千空に触手が生えまして 双子の兄の部屋を開けたら触手に襲われました。
そんな馬鹿な話が実際に起きてしまっている。にゅるりと絡んだ粘着質で無色透明なのに中に流れる体液の圧で脈まで打つ、見たことも感じ事もない得体のしれない物体。昔、図鑑で見たイソギンチャクに生えていた先の丸い触手。それを長くしたようなものに巻き付かれて俺はどうしようもなく途方に暮れた。
遡ること数分前の話。借りていたマンガを返すべく、俺は兄の部屋を訪れた。
「おい。せん……」
空いた隙間から中を除いたところで、俺の手が勝手にドアを閉める。
見間違いか? 何だか見てはいけないものを見てしまった気がする。一体何なのか、一目見て頭で理解出来なかったのはそれがあまりにも常識的でないものだったからだと思う。
もしかしてこれは夢なのだろうか。マンガを読んでいていつのまにか寝てしまっていた。その可能性は大いにある。なぜなら寝入る前に読んでいた物語の世界が印象的だったから。借りていたマンガはややストーリーに無理はあるが、科学者の兄にしては珍しい異世界物のマンガであったからその辺りのギャップも無意識に自分に蓄積されていたに違いない。インパクトのでかさを引きずったままそれを無意識のうちに夢の中でも再現してしまったのだ。そこまで考えて先ほど見えたものはまぼろしに違いないと結論付ける。
「―、夢なら問題ねぇな」
よくよく思い出してみれば、さっき見えたのは現実ではほとんど見れない困り顔した千空だった。平素、理屈と合理性で圧倒され虐げられている身としては困っているに違いない千空を助けて恩を売るのも面白い。
そう追加で判断してもう一度双子の兄の部屋を覗き込んだ。
「千空うぅっ! うわっ! 何だこりゃ!」
瞬間、隙間から勢いよく飛び出してきたのはにゅるりと半透明の緑の細長い物体。それがあっという間に俺の身体に絡みついてきた。触れられた場所にぬるんとした生暖かくも湿った感触が伝わり、驚いて抵抗もままならぬうちにそいつが俺を部屋の中へと引き込んだ。
「ちょっ、な、何なんだ? ギャーッ! 気持ち悪い! 何だこりゃあ!」
引き込まれた兄の部屋の中を見て俺はさらに驚いた。部屋の中央に居たのは兄、千空には間違いないのだがどういうわけか腕がない。代わりにあるのは先が丸くつるりとした緑色の滑らかな触手がくっついている兄の姿をした生き物。俺を部屋の中に引きずり込んだのは間違いなく兄なのだが、兄だとわかってからも驚く以外に何が出来ただろう。
「何で逃げんだよ黒。つれねぇじゃねぇか」
はぁとため息をついて千空がまるで俺に非があるようなことを口にする。
「普通に考えて逃げんだろうが! 何なんだその腕! つーか、離しやがれ!」
濡れたらワカメみたいになる兄の髪が伸びてどうにかなっているのならまだ視覚的にギリギリ許せるが人体に存在しないものが生えているのは理解に苦しむ。正直に言えば見た目がとても気持ち悪すぎる。
「離したら逃げんだろうが……まぁ、聞けよ、黒。俺がどうしてこんな状態になったのか、知りてえだろうが」
自由に動ける足をばたつかせて抵抗する俺を前に千空が涼しい顔をする。俺が自分の話を知りたがっていると信じて疑わないのは何故なのか。
あきらかに顔と言葉で嫌悪感を示しているというのに。我が兄ながら日本語は通じているのだろうか。それとも頭が良すぎて自分の脳内の世界用語しか伝わらないのだろうか。
「テメーが弟を身動き取れ失くしてまで話したいなんて絶対ろくな話じゃないだろうが! 別に知らなくていいからとっとと離せ。俺は風呂に入って寝る」
どうせ聞いたところで俺のメリットはない、絶対にない。兄がどうしてこんな化け物みたいな姿になっているかなんてどうでもいい。きっと自分で何かやらかしているのだ。自分でケツを拭けばいい。それよりもべちょべちょとくっつけられた糸をひくスライムみたいな水糊のような……ローションに近いようなものを洗い流してさっぱりしたい。
「つれねぇなぁ。せっかく気持ちのいいことしてやろうってのに」
ニヤニヤと笑みを向けられてさらに怒りが増してくるのがわかった。絶対にろくなことじゃない、そう直感が俺に告げてくる。
「ぁ? テメーの研究の手伝いは俺の快楽とは無関係だろうが! 俺は難しい計算式と実験には興奮しねぇ」
俺を被害に巻き込むことを勝手に決めているのがまず間違いである。怒りをそのままに悪態をつけばどのあたりに感心したのか含み笑いが返ってきた。
「そんじゃあちんことケツ出しやがれ」
ぬるぬるとした丸い滑らかな先端が俺の頬をぺちぺちとつつく。楽しい戯れのつもりだろうが、ぬちょぬちょした粘り気のある汁をくっつけられた側としては不快極まりない。
「縛り上げた弟に言う内容がおかしいだろうが!」
説明すると言っておきながら先に性器を露出しろなんて話の流れがおかしい。
「ああ、そうだったな。テメー、手が使えねぇから自分じゃ出せねぇな。仕方ねぇ、脱がせてやる」
最適解を出したと言わんばかりに輝くような笑顔を見せた千空の腕……の代わりに生えた触手が俺のズボンに手をかけて思いっきり下に引っ張る。
「論点そこじゃねぇぇぇぇぇ! 離せ、マジで止めろ。頭おかしいだろ! 一体、テメーは何をどうしたらこんなことになってやがるんだよ! つーか離しやがれ!」
必死に脚をばたつかせて触手の動きを邪魔してみせる。腰の出っ張りに上手くひっかかkってくれたが半分出たケツが寒い。弟の股間を明るい笑顔で丸出しにする兄がいるなんてどうかしている。
「……下着の趣味悪くねぇか?」
よくある人気キャラクターとのコラボパンツを見た千空が目を細めてバカにする。売り場で一目見て気に入った下着で兄へのウケを考えて買ったものではない。
「テメーのために履いてんじゃねぇわ!」
下着の趣味に関しては元素記号のプリントされたものを履いている兄に言われたくない。
「精巣の機能については通気性が良く、キンタマを冷やせるふんどしがいいって説が……」
「俺は履かねぇし、調査にも協力しねぇ。とっとと降ろせ。解放しろ」
科学を追求するあまり、そっち方面では同級生より頭一つ、二つ飛びぬけている兄だが情緒面に関しては生身のロボット以下である。人の都合よりも自分の探求心、好奇心を優先させる。それが兄、千空の長所であり短所。若き科学少年としてもてはやされてはいるが身内としては振り舞わされっぱなしだ。
「まぁ、話を聞けよ。今の俺の身体は自力で遺伝子を思い出すのが困難な状態。だが、ご都合よく俺には双子の弟であるテメーという同じ遺伝子の持ち主がいる」
千空が声のトーンを落とし、急に顔が真剣になる。普段は見ることが少ない彼の真面目な表情に俺も飲み込まれていく。
「つまり、テメーが元の人間に戻るために俺が必要なのか?」
ごくりと咽喉を鳴らす俺に千空が神妙な面持ちで首を縦に振った。千空に必要とされる。こんな日が来るなんて思いもよらなかった。
「あぁ。テメーが必要だ」
ふっと唇の端を緩めて兄が微笑む。顔だけはいいと言われる兄の儚げな笑顔はなかなかの破壊力がある。俺以外に対しては。
「千空……で、原因を早く話せ。テメーがそんな芝居がかったことをやるときは大体碌でもねぇことが理由だろ?」
生まれて年齢の時間だけ弟をやっている俺を騙そうとは無理がある。誰よりも騙された回数が多い俺だ。成長するにつれて誰よりも見分けがつくようになった。
「やっぱ騙されてくれるのには無理があるか。どうでもいいから時間の無駄だ。さっさと体液が欲しいからちんこ出すぞ」
俺を説得して納得させるのは時間の無駄、そう言われることに俺は憤慨した。
「誰が『はいどうぞ』ってちんこ出すか! ふざけてんじゃねぇぞ! テメーがお願いしないといけない側だろうが! せめてこうなった理由を教えやがれ!」
「ぁ? 言ったら納得して出すもの出すんだな。まぁ聞け。薬自体はうまくいったんだがな」
「内容によりけりだ……って薬?」
俺の返事も待たずに話し始めた千空の言葉に俺は聞き返した。まさか、医療分野においての研究を行っていたのか。過去にはエボラの調査に海外へ飛んだこともある兄である。俺が知らされていないだけでインターネットを通じて情報共有して何かしらやっていても不思議ではない。
一体、どんな薬をしていたというのか。副作用として自身の遺伝子の配列を忘れて人体の組織が別物になるなんて怖すぎる。しかし、うまくいったのであれば人類のためにはなる。ならば俺が協力すれば副作用が抑えられて成功する可能性が。
思考を巡らせる俺に千空が深く頷く。
「ああ、媚薬だ。飲めば一時間くらいテメーが俺の好き勝手をさせてくれるような代物だ」
「そ……んな頭のイカレタ物を存在させたのかよ、最低じゃねぇか。テメーの頭脳を信じて人類のために開発された薬だからって覚悟を決めようとした俺の感動を返せ」
興味と知識をどうしてそっちの方向に持っていったのか。思春期の青少年としては健全であるが、薬を使って他人をどうにかしようなんておかしすぎる。
「まぁ、聞け。その薬を自然の成り行きでテメーに飲ませようとしてエナドリに混ぜておいたいいんだかが、間違って飲んじまった。元の薬では人体の軟体生物化はなかったから混ぜたエナドリとの化学反応で効果がかわったのかもしれねぇ。つまり、テメーに出るはずだった副作用を俺が身を挺して助けた形だな。だから、テメーの精液寄越せ」
「テメー自分の言った内容自分で整理してみろ。最低過ぎて引くわ。遺伝子なら唾液でも爪でも髪の毛でもいいだろうが」
「俺は死んだ細胞より、元気で活発で性に溢れたものがいい」
媚薬なんて作らずに好きだっていってくれればいいのに。
感情が漏れていることに気が付かずに兄に自覚のない告白を聞かされ続けられる日々。わかりやすすぎる兄の好意の暴走に巻き込まれるのも悪くはないが、出来ればちゃんと手順を踏んで俺の気持ちを伝える隙をどこかに作って欲しい。そう思いながら、精液に拘る兄の粘りを聞き流した。