6.春嵐(キーワード:微笑み、死体の埋まる花、桜吹雪)
皆さん、はじめまして。私の名前は小波 美奈子といいます。十八歳になったばかりの高校三年生です。
今日は私の悩み……というか、愚痴を聞いてください。
内容は、担任の先生についてです。
私は「はばたき学園」という学校に通っています。部活や行事も盛んだし、生徒どうしも仲が良くて、毎日楽しいです。
だけど唯一、先生が――いえ、ほとんどの先生は厳しくも心の温かい、尊敬できる方々です。
ただ私の担任の、御影 小次郎 先生だけは……。
不気味。変。気持ち悪い。
私は彼のことが大・大・大嫌いなのです……。
バイトや勉強で忙しくなるだろうから、部活になど入るつもりはなかった。――だけど。
「受験で推薦枠を狙ってるなら、なんか入っといたほうが内申点は稼げるぞ」
担任教師にそう唆され、その流れで、彼が顧問を務める園芸部に入ったのだが……。
「……………」
軍手をはめた手で小型のシャベルを持ち、地面に斜めに突き刺す。尖った先端に土を乗せると、ひょいと遠くへ飛ばした。一連の動作を素早く何度も繰り返しつつ、もう片方の手で雑草を抜き、掘った土から顔を出した虫をつまんで放るのも忘れない。テキパキと無駄のないその所作は、すっかり熟練のガーデナーである。
――こんなはずじゃなかった……。
吸いつくように手に馴染む「相棒」のシャベルをふと止めて、小波 美奈子は顔を上げた。彼女の目線の先には、男子部員と向かい合い、なにか打ち合わせをしている大人の男性がいる。
物凄く背が高く、逞しい体つきをした男。そこいらの芸能人よりも整った顔と、長く伸ばした癖っ毛のせいでおおよそ信じられないが、彼は教師なのだ。
名は、御影小次郎。美奈子を園芸部に誘った張本人だ。
その姿が目に入るたび、美奈子の胸の内には、沸騰した湯の表面に湧いてくる泡のように、ボコボコと恨み言が浮かんでくる。
――騙された。
まだ入学したばかりの、いたいけな一年生だった美奈子に、当時も担任だった御影は言ったのだ。
「俺が顧問をやってる園芸部はいいぞ~。まあ地味だけど、ほかんとこと比べれば活動量も少なめだ。だから、バイトや勉強の邪魔にはならねえんじゃねえの?」
そんな勧誘にホイホイ釣られて入部してみれば、だが実際は、他の部活と比べても劣らぬ忙しさだったのだ。
土壌の整備、種まき、肥料と水をやって……。植えた花や作物に対しては、それ以外にも細々と世話をしてやる必要がある。
――日焼け対策も大変だし、農作業は足腰にクルし……!
高校生活における部活動は、予想外の負担となっている。だが美奈子は園芸部をやめようとは微塵も思わなかった。手間をかければかけるほど、それに応えるようにぐんぐん成長していく植物たちに、愛着を感じるようになってしまったからだ。
――そういうのも、なんか悔しいんだよね!
一度ハマると、とことん極めたくなる。そんな自分の性質を、あのいけすかない担任教師に見透かされているようで――。
よそを向いていた御影の瞳が動き、ぐるっと辺りを見渡す。紫の光が自分に当たる前に、美奈子はさっと俯いた。数秒後、いまいましい男の視線が無事頭上を通過していったのを感じ、ホッと息をつく。
なんでこんな、サーチライトに怯える泥棒のような、余計な緊張感を持たねばならないのか……。
イライラと歯ぎしりしていると、仲の良い女子部員ふたりが、美奈子の隣にしゃがみ込んだ。
「はああ……。今日も御影先生、かっこいいねえ……。潤うわー」
ひとりが、持ってきた肥料の袋を開けながら、熱っぽくつぶやく。
「そうかなあ」
美奈子はざっくざっくと地面をシャベルで突きながら、そっけなく応じた。
「もう、クールだな、美奈子は! あんなかっこいい人、はばたき市中探してもいないんだからね!」
「えー? 私はモデルの葉月 珪さんとか、NaNaのほうが全然いいと思うけどなあ」
「そんな天上人と比べるのは反則だよ!」
いきり立つ女子部員に、もうひとりがからかうように言う。
「まあまあ。美奈子は風真くんとか本多くんとか、別のイケメンに囲まれてるから、目が肥えてるんだよ」
「うーん。まあ確かに風真くんたちはかっこいいけど、そうじゃなくて……。なんか御影先生って、怖くない?」
美奈子が真剣にそう言うと、しかし女子部員たちはゲラゲラと笑い出した。
「怖い? どこが? あんな面白い先生、いないじゃん! 教頭先生のことなら分かるけど!」
「……………」
やはり御影に対して否定的なのは、自分だけなのだろうか。
むしろ美奈子は、鬼だとか冷酷だなどと評される氷室教頭のような、分かりやすい厳格さを持ち合わせた男性こそ好ましく思う。その対極にいる御影は、親しみやすいだとか陽キャだとか言われているが、それを胡散臭く感じてしまうのだ。
そう、御影が醸し出す実際の雰囲気は、世間の評判と乖離している気がしてならない。
――なにが、どこが、明るいイケメン?
彼には、気がつけば後ろに立っているとか、自分をじっと凝視しているとか、そういうことが頻繁にあった。きっとクソヤバな本性を隠しているに違いない。
だから美奈子は――巣を張り巡らした蜘蛛が、その糸で自分を絡め取ろうとしているのではないか。そんな恐怖を、御影に対して抱いているのだ。だが、ただの自意識過剰だろうという自覚もあるから、自分の考えを誰にも言えないでいるのだが。
「ね、ね。今週末、映画行かない? ほら今、なんか賞取ったやつ、やってるじゃん」
「あっ、見たい見たい! 行こう!」
サイコロを振ってコロコロ変わる面のように、女子たちの話題は目まぐるしく変わる。それがまた楽しい。
確かにこういった気のおけない友人たちを得られたわけだから、園芸部に入った意義は十分あったのかもしれないけれど。
美奈子は大口を開けて笑いながら、そんなことを思った。
日が沈む前に皆で後片付けをして、屋外から校舎内に移動した。ジャージから制服に着替えて部室に向かい、各々日誌を書いたあと、順次解散となる。
園芸部の友人たちから「一緒に帰ろう」と誘われたが、美奈子は断った。
「ごめんね。ちょっと寄るところがあるの!」
そう、学園の裏庭の桜が、ちょうど今、満開なのだ。陽光のもと咲き誇ったそれらは既に鑑賞済みだが、夜の姿も観ておきたかった。
目的の場所に向かう途中、同じく夜桜見物に足を運んだらしい数人の生徒とすれ違う。裏庭に辿り着くと、ちょうど無人だった。これ幸いとスマートフォンを構え、撮影を始める。ひととおり画像に収めると、美奈子は満足げに鼻から息を抜き、あらためて堂々たる桜の佇まいを目で楽しんだ。
裏庭にて、校舎に沿うよう横一列に植えられているのは、ソメイヨシノが五本。樹齢は二十年ほどと聞く。
「綺麗だあ……」
思わず声が漏れた。
薄桃色の花が、夜闇に包まれ、ぼんやりと淡く光っている。
桜の持つ魔力なのだろうか、辺りからは全ての音が消え、美奈子は今、静寂の只中にいる。別世界に足を踏み入れたような、不思議な感覚だった。
「小波」
「!?」
俗世から隔てられた空間。その雰囲気にすっかり浸っていたから、だから不意に背後から声をかけられて、美奈子はすくみあがった。
だが自分を呼んだ、独特の癖のある声は誰のものか、確かめなくても分かる。担任の御影 小次郎のものだ。
口をへの字に曲げながら美奈子が嫌々振り返ると、果たして御影がこちらに近づいてくるところだった。
「おまえが裏庭に行こうとするのが、理科準備室から見えたんでな。学園の敷地内とはいえもう暗いから、早く帰れ。親御さんも心配するだろ」
そう言いながらも、御影は美奈子の横に立ち、桜を見上げた。
「はい……」
すぐ走って逃げるのも大人気ない気がして、仕方なく美奈子も御影の隣で、ぼうっと桜を眺めた。
「……………」
場の白々した空気を感じ取ったのだろう、御影は苦笑した。
「別に、もう行っていいぞ。おまえが俺のことを嫌いなのは、ちゃんと分かってるから」
「え……」
どんな気持ちで言っているのだろう。ふざけているのか。冗談なのか。――本気なのか。
美奈子はそっと御影の横顔を覗き見るが、彼の感情は読めなかった。
思えばこの教師とは、高校三年間ずっと一緒だ。あの氷室教頭が目を光らせている以上、クラス編成に個人的な作為が入り込む余地はないだろうから、偶然だろうが……。これが腐れ縁というやつか。
すっと通った鼻筋に、切れ長の目。友人たちがきゃあきゃあ騒ぐだけあって、御影は確かに見目麗しい。だが美奈子はそんな彼を前にすると、ムカムカと腹が立ってしょうがないのだ。
「だって、嘘ついた……。園芸部は、楽な部活だって言ったじゃないですか……」
いや、今この場で、そんなことを責めたいわけではないのだが。
しかしまあ、植物というナマモノが相手では、片時も休めない。それをよく知っているくせに、自分を園芸部に勧誘したことに、頭にきているのは事実だった。時間がないと言っておいたのに……。
「でも、楽しそうじゃん」
さらりと御影は受け流す。彼の反論はそのとおり。美奈子にとって園芸など全く未知の分野だったが、知れば知るほど草花のしたたかな生存戦略に興味を惹かれ、いつの間にか虜になっていた。
御影は美奈子に向き直ると、ニッと唇の端を上げた。
「おまえはどこに放り込んでもそこに根を張り、活発に動き出す、好奇心と知識欲の塊だからさ。色んなことを経験したほうがいいと思ってな。――俺はおまえのこと、よく分かってるだろ?」
得意げな顔をして断言され、美奈子の頬は熱くなった。照れくさいような、恥ずかしいような――。
「キモっ! 知ったかぶりしないでください!」
「そうだな……。悪い」
美奈子がつい勢いで吐き出した言葉に、叩かれたような顔をして、御影は再び桜のほうを向いた。
傷つけてしまっただろうか。美奈子は気まずく黙り込む。
突然、強い風が吹いた。ごうっと大きな音を立てながら、美奈子たちの間を通り抜け、桜の枝を力いっぱい揺らす。
花びらが散り、暗闇に舞った。
先ほどまでは森閑としていた風景に、動きが加わる。幻想的であり、儚くもあり――。
「桜の樹の下には……」
「え?」
御影は、しかしそのフレーズの先を口にすることはなかった。代わりにブツブツと、平淡な調子で続ける。
「神様っていると思うか?」
「え?」
「この世界には続きがなく、ある一定の時がくれば巻き戻る……。おまえ、デジャヴとか感じたことないか? 同じことを繰り返していると、思ったことは?」
「え? え?」
「シミュレーション仮説って知ってるか?」
「えええええ?」
ゆっくりと首を動かし、再び自分を見詰める御影の瞳は、爛々と妖しく輝いている。美奈子はゾッとした。
――やっぱりこの人は変だ! おかしい!
思わず美奈子が後ずさると、御影は彼女の腕を掴んだ。
引き寄せられ、後頭部を大きな手で抱え込まれる。強い力だったが、しかしその手つきには、壊れものを扱うような繊細さと、ほんの少しの気弱さがあった。
――どうして。
怖いのに、苛つく。この感情はなんだ?
――あなたは、そんな人じゃなかったでしょう?
いつだって私を強引に抱き、なんのためらいもなくふれて。
私はあなたのものだと乱暴に知らしめ、自身の存在を刻み込んだ――。
フラッシュが焚かれたように、目の前がチカチカ明滅する。その隙きに御影の顔が近づいてきて、唇が重なった。
「――!」
なんだこれは。なにが起こっているのか。
つま先から頭のてっぺんまで波のような衝動が押し寄せ、理性を丸々流し去ってしまう。
――体が動かない。
御影は一度離れて、美奈子の瞳を至近距離からじっと見詰めながら、いたずらっ子のような口調で告げた。
「おまえのこと、知ったかぶりするなって言ったよな? でも俺、おまえとはたくさん会ってるんだ。――夢の中で」
「なっ……! ふざけてるんですかっ? ふざけてるんですねっ!?」
怒りに駆られた美奈子が続けてなにか言う前に、御影はまた彼女の唇を塞いでしまった。
「んうっ……」
今度の口づけは深く、喰らいつかれているかのようだ。口内に舌をねじ込まれ、ねっとりと舐め回される。
「う、せん、せい……!」
怯え、震える声しか出せず、悔しい。心臓が耳の近くに移動したかのように、ガンガンと鳴り響く鼓動がうるさかった。
御影の舌に自分の舌を奪われ、軽くしごかれる。お互いの唾液が混ざり合い、そしてお互い飲み込んだ。
「や……っ! んん……!」
――溶けてしまう。だから、やめて。
「知っている」。御影のあれは、なにかの暗示だったのだろうか。
そうだ、「知っている」。この男の唇と舌の味、大きさも、どう動くのかも。
どこかで、何度も何度も、こんなキスを交わした――。
いや、ありえない。そんな記憶はない。これは錯覚なのだ。
――嫌なのに。大嫌いな男にこんなことをされているのだから、嫌だと思わなければいけないのに。
しかしふわふわと体が浮くようで、気持ちがいい。下腹が疼き、そこで眠っていたはずのなにかが、目を覚ましてしまいそうだった。
御影は存分に美奈子を味わってからようやく口づけを解き、太く筋肉の張った腕で彼女を掻き抱いた。
「美奈子……」
耳元に寄せられた形良い唇に、優しく名を呼ばれる。ありふれた自分の名前なのに、御影が囁いたそれは高貴で美しくて、特別な響きを伴っていた。
――愛する者を呼ぶ声。
幸福に胸が踊り、だがその直後、得体の知れない恐怖と悲しみが覆いかぶさってくる。
「やめて……。そんな風に呼ばないで……」
「美奈子……?」
美奈子は首を振る。
「私のことじゃ、ないんでしょう……?」
「え……?」
自分を抱く腕から、一瞬、力が抜ける。その隙に美奈子は身を捩り、御影から逃れた。
「先生のバカッ! 変態! 気持ち悪っ! 先生が生徒にこんなことしていいと思ってるんですか!? もう私に近づかないでください!」
力の限りそう叫ぶと、美奈子は地面に置いてあったカバンを持ち上げ、勢い良く駆け出した。
ひとり残された御影は、遠ざかっていく教え子の後ろ姿を見送りながら、つぶやいた。
「桜の樹の下には屍体が埋まっている……」
そのような一文で始まる小説があるのだ。
御影は夢想する。優美な花をつける樹木の下に、愛しい女の亡骸が横たわっている光景を。
一体、二体、三体……。いや、もっとだろうか。
だが、それはあり得ないことだ。彼女たちは塵芥ひとつ残さず、消滅してしまうのだから。
だからそれは「死」ではないと、思い込もうとした。
――しかし、許されるわけがない。
何度も何回も、最愛の女を消した。何度も何回も。
口では「愛している」などとのたまいながら、「自分の知る彼女ではない」という浅はかな理由をつけて消した。
俺を愛さない美奈子なんて、価値がない。必要ない。そんなひとりよがりな考えで、消して、消して、消して――。
幾人もの美奈子に拒まれ、「私が愛しているのはあなたではない」と宣告され、だから消す。
虚しい作業を繰り返すたびに擦り切れて、ああ、きっと俺自身も、もうじき消えるだろう。
それはきっと、次の春。
もう一度、美奈子の卒業を見送って、限界がくる。それ以上は耐えられない。
すまなかった。ごめんなさい。だがどれだけ謝っても、きっと許されない。
俺が消してしまった美奈子には、きっとそれぞれ幸せな結末が待っていただろうに。
思えば、俺と美奈子が結ばれた、あれこそがなにかの誤りだったのかもしれない。
くたびれているくせに大人になりきれない教師と、キラキラ輝く、可能性に満ちた少女。
そんな二人の未来が、重なるわけがなかったのだ。
ただの傍観者。きっとそれが本来の俺の役目。
なのに余計な夢を見て、美奈子の人生を邪魔している。
だからこの不可解なループ現象は終わらないのではないか。
――すなわち、俺が消えれば。
世界は正常に回り出す。
御影 小次郎が理科準備室に戻れば、一人の生徒が待ち構えていた。
部屋の中央でちょこんと椅子に座り、帰ってきた教師に微笑みかけた彼は、柊 夜ノ介という。
「お、夜ノ介。どうした、こんな時間に。待たせたか? 悪かったな~」
御影は笑顔を作り、ひとまず部屋の奥へ足を進め、自分のデスクの前に立った。
「こんばんは。美奈子さんとのお話は楽しかったですか?」
「ん? ああ……」
裏庭で美奈子といるところを、どこからか見られていたのか。
柊の近くへ運ぼうと、御影はデスクチェアを引いた。だがその手は、教え子の問いかけを聞いて、止まる。
「諦めの悪い人だ。美奈子さんは絶対にあなたのものにはならない。――気づいているんでしょう? なのに、まだ足掻くんですか?」
「……!」
姿勢を改め、御影は振り向いた。柊はニコニコと笑っている。
「夜ノ介……じゃないな。おまえは誰だ」
立ち上がると、柊は麗美な仕草でお辞儀をして見せた。
「借りものの体と声で恐縮です。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。あなたを地獄に落としておきながら、礼を欠いておりました」
『地獄に落とした』。つまりこの男が、自分をこの不条理な世界に押し込んだ張本人か。
眉をピクリと動かし、だが御影はこみ上げてくる様々な感情を殺した。
「ご丁寧にどうも。千両役者の姿かたちを真似て登場とは、さすが神様。分かってるねえ」
「ははは。この柊くんの外見や声は、とても見栄えがしますからね。重要人物に見えるでしょう?」
御影に茶化され、柊は朗らかに笑った。
「んで? 俺をこの鳥かごから出してくれるために現れた……わけじゃねえんだろ?」
「察しがいい。単に興味が湧き、あなたに接触を試みただけです。平たく言えば、『今どんな気持ちぃ?』とお聞きしたかった。僕は舞台を用意し、設定をいじることはできても、演者の内面まで覗くことはできません。魂と心は、個々のものですからね」
「それはそれは……。プライバシーに配慮してくれる、優しい世界だなあ」
皮肉をつぶやき、はあと重い息を吐いてから、御影は尋ねた。
「おまえの目的はなんだ?」
「はっきり言って、ありません。あなたがここにいるだけで、僕の目的は達成されています。それでもこの世界を起動し続けているのは、ただの好奇心ですから。――あなたはいつ、くじけるのだろうか、と」
「……………」
御影は唇を噛む。
なんとなく予感はしていた。日々過ごす中でふと、第三者の視線を感じることがあったからだ。そして絶望に囚われたときには、誰かの冷笑が耳をかすめた……。
「おまえのことは、なんて呼べばいい? 『夜ノ介』とは呼びたくねえぞ」
「そうですね……。『エス』とでも。あなたが御影で、『M』だからね。ふふ、名は体を表すとはよく言ったものです」
「違いねえな。ドMでもなきゃ、こんな世界に居続けてねえ」
聞きたいことはたくさんあったはずだ。しかし冷静を装っていても、突然の黒幕の登場に混乱し、質問が思い浮かばない。御影は額にゴチゴチと手の付け根を当てた。
「ループを止めてくれとか、この世界から出してくれっつっても、ダメなんだろ?」
「はい。僕は僕のゲームを、まだやめる気はありませんので」
相手は超常現象を操るような輩だ。力づくでどうこうはできないだろう。
黙り込んでしまった御影を一瞥し、薄く笑うと、「エス」は立ち去ろうとした。
「それではまた。――あ」
横開きの戸に手を伸ばしたところで、忘れものでもしたかのように、「エス」は振り返った。
「あなたは僕を『神様』と呼んだね。シミュレーション仮説を持ち出したあたり、そういう考えに至ったのだろうと推察しますが、僕は神様ではありません。そういう存在は、別にいます」
「え?」
「神のために働く、つまり僕は天使ってやつですかね。ふふふ。そしてあなたも、僕と同等の力を得た。油断ならないね……」
とても楽しそうに目を細めて笑うと、「エス」は理科準備室を出ていった。
静かになった室内で、御影はデスクに腰を下ろし、天井を仰ぎ見る。
結局「エス」の目的はよく分からなかったが、自分が彼の興味の的であると言っていた。
「なんだぁ……。やっぱ俺が消えれば、この世界は正常に戻るんじゃねえか」
視界を上から下へ。床、いや地の底を、御影はしばらく眺めた。
~ 終 ~