恋の奴隷 今日もモモチくんは鍵をかけてマンションを出ていった。次のライブに向けてのミーティングと新曲の練習があるらしくて、メンドくさいと言いながらも出かけていった。帰りは少し遅くなるみたい。
見送ってから、作りたてのひとくちコーンスープを飲んでみる。一人だと、味気ない。
朝食はいつも二人分作る。食欲が薄いモモチくんには要らないと言われることが殆どだけど、たまに気まぐれのように食べてくれることがあるから、いつその言葉が訪れてもいいように、二人分。その気まぐれの訪れは珍しいので、大抵わたしの朝食は昼食にもなる。
朝食を済ませて、食器を片付ける。その後はお茶を飲んだりしながら、ゆったりとした時間を過ごす。
それから、洗濯物を洗濯機へ。わたしは夜に洗濯物を洗う習慣がついていたけれど、夜の洗濯を二回目に見られた時「この間といい、まさかアンタいつも夜に洗濯してるわけ? ありえないんだけど」とモモチくんに指摘されてから必ず日中に済ませるようにしている。柔軟剤を入れるのも忘れない。洗濯中に掃除も済ませる。リビング、キッチン、寝室、お風呂。それから、モモチくんの作業部屋。
わたしは、この部屋の掃除がとりわけ好きだった。
この部屋で、モモチくんの音が生まれる。ひどく神聖で、モモチくんの心に触れられる気がする場所だ。作業用のパソコンの両側には大きなスピーカーが備え付けられていて、キーボードやギターがここが自分の居場所だと主張するように部屋を陣取っている。足元には、わたしにはよく分からない作曲のための機械が、コードでいつくも繋がっている。
最初にこの部屋の掃除をしたいと伝えた時、モモチくんはわたしがこの機械たちを壊したり、配置を変えたりするんじゃないかと言った。全くその通りだと思って引き下がろうとすると、いくつかの条件を出された上で、わたしはこの部屋の掃除を許された。
ひとつ、不用意に機器に触れないこと。
ふたつ、「おせっかい」はしないこと。
みっつ、モモチくんが許可していない時は部屋に立ち入らないこと。
鈍くさいわたしだけど、この約束は特に守るようにしている。
今日は掃除する許可をもらっている日で、この部屋を訪れるのは久しぶりだった。「埃っぽいから掃除しておいて」と昨日の夜モモチくんに言われたのだ。その場ですぐに掃除を始めようとすると、「今からなわけないでしょ」と呆れられてしまった。頼まれたのが嬉しくて考えなしに体が動いてしまったとは言え、洗濯機を夜動かした時と同じように、無意識に常識が欠けてるような自分が恥ずかしかった。
掃除が終わると洗濯物を干して、ここからは自由時間。モモチくんが載っている雑誌を見たりラジオを聴いたりして穏やかに時を過ごす。
お昼には朝食と同じものを食べた。二回目の同じ内容の食事に飽きる気持ちがないわけじゃないけど、モモチくんの口に入るかもしれなかったものだ。朝と同じ味がするものを、もう一度味付けや栄養バランスをチェックしながら食べていると、あっと言う間に完食していた。料理も我ながら随分上達したと思う。
食後はネットで日々の生活に必要そうなものを見繕う。モモチくんに買ってきてもらうのも限度があるから、料理に必要な野菜やお肉や調味料は、宅配で頼む。
スマホをスクロールすると、不意に広告が現れる。男性用のマフラーだ。そういえば、前持っていたマフラーはダメになったと言っていた気がする。これからの季節に必要になるものだし、何よりもモモチくんに似合いそう、と思わずそのページを開く。ネットは実物を見られないのが欠点だと思う。手触りや色味も、実際のところはよく分からない。でも、きっと、このマフラーはモモチくんによく似合うだろうと思った。注文ページに飛びかけて、タップしようとした指を止める。もし、今度外に行ける機会があったら。わたしが直接モモチくんにマフラーを選んであげたい。普通のデートの中で、そんなことをしてみたい。しばらく外へ出ていなかったせいか、妄想は膨らんだ。はっと気づくと、夕食の準備をしなくてはならない時間に差し掛かっていた。
――今日は帰りが遅いらしいけど、食べてくれるかな。
喜ぶ顔を想像しながら少しでも食欲が湧きそうなメニューを考えるのも幸福な時間になった。今日は野菜が届く日だから冷蔵庫の中身はある程度使いきってしまっても大丈夫なはず。メニューを決めて、手早く夕食を作った。
夕食の準備を終えて、ソファに座りながら今か今かとその時を待つ。永遠にも思われた時が過ぎてから、鼓膜に部屋のロックを外す音が届いた。早く顔が見たくて足早に玄関へと向かう。
「おかえりなさい」
玄関先には眉間にシワを寄せたモモチくんが両手で箱を抱えて立っていた。
「……ただいま。ねぇ、今週頼みすぎじゃない。毎回ここまで運んでやってんの、誰だと思ってんの? こんな重い荷物持って部屋まで来るのすっっごく疲れるんだけど」
「ご、ごめんなさい」
「台車で運ぶと返す手間がかかるし。疲れてるんだから余計なことさせないで」
モモチくんから野菜がぎっしり入った四角い箱を受け取る。確かに石でも詰めたようなどっしりとした重みが腕にぶら下がって、わたしは反省した。モモチくんはため息をつきながら靴を脱いだ。
「来週分はもうちょっと考えて注文して。ご飯はいらない。シャワー浴びたらすぐ寝るからアンタも早く来て」
「うん」
モモチくんの言葉に了承すると、モモチくんはふらりとお風呂場へと消えていった。
私は野菜を冷蔵庫の野菜室にしまいながら、自分の分の夕食はモモチくんがシャワーを浴びている間にほんの少しだけ食べようと考えていた。
夕食を終えると洗面所の方からドライヤーの音が聴こえてきて、タイムリミットが残り少ないことを知る。あとは歯磨きだけ。急いで身支度を終えて、寝室へと向かった。
わたしとモモチくんは、大抵一緒に寝ている。
モモチくんの帰りが遅くなった時はもちろん先にベッドへ入っているけれど、可能な日は二人でベッドに入るのが二人の日常だった。
モモチくんがわたしを求める夜もあれば、ただ抱き締めながら眠る夜もあって、触れ合いが一切なく距離を取りながら眠る夜もあるけれど、同じベッドの温度を共有することだけは変わらなかった。
疲れた、という言葉の通り、モモチくんはベッドサイドの仄かなライトを消してわたしを抱き寄せて目を閉じた。疲れている上に、おそらく体調も悪いのだ。一言も発さずに体を丸めて眠ろうと努める姿で、何となく悟ってしまう。軽い体調不良の時は頭が痛いだとか気持ちが悪いだとか言うことは多いけれど、こんな風に最悪だとか口先でも言えない時は、かなり具合が悪い時だ。
モモチくんは発熱したとか、怪我をしたとか、病状がはっきり分かる時でないと看病させてくれない。その時だって、勝手にあれこれ看病するわたしを止める元気がないだけで、基本的に弱っている姿を見せるのはよしとしないようだった。
――頭痛がするのかな。それとも吐き気? 薬は? もし飲んだなら、その前にちゃんと何か口にした方が良かったんじゃ……。
思わずカレへの心配が零れそうになる。
けれど余計に何かして彼を怒らせるくらいなら、このまま睡眠という薬で元気になるのを期待する方がいいかもしれない。そう思って、目を閉じる。
おやすみなさい、モモチくん。
朝起きるとモモチくんは寝る時と変わらず私を後ろから抱き締めていた。回されたモモチくんの手をそっと取るとひんやりした温度が伝わって気持ち良い。どうか体調が良くなっていますようにと祈るように手を重ねて、そっと指先に口づけて腕の中から抜け出す。
名残惜しくベッドから起きるのも毎日のことだった。音を立てないように寝室を出て、軽く洗顔して歯磨きしてから朝食の用意に取りかかる。目玉焼きを焼いていると不意にくらっと目眩がした。一、二分我慢すると治まったけれど、なんだか頭もふわふわしている気がする。昨日は心配であまり眠れなかった。目眩も体が浮かぶような感覚も、寝不足のせいなのだろうか。何にせよ料理中にぼうっとしているのは危険だ。気分を切り替えようと深呼吸して料理を続けた。
朝は大体決まった時間に起きる。モモチくんと一緒に暮らし始めた頃はアラームをかけていたものの、ゆっくりしても良い日にいつも通りアラームを鳴らしてしまっては機嫌を損ねる、という流れを懲りずに何回か繰り返したあとにやめた。起床時間が習慣化すると、今では疲れていても寝不足でもある程度は同じような時間に起きるようになってしまった。
逆にモモチくんの朝はあまり早くない。朝に弱く二度寝をすることが多いので、わたしが起こすのが日常になっていた。
昨日の体調不良が気になったけれど、そろそろ起きなくては遅刻してしまう時間になったので、寝室へとカレを起こしに行く。
「モモチくん、朝だよ」
「ん………」
「起きて」
寝起きにも耳障りが良いように努めてやわらかく、優しい声で朝を告げる。
「うるさい……」
「でも、起きないと間に合わなくなっちゃうよ」
「……知らない、てゆーか行きたくない」
モモチくんが起きるのを嫌がるのも仕事に行きたがらないのもいつもの事だけど、昨日の様子からやはり体調がまだ本調子ではないのかもしれないと不安になった。
もしそうなら休養を取ってほしいと思って、ついこんなことを言ってしまった。
「じゃあ……今日はお仕事お休みして、ゆっくりする?」
途端にモモチくんは目を見開いた。
「……アンタがそんなこと言うなんて珍しいじゃん」
「……そうかな?」
じっとりと不審な目で見上げられて思わず必要以上に狼狽えてしまう。
そんなわたしを見て、「仕事には行くから」とモモチくんは渋々といったように体を起こし、ベッドから出てリビングへと向かった。体調は大丈夫だろうかと心配になったけれど、直後に告げられた言葉でそれは杞憂に終わった。
「朝ゴハンはできてるの」
「えっ、食べてくれるの?」
「そーゆー気分なだけ。ほら、出来てないなら早く準備して」
「うん……!」
頻度の高くない嬉しい出来事に心が弾む。急いで支度をして、タバコを吸いつつ待ってくれているカレに朝食を差し出す。二人揃っての朝食は久々だった。朝の静かな空気に、カチャカチャとカトラリーとお皿が奏でる音だけが響く。
「……今度の連休、休み取れたから。どこか連れてってあげてもイイよ」
「いいの?」
「最近イイコにしてたから、ご褒美あげる。嬉しい?」
「嬉しい! ……あのね、モモチくんのマフラー買いたいの」
「ふうん……アンタに付き合ってあげるって言ってるのに、オレのモノ買いたいんだ」
「うん。もう買いたい色も決まってるから」
「そ。じゃあ、好きにしたら」
ごちそうさま、とモモチくんは席を立つ。少な目に盛り付けたとはいえ朝食をきっちり完食して、モモチくんはお仕事へと出掛けていった。
わたしの生活は今日も変わらない。いつものように洗濯をして、掃除をして、食事を摂って。
寝不足のせいか、夕方頃にはうつらうつらとした眠気が襲ってきた。夕食は作り終えたのでもう眠っても支障はない。けれど、モモチくんの帰宅までにはあと一時間ほどある。もう少しだけ、起きていたかった。
ふと気づくといつの間にか夜が更けていた。ぐるりと見渡しても辺りは真っ暗で、誰もいない。
あれ、わたし……何をしていたんだっけ。
ここはどこかも分からないし、ここに来る直前自分が何をしていたのかもはっきりしない。不安が押し寄せて、思わずカレの名を呼ぶ。
「モモチくん、どこ……?」
「どうしたの」
後側から求めていた声が聞こえた。勢い良く振り返る。そこには、間違いなく朝見送った彼が立っていた。駆け寄ると、いつもより機嫌が良さそうにニコニコと笑っている。ここはどこなのか尋ねる前に、ぱっと頭に浮かんだ言葉をかけた。
「モモチくん、良いことでもあった?」
「どうだと思う?」
何があったんだろうか。不思議がったわたしを気にせず、モモチくんは唐突にこんなことを言った。
「ねえ。すごーく気分がイイから……今ならアンタのこと、信じてあげてもイイよ」
上機嫌にモモチくんは私の腰を抱き寄せて、唇をなぞった。
「ほんとう?」
「そう言ってるじゃん。だってアンタはオレのことなら何でも聞くし、オレのためだけに生きてるんだもんね?」
「うん、そうだよ」
わたしの言葉を聞くと、モモチくんは突然笑い出した。ひとしきり笑い終えると、すっと真顔に戻る。
「あ~あ。……つまんない」
その言葉を聞いて、体が凍り付く。鈍いわたしでも感じた、嫌な予感が胸にひしめいた。
「飽きた」
「………?」
「アンタに飽きた」
「え」
「もう飽きちゃったから、いらない」
「まって、なんで、そんな急に」
「最近大人しくしてたけど、素直に従うアンタにも飽きた。アンタで遊んでも全然楽しくない」
「……」
愕然とした。そんな風に思われていることに。それじゃあ、わたしは、モモチくんにとって、どうあれば良かったの。カレの言うことを聞いて、それで幸せで、それで良かったはずだった。わたしはどうすればモモチくんの心を繋ぎ止められたんだろう。
そもそも、わたしなんかがモモチくんの心をどうこうできると思っているのが間違いだと、思い知らされた気分だった。
言葉を放つための口すら動かせない私に、にっこりとモモチくんは笑いかけた。
「バイバイ♡」
ゆっくりとカレの手が迫る。
凍り付いたままその手を受け入れる。とん、と肩を押されて体全体が後ろへ傾いた。たたらを踏んでバランスを取ろうと更に足を後ろへ踏み出すと――そこには足場がなかった。
「え?」
振り向いた背後には底の見えない闇が一面に広がっている。
ぐらりと傾いた体はそのまま闇へ落ちた。反射的に伸ばした手は掴まれることなく、ただひらすらに下へ、下へ、下へ――。
衝撃で真っ白だった頭はよく働かない。
最後に見た、笑顔でひらひらと手を振るカレの姿だけが心を占めていた。
がばりと体が跳ね起きる。体中ぐっしょりと汗をかいていて、気持ちが悪い。両手のひらを見つめて握って、先程の出来事が現実ではないことを知った。
「生き、てる」
ゆめ、そう、あれは夢。
私が眠っている間に見た、幻。
けれど告げられた言葉は夢とは思えない鋭さを纏って、わたしの胸を抉った。
わたしには、ない。
モモチくんのような才能も、友人も、帰る家も、何も。
モモチくんに出会って、恋をして、モモチくんの傍にいるのを許された、それだけが人生の中で唯一の幸福で、生きる意味だった。
モモチくんという存在との接点をなくした丸裸のわたしには、何の価値もない。
カレが飽きたら、わたしは捨てられる。
分かっていたはずだった。
でも、本当の意味で分かっていなかったのかもしれない。
またいつわたしが馬鹿な失敗をして、モモチくんを怒らせるか分からない。
そんなことを繰り返して、モモチくんが夢のように飽きて、本当に捨てられたら――。
「飽きた」のひとことが脳内をぐるぐると駆け巡る。
夢で放たれたはずのそれは、くっきりと現実味を持って、まるで現実かのように輪郭を主張し始めた。
「アンタなんかいらない」
「出てって」
「もう顔も見たくない」
今まで言われた棘のある台詞の全てが、まるで今言われたことかのように次々とフラッシュバックする。
嫌い。裏切り者。信じない。許さない。
いつの間にか呼吸が浅くなり、また頭がぼうっとしてきた。視界が涙の幕に覆われて、見慣れた家具がぼやけていく。
「やだ……」
嫌だ、モモチくん、会いたい。今すぐ、そんなことないって言って。わがままでごめんなさい。でも、それでも、愛してるなんて一生言ってくれなくてもいいから、傍にいてもいいって、監視のために傍に置くって、もう一度言って。
壁に沿うように玄関まで体を引きずる。
絶対に触れるなと言われたそれに、幽鬼のような白い手が伸びる。
指先の細かな震えは、外界への期待なのか愚かな行動への恐怖なのかもう分からなかった。
スローモーションのようにコマ刻みで爪先と鎖との距離が縮まっていく。
とつ、と指先が触れたそれは掴むことを決して許されないドアチェーン。
鎖を摘まむ。チェーンを外す。
それからがちゃりがちゃりがちゃりと一つずつ鍵を開けて、禁忌の扉を押し開けた。
久しぶりの部屋の外の世界は、空気が新鮮に感じられた。堪能する暇もなく、ふらふらとした足取りでエレベーターに向かう。一階に降りて、エントランスを通りオートロックのドアの前まで来た。
モモチくんからマンションのオートロックの暗証番号は教えてもらっていない。
「必要ないでしょ?」と言われて当然のように頷いたから。
この扉まで出てしまったら、あの部屋に戻る術はなくなる。
それでも、今すぐ会いたい。
朦朧とした頭は、そもそもそんなことを考える余裕すらない。
そっと自動ドアに手をかざし、わたしは遂に外へ出た。
外は雨が降っていた。
はらはらと小粒の雨が降っている。
傘も差さずに濡れているのに、なぜだか冷たい水が心地良いと思った。地面を見つめると髪が頬に張り付く。
顔を上げると、見える範囲に人はいなかった。
一歩、また一歩。ぼやける視界の中、重い足取りを進めながらたった一人に焦がれる。
モモチくん。
会いたいくせに、今していることはカレに嫌われることだ。
分かってるくせに、止められない。
本当の本当に、馬鹿だと思った。
駅を目指し重い数十歩を歩いて、そこでようやく着の身着のままで出て来てしまったこに気付く。財布もスマホもICカードも持っていない。
「………や、っぱり……ももちくんが、いないと、だめ、だなぁ……」
いつの間にか雨は勢いを増して、勢いよく体中を叩きつけている。熱い身体に降り注ぐ、激しい雨音が聴覚を支配する中、そこでぱたりと意識が途切れた。
「――……」
目覚めると、見慣れた天井が目に入った。
わたしはなぜか毎日眠るベッドに寝かされて、服まで着替えている。濡れていたはずの身体にベタつきはなく、ただ体が異常に熱を持っていた。額から冷気を感じて手を当ててみると、冷却剤がぴったりと貼り付けられている。
「………っ、やっと、起きた……」
「……もも、く……?」
やっと漏れた声は掠れていた。中腰になりながら顔をのぞき込む人がカレだと、それが現実だと理解するのに少しの時間がかかった。
「うそ……」
連れ戻してくれるだなんて思わなかった。朦朧とした頭でも、これは「絶対に」許されないと分かっていたことだった。詰め寄られて、罵られて、酷いことをされることも覚悟していた。それなのに。
また会えるなんて。
言いたかった言葉は形にならず、代わりに喉から咳が出た。モモチくんが、喋らなくていいとでも言うように首に手を当てた。
「言いたいことは腐るほどあるけど、それをぶつけられるくらいになったらにしてあげる」
強ばっているのにどこか優しく聞える声が穏やかな気持ちにさせてくれる。ねえ、とモモチくんは続けて話しかけた。
「一体どこで風邪拾ってきたわけ。まさかオレからとか言わないよねーえ?」
風邪? ぱちくりと二、三回瞬きすると、その様子で言いたいことは伝わったようだった。
「こんなになってもまだ気付いてないの? オレの体調ばっかり気にして、まさか自分のことすらまともに分かってなかったってわけ?」
モモチくんの体調を気にしていること、気づかれていたんだ、と思うと同時に、本当に風邪を引いていることに気付かなかった自分に驚いた。
「四十度も出てたから、熱」
額に貼り付けていた冷却剤を剥がし、部屋を出ていこうとしたモモチくんの服の端を掴む。
「まって、いかないで」
「……新しいの持ってくるだけだけど」
「モモチくん、捨てないで」
モモチくんにとっては脈絡のない言葉がぽろりと溢れた。勝手に外に出ておいて、謝罪よりも先に言うことではないと分かっているのに、我慢出来なかった。
病人だからか、切実な響きだったからか。モモチくんは「何言ってるわけ」と怒るでもなく、静かに答えてくれた。
「……アンタを捨てるかはオレが決めることだから。言ったよね? いつか要らなくなったら捨てる。アンタが捨てないでって縋っても捨てる。当たり前でしょ」
そもそも、とモモチくんは続けた。
「最低最悪な裏切り者のアンタをこうやってまた部屋に上げてるのも、あそこで死んだりなんかしたら警察沙汰になって困るから」
服を捕まれたままのモモチくんの鋭い目がこちらを貫く。
「それ以外に、アンタをここに置いてる理由があると思った?」
悪いのはわたしなのに、その言葉に傷付いてしまった自分がいた。袖を振り払い今度こそ出て行こうとする背中に、どうしても伝えたい気持ちを投げかける。
「要らなくなってもいいから……わたしのこと嫌いでも、捨てられても、わたしはモモチくんが好きだよ。ずっと、きっと死ぬまでモモチくんを追いかけてる」
「何それ。ストーカー宣言?」
「そう思われてもいいよ」
「何なの。 熱でおかしくなっちゃった?」
怪訝そうにこちらを見るカレに勇気を出して振り絞った。
「……めて」
「は?」
「わたしが、モモチくんを好きな気持ちは、誰にも、モモチくんにも奪えないから……」
声は掠れて、熱でフラフラになりながらカレを求める寝間着姿のわたし。きっとモモチくんには、この上なく「みっともない」格好に映っているだろうなと思った。
「あきらめて、ください」
渇望するままに立っている彼の腕を引いてベッドに引き寄せる。よろけたカレの顔にそっと手を添えた。自分との距離を詰めて、あと数ミリで唇が唇に触れる――その直前で、止めた。
瞳がかち合ったまま、永遠のような数秒が過ぎた。目の前の長い睫が瞬いて、暖かい息が漏れた。
「しなくていいの」
「したかったけど……移したくないよ」
「こんな距離で喋ってるんだから今更」
そう言われれば、返す言葉もない。
「あんなことまで言って、ここまでけしかけておいて普通尻込みする?」
「ごめんなさい――」
だから離れて、と言おうとした言葉は彼の口内に飲み込まれた。
「アンタの言う通りになんかしてやらない」
容赦のない口付けが、責めるようにわたしを追い立てる。鼻で息をする余裕もなく、酸欠で脳がくらくら揺れた。起き上がっていた上半身を再びベッドに押し倒されて、呼吸を整える。たった一度のキスで蕩けてしまったわたしを見下ろしてからたった一度のキスで蕩けてしまったわたしを見下ろしてから、ベッドの端に座ったモモチくんが、こちらを見ずに聞こえないくらいの小さな声で言った。
「一応、病人だから。一回だけ言い訳するチャンスをあげる。ウソついたら今からでも外に放り出すから」
正直に答えた。
「……モモチくんに……捨てられる、ゆめを、見たの」
「それで?」
「まさかとは思うけど夢で捨てられたから不安で会いたくなって~、とか。言わないよね?」
圧をかけられて、その通りです、と正直に話すことは憚られたけれど、長く続く沈黙がその質問を肯定してしまっていた。
「図星かよ……」
モモチくんは舌打ちをした後、今までで一番長い溜息をついた。立ち上がりベッドの近くの机に凭れかかり、疲れ果てた様子で「ありえない」と空気に溶けるように独り言ちた。
またモモチくんを呆れさせてしまった。どうにか挽回したいという気持ちとは裏腹に眠気が再び襲ってきた。目を開けていられなくなる前にせめてと切り出す。
「でも」
「なに、言い訳なら一回だけって……」
他に何も信じてくれなくても良い。だけどこれだけはと祈りを込めてカレを見た。
「夢でも現実でも……モモチくんのことだけ考えてたよ」
まどろみに耐えきれず落ちてくる重い瞼。どんどん人影はぼやけて、その隙間からモモチくんがどんな顔をしているのかを知ることは叶わなかった。
昨日は体調が悪くて、泥のように眠った。
本人には絶っ対言ってやらないけど、アイツを抱き締めて眠ると、不調の治りが早い、気がする。
そんなバカみたいなことあるわけないって思ってたのに、何度も続くとそういうものなんだろうと認めざるを得なかった。
やはり少しは回復したご褒美としてゴハンを食べて外出の約束だってしてあげたし、行きたくなかった練習を切り上げてこうして早く帰ってきた。
霧雨のようなそれが小雨になり、いつの間にか大雨が降る中、ビニール傘を広げ最寄り駅からマンションへと歩く。
雨で気分はサイアク。天気が悪いと頭痛だってするし、昨日に比べたらマシになったけどまだ完全にいつもの調子じゃなかった。
この狭い路地の角を曲がるとマンションのオートロックドアに辿り着く、そう思いスマホから目を離して前を見ると、
カノジョが倒れていた。
「――………」
絶対にあり得ない光景に、言葉が出なかった。
カノジョを心配するより何より、真っ先に思った。
遂にホントに裏切った。
オレは……――捨てられた。
カッと一瞬で頭が沸騰して、冷静さを失う。
もういい。こんな子要らない。この女がオレを捨てたんじゃない、捨てたのはオレの方。自分に言い聞かせるように何度も念じた。
地に伏せる女を蔑んだ目で見下ろして、早足に素通りしようとした。瞬間、女が苦しそうに身じろぎした。
「あ……」
そこで、ようやく少しは冷静になった。
なぜこんな所で倒れているのか。
計画的に家出するつもりなら最低でも持っているはずの荷物すらない、身ひとつで。傘すら近くに落ちていない。
極めつけは苦しそうに喘ぐカノジョ。
「っ、ねぇ、ちょっと!!」
揺さぶるのは良くないと分かってはいても、抱き上げた腕が震えるのは止められなかった。
呼吸が浅く荒い。ハッハッと漏れる息にもしやと額に手を当てると、やはりそこには熱が溜まっていた。熱は? いつから? そもそもどれくらいここで倒れてた?
カノジョを抱えて部屋へ急いだ。服も髪も水を吸い込んで普段よりも重くなったはずなのに、それでもどうにか一人で抱えられるくらいの軽さだった。
「おっそ、クソ、早く来いよ!!」
エレベーターのボタンを連打した。
雪崩れ込むように部屋に帰って、濡れた衣服を剥がしてタオルで体と髪を拭いた。寝間着に着替えさせて、布団を重ねてかけてやった。
慌ただしく一連の流れを終えてから、「何やってんの」と自嘲した。
約束を破った。それは、オレからの信頼を捨てたってことだ。
今からでも外に捨て置くのは遅くない。
こんな子、看病せずに見殺しにしたっていい。
「もも、く、……も、もち……くん」
うわ言のようにそれだけを口にするカノジョに、喉元まで怒声がこみ上げた。
心の底では分かってる。「約束」を破った裏切り者だけど、その心が誰かに移ったわけじゃないってことは。
分かってる。どれだけバカでも、何かない限り、この約束だけは破るはずないってことは。
それでもどんな事情があったにせよ、裏切られたという揺るぎない事実への怒り。
発熱しぼろぼろになりながらもオレの名を呼ぶカノジョを、完全に突き放せないもどかしさ。
その二つが混ざり名前の付けられない感情が生まれていく。
少しでも均衡が崩れれば怒りが勝って、意識がはっきりしない病人にありとあらゆる罵声を浴びせ散らかしそうだった。いつものように理性が制御できず衝動的に手が出るかもしれない。
一旦タバコを吸いにリビングへ行こうとベッドに背を向けた時だった。
「モモチ、くん……」
「っ、起きた!?」
今度こそ起きたかと反射的に振り返るも、その瞳にオレの顔が映ることはなかった。寝言は続く。
「ま、ふ……らー……」
「ふふ、………にあってる」
苦しいはずなのに、夢の中で笑っているカノジョに、また違う種類の小さな怒りが湧いた。眠るカノジョの頬をぎゅっと強めに抓る。高熱に苦しむ顔が更に歪んだ。
「アンタがそうやって笑って苦しんで追いかけるのは……そっちのオレじゃないだろ」
そう、アンタがみっともなく縋って、惨めで無様になりながら、お仕置きされても懲りずに、土砂降りの中待って、小さいヒール履いて追いかけて、一緒にいられるなら地獄に堕ちてもいいだなんて、そう思う相手は……そっちのオレじゃないでしょ?
「だから……早く起きてよ」
眠ったままじゃ、文句だって言いようがない。
目覚めたカノジョを見ると、予想に反して安堵が勝った。
絶対に許さない。そう思っていたハズなのに。
安堵と呆れが怒りを食い潰してしまったのかもしれない。
「モモチくん、捨てないで」
そう必死に希う様は滑稽だった。同時に、オレの気分次第で自分が捨てられる恐怖をようやく覚えたのかと今までの呑気さに呆れ返った。気付くのが遅すぎるし、熱があったとはいえ情緒不安定のまま、よりによって外に出ようとするなんてやっぱりバカな女だ。
急に引き寄せられ、瞳いっぱいにカノジョの水晶玉が映った。
頬を染め目を潤ませ、掠れた甘い声で夢中で求めるのも、全ては風邪のせい。そう言い切れない熱量が瞳を満たして、オレに向けられる。まるで恋したてのように必死さに、その情熱的なまでに求めてくる様子に、合わせた瞳から何の熱か分からないソレが移りそうになった。
その目に捉えられたまま待ってやってたのに、キスは降ってこなかった。
時々こちらが折れるくらいの強情さを見せるくせに、拍子抜けしてしまう。腹が立って、こっちから奪ってやった。
最後の言葉を聞き届けてから、今度こそ部屋を後にする。カノジョが自分で起きてくるまで、あの部屋に戻るつもりはない。次に起きた時、捨てられたかと不安になってオレを探しに来るカノジョの顔が浮かんで、ほんの少しだけ溜飲が下がった。でも、それだけじゃ足りない。うんと怯えさせて、今度こそ熱が出ていたってこの家を出ようだなんて思わなくなるくらい縛り付けてあげる。どんなお仕置きでも足りないと、リビングまでの道を歩きつつ煙を吸いながら考える。
――アンタにはオレしかいないんだから。精々つまんないなんて思わせるヒマもないくらい必死に頑張ってオレを楽しませなよ。
胸の中で呟いた、形のない言葉たちに。
――うん、がんばるね。
見当違いな返事をする女の声が聞こえた気がした。