発端〜元夫来訪まで 全ての発端は、およそ半年前にさかのぼる。
私はインフルエンザを患っていた。
最初に罹ったのは、会社の部下である。数日前、優れない顔色で気になる咳をしているのに関わらず、マスク無しで出社しているから「今すぐ病院に行きなさい」と強制的に早退させた。
そうしたら、翌日「インフルエンザでした」との連絡があった。戦々恐々とする同部署の面々。結果的に、その部下とデスクが近かった社員は皆もれなくインフルエンザとなり、その他会議や昼食などで彼と行動を共にしていた者も一部が罹患。数日のうちに主不在のデスクが続々と増えていくというホラー現象が起きた。
このプチパンデミック状態に、直所の上司であった私も巻き込まれ、今に至る。不幸中の幸いは、同居の息子が感染しなかったことだろうか。
予防接種したのにな、と思いながら体温計を脇の下から出してみると、液晶の画面には「三十八度七分」の表示が出ていた。さっき飲んだ解熱剤が効き始めたのだろうか、しかし依然として倦怠感と頭痛、それに関節痛といった典型的症状は重く付きまとっている。体がだるすぎて昼食が食べれなかったせいで、今ものすごくお腹が空いている。
食料の調達をしにキッチンを物色したが、取引先への納品日間近で仕事が忙しく、ろくな買い物に行っていなかったせいで、インスタントものは底をつきていた。ここ数日は私の代わりに息子が家事をしているため、野菜や肉などの食材は比較的揃っている。しかしそれを切ったり煮たりと、調理するだけの元気が私には無かった。
彼は今日部活で帰りが遅くなるといっていた。冬の大会前で、主要選手でもある彼はどうしても部活を休めないらしい。
親としては、わざわざ部活を休んでまで親の看病をしようとするその気持ちだけで泣きそうになるのだが、少なくとも午後八時までは帰ってこないだろう。現在の時刻は午後四時。さて、どうしたものか。
そうこう考えていると、手の中のスマホが振動した。息子からの電話だ。
『母さん、熱どう?』
「三十八度七分。解熱剤飲んだら、少しは落ち着いたよ」
『俺今日も部活長引きそうだから、飯作れない』
「ああ、大丈夫。今の世の中、デリバリーサービスでも何でも揃ってるかどうにかなるよ」
『それでさ、今日は助っ人呼んだから。多分六時くらいに家に着くって言ってた』
「え、誰?」
『それは着いてからの秘密。冷却シートとかスポドリとか、足りないものの買い出しもお願いしたから。それだけ伝えたくて電話した』
「ちょっと、切る前に助っ人って誰なのか教えなさい」
『内緒。じゃあね』
息子はあっさりと電話を切った。
何やら不穏な気配がする。しかしそれについて考えをめぐらす前にいよいよ倦怠感が限界に近付いてきたため、思考を放棄して私は再び布団の中に潜り込んだ。
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息子からの電話から数時間後。
冬の日差しはあっという間に沈み、暗い夜が訪れる。
悪寒と熱にうなされて、熟睡したり微睡んだりを繰り返していた中、唐突にインターホンの音が鳴った。息子の言う助っ人なる人物だろうか。
緩慢な動作で布団から起き上がり、マスクをつけ、厚手のパーカーをスウェットの上から羽織る。寝起きでぼんやりしていたとはいえ、インターホンの画面確認を怠った自分をこの時ばかりは呪いたい。
扉を開けると、そこには予想だにしていなかった人物が立っていた。
「久しぶり」
「……何で」
目を疑った。一瞬で覚醒する。思わず一度扉を閉める。
鍵まで閉めたところで、インターホンの画面を見る。
不健康に色の白い顔と、光のない目。太い眉に下げられた口角。無造作に、しかし丁度良く整えられたオールバック。
そこに映されていたのは間違いなく元夫・尾形百之助本人だった。顔を見るなり扉を閉められたことで少し機嫌が悪くなったのか、眉間に皺が寄っていた。
あまりに驚きすぎて、頭の中が空っぽになる。何を言えばいいのか分からず、思考をフル回転させて言葉をひねり出した。
「よく私がまだ引っ越してないって知ってたね」
「時々郵便ポストの名前確認してた」
「ストーカーだね」
まあ、もともと何かに対する執着心は強い彼の性格と照らし合わせても、矛盾は生じない行動だ。
「それにしても、何でいるの?」
彼は心外、と言わんばかりの顔をした。
「樹が俺に連絡してきたんだよ。お前がインフルでぶっ倒れてるし、自分も部活があるから世話してやってくれって。聞いてねえのか?」
樹とは、先述した私の息子である。しかし我が息子よ。なぜこの男を、元夫を助っ人に呼ぶ。元夫婦を一つの空間の中で二人きりにしないでくれ。
「仕事は?というか、今仕事してるの?」
「一年くらい前に、店開いた。俺が店主だから、休みたい日を休業日にしていいんだ」
「お客に不親切だこと」
「客よりお前の体調のほうが優先だ」
「さいですか」
私はひとつ深呼吸をすると、首を回すと顔を上げ、画面の中の尾形と目を合わせた。予想外の助っ人ではあるが、技能だけ考えるとあながち間違った人選でもない。結婚していたときに家事全般を担ってもらっていたこの男ならば、何かしらの看病はできよう。この際利用できるものは何でも利用しようじゃないか。
腹をくくった私は、再び玄関の扉を開けた。息子から頼まれた品々だろうか、手に下げているスーパーのビニール袋には、栄養ゼリーやスポドリのペットボトル、カップラーメン、電子レンジで温めて食べるタイプの冷凍食品が入っているのが見えた。
一方、改めて今の私の状態――スウェットにパーカー、マスク、額の冷却シート、充血した目、その他諸々――を見た尾形はおやと眉を上げた。
「マスクと手洗いうがい必須。アルコール消毒もね」
玄関に備え付けたマスクを渡す。
「本当なんだな、インフルエンザって」
素直に受け取り着用した後、彼は言った。
「ひどい時、三十九度台まで熱出たからね」
「解熱剤飲めよ」
「飲んだ。でも、まだ熱三十八度から下がらない」
「分かった。まあ、とりあえず寝とけ。夕飯作り終えたら、また声かける」
尾形は家の中に上がってくると、ぐるりと家の中を見渡し、眉間の皺をさらに深めた。「家事回ってねえな」
ソファの上に乱雑に積み上げられた洗濯物しかり、キッチンの流しの中に積まれた使用済みの食器類しかり、物が乱雑に出したままになっている食卓しかり。
「仕方がないでしょう。私も部屋から出られないしだるくて動けないし、あの子も学校と部活があるから家のことしっかりやる余裕なんてないし」
「全く、樹は俺を呼んで正解だったな。お前、何でもかんでも割とギリギリまで一人でやろうとするタイプだもんな」
「そうですね、はい。我が家の救世主ですね、まさに」
適当にそうおだてると、尾形は少しだけ口角を上げた。どうやらご機嫌になったらしい。自分が本来ならば出禁を敷かれている身で、今回は特例で許可されているだけということを忘れているようだ。
彼にとっては結婚していた時に住んでいた、勝手知ったる家である。ずんずんとキッチンまで買い物袋を持っていき、中にある要冷蔵・冷凍品をしまっていく。
「お腹すいた。来たなら何か作ってよ。私昼ごはん食べてないんだから」
「あれだけ三食と睡眠は欠かすなって口うるさく言ってたお前が?」
「緊急事態だから仕方がない。本当、君が来てくれて助かったよ」
「だろ」
彼はさらに口角を上げ、まずは食器洗いにとりかかった。その光景を、自室の手前で眺める。懐かしさに、自然と口元が緩んだことで、案外この状況を素直に受容している自分がいることに気が付いた。まあ、離婚したとはいえ一度は生活を共にしていた相手なのだ。
「全く、御しやすいところは昔と変わらないな」
そうつぶやき、言われた通りに寝ていようと自室へのドアを開けたその時。
再びインターホンが鳴った。
何かと玄関に出ようとする私を手で制し、代わりに尾形がインターホンの画面を覗いた。しかしすぐにこちらを振り返る。その顔は、般若かと思うくらい険しい。彼はものすごい剣幕で問い詰めてきた。
「この男誰だよッ」
「は?」
のそりと隣から画面を見てそれが誰なのか理解した瞬間、私は再び目を剥いた。意識の外に置いていた倦怠感、頭痛ほか諸症状が一気に押し寄せてくる。
「何で?」
「誰だこの男。不審者か」
「いや、不審者ではないけれど」
御しやすいが嫉妬もしやすいこの男を、現状最大に刺激する要素が来てしまった。正直に事実を言ってしまうと今後の修羅場、カオス展開が必至であることは容易に想像ができる。しかし、下手な嘘をついたところですぐばれそうな気もする。
逡巡した後、私は現状に抗うことを諦めた。もう、どうにでもなれ。
「元夫だよ。あなたの前のね」
「は?」
地獄の底から出たのか、と思うほど低い声。予想通り、尾形はキレた。勢いよく玄関へ走っていった。「ちょっと待て!」という制止の声もむなしく、彼は玄関の扉を開けた。
「オイ大丈夫か……って、誰?」
「尾形百之助です。あなたの後の夫を担当してました。それで、どうして元夫のあなたがここにいらっしゃるんでしょうねえ?」
「再婚相手か?血気盛んなことだな」
「はいはい尾形ァ、一旦落ち着こうか」
よっこらせと重い体を無理に動かして玄関まで出てきて、ステイステイと犬にやるように背中を撫でて落ち着かせ、目の前に立つ男を改めて確認する。
そこに立っていたのは相も変わらずスーツを海外俳優並みに着こなす、二番目の元夫・菊田杢太郎であった。
尾形は未だ警戒心ありありの顔をしているが、一応黙ったのでその隙に聞きたいことを聞いた。
「何でいるんですか?樹が呼んだ?」
「君の同僚がインフルで休んでるって教えてくれたから」
「何でここの住所分かったんですか?」
「その同僚の子から聞き出した」
「ああ、お得意のたぶらかしで」
「人聞きの悪い言い方だな」
彼は苦笑したが否定しなかった。私は深くため息をついた。住所を漏らした同僚はすぐに目星が付く。面食いのどうしようもない女だが、そういう性格をしているからこの男に狙われたのだ。この稀代のハンサムかつ女たらしは、自分の武器が何なのかをよく理解している分、ある意味尾形よりも面倒である。
「それで、体調大丈夫では……なさそうだな」
「察しが早くて助かる」
こちらも気を利かせたのか、ドラッグストアの袋いっぱいに詰め込まれた物資をもって玄関前に立っていた。
「この小僧は、どうしてここに?」
「樹が助っ人で呼んだ」
「呼んだ?現夫じゃないのか」
私はうなずいた。
「累計三番目の元夫です」
ほう、と菊田は髭を撫でながら呟いた。尾形に向けられたその目は、明らかに値踏みをしている。尾形はともかく、菊田と離婚したのは息子がまだ小学生のときだ。面倒くさいことになるし、今更変な対抗心を持ってほしくないのだが。
「なあ、なんで初対面から他人のこと見下すような目で見てくる野郎と結婚したんだ?」
「その後離婚してあなたと結婚したじゃない。それが答えでいいでしょ?」
「……まあ」
途端に黙る尾形百之助。何度でもいうが、御しやすい男で本当に良かった。
さっきまでぎゃんぎゃん騒いでいた尾形が黙った隙に、今度は菊田が口を開いた。
「今熱は?」
「三十八度七分」
「はあ!?解熱剤は」
「飲んだよ。今、尾形が夕飯準備しようとしてたところ」
「全く。そりゃあんだけふらふらした足取りなわけだよ。とにかく、一旦上がるぞ」
上がる時に断りの言葉がある分、こちらは流石に常識というものがあった。
「マスクと手洗いして」
「了解。何か作るから、それ食べて薬飲んで寝とけ。うどん食えるか?おかゆの方が良いか?」
「おや、俺が今から作ろうとしてたところに割り込みとはいい神経してますね。大体、彼女を満足されられるだけのものを作れるという自信はあるんですか?」
「若造は引っ込んでな」
「俺だってね、こう見えて料理店のシェフやってるんです。料理は大得意ですよ」
「家庭料理作るのにプロかそうじゃないかなんて関係ないだろう、大切なのはその味を気に入るかどうかだ」
来て早々に世話を焼き始める菊田に、案の定早速噛みつく尾形。年上なのだから流せばいいだけのことなのに、菊田はご丁寧にその煽りに乗っかった。大人げない。最早仲裁する気も失せた。今私の耳には、この大の大人二人の言い争いの声がすべて猿かヒヨコの鳴き声に変換されて聞こえている。内容など全くもって伝わっていなかった。
取り敢えずキッチンで言い争う二人は放っておいて自分はさっさと寝ようと廊下に出たとき、スウェットのポケットの中のスマートフォンが振動を始めた。電話だった。着信画面に表示された名前は、近所に住む中学からの古い友人だった。
『もしもし、熱やばそうだね』
「そりゃあインフルエンザだし。というか、私あんたにインフルだってこと言ったっけ?」
『ああ、樹くんが連絡くれてさ。母さんがインフルで動けなくて、自分も部活の大会が近くて休めないからご飯の面倒だけでも見てもらえないかってお願いされたよ』
なんとなく事情を推察した。恐らく、息子は最初彼女に助っ人を頼むつもりだったのだろう。そして彼女に断られたから、第二候補として尾形に連絡して依頼したという流れだろうか。
『うちも今旦那以外全員インフルでさあ。子供が小学校から持って帰ってきちゃって、もう大変よ。だから正直、他人の家の余裕まで見る余裕ないんだよね。ごめん』
「こっちも何だかんだで、元夫が二人揃っちゃったから大丈夫よ。子供の方見てあげて」
すると友人はあからさまに狼狽えたような声を上げた。
『私、代打で月島に食料持って行ってって頼んじゃった』
「え」
思わず絶句する。その瞬間、インターホンの音が鳴った。背後で元夫二人が「誰だ」と画面を見に行く気配がする。体の不調がさらに倍増して重くのしかかる。
『……大丈夫?』
私は、電話口で引き攣った笑いを浮かべることしかできなかった。
「……かなりやばい」