Che gelida mania (冷たき手を)ここ最近、城内外で酷い風邪が流行っていると聞いていたので、十分に注意をしていたのだが、とうとう汪督公がお風邪を召してしまった。
やはり今日の外出が良くなかったのだろう。
お戻りになった後、直ぐに麻黄湯を処方したのだが、余り捗々しくない。
夜着にお着替えになって、寝台でぐったりなさっている督公にお声掛けした。
「百合粥、ご用意しましたよ。起きられますか?」
弱々しく首を横に振る督公のご様子に胸が痛む。
私は、督公を抱き起こした時に触れた、思ったよりも華奢な背中に驚いてしまった。
「熱いの…いや…」
「承知しました。少し冷ましましょうか」
枕元に置いた椅子に腰掛け、椀に入れた粥を匙で混ぜながら、督公を見る。
こんなに頼りなげなご様子を拝するのは、配属以来初めてなので戸惑ってしまう。
何処を見るでもなくぼんやりとなさっているので、私はあまり深く考えずに、粥を掬った匙を督公のお口元に近付けた。
督公は、ごく自然に、黙ってお口を開けて下さった。
「熱くないですか」
「うん」
粥をお口に運ぶ。
お匙が唇に触れると、雛鳥のようにお口を開けて粥を食べて下さる。
私は、可愛い小鳥を世話しているような、楽しい気分になってしまっていた。
「丁容。もういい」
だるそうなお声で、そう仰った。
「お側におりますから。少しお休みになって下さい」
夜具にくるまった督公の額を、私はそっと撫でた。
「丁容」
「し、失礼しました」
「いや…。お前の手は冷たくて気持ちいい。まるで私の…」
督公は、そう呟いて、急に口を噤んでしまわれた。
「私の?督公の、何ですか?」
「なんでもない…」
「冷たい手だ、とよく嫌がられていたのですが、今夜はお役に立てて嬉しいです」
まるで幼い弟の世話をしているようで、つい頬が緩んでしまう。
右手、左手、と交互に額を撫でて差し上げていたら、落ち着かれたようで、しばらくしてすぅすぅと寝息が聞こえてきた。
私はそっと手を離して、湯冷ましや薬湯の用意をして、しばらくお側に控えていた。
半刻程経った頃だろうか、うなされて何か小声で仰っているのに気付いた。
最初は『妹儿』かと思ったが、妹君がいらっしゃったとは聞いていないし、その他も聞き取れない単語ばかりだ。
ご出身から察するに、壮族(チワン族)の言葉だろうか。
残念ながら、私は壮族の言葉は全く分からないが、その言葉は安南(ベトナム)や暹羅(シャム)とよく似ていると聞いた事を思い出した。
暹羅の言葉なら、子供の頃近くに住んでいた老爺に教えてもらったことがあるから、少しは聞き取る事が出来る。
漢語とは思わず、暹羅の言葉として、督公のうわ言を聞き取ってみることにした。
「แม่(お母さん)」
そう聞こえた私は、思わず泣き出してしまいそうになり、ふと思い至った。
先程「私の」と言いかけておやめになったのは、母上の事だったのではないか。
いつになく弱々しい督公に、感情移入し過ぎているのかも知れないが、額の汗を拭って差し上げながら思わず呟いてしまった。
「จะอยู่เคียงข้างคุณ(側にいるよ)」
すると突然督公が手を伸ばしてきて、私の袖を掴んだ。
「ได้โปรดอย่าไป(行かないで)」
ああ、これは暹羅の言葉だ。
私は再び
「จะอยู่เคียงข้างคุณ(側にいるよ)」
と言った。
あまりにもおいたわしくて、そのままぎゅっと抱きしめて、背中を撫でながら言える事はこれしかなかった。
「ไม่ต้องเป็นห่วง(心配しないで)」
「หายเร็วๆ นะ(早く元気になって)」
督公は、まるで小さな子供のように、私の腕の中で何度も頷いた。
東洋医学では、背中にあるツボ、風門から邪気が入ると風邪を引くとされているので、私はずっと督公を抱きしめたまま、その背中をさすっていた。
時々、小声で
「จะอยู่ข้างๆเธอตลอดไม่ไปไหนอีกแล้ว(もうどこにも行かない、側にいるよ)」
と囁きながら。
私が、暹羅の言葉を少し話せる事は内緒のままにしておきたい。
確認した訳ではないので何とも言えないが、あの夜の事を督公は覚えていらっしゃらないご様子なので、この件は私の中だけにしまっておきたい。
あれ以来、うわ言を仰る程に寝込まれる事はなくなったが、督公がよくお休みになっていらっしゃる時、そっと耳許で暹羅の言葉を囁いている。
「จะอยู่ข้างๆเธอตลอดไม่ไปไหนอีกแล้ว(もうどこにも行かない、側にいるよ)」