「い、いや、それはちょっと、」
「何故だ? 僕に不満があるなら言うといい」
不満? そんなのある訳がない。だって目の前にいるのはかのベリタス・レイシオなのだ。石紋症の治療法を確立し、それ以外にもたくさんのことを成し遂げ、結果として多くの人々を救い導いた真理の医者。彼に不満を抱ける人なんているのだろうか。少なくともアベンチュリンには不可能だ。
いや、そうじゃない。そうなじゃないのだ。アベンチュリンは決して彼に不満があるから言い淀んでいる訳ではない。そうではなくて、彼の発言自体が問題なのだ。
「確かに僕はカンパニーの社員だけど、えっと……その、人権? は他の人とはちょっと違う扱いになってて、」
「知っている。だから事前にジェイドからも許可を貰った。これが契約書だ。ダイヤモンドも把握している」
「一体どんな対価を渡したんだい!?」
掲げられた契約書を慌ててひったくれば、そこには紛れもない彼女の文字が所狭しと並んでいた。ジェイドは馬鹿じゃない。でもレイシオだって馬鹿じゃないはずなのだ。なんでその二人がこんなことを。
「……君のメリットが分からない」
「今言ったところで君の理解は得られないだろう。そして僕も君からの理解は求めていない。今必要なのは君からの了承のみだ」
「このやろう……」
あぁもうなんでこんなことに。そう心の中で毒づいたって誰に聞こえる訳でもない。結局、アベンチュリンはレイシオの要求を呑むしかないのだ。
婚姻届けに署名するという、彼の要求に。
普通は嫌だろう。急に求婚されたアベンチュリンがではなく、レイシオが。だって相手は元奴隷の死刑囚だ。いつカンパニーに殺されるかも分からないような相手に求婚するなんて馬鹿げている。いや、添い遂げるつもりはなくてただの一時しのぎの何かかもしれないけれど。でもそれならなおさら、レイシオがアベンチュリンという事故物件を選ぶ理由が分からない。
「あれ、アベンチュリン?」
「……トパーズ」
いろいろな手続きのために奔走し終わったころには、心も身体もボロボロだった。一体今日だけでどれだけの書類を書かされたのだろう。しかも今後の手続きはまだちらほら残っているから気が抜けない。残っているものの中で一番大きいのは引っ越しだろうか。家にいる小さな彼らが喜んでいるのだけが不幸中の幸いだった。彼らは環境が変わるのを嫌がることが多かったから。
しかしその手続きが終わったって仕事はあるのだ。いろいろな書類とまた顔を突き合わせて、そんな最中に同僚が現れた。小さな、いやそこまで小さくもない相棒を引き連れて。
「君なんでまだ本社にいるの」
「いちゃいけないのかい? 書類が書き終わらないんだよ……家でやろうかな」
「あぁ、そっか」
君結婚するんだっけ。盛大に、むせた。せき込んで、呼吸が苦しくなって、そんな状態で目に涙を浮かべながらも彼女を見上げる。驚いたような朝焼け色が見えたけれどそれどころじゃない。なんでトパーズがそれを。
「レイシオ教授が結婚するって、それはもう公表されてたでしょ」
「っそ、うだけど! 相手が明かさないってジェイドとの契約書にも……!」
「まぁ確かに相手は公表してなかったけど」
「ならなんで相手が僕ってッ」
「えぇ?」
心底不思議そうにトパーズが首を傾げた。まるでそれ以外があり得ないとでも言うように。何故? 彼の相手がアベンチュリンだなんて、それこそ公表されたって信じられないくらいだろう。だってレイシオだ。バカアホマヌケが嫌いなレイシオの、その結婚相手だ。ギャンブル好きの死にたがりなんて彼が嫌う愚鈍そのものだろう。なのにどうして。
「……ふぅん? ま、君のその素の顔は貴重だし」
そう言って彼女は語ってくれた。執務室の椅子に掛けられた青いブランケット。出張中に遠征艇内の車中泊でよく使用するベルベットのアクセサリーケース。いつも使う金の装飾が入ったペン。貰いものだという手土産を社内で配る様、その時にわずかに香るいつもとは違う香水、いやシャンプーの香り。
「これだけ『自分のもの』って主張されてるんだから、結婚相手なんて聞かなくても察しはつくでしょ」
唖然。確かに言われたその全てには覚えがあった。そしてその全てがレイシオから与えられたものだった。いや、でも人を放っておけない人だからと、そう思っていただけなのだ。だから受け入れただけで、だからそんな、まさか、そんなことって。
「……君のとこの子たちの定期検診もレイシオ教授がやってくれてるんでしょ?」
「まさか……それも……?」
「君が今の今まで彼からのその行為をなんとも思ってなかったんなら、彼は全部織り込み済みだろうね。君の周りにいる人たちに主張して、君と一緒にいる子たちは味方につけて」
だから「一緒に住む」なんて言い出したのか。小さな彼らが嫌がらないように時間をかけて仲良くなって、そして機が熟したから行動に移した、と。なんて人だろう。その頭脳を使うのは何もこんなところじゃなくてもよかっただろうに。
逃げ場が、ない。ただの契約ならよかったのだ。というかそれしかありえないからずっとそれを探していた。ジェイドとの契約書や書かされた書類の山をひっくり返して、それを証明するたったの一文を。
「相手はあのレイシオ教授だよ? そんな『ヘマ』する訳ないでしょ」
「ヘマ、って」
「さっさと観念してくっつきなよ。ジェイドさんが許したってことはそういうことなんだから」
みんなにも声をかけて、結婚式には大量のお祝いを送り付けてあげるから。そんなことを言ってトパーズは踵を返した。みんな? いや、知っているのなんてひと握りだろう。トパーズだから気が付いただけで、だから他の人、なんて。
そう、アベンチュリンは未だに正しく事態を把握していないのだ。どれほどの人がレイシオという人に牽制され、見せつけられ、ある程度の納得と許容を受け入れたのかということを。とはいえ知る日も遠くはないのだろう。
結局、知らぬは本人ばかりである。