさいし難しい。結局、チョコを用意し持ってくることは出来ずに今日を迎えたわけだが。
だから、彼にバレンタインへのこだわりがない事がわかって心底安心した。自分たちでも認めるくらい、親友に近いような恋人関係なのだ。カップルらしいことをするのはむずがゆい。浮かれているのが自分だけかもしれないと思われるのも、尚更恥ずかしかった。
放課後。いつものように談笑しながら昇降口に向かう。靴箱の近くには自販機が並んでいて、部活前の生徒たちや、仲良さげなカップルが飲み物を買うためにたむろしていた。
それを見ていたのだろうか、彼はさりげなく、落ち着いたトーンで喋りだした。
「バレンタインやねえ」
「……みんな、その話でもちきりやったな」
「まぁ、そりゃそうやろ。学生にとって楽しいイベントやろうし」
少し冷めたような口ぶり。浮かれる生徒とは少し違ったような落ち着いた様子に、自分の判断は正しかったんだ、チョコを用意しなくて良かったと改めて安堵した。
――でも何だろう。生徒たちの和やかな雰囲気に流されたのか、ざわざわとした感情が胸をくすぐり、考えるより先に唇が動いていた。自販機に並ぶココアを指さして、笑いかける。
「せや、じゃあココアでも買ったるよ。わざわざチョコ渡すってのも、恥ずいし」
後半はつい出た言葉だったが、不自然ではなかったと思う。――意識してないみたいに、自然に。彼みたいに、バレンタインなんてどうでもいいですよみたいなフリをして、必死に笑った。
それなのに、さっきまで落ち着いた様子だった彼は突然目を見開いて、その長いまつ毛を震わした。おや?と思ったときには、そのやわそうな唇をぎゅうっと噛んで、泣きそうな表情を隠すのに失敗したような、くしゃくしゃの顔で下を向いてしまったから、俺は動揺してその顔を覗き込む。
「え、なん……どしたん?」
「…………あほ」
「は」
「………………悪かったな、浮かれて」
静かに吐き出された言葉が耳に届いた瞬間、腹に加わった衝撃に「ゔ」と声が出る。そのまま恋人は俺の顔を見ずに、そのまま早足で靴箱に向かってしまった。
「え……、ちょ……え?」
頭の中がハテナマークで埋め尽くされる。質問をしようにも、彼はもう行ってしまったし、喉は変に引きつって声が上手く出なかった。
何?どゆこと?なんで、あいつあんな泣きそうな顔しとったん。
どれだけ頭を悩ませても答えは出なくて、ハッとして手元を見る。そこには、綺麗にラッピングしてある、チョコレート。
彼が恋人である俺だけにくれた、間違いない正真正銘の本命チョコだった。
――冷めたような口ぶりも、落ち着いた様子も、もしこれを俺に渡すために冷静を装ってのものだったら。不安と緊張の中で、今か今かとタイミングを見計らっているさなか恋人に「恥ずかしい」だなんて言われたら、どれだけしんどいか。どんな気持ちで、このチョコを俺に押し付けて行ってしまったのか。
想像して、胸がきしむような気持ちになって、それと同時にたまらなく愛おしくて。俺は必死に駆けた。
冷たくなった心臓が、バクバクと暴れていた。かじかんだように鈍くなった四肢を奮い立たせて、急いで靴を履いて校門を出る。すると、愛しい人の姿はすぐに見つかった。彼は走って逃げたんじゃなくって、ただ、寂しそうな背中でゆっくりと帰路を歩いていた。その姿にまた胸がぎゅうと締め付けられて、人目もはばからずに後ろから思い切り抱きしめる。
「っ、ごめん、……」
「あほ」
「や、まじ……ホンマに、アホやわ……」
俺が来ることを分かっていたんだろう。すぐにそう罵られて、俺はただ自戒の気持ちに苛まれた。
「可愛い恋人になにしとう、サイテーやで。俺がお前に渡す可能性、考えとらんかったんか」
腕の中のいとおしさが放った言葉はか細く、割れてしまいそうなほど脆い響きを放っていて。顔は見えないけれど、どんな表情で言葉を紡いでいるかは直ぐにわかった。
「そんな、思っとらんかったんよ。こういうの、好きそうな素振り見せんかったし、貰えるなんて少しも…………いや、最悪やな、俺、クソや。ホンマにごめん。勝手に思い込んで、傷つけて」
「……バレンタイン、付き合って始めてやし、お前なら、渡したら喜んでくれるやろなって思って。でも、興味ないみたいな言い方するから、浮かれとるのは俺だけやんって」
あぁ、なんていじらしくて、可愛い。こんなに健気な恋人に、一度でもあんなに寂しそうな顔をさせてしまった数分前の自分を殴り倒してやりたい。
「ほんまはな、俺も昨日ずっと悩んでてん、渡そうか。せやけど、勇気出やんかった。ごめんなぁ、ちゃんと、恥ずかしがらんで渡せばよかった。俺やって浮かれとったのに」
「……でも、俺も隠そうって変な態度とってたから、お前の気持ちも分かるし、……そう考えたら、俺もわるかったから。ごめん」
「謝らんでよ」
周りから見たら変なやつらかもしれないけど。でも今は、この愛おしい気持ちをどうすれば最大限伝わるか分からなくて、ただひたすらに抱きしめた。胸の底から湧き上がる気持ちの熱が伝わればいいのにと、酷くもどかしい気持ちが心をあまくせつなくさせていた。
「チョコ、めっちゃ嬉しい、ありがとな。俺も渡したいから、一緒に買いに行こや。いちばん食べたいの選んで?」
「ピスタチオの、高いやつでもええ?」
「俺が出せるくらいのにしてくれ」
「へへ、どないしよかなあ」
くるりとこちらを向いて、やっと顔を見せてくれた彼は、もう怒ってないよと言わんばかりに柔らかな笑顔を浮かべていて、たまらずにまた、力いっぱい抱きしめる。
恥ずかしくてもいい、照れくさくてもいい。そんなの全部、愛してるの証拠やから。だからこれからは、同じぶんだけちゃんと伝えよう。そう、腕の中の温もりに誓った。
2月14日、甘くて苦いチョコレートを味わうたびに、思い出す。
もどかしい青い若さと、変わることのない、愛の味。