どうぞ美味しく召し上がれ ぷしゅっ。
冷えたエナドリのプルタブを起こすと同時に溜まっていたガスが抜ける音がした。
そのままプルタブを下げて、口に含むとしゅわしゅわと弾ける炭酸と液の甘さが舌や頬の粘膜にねっとりと絡みついてくる。数口だけ飲んでから缶をローテーブルに置いた。
置かれたエナドリの缶から垂れ流れる水滴で静かにテーブルが濡らされていくのをそのままに胃からせりあがってきたおくびを宙に放つ。
――俺は好きじゃねぇけど、よくこんなの飲めるな。
先ほど舐めた唇が糖分でべたつき始めていた。
こんな甘いもの、本当は好きではない。兄が好きだという味は弟である俺には理解できない。双子なのに味覚は元から違うようで、思えば千空は昔から甘いものが好きだった。
チョコレート、キャンディ、アイスクリーム、好きなものは目を輝かせて食べるその顔見たさに彼が欲しがれば何でも自分の分を分けてやった。分けてやれば嬉しそうに緩み切った顔して「ありがとう」というので終いには残りも全部千空にあげることもあった。
飲んだ缶に冷やされ、結露で湿った両手で顔を挟み込んで耳、顎、舌……それぞれの唾液腺を皮膚の上から指で押したり揉んだりを繰り返して口の中を潤す。
ほんのり甘味とエナドリの香りが残る唾液を溜めてから、俺は床の上に倒れこんでいる双子の兄に近づく。
すぐそばにしゃがみこむと弱った千空の髪と顎を掴み、無理矢理上を向けさせた。
急な動きの反動で半開きになった唇を指で割り開かせる。湿り気のないカサついた唇の感触に思わず顔が歪む。この状態なら飯だけでなく、水分も足りていないだろう。
「いっ、うぅっ……く、ろ?」
与えられた痛みに千空が小さく呻って薄く目を開ける。視線の定まらず揺れ動く目が徐々に俺を認識していく。
「おら、口開けろよ千空、飯の時間だぜ」
俺の言動の意味を理解した千空は僅かに眉を顰めたものの、すぐに期待に満ちた表情へと変わってゆく。虚ろで死んだ魚のような目をしていた赤に生が灯っていく。
顎の力が抜けて、千空が自ら口を開いたのを見て俺も自分の唇を開いた。口の中に溜め込んでいた唾液がつぅっと透明な糸を引いてどろりと千空の口腔へ落ちていく。両目を瞑り、天を仰いだまま、ほんのりとエナドリの匂いのするそれを兄はゴクンとのどを鳴らして飲んだ。
「美味いだろ? もっと、食べさせてやるぜ」
「あ˝あ、もっと、欲しい」
俺の腰に縋って千空は頭を俺の股間に擦り付けてくる。空腹で若干飛んでるのだろう。いつもの彼からは想像できない。
恋愛ごとに疎く、変なところで潔癖。
そんな兄がだらしなく舌を伸ばして、布の上からぐりぐりと顔を押し付けてくる。そのまま好きにさせていたら、ベルトに手をかけて外し出したのでそこで額を押して離れさせると、服を掴んで引き上げ、荒々しく立たせ、そのまま力ずくでリビングのソファーに押して座らせた。
痩せた身体が数回弾んでようやくソファーに身を預けた。
「まずは食事だ」
「も、むりぃ、腹減って……つらい」
「だから食事するんだろ? テメーの飯は俺じゃねぇだろ」
「うぅっ、はやくっ、はら、へった、しぬ」
こんなになるまでどれだけ耐えていたのか、レンジの中から温めたレトルトのお粥を運び、切なそうに懇願する兄の横に座ってやる。
調子が分からなかったから、途中コンビニで消化に優しそうなものとお粥とうどんを買った。エナドリよりはスポドリや経口補水液とは思ったが、いつも兄が美味しいそうに飲んでいたのが忘れられず、エナドリを選んでみた。
まず一口掬って食べ、同じスプーンで千空の口に運んでやる。待ちきれなかったらしい、目の前に来るより先にぱくりと大きく口をあけて千空が粥に飛びついた。
「……うめぇ」
乾いていた千空の瞳がじんわり涙の膜を張る。
おかゆをローテーブルに置いて、先ほど残していたエナドリを手に持たせてやれば、勢いよくそれに口をつけてゴクゴクと一気に飲み干した。あまりに勢いが良すぎて逆に見ている方が心配になるくらいの食らいつき方だ。
「はぁ~っ、味がする、食べれる、うめぇ、もうダメかと思ったわ」
「だろ? ケーキの俺に感謝しやがれぇ」
「マジでおありがてぇ」
再び一口運ぶごとに俺の唾液でスプーンを濡らす。食べものに混ぜてやろうかと思ったら、こっちの方が長く楽しめる。千空は早く、早くと俺をせかし、俺からスプーンを奪うようにしてガツガツと口の中に粥を収めていく。喰いっぷりに一食分じゃ足りなかったかと早くも後悔した。
「あ˝~、テメーのおかげでようやく飯が食えたわ」
ようやく腹が満たされたらしい、千空がへにゃりと笑った。警戒心のないだらしない顔にようやく肩の力が抜けていく。口元を親指で拭ってやりながら、ため息をついたら抱えていた心配が苛立ちに変わった。
「ったく、こっちは倒れてるテメーを見て死んだのかって思ってびびったじゃねぇか! いきなり息も絶え絶えに『死にそう』なんて二度と連絡してくるな!」
朝起きてスマホに届いた兄からの連絡に目の前の世界が真っ暗になった。人に弱みを見せない千空が急に連絡を寄越したと思ったら『死にそう』だなんて冗談にも程がある。そして不摂生の酷さを知っている分、笑えない。
怒鳴れば、身を逸らした千空が落ち着けと手でジェスチャーをしてきた。
「そりゃ悪かった、悪かったが、俺だって倒れたくて倒れたわけじゃねぇ」
「あぁ? 俺がいなくても飢えねぇように大量に作って置いてやった冷凍庫の氷はどうしたんだよ? 味がするように俺の体液混ぜたやつ。あれがあれば飯が食べれただろ?」
「最初は大丈夫だったんだが、テメーがいねぇのにテメーの味がするものを口にしていたら、いつかテメーを丸ごと食べる夢を見だした。それが現実になったみてぇに感じて怖くて捨てた」
「はぁぁぁぁ?」
ぽつんぽつんと言葉を選んで、千空が倒れた経緯を話し始めた。
初めのうちは俺が作ってやった氷で大丈夫だったらしい、それがある夜に俺の身体を溶かして氷が作られる夢を見たらしい。知らない間に弟をどこかで解体して材料にして作ったんじゃないかという恐怖。それが日増しに現実味を感じ始めてきて耐えきれなくなった。
そう話す兄に「だったら連絡を」と言いかけて言葉を飲む。もし、たまたま連絡が付かなければ千空の妄想はさらなる現実味を帯びて笑えなくなってしまっただろう。だから、空腹で倒れるギリギリまで連絡が来なかったのだ。
三大欲求の一つがここまで深刻なことになるとは、当事者でしかわからない。
「あー、もう、俺一人暮らしやめて戻るわ。元々乗り気じゃなかったしな」
「それはダメだ」
「断る。テメーを一人にした俺が馬鹿だったわ」
「んな、俺がフォークでテメーを食べる危険性があるからってことで家を出したんだろうが! 俺はもう大丈夫だし、何なら家賃は出すから」
大学進学と共に家に居たいという俺をダメの一点張りで追い出したのは千空だ。一つ屋根の下にケーキとフォークがいるのはダメだ、そういって勝手にアパートを見つけてこられ、どうしてもと頼み倒されて家を出た。流れに全く納得出来ないままに、千空の恐れやプライドを汲み取って嫌々一人暮らしを開始した。
時々ふらりと帰っては体液入りの氷を作ってやっていたが、俺が帰ってきている時、千空は部屋に閉じこもり、頑なに顔を見せてはくれなかった。
「誰がテメーみたいなミジンコパワーの捕食者に喰われるかよ。俺にかける金があるんなら、唾液でも血液でも味付けにくれてやるからもっと栄養のあるもの口にしろよ。ヒョロガリがさらにガリガリになってるぞ」
「テメーが寝てる間に俺の腹が減ってバリバリ頭から喰ってたらどうすんだよ。全部喰っちまうぞ」
「させねぇよ。先に腹いっぱい喰わせてやる。なんなら寝るとき口枷つけてやる」
「そこまでしてもらってもテメーにしてやれんのは何もないぞ」
「じゃあ、言うけどな、さっきの続きがしたい」
「……近親相姦は不毛だぞ」
「うるせぇ。テメーが股間に頭擦りつけてきたせいで不覚にも半立ちしたわ。キスは唾液、フェラは精液、フォークのテメーにとって俺とのセックスは魅力的だと思うけどな」
「気持ち悪ぃ」
顔を歪めて思いっきり嫌そうな顔をした千空に苛立ち、唾液に絡めた指を口の中に突っ込んでやった。
「これより美味しいんだけど」
そうやって煽って指を口から抜いてやると答える代わりに千空がのどを鳴らした。
次々と唾液が出てくるのか、何度も飲み込んでいたが次第に追い付かなくなったようで隙間からたらりと涎が流れた。
「んふっぅ」
はぁはぁと呼吸を乱しながら左腕を右手で押さえて千空は身体を揺らした。熱のある吐息が唇を開いて外に出た瞬間、尖った鋭い牙が覗き見えた。
爛々と目を光らせる獰猛な獣を従える優越感に背筋が続々と震える。じわじわと股間に熱が溜まってきて痛い。
「煽んな……全部、喰っちゃまうぞ」
「俺以外のケーキを喰われるよりはマシだ。俺の味だけ知ってろ」
怒りも悲しみも混ぜ合わせた微妙な感情を持った目で千空は俺を見た。
自分の口から出た唾液ですっかり濡れた唇を手で拭いながら、千空は涙を流して「気持ち悪ぃ」とだけ小さく呟く。
近づいて額を合わせると、鼻先もくっついた。眼前に同じ顔があるのに、それは鏡でない。首の角度を変えて唇に近づけば、逆に近づけられてぴたりと合わさった。ぬちゃぬちゃと淫猥な音を立てながら舌を絡めあう。
貪るようにキスをし続けていると、不意に俺の半勃ちしかかっていたちんこがぎゅっと握りこまれた。驚いて跳ねるようにして唇を離せば、べろりと舌なめずりをする兄の形をした獣が欲情を溶かした瞳をこちらに向けて立っていた。
<END>
支部にて2021年7月29日に初出