「打算だった」
聞こえてきた声に反射的に息を潜めた。何でって、彼と自分の関係に対する話題だったからだ。レイシオと、それから上司であり身元引受人にもなっているジェイドの会話。たまたま彼女に用があって、執務室にいるという話を聞いたから訪れた彼女の部屋だ。アポをとるほどのものでもなかったから、ジェイドでさえアベンチュリンがここにいるとは思っていないだろう。
「ふぅん。どこからか聞いても?」
「彼からの想いに応えたところからだな。それだけで彼の行動が多少はましになるのなら必要な犠牲だろう」
犠牲、犠牲か。あぁでも確かに、彼からしたらこれは犠牲になるのか。だって潔癖だと自称するレイシオにとって、他者との接触なんてストレス以外の何物でもないだろうし。でもそれはアベンチュリンの想いに応えたら、つまり恋人という関係を持つなら避けて通れない。でも、じゃあ、その犠牲を経て彼が得たものって何なのだろう。『アベンチュリン』を得て手に入るものなんて幸運か、信用ポイントか。恋人だろうと仕事関係の情報なんて渡せないことは彼も理解しているだろうし、そうなるとそれくらいしかないと思うのだけれど。
「酷い人。あの子が聞いたら何を思うでしょうね」
「脅しか? 別に、僕は知られても構わないが」
「それは私から伝えろということかしら。嫌よ、変な諍いになんて巻き込まれたくないわ」
そうだろう。そこに何らかの利益が見込めるならまだしも、そうでないなら彼女が貴重な時間を使ってまで介入してくるわけもない。レイシオとの関係が解消されたところで戦略的パートナーであることに変わりはないし、そこで生まれる利益については何も変わらないのだし。
あれ、でもなんでジェイドは、アベンチュリンがレイシオと恋人だということを知っているのだろう。仕事に影響を出さないようにと、この関係は誰にも明かさないと約束したはずだ。それすらも『打算』のうちだったのだろうか。まぁ、そうなのだろう。アベンチュリンはこの話を誰にも相談できないけれど彼はそうじゃない。きっとそういう状態にしたかっただけなのだ。
つまり全部、嘘だったのか。溢れてしまったこの想いがたまたま傍にいた彼に伝わってしまって、それに気付いて太陽みたいな瞳を見開いて、逡巡して、「分かった」と言ってくれた言葉から全部。確かにあの時、「僕も」とか「好き」とか、そういう言葉は一切なかったな。じゃあいろんなところに出かけたのも、彼の家に連れ込まれたのも、同じベッドで寝たのも。アベンチュリンの家に住む小さな同居人と仲良くなれるよう彼が努めたのだって、彼からしたらただこの関係を維持するための労力でしかなかったのか。
ジェイドの言う通りだ。酷い人。そう思うのに、心を占めるのは怒りなんかじゃなかった。だってそれが普通なのだ。こんな汚いエヴィキン人を彼が愛してくれるなんてありえなくて、だからこれは腑に落ちるような納得感。あぁやっぱり、そんなことだろうと思った。そんな、落胆にも近いもの。
でもレイシオから言い出されたわけではないのだから、これを聞いていたことを彼に知られるのはあまりよくないだろう。だからアベンチュリンがやるべきことはひとつだ。早くここから立ち去って、聞かなかったことにして、これからも彼に言われるまでは恋人として一緒にいる。彼がその真相を話してくれるまで、本当のことを明かしてくれるまで。今まで通り彼の隣で、騙されたまま何も知らずに笑っておく。それが一番簡単なことで―――一番、難しいことだった。
なんで、なんて馬鹿みたいな思いが頭をよぎる。駄目だ、考えてはいけない。そういうものだと納得しなければならない。だって彼はかのベリタス・レイシオで、きれいで、うつくしい人。そんな彼がアベンチュリンを好きになるなんて奇跡は、夢は、願ったところで叶うはずもない。いいではないか。一時だけでも叶えてもらえたのだから。打算だとしても、慈悲だとしても、それは確かに与えられたのだから。
「……アベンチュリン?」
あぁほら、もたもたしているから彼に見つかってしまった。今ここに来たように装って、なんでもない顔で笑って、それでレイシオとジェイドに、挨拶を。そう思って口を開くのに、なんでか言葉が出てこないのだ。いや、言いたい言葉はある。頭の中でもちゃんと組み立てられている。なのに、声が出なくて。
「ぁ、れ」
そしてようやく出たのは、決して彼らに向けた言葉ではなかった。ぼろりと落ちたのは声じゃなくて雫だ。大粒のそれがとめどなく、アベンチュリンの頬を濡らしているのだ。
「おいっ?」
「……あら」
違う、そうじゃない。泣きたいんじゃなくて、困らせたいんじゃなくて。だってそんなことをしたらこの夢だって終わってしまう。いいじゃないか、夢でも。夢ですら本当に欲しいものなんて得られなかったのだから、この幸せな夢だけでも、いつか終わりが来るとしても惨めにしがみついていればいい。なのにどうして、それすらも許してくれないのだろう。
「聞いていたのね、坊や」
「っ、」
「いいわ。……彼は打算だと言った。それには益がつきものよ」
「わ、かってる、」
「ジェイド、君は」
「その『益』が何だったのか、それを聞いてから今後の関係を決めなさい。必要なら戦略的パートナーという関係についても清算しましょう」
それは何て魅力的な申し出だろう。だってレイシオの顔を見ただけでこうなのだ。今後、普通に仕事を共になんて無理に決まっている。いや、するけれど。それすらもできなければ『アベンチュリン』ですらなくなってしまうから、ただの死刑囚に戻ってしまうから。でも、やっぱりちょっとは時間がかかりそうだし。それに彼だって、懸想されている相手よりも他の石心の方が居心地もいいだろうし。
こつん、こつん。ジェイドの足音が遠のいて、この部屋に二人で残される。自室に戻るべきだろうか。いや、一言二言交わすだけなのだからここでも構わないだろう。だって今後、もうレイシオがアベンチュリンの執務室を訪れることはなくなるのだから。
でも、嫌だな。それをこっちから言うのか。アベンチュリンから、終わらせないといけないのか。レイシオが何も言わないのならそれしかないけれど、やっぱりどこかつっかえて涙に変わってしまいそうだった。ようやく止まった涙は皮一枚のところでまだ留まっている。
「……れいし、」
「聞かないのか」
「……何を?」
「打算の、僕にとっての利益を」
「あぁ……」
そうだ、聞かないと。ジェイドの言う通りこの関係にはレイシオの利益が必要だ。アベンチュリンは彼に『恋人』としての立場を求めた。それに応える代わりに、他の利益を得るという打算。何だろう。さっきも考えたけれど分からなかったのだ。だって彼は何も、受け取ってくれないから。
「……いいや」
「何故?」
「君が僕のことすきじゃない、ってことだけ、わかればいい」
赤色が見開かれて、それも含めて視界が滲んだ。ぼた、とまた雫が落ちていく。その顔、あの時も見たな。アベンチュリンがたまらずこの心をさらしてしまった時。綺麗だなと思ったのに今はただ、痛い。
「今まで付き合わせて、ごめん」
「……僕が君を好きではない、というのを、何故そう判断したのか聞いても?」
「あは、言わせるんだ」
笑顔を作ってみる。きっと見るに堪えない汚い笑顔なのだろう。だってレイシオがそれを見て、酷く顔をしかめたのだ。失敗した。でも、それ以外に取り繕える方法がなくて。
「一度も、言われたことないよ」
好き、って。それ以外の言葉も。例えばこちらを労わるような言葉とか、ひねくれているけど心配するような言葉とか、そういうのはたくさんあった。でもそれはビジネスパートナーに対しても言えるものだろう。自覚がなかったのだろうか。言葉が返ってこないということはそうなのだろう。器用なくせに不器用で、酷く正直な人だから。
「君の家にある僕の私物は捨ててくれていいから、」
「っ君の!」
「ッ!?」
踵を返して、赤色が見えなくなって、少しだけ安堵して。その矢先だった。声と同時に手が取られる。ひっぱられて、また赤が、見えて。
「君の一番近くにいられる権利を、得た!」
「は、」
「君の食事が少しずつ改善されるのを見て、その結果を僕が一番最初に実感した!」
「レイシオ、」
「君が、笑ってくれる頻度が増えた! 共にいられる時間が増えて、」
朝まで一緒に眠れたことにどんなに喜んだか、君に分かるか。そりゃ、確かにすごくうれしそうだなとは思ったけれど。何度も彼の家にお邪魔して、でも人の気配があるとうまく寝付けないアベンチュリンを、彼はそれに付き合うように一緒に起きていてくれた。徐々に浅かった眠りが深くなって、短時間だけど眠れるようになって。それで彼の起床時間だという朝日が昇った少し後に一緒に起床して。忘れる訳もない。だってアベンチュリンよりもレイシオの方が喜んでいた。溶けそうなくらいの顔で、「おはよう」って。
「……なんで?」
でもそれは全部演技だったのだろう。レイシオって芸達者なんだな、なんてどこかで思う。そんな特技、彼にあっただろうか。でもそうじゃないならこれは、いや、そんな訳ない。そんな都合のいいことを願っては。
「君が好きだからだ、アベンチュリン……!」
幻聴まで、聞こえてしまう。握り締められた手が熱い。痛いくらいなのにきっと、アベンチュリンが本気で抵抗すれば離してくれるのだろう。そういう優しさを持っているのだ、彼は。それがわかるくらいには、アベンチュリンだってレイシオのことを知っている。
そう、知っている。彼がこれを演技では言えないことを知っている。そんな必死に、まるで彼が自称する凡人みたいに、そんな言葉を口にするのは嘘じゃない。そう、知ってしまっているのだ。
「……ほんとう?」
「本当、だ。君の傍にいたくて、君の恋人という立場になればそれができると、っ」
「あ、は」
必死な、取り繕うこともできない等身大の言葉たち。笑ってしまうのは許してほしい。だって嘘だと思うのだ。けれど、知っている彼のすべてがそれを真実だと証明している。本当に? だってこれを棄却する術が、アベンチュリンの中には存在しなくて。
「どこからが、打算?」
「……君の想いに応えたところからだ。恥ずかしながら僕の中にあるこれを恋愛感情だとは思っていなくて……ただ、君を手放したくないと、思った」
「それがわかるなら、」
最初から気付いててよ。だって気付いていたなら、きっと彼はそれを『打算』だなんて称さなかった。こんなにアベンチュリンがかき乱されることも、こんな不格好に告白のやり直しみたいなことをすることもなかった。
掴まれた手を少し握り返したら、零れた涙は彼の服に吸い込まれていった。