月の光で咲く花の色は 青白い月の光の中、照らされる白い肌はきっと美しいのだろう。
石神村から少し離れた山の中。元は獣道だった道なき道の草を刈り取り、幾多の足で地を踏み固めて整えられた小道を登っていく。
過去に千空が獅子王司の手によって命を絶たれ、コハクが姉のために湯治の湯を組んでいた場所に慰安の場所として温泉が設けられている。そこから少し離れた木の上で僕は幹に身体を預けて枝先へ向かって足を投げ出していた。
――女性の湯に覗きを働こうとする不埒な輩を持ち前の聴力と目で見張って欲しい、そう千空から依頼を受けての見張りだった。
それなのに、見張りを開始してから最初に聞こえた足音は頼んできた千空のものであった。もしかすると、頼んだとおりに仕事をしているのかを探りに来たのだろうか、いや千空は頼んだ以上は相手を信用している。時間を割いてまで相手の動きを確認しに来るようなそんな非合理的なことはしない性格の人間だ。
衣擦れの音がして、しばらくするとお湯の跳ねる音が聞こえてきた。それから地面に液体が打ち付けられる音へと繋がる。身体を洗い清めているのは見なくてもわかることだ。
場所をずらして眼下を覗き見れば愛しい恋人が一糸まとわぬ姿が拝める。
そんな魅力的な誘惑をいつでも見られると強がりで抑え込む。そんな並々ならぬ努力を愛しい彼は知らないだろう。そう悶々とした気持ちに苛んでいると、下から千空がクククと笑う声が聞こえてきた。
「羽京、テメーの姿は俺から見えなくても聞こえる場所にいるんだろ? もっと近くに来いよ。話したいことがある」
普段作業するときにはなかなか聞けないやさしい声色に僕はがさがさと枝を揺らしながら地に降りる。岩を挟んで直接裸が見えないように配慮して近づく。
「誰かさんに頼まれた見張りはいいのかい?」
「テメーくらい耳が良ければ風呂を覗かなくても相手の動きがわかるんだろ?」
「人の裸を見る趣味はないからね。足音で動きは把握出来る、だから僕に頼んだんだよね? 千空」
「あ~、その通りだ。百億点満点やるよ」
千空の声が今夜はどういうわけか丸くいつもより透き通って聞こえる。言ってしまえば第二次成長期を迎えた少年の声より高音だ。まるで女性のような声。
性別は男であるが、千空は女性的な要素もありどちらかと言えば中性的な存在だ。色素が薄く不健康そうな身体から伸びた手足は男性的に筋肉がついていても細く、巻かれた腰紐が更に細さを強調していた。背丈は決して低くないのに、ワンピースのような服を着ているものだから普段逆立っている長髪が濡れて下がっている時は、多少の骨ばった女性のようなシルエットを醸し出す。
いつも耳にしている千空の声を聴き間違うはずはないのに、いつもの声と違う。だが、話し方は千空その人である不思議に僕の耳はどうしたのだろうと違和感を覚えた。
「見てもいいぜ」
ぺたぺたと千空が僕に近づいてくる。やっぱり声が高い。
現れた千空の髪は湿って重力に従って地に向かっていた。肩より少し長い髪は裸を隠すのには適さない。丸みを帯びた肩のラインと首から下にある小さいが膨らんだ乳房。なだらかな身体の曲線。濡れて湿った肌が月明かりで妖艶に照らし出される。
「せ、せん、くう?」
視線を臍のあたりまで落としてから慌てて恋人の顔を見る。いつもより丸みを帯びたいたずらの成功に笑う少女の顔があった。
隠しもせず、腰に手を当てて仁王立ちした千空がふふんと鼻で笑うと顔を前に突き出して僕を下から見上げようと身を屈めてきた
「ククク、素っ裸じゃ逆に色気も何も感じねぇか?」
「ち、ちょっと! 千空! 隠して! これは一体どういうこと?」
言葉は慌てながらも行動は不思議と落ち着いていた。
僕が自分の服を脱いで渡すと、きょとんとした顔で受け取った千空がくしゃりと顔を崩して微笑んだ。バサバサと音を立てながら「風呂に来たんだがな」僕の服を身に着けた。
「あ˝~、月下美人って花を知っているか?」
「花に関係があるのかい?」
「同じなのは名前だけだな。たまーに満月の夜に性別が変わるっつー、よくわからねぇ奇病でな。百夜がモルモットにされるかもしれねぇって心配したんで病院で精査もしてねぇ。知識の海を隅から隅まで調べ尽くしてわかったのは月下美人って呼ばれているらしくて、伴侶に合わせた性別で生きているケースが多いってことだな」
いつのも口調よりテンポもトーンも抑揚も乱れている。困惑と緊張と焦りと躊躇いの混ざった話し方。平常心を装ってカミングアウトしようとしているのがわかる。伴侶という言葉の前後に特に揺れがあった。内容が内容だけに僕も言葉を慎重に選んだ。
「それは……月下美人の花と同じように一年に一回なるものなの?」
「あ˝~、あの花が一年に一回しか咲かない、満月や新月にしか花開かないってのは俗説だ。株の生育次第で数回咲いたり、逆に一度も咲かなかったりする」
「千空、君はどうなの?」
一度外した話題をまた戻してやる。ぎくしゃくとロボットみたいに動く千空がちらっと僕の方を一瞥して視線を逸らした。
「テメー次第だろうな」
「確か、蝙蝠を引き寄せるんだったっけ?」
「花粉を運ばせる代価に蜜を吸わせてはいるが、花は喰われねぇよ」意地の悪い話題に慌てるように千空が噛みつく。
「僕に食べさせてくれるのかい?」
「ククク、俺に添い遂げる覚悟があるんならな。ただし今すぐ女になるわけにはいかねぇから待たせることになるがな」
「じゃあ逃げた方がいいかもね。僕は千空が思っているよりも紳士じゃないよ。誰かに食べられる前に食べたいって今も思っている」
「あ˝ぁ? じゃあ逃げなきゃな……今は」
長い睫毛がゆっくりと伏せられる。白い肌に耳まで朱が灯り、後頭部を掻きならす音が乱れる。心臓の脈打つ速さはさすがに聞き取れないが、自身の服を拾い集め踵を返して去ろうとする足音のリズムが不安定でまるで追いかけて欲しそうに一歩一歩がぎこちない。
「千空」
名前を呼んでやればわずかに肩が揺れ動いて、振り向くために彼の足が急いて土を削るのが聞こえる。荒れた唇をきゅっと結んで、眉を左右上下互いにして見せた。
「何だ?」
平静を装う声がぶれていて、トーンはいつもより跳ねている。
上手に取り繕うとして見せても僕の耳は全てを聴き解いてしまう。音を頼りに情報収集に長けてきた僕の前で千空はどれだけ僕にバレていることを知っているのかはわからない。ぶつかった視線を慌てて下に逸らすと、ばつの悪さを感じたのか小さな舌打ちが聞こえた。
「満月の夜は君を守れる位置にいたい」
「ククク、いつも満月の夜に女になるわけじゃねぇよ……っと、借りた借りた服はこの先の大岩に置いとくぜ」
「借りたままでもいいよ」
「テメーに風邪を引かれたら俺が困る」
努めていつものように振舞おうとする千空は上手に演じているつもりなのだろう。
自分の顔の赤さも握りしめた両手が震えているのも無意識のようだ。いつもの口調のようで震えている言葉から彼の緊張と照れが伝わってくる。
「一度しか言わねぇけど、女になる条件は……」
ぽつんと呟いた秘密を僕の耳が拾うのは十分で。
石の世界でもこの先の未来でも僕の前だけでしか見せない姿だということを告げられて、僕は歓喜に震えてただ立ち尽くしていた。
<END>
支部にて2021年9月27日に発出