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    yuyugaga4

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    yuyugaga4

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    高校生の五夏♀
    傑のメイド服姿の写真を何故か面識のない悟が持っていたことから始まる、二人だけのコスプレ撮影会の話。

    6月の新刊になるかならないかの冒頭です。
    メイドの日なのでちょい出ししました。
    (お蔵にはならないはず)

    コズミックランウェイ 今までに一度も喋ったことのない人間に、何の前触れもなく話しかけられた時の驚きを傑は二十四時間のうちに二度経験していた。
     現在はちょうど学年が変わったシーズンと重なっていたが、学校の方針により特にクラス替えもなかったためクラスメイトも代わり映えはしない。
     そんな折のことである。クラスも所属する委員会も、そして部活なんかも全く関連性の無い相手が突然目の前に現れて一方的に口を開いてくるなんて。
     何事?と首を傾げるのが普通だろう。
     教室の窓側に近い、後ろから二番目の席。
     最近席替えをしたばかりのその席に、傑は次の移動教室のための教科書を鞄から引っ張り出しながら立ち上がろうとしていた。
     そろそろ寒い時期も終わりを告げるが、膝上のスカートとふくらはぎを半分ほどしか覆ってくれないソックスではまだ寒かったので、しっかりと厚手のタイツを履いて防寒している。
     暦の上ではとっくに冬も終わっているはずなのにこの調子だから、本当ならスカートの下にジャージを履いて過ごしていたい…なんてことを一人で考えていたものだから、傑はその時何度か目の前で自分を呼ぶ存在に気づけなかったのである。
     …さん、夏油さん…!
    「あ、私?」
     傑はぱっと頭を上げて、声のする方を見るとそこには見覚えのあるような、しかしないような、自分と同じ色のリボンを付けた女子生徒が立っていたのである。
    「夏油さん、ちょっといい?」
     その女子生徒は傑の顔をじとっと見ながら言った。
     何度呼んでも傑が気づかなかったのが気に食わなかったのか、それとも最初からこの調子なのかはわからないが、どこか表情がむっとしているようにも見える。
    「次が教室移動なんだ、出来れば後が良いんだけど…」
    「すぐ終わるから」
    「……何の用かな?」
     きっと彼女なりに決心を固めてこの場にいるのだろう。
     他人の都合を考えない点については非常に自己中心的で面倒くさい女に違いないが、傑は一旦話を聞いてやることにした。
     この雰囲気は学校内の何らかの業務連絡ではない。
     もっと個人的な用事、例えば私怨だとか…
    「夏油さんって五条くんとどういう関係?」
    「ごじょうくん?」
     突然飛び出してきた第三者の名前を傑は反芻する。
     そもそも、目の前のこの子って誰だっけ?
    「なんか、夏油さんの写真持ってたんだけど」
     そう言って名前も定かではない女子生徒は苦虫を噛み潰したような顔をするも、傑はただ首を傾げるばかりだった。
     ごじょうくん?が、私の写真を持ってる?
     何一つ意味がわからなかった。
    「いや、知らないけど…そもそもごじょうくんって誰?」
    「えっ、誰って…うちのクラスの五条くんだけど…」
     三組の、と言われ、傑はやっと合点がいった。
     隣のクラスに所属する、でかくてやけに顔が綺麗なかなり目立つ男子が、確かそんな名前だったっけ。
    「何かの見間違いじゃないかな?私、五条くんと話したこともないしね」
    「うそ!じゃあなんで夏油さんの写真なんて…」
    「それこそ五条くんに聞いた方が早いんじゃないかな?」
     じゃあ私は授業だから。と言って傑が教科書を片手に持ちながら席を後にすると、もうその女子生徒は傑を呼び止めたりはしなかった。
     引き留められたせいで少し足早に廊下を歩かなければならなくなった傑は、なんだったんだあれは?と先ほどの出来事を思い起こす。
     隣のクラスの「五条くん」なんて知らないし、私の写真をもってただなんて言いがかりも良いところではないか。
     何と勘違いしているのかわからないが、完全に外野である自分まで巻き込んでラブコメを展開しないでほしいものだと少し腹立たしくもなる。
     だからと言って傑は自分から、その「五条くん」に直接事実関係を確かめに行くつもりもないし、この話はこれで終わったものだと思っていたのだった。
     だが、それで丸く収まってくれない所が、現実のうまくいかないところだろう。
     放課後に日直として残っていると、また傑の目の前に今までに一度も話したことのない人間が現れたのである。
     今度はそう、件の「五条くん」だったのだ。
    「いま、いい?」
    「…良いけど」
     傑は日誌を書く手を止めて、じっとその人物を見上げた。
     白い髪に同じく白く、そして長いまつげ。
     目が青いことはこの時初めて知って少し驚いた。あまりに綺麗だったから。
    「ごめんなんか、けしかけてったぽくて」
    「あー、昼間の話ね」
     傑はあの女子生徒のことを思い出す。
     あれから捕まることはなかったが、こうして今まさに自分たちが他に誰もいない教室で向き合っていることが知れたらまた絡んでくることはまず間違いないだろう。
     だとしたらさっさとこの場は切り上げないといけない。
    「君が私の写真を持ってるって言ってたよ。勘違いだろうし、君からも言っておいてくれるかな?」
     迷惑している。と口に出しては言わなかったが、そう言いたげな口ぶりをわざとしてみせたのだった。
     しかし、なぜだか傑を見つめるその青い目は、ゆるりと宙を泳ぐではないか。
    「いやまあ、それは勘違いじゃないっつうか…」
    「は?」
    「写真は持ってんだよね…」
     全く思いがけなかった返事に、傑は思わずぽかんと口を開けて目を見開いた。
     こいつが私の写真を持ってる?いやなんで?何のために?
    「写真って、どんな…?」
    「去年の文化祭の時の、メイド服のやつ」
    「はあ?あれを?!」
     傑は声を上げ、がたんっと思わず立ち上がる。
    今から数ヶ月前の文化祭で傑のクラスは男女混合のメイド喫茶を企画していたのだ。
     目玉は男子の女装と、それからクラスで一番可愛い女子のメイド服姿だと思っていたので傑はすっかりとその陰に隠れていたつもりだったのである。
     だから目の前のこの男が、よりにもよって自分のあのメイド服姿の写真を持っているだなんて何かの間違いに違いないのだ。
     いや持っているのは事実かもしれないが、それはきっと事故みたいなものだろう。
    「とにかく、角が立つからその写真消してくれないかな?」
    「いやー、それは無理っていうか、嫌っていうか…」
    「なんでだよ」
    「むしろもう一回着てみてほしいんだけど」
    「…いかれてんの?」
     さらに思いがけない言葉に傑の驚きはすでに許容量を超えていた。
     しかしそれを言い出した隣のクラスの「五条くん」、もとい悟は悪びれる様子もなかったのである。
    「真面目に、まじで、着てほしい」
    「なんで私が?というか私たち初対面じゃ…」
    「俺は五条悟。よろしく」
    「…夏油傑だ」
     傑の言葉が終わる前に放たれた「よろしく」の言葉と共に差し出された手は、握手を求めるものだろう。
     なんとなくそれを拒むことが出来ずに傑はそっと手を握ると、悟はどこか強張っていた表情を一気に緩ませて言った。
    「ねえ、メイド服…もう一回だけでいいから!」
    「嫌だよ」
    「傑のメイド服が見たい!」
    「はあ?」
     こいつはもう名前で呼び捨てるのか?と傑は思ったが、不思議とそこに嫌悪感はなかった。逆に自分も呼んでやろうか?
    「…悟」
    「うん」
     素直に返事が返ってきたので、こいつは存外悪い奴でもないのかもしれない。と少し気を許してしまいそうにもなる。
    「着ないよ」
    「なんで!」
    「逆になんで良いって言われると思った?!」
     そっちの方が傑にとってはむしろ不思議だった。
    「だってめちゃくちゃ似合ってたし…俺毎日写真見てるよ」
    「えっ、余計になんで?意味が分からないというか…じゃあその写真はもう目をつぶるから写真だけ見てろよ」
    「いや、実物を見たい。頼むから!」
     この通り!と悟は手を合わせて頭まで伏せてしまったのである。
     そこまでするか?とさすがに少し引いてしまう気持ちもしばしば。
     だがここまで頼まれてしまっては、なんだか断る方が悪い気すらしてくるのである。
    「……一回だけなら」
    「本当に?!着てくれんの?!」
    「一回だけ!な!」
     ぱっと顔を上げ、目を輝かせる悟の顔面に怯みかけながらも傑は念を押す様にそう訴えたのだった。


     根負けと言えば根負けだが、結局やると決めたのは傑本人なのだ。
     別に脅されたわけでもないし、希望を聞いてやるほどの義理もない。
     会って言葉を交わしたばかりの男にそんな頼みごとをされて、首を縦に振る方がどうかしているに決まっているのだ。
     しかし正直なところ傑は、この話に悪い気はしていなかったのである。
     文化祭が終わった時、もう二度と着ることはないだろうと思ったメイド服をクリーニングの袋に入ったままクローゼットから取り出し、わざわざ日曜日のカラオケボックスに持っていったのだった。
     傑は女子トイレでこっそりとメイド服に着替え、上からコートを羽織って足早に悟の待つ部屋に戻っていく。
     そして部屋の扉を閉め切ると、コートを脱いでメイド服姿を披露したのだった。
    「これで良いんだろ?」
     ふん、と傑はそっけない風の表情を作り、悟の前でくるりと振り返って背中まで見せてやる。こうしている時点でかなり乗り気であることにはまだ自覚はない。
    「良い、めっちゃ良い、良すぎる…」
     一方の悟は先ほどまでそわそわと座っていた椅子から立ち上がると、傑に向けたスマホのカメラでかしゃかしゃと写真を撮り始めたではないか。
    「いや撮るなよ!火種が増えるだろ!」
    「ちょっともうちょいそっち、光りがある方に寄ってくれない?」
    「え、こっち?」
    「そうそう、うわーやばい、最高」
     一度は噛みついたものの、ペースを崩さない悟の言葉に乗せられて、傑は言われた通りにカメラの前に立ってしまう。
     少ししゃがんでだとか、スカートの端を片手で持って広げてみてだとか、あれこれと要求されたポーズに傑はこう?それともこう?と次々に応えていった。
     傑が来ているメイド服は首まで詰まっている黒いワンピースに肩にフリルのついた腰から下部分を覆うエプロン、そしてスカート丈は膝下の脛辺りまで長く作られているクラシカルなデザインで、一般的なメイド服のコスプレよりもずいぶん布面積も多く、大人しめな造りをしていたのである。
     文化祭では膝上のスカートに、注意されるかされないかのぎりぎりのラインを攻めたメイド衣装を着ているクラスメイトもいたのに、悟は何故一番面白くない格好をしているであろう自分にこんなことをさせているのだろうか?と不思議でならなかった。
     恐らく一番ちょろそうに見えたとかそういう理由ではないはずだ。
     それこそ、目立つメイド服を着ているこの方が嬉々として撮らせてくれるはずなのだ。
    「悟って、こういうメイド服が好きなの?」
    「いいや?別にそういうんじゃない」
    「へえ…?」
     もしかしてこういったメイド服がフェチなのかもしれない。と思って質問をしたが、早々にそれは間違いであることがわかった。
     だったらなおの事自分が選出された理由がわからない。
    「ねえ次はさ、こっち着てくんない?」
    「はあ?」
     それどころか悟は、もう何十枚分のシャッターを切ったかもわからないスマホをようやく伏せたかと思うと、持参してきたらしい紙袋の中から別の衣装を取り出してきたではないか。
     今度はいかにもコスプレらしい、警察官の衣装だった。
    「いや、次って…メイド服は?」
    「メイド服は一旦満足した!だから次はこっち着てほしい」
    「いや、私はメイド服を着てやる約束しかしてないぞ」
    「そこをなんとか!」
    「嫌だ」
    「絶対似合うから!」
     ずいっと目の前に持ち出された衣装の後ろに、まっすぐにこちらを見つめる悟の眼差しがある。
     どうしてそんなに熱心な顔をできるのかわからない。
     そして目的があのメイド服ではなさそうだという事態が、より一層傑を混乱させてしまうのだった。
     本当にこいつは何がしたいんだ?いや、コスプレをさせたいんだろうけれども…
    「先に聞いとくけどさ、もしかしてこれ以外にも衣装ってあるのかい?」
    「あるよ、巫女とかナースとか、あと…」
    「まさかそれ全部着ろって言うんじゃないだろうな?」
    「今日全部は無理だろうけど、あと二着くらいは…」
    「待て、ちょっと待て!」
     はーあとため息をつき、傑は悟の言葉に被さる様に呼びかける。
    「そもそもなんでそんなにコスプレ持ってるんだよ」
    「傑に似合いそうなやつを手あたり次第選んでたらすげー増えてた」
    「…なんて?」
    「とりあえずこれ!これだけでも着てください!」
     そう言って悟は再び傑の前に警察官の衣装を差し出してきたのだった。
     数日前に学校でもこの熱意に押し負けてしまったばかりなのだ。
     今更打ち勝てるわけもないし、この熱意を突っぱねるための言い訳も思いつかないのだ。
    「わかった。でもこれが最後だからな?何度も着替えに女子トイレまで行くの面倒だし…」
    「じゃあ俺が部屋から出て着替え終わるの待ってるわ」
    「それだって何度も繰り返してたら怪しいだろ」
     休日のカラオケ店なんて店員も客も多く行き来するはずだし、頻繁に誰かが部屋から閉め出されていれば何をやっているんだ?と目をつけかねられないだろう。
     そうでなくともただでさえこの男は目立つのだから。
    「え、だったら」
     俺ん家くる?と悟は言った。
    「は?」
    「家なら俺がどこにいても良いし…あ、ここより明るいから写真も撮りやすいわ」
     というか最初からそうすればよかったな?と悟はまだまだ衣装が眠っているらしい紙袋をちらりと見て呟いた。
     当然傑は、どうしてそうなるんだ?とまず戸惑い、そして言った。
    「名案みたいな顔してるところ悪いけど、なんでいきなり君の家に行くなんてことになるんだよ」
    「いやだって家が一番自由に出来るだろ?それに晩飯は何でも好きなもんデリバリーで頼んでいいしさ」
     きゅっと眉間に皺を寄せた傑に、畳みかける様に悟は言った。
    「…何でもって、何でも?」
    「何でも。今日の礼もあるし、傑が好きなだけ」
     そしてその一声は思いのほか傑に響いてしまったようである。
     目の色が一瞬にして変わり、傑は悟の表情を伺うように覗き込んだ。
    「スープカレーと辛麺と、たこ焼きも頼むぞ?」
    「そんなに食うの?良いけど」
     俺はタピオカも頼もう。なんて悟は言って笑うものだから、何でも好きなだけとは本当に言葉の通りなのだろう。
     朝からメイド服を鞄に詰めこみ、なんだかんだ緊張していた傑の腹がぐうと鳴るが、それはモニタから流れるカラオケの宣伝画面の音に紛れて掻き消されてくれたようだった。
    「それ着て…晩御飯食べたら帰るからな」
    「決まりだな!じゃあ行こうぜ」
     悟はそう言うと差し出していた警察官のコスプレ衣装を先ほどの紙袋に引っ込めると、それをもって「外で待ってるわ」と、先に部屋の外へと出て行った。
     今もメイド服を着たままの傑がここで着替えると思ったのだろう。
     ぱたん、と閉まった扉の窓から悟の後ろ姿を見ながら傑はぽけっとその場に立ち尽くす。
     何もかも悟に言われるがままに事が運んでしまっている。
     自分はこんなにちょろくも流されやすくもないはずなのに、どうして今日ばかりはどんどん言葉に乗せられてしまっているんだろうか?
     そしてやっぱり少しも悪い気がしない。
     もしかしたらそこが原因なのかもしれない。
     本当に嫌なら力づくでも逃げ出すし、そもそもこの約束にも応じないだろう。
     結局は何かに釣られている振りをして自分で決めているのだ。
     さっきみたいに晩飯を提案されなくても、なんだかんだ悟についていった可能性だって高い。
     いったいどうしたんだ私は?と傑は、こちらを振り向く気配のない悟を見ながらやっとメイド服のボタンを開けて首元を緩め始めた。
     さっさと着替えて外に出てしまおう。この部屋に一人でいると、あれこれ考えてしまってなんだかいたたまれなかったのだ。
     ふっとスマホの画面に目を向けると、夕方というにはまだ少し早い時間を表示している。
     とはいえまだカラオケに入ってまだ一時間も経っていなかった。


     一般的な住宅の玄関と比べ、例えば傑が家族と住む家の玄関の広さを念頭に置くと、案内された悟の家の玄関は驚くほどに広かった。
     このスペースだけでも犬を一頭飼えそうだし、もしかしてうちの風呂場より広くないか?と思うほどだった。そして実際そうなのだろう。
    「なにしてんの?上がってよ」
    「ああ、うん…」
     お邪魔します。と小さく言いながら傑はそっと家の中へ足を踏み入れ、履いてきた靴をきちんと玄関の隅に並べる。
     玄関の先の廊下もとても広くて長い。それに加えて静かだったものだから、先を行く悟の後をなんとなく恐々と歩いてしまう。
     家の人は誰もいないのだろうか?のこのこついてきてしまったが日曜日の夕方近くもなれば誰かしら家にいるだろうに…
    「えらく静かだな」
    「高層階だしな」
    「それもだけど、誰もいないのか?」
    「まあ俺ひとりだし」
    「え?」
     がちゃりと悟が廊下の先の扉を開いた。
     その先に見えるのはこれまた広いリビングとカーテンが半分閉められた大きな窓。それから学校の応接室のようなソファーにテーブルがぽんと置かれている。
    「実家は京都の方だから、ここに住んでんのは俺だけ」
    「あ、そうなんだ…えらいね」
     なんとなくそう言ったものの、やはり驚きばかりが先行するのは仕方がないだろう。
     京都から何故わざわざ東京の学校に?と尋ねるのは野暮に違いない。
     傑だって親戚のほとんどは東北の方に住んでいるのだ。家族と一緒とはいえ、どうしてこっちに越してきたのかと聞かれればそれなりの理由を答えるし、悟だってそうだろう。
     ただこんなに広い家に未成年を一人暮らしなんてさせるだろうか?
     とはいえそこも個々の家庭の方針だし、このマンション自体かなりセキュリティが行き届いているらしかったから、下手な学生マンションに住まわせるよりは安心なのかもしれない。
     傑は思わず部屋をぐるりと見渡し、余計な事を考えながらそっと通されたソファーに座ると足元にメイド服の入ったカバンを置いた。
    「なんか飲む?」
    「いやいいよ、さっきカラオケで飲んだし」
    「確かに」
     悟はダイニングキッチンの冷蔵庫をぱたんと占めると、とんとんと軽い足音をフローロングに鳴らしながら傑の座るリビングのソファーまで歩いてくる。
     そして先ほどの紙袋から警察官のコスプレ衣装を引っ張り出した。
    「じゃ、早速これから」
    「わかった」
     傑がそれを受け取ると、着替えたら言って。と悟はリビングから出て行って扉を閉めてしまった。
     家主を締め出してしまったようで少し悪い気もしたがもともとそういう話なのだ。
     ここはさっと着替えてすぐに呼んでやろうと傑はすくりとソファーから立ち上がる。
     あのメイド服とは違い、こっちの警察官の衣装はスカート丈もだいぶ短い。
     まあこの衣装で丈が長い方がおかしいよな。とも考えながらスカートに足を通し、それからブラウスにも手を伸ばす。
     袖には余裕があり、肩もきつくない。
     しかしいざ前を閉めようとすると、胸元が苦しくてうまくボタンが留まらなかった。
     むりやり引っ張って留めることもできなくはないが、ぱつぱつになってしまって見栄えが良くない。
     なにより服の隙間から谷間や下着がちらつく状況を悟に見せるわけにはいかなかった。
     どうする?着れなかったと素直に言うか?
     そうするしかないのだが、なんだかそうするのも悔しい気持ちも捨てきれない。
     ものの十秒ほど、傑はじっと考え、そしてメイド服が入った鞄を開くといつも持ち歩いているポーチを掴んだ。
     物は試しだ。と思い、ポーチから絆創膏を数枚取り出すと、ふーっと一度だけ大きく息を吐いて、ボタンを留めかけていたブラウスを脱いでしまう。
     後で考えればきっと自らの正気を疑うだろう。
     だが傑はこの場で思いとどまることなくさっとブラジャーを外し、そして念のために乳首に絆創膏を貼るともう一度ブラウスに袖を通したのである。
     乳房の容量がそもそも大きめであったとはいえ、布の厚みを少しでも差し引けば着れるんじゃないだろうか?
     そう考えた傑の目論見は今度ばかりは功を奏し、ぎりぎりであったとはいえなんとかブラウスのボタンはぴったりと留めることが出来たのである。
    「悟!もういいよ!」
     外したブラジャーを鞄の底に押し込みながら傑がそう呼び掛けると、がちゃりとリビングの扉が開く。
     恐らく不自然に見える部分はないだろうと思い一安心していた所だったが、傑は部屋に入ってきた悟が持っていたものにぎょっとする。
    「え、なにそれ?」
    「一眼」
    「なんで?」
     黒い筐体にごついレンズ。たまに学校行事で見かける写真屋さんがそういうのを持っていたなと思うくらいの馴染みのないカメラが悟の手にまさにある。
    「せっかくだしこっちで撮ろうと思って」
    「いや、スマホで十分だろ」
    「スマホでも撮る」
    「それこそ何のためにだよ!」
     もしかして悟が、家の方が写真を撮りやすいと言ったのは広さや照明だけが理由ではなかったということなのだろうか?
     もちろん傑はさっきのようにスマホで撮られる程度だと思っていたものだから、急にそんな大きなレンズを向けられて緊張しないわけがないだろう。
    「わざわざそんなカメラで撮るまでもないと思うけど」
    「良いから任せろって、傑は同じようにしてればいいからさ」
    「ちなみにそれどこまで写るんだ?」
    「どこまで?」
     傑の脳裏をよぎったのは、この薄いブラウスの下になんとか収まっている乳首に絆創膏を貼っただけの乳房の存在だった。
     無論ブラウスのボタンを留めている状態でそれがばれることはないだろう。
     しかし万が一、何か予想外の出来事があって自分が今、素肌にブラウスしか着ていない状態であることが知られてしまったら…?
     この時ようやく傑は自分がしでかしたことの重大性に気が付いたが、あまりにもそこに行きつくのが遅すぎたのである。
     絆創膏の下の乳首が浮き出てブラウスの上からでもわかってしまうなんてことが起こらないとも言えない。
     それにスマホじゃなくて一眼のカメラで撮りでもしたら、余計なものまでしっかり写ってしまうのではないだろうか?
     もっとも悟の持っているスマホはその辺のカメラよりも性能の良いレンズを採用しているモデルであるため、そこまで考えるのも今更なのだが傑がそんなことを知るよしもなかったのである。
    「流石に透けたりはしねえよ」
    「まあ、まあそうか…ごめん、変な事聞いた」
    「その衣装まずかった?ちょっとスカートは短いかもだけど…」
    「いやいい!大丈夫だから!」
     スカートよりも胸がきつくてぎりぎりだ。なんてことを言えるはずもなく、傑は無駄に強がってこの衣装を着続けることを選んでしまったのだ。
     もうここまでくれば意地である。
     ブラジャーを外してしまったことなんてきっと口でも滑らせない限りばれないのだから撮影の間はどうにかやり過ごそう。
    「で、どこに立てばいいとかあるのかい?」
    「ああじゃあ、そこのカーテンの前に立ってみてくれる?」
     悟はぱっと閉め切られた青いカーテンを指さしたので、傑は素直に指し示す方向に向かい、まっすぐにそこに立った。
    「そこだとちょっと色が被るな…あ、そうだ」
     うーんと少し首を傾げたかと思うと、悟はぱっと傑の横を通り過ぎて青いカーテンをさーっと開けてしまう。
     そしてそこに現れた白いレースのカーテンの様子と、傑が着る青い警察官のブラウスを見比べると、まあこっちの方が…と呟きながら先ほどの立ち位置に戻っていった。
     一瞬悟が近くなって傑はどきりとしたものの、自分の横を二度通り過ぎただけで何かに気づく様子もない。
     それはそうかと思いつつ、ほっと胸をなでおろしながら傑はカメラを向いた。
    「とりあえず敬礼してみて」
    「こう?」
    「そそ」
     傑が額の前で敬礼すると、かしゃっかしゃっとカメラが鳴る。
     それから先ほどのように、立ち姿や振り向きざまのポーズなど何点かを指示され、言われた通りに動きながら傑はじっとカメラと、そして悟を見つめていた。
     前かがみのポーズになった時にすこし胸元が怪しくてひやひやしたものの、どうにか大惨事を起こさずに切り抜けることが出来たのである。
    「絶対似合うと思ったけどまじで似合ってんね?」
    「そりゃどーも」
     関心するような悟の言葉に傑はそっけなく返事をするが、普段は考えられない衣装を身に着けているせいか少し気分も浮ついている気がする。
     こんなところで私は一体何をしてるんだ?と冷静になりかける気持ちもありながら、自分の日常とはかけ離れたこの時間に、まだまだ好奇心のほうが勝っていたのである。
    「というかさ、コスプレさせたいなら普通に彼女に頼みなよ」
    「彼女?」
     傑の言葉に悟はぽかんとした表情を浮かべる。
    「いや別にそんなんいねーけど」
    「え、じゃあ私に突っかかってきた子は?」
    「同じクラスってだけ。なんかお菓子とかくれる」
     何でもない口調で、思い出したかのように言う悟に、なるほど。と傑は少しも興味のなかったあの女子生徒の思惑を理解できた気がした。
     あの子は間違いなく悟に気があるのだ。
     大方、お菓子を片手に悟のもとへ行ったら、その悟が隣のクラスの女の写真をスマホに持っていたので、どういうことだ?!と特攻してきたのだろう。
    「はは、餌付けされてるのか」
    「されてねーよ」
     そしてお菓子女のアピールは悟には響いていないらしい。
     そうでなければ、こうしてこの前まで話したこともなかった傑をわざわざ家に呼んでコスプレ撮影をするなんてこともしないだろう。
    「ねえごめんけどもっかいさっきのメイド服着てくんない…?こっちでも撮りたい」
    「いいけど」
     警察官の衣装を前に数十枚、百数枚分はシャッターを切られたかもしれない。
     満足げにカメラに付いたモニタから撮った写真を見返しながら悟は言い、またリビングから出て行ったのである。
     傑は悟の後ろ姿を見送りながら、完全に扉が閉まるのを待ってじっとその場に立ち尽くす。
     この場はひとまず切り抜けたと思っていいだろう。
     メイド服ごと鞄をひっくり返してまずはブラジャーを掴み、念のため扉に背を向けながらブラウスのボタンを開けると、まろび出た乳房からゆっくりと絆創膏を外して急いでカップに肉を押し込んだ。
     ゆさっと形を整えながらホックと着けると、一呼吸おいてまたメイド服のボタンを開ける。
     そういえば文化祭でメイド服を選ぶ時もサイズが微妙に合わないことがあったな…と思い出しながら手際よく衣装に袖を通して首元までしっかりとボタンを留め終えると、先ほどよりもいくばくか早く悟をリビングに呼び戻すことが出来たのである。
    「なんか早くない?」
    「流石に着るのにもなれるさ」
    「なるほどね…ん?」
     ぺたぺたとフローリングを歩いていた悟が何かに気が付いたように片足を上げる。
    「なにこれ、絆創膏?」
    「……あ」
     そして覗き込まれた悟の足の裏には、いままで傑の乳首に着けられていた絆創膏が貼り付いていたではないか。
    「うわー!ごめんっ!私のだ!」
    「あ、うん…別に良いけど」
     なんでそんなに?と首を傾げる悟の反応は最もだろう。
     だってただの絆創膏なのだから。
    「どっか怪我?」
    「そういうのじゃなくて…いや、ちょっと擦り傷があったから!」
     でももうかさぶただし!と口走りながら傑は悟の手からくしゃくしゃになった絆創膏をひったくると、鞄の中に投げ捨てる様に放り込んだのである。
     乳首に二枚ずつ着けていたものだから、一枚どこかにいったことに気づけなかったのだ。
    「ごみ箱そこにあるからそっちに捨てれば…」
    「大丈夫だから!」
     にこりと笑って傑がそう言えば、悟は目をぱちくりとさせながらも、まあ大丈夫ならいいか…とそれ以上は何を聞いてくることはなかったのである。
     気を抜いた瞬間にこれだから生きた心地がしなかった。
     そもそも絆創膏一つでここまで慌てる方が不振に決まっているのに、自分が乳首に着けていた絆創膏を悟が持っていると思うと落ち着いていられなかったのである。
     単純に恥ずかしいし、安心した矢先の出来事だったのが余計に焦りに拍車をかけたのだろう。
     顔がかーっと熱くなったのをなんとか落ち着けようと頬を両手で包んで瞬きをしていれば、その様子を見た悟が、「傑」と呼びかけてきた。
    「水飲む?」
    「…飲む」
    「ん、持ってくるわ」
     そう言ってキッチンに向かって行った悟はやっぱり何も聞いてこなかったのでありがたい。
     傑は情けなく思いつつ、しかし落ち着くこともうまく出来ずまだ乳首に絆創膏を貼っているような違和感を覚えながら、はーとその場に座り込んでしまったのだった。


     こんな高層階までピザって届くんだな。と傑は昨日までは考えもしなかったことを思い浮かべながら、熱々の平たい紙箱をテーブルの上に置いた。
     次々に届くデリバリーによる料理で食卓はどんどん埋まっていき、傑がピザを受け取ったのとほとんど入れ替わりで悟が玄関から持ってきたタピオカミルクティーのカップにより、注文したものはようやく一揃いしたのである。
     ピザのほかに辛麺やフライドチキン、肉まんなんかが並ぶテーブルはちょっとしたパーティのようにも見えるが、そこを囲むのは悟と傑だけ。
     約束は何でも好きなだけ頼んで良いということだったが、さすがに遠慮したのか最初は二人で食べることを考えてピザだけを注文して終わりにしようとしていたのだった。
    「あれ、そんだけ?」
    「十分だろ、悟足りないなら何か頼めば良いし」
    「いやだから傑が気になったやつ注文してよ、食いきれなかったぶん俺が貰うし」
    「悟が食べたいものってなんかないの?」
    「俺はとりあえず甘いもんがあればいいし」
     だからタピオカ頼んだ。と言うが、結局悟が注文したものはそのタピオカだけだったのだ。
     夕飯から少し外れた時間が良かったのか、それとももともとこの辺りがそういう地域なのかはわからないが、料理を注文してから届くまでは思いのほか早かった。
     最後に着替えたメイド服を着たまま、しばらくだらだらと撮った写真を二人で見ているとあっというまに到着を告げるチャイムが鳴ったのである。
     それからしばらく途切れることなく料理が届き、落ち着いた頃にはすっかり良い匂いに誘われて、しばらく忘れていた空腹が目を覚ましてしまったものだから、傑はもうこの衣装のまま食卓の前に腰を下ろしたのである。
     じゅわっとチーズのとろけるシーフードピザをひと切れ手に取り、少し顔を前に出してはぐっとかぶりつく。
    「うま、あっつ…!」
     そう言ってもぐもぐと頬を動かし、軽くやけどした舌全体でじんわりとホワイトソースのうまさを堪能していると、目の前でチキンをかじっていた悟がその傑を見てふっと笑った。
    「なに?」
    「いや、メイド服のまんまピザ食ってんのってなんかうけるなと思って」
    「なんだそれ?でもまあ、確かにそうか」
     特に傑が着ているメイド服は俗っぽさがそこまでないタイプなのだ。
     それなのにピザみたいなジャンクフードを食べているなんて、そぐわなくて逆にありだろう。
    「辛麺の方がもっとギャップが出るだろうな」
    「そうかも、ちょっと食って見せてよ」
    「ピザもう一枚食べたらね」
     スマホでもカメラを向けてくるだろうか?と思ったが、悟はそういう様子もなく、傑の食べる姿をただ緩く笑いながら見ているだけだった。
     自分も食事中だということもあるのだろう。
     そういうところは案外行儀が良かったりするんだな?と思いながら早々食べ終えたピザ一枚のソースが付いた親指をちろっと舐め、そして予告通りもう一枚に手を伸ばす。
    「ていうか、メイド服着たまま食ってきつくなんねーの?そういう服ってサイズきっちりしてそうじゃん」
     悟が思い出したかのようにそう尋ねると、傑は口を動かしながらぱちぱちと瞬きをして答えた。
    「この服は結構余裕あるかな?文化祭の時も一日着てたけど全然楽だったし」
    「へー、そうなんだ」
    「まあさっきの警察官のやつは食べる以前に…」
     と、言いかけて傑ははっと口をつぐんだ。
    「警察官のって、さっきのコスプレの?」
     悟は首を傾げ、いきなり黙ってしまった傑をじっと見る。
    「あー、そう…結構ウエストが細めだったから、タピオカ一口で限界かもね?」
    「いやそれはさすがにないでしょ!」
    「だって要は餅だろ?タピオカって」
    「はは、まあそうだけどさ」
     そう言って悟は、ずずーっとタピオカのストローを吸って笑った。
     どうにか切り抜けたと思っていたのに、ここでまた口を滑らせてしまうところだった。
     まだ鞄の底では丸めた絆創膏が貼りついているだろうし、家に帰りつくまで気を抜いてはいけない。
     帰るまでが遠足という気持ちを傑は小学生以来思い出していたのだった。
     今度いつああなっても良いようにスポブラくらい用意しておこうか…いや、今度ってなんのことだ?と思いながら、放っておくと混乱し始めてしまう頭の中を誤魔化す様に傑はビニールに包まれたままだった辛麺の器を引き寄せた。
     ぱかりと蓋を開けるともわっと湯気が上がり、いかにも辛そうな匂いと赤いスープが目の前に現れる。
    「わかりやすく辛そうじゃん?なにそれ地獄?」
    「食べてみるかい?」
     つるっと傑は赤くて少し持ったりとしたスープの中から細麺を一筋啜った。
     じわっと辛い。しかし旨味の強い辛さだった。
     実はずっと気になっていた店の辛麺だったのだが、いつも人気でなかなか入れない上に、傑の家はこの店の配達圏内ではなかったので食べる機会が巡ってこなかったのだ。
     夢にまで見たこの一杯を、何よりも楽しみにしていたと言っても過言ではないのである。
    「いやーそれはいいわ」
    「物は試しだよ」
     ほら一口。と言って傑は器ごと前へ差し出し、少し身を乗り出して箸でつまみ上げた麺を悟の近くまでもっていった。
    「辛いんだろ?」
    「辛いさ」
     しばらくじっと見つめ合い、そして傑がにこりとした。
     そうすればとうとう悟は閉ざしていた口を開け、ぱくりと差し出された麺を含んでずずっと一気に啜ってしまう。
     その瞬間に悟の大きな目がかっと開いたかと思えば、がたがたっと仰け反る様に背中から崩れ落ちていってしまったのである。
    「え、悟?」
     傑はぽかんとしながら悟が崩れて行った床を覗き込むと、はっとして食卓の上のタピオカミルクティーをもって悟が座っていた食卓の反対側まで駆けて行ったのである。
    「ごめんごめん、大丈夫?」
     タピオカミルクティーを差し出しながら傑は、両手で口元を抑えて床に座り込む悟の背中をさする。
     悟は震える手でそれを受け取りながらようやくごくりと喉を上下させると、そのまま勢いよくミルクティーを口の中へと流し込んでいってしまう。
    「っあー!死ぬかと思った!」
     はあーと大きく息を吐き、漸く落ち着いたのか続けてごくごくと甘いミルクティーで口の中を満たしていく。
    「もしかして辛いの苦手?」
    「苦手ってわけじゃないけど、どっちかっつうと甘いのが好き」
    「あー、それは悪いことしたね…」
     考えてみればあの辛麺も傑が好きなように辛さもオーダーしたものだったのだ。標準のものより辛く設定してあるし、甘いものの方を好む悟にそれを一口でも食べさせることは酷だっただろう。
     これは悪いことをしたな…と傑が眉をしゅんと下げて唇を結んでいると、すっかりミルクティーもタピオカも飲み干した悟は顔を上げて言った。
    「でも美味かった、もうちょっと辛くないのならまた食いたいかも」
    「あれ、本当かい?」
    「さっきのって一番辛いやつ?」
    「一番じゃないけど、でも普通のよりずっと辛くしてるからノーマルなら悟も食べられるかもよ」
    「じゃあ今度は俺それ食うわ」
     でもさっきのはやべーと呟きながら悟は空になったカップに刺さったストローをくわえながらがたがたとその場からようやく立ち上がった。
    「辛麺気に入った?」
    「気に入ったっていうか、お前がそんなに好きなもんなら食ってみたいじゃん」
    「人が食べてると美味そうに見えるよね」
    「ま、それもあるな」
     悟は椅子に座りなおすと、タピオカミルクティーの入っていたカップをテーブルに置くと、まだ二切れしか減っていないピザの箱を引き寄せた。
     傑もまた食卓に戻って辛麺を続きに箸をつけ、いつまでも冷めないそれをもくもくと食べ始める。
     悟が言った言葉を、今はあまり深く考えない方が良い。
     そんな気がしてこの時だけは食べることに集中し、辛麺を半分食べ終えたところでだいぶ適温になった肉まんも一口かじった。
     夕飯を囲んだ時間が少し遅かったせいか、着ていたままだったメイド服をやっと着替えて傑が帰宅しようとする頃にはもうだいぶ遅い時間になっていた。
     終電まではまだ時間があるし、幸い悟の家から駅までは歩いてすぐの距離だったのでそう慌てることもないだろう。
     鞄に荷物を詰め込んでコートを羽織り、すっかりと外に出る準備を済ませた傑が広い玄関で悟を振り返りながら「じゃあお邪魔しました」と、部屋を出て行こうとする。
     すると、廊下でそれを見送っていると思っていた悟は、何故だか自分と同じように上着を着ているではないか。
    「え、どっか行くの?」
    「どっかって、お前を送ってくつもりなんだけど」
    「いやいいよ!寒いし、もう遅いし」
    「もう遅いからなおさらじゃん」
     良いから。と悟は傑の横でさっさとサンダルを履いてしまうと、がちゃりと重たい扉を開けて先に外へと一歩踏み出してしまったのだった。
     もちろん傑はこんな風に気遣われたことは初めてだった。
     そもそも男の部屋にこんな時間までいたこともないのだから当然と言えば当然だが、そのせいでこんな時にどんな顔をしてわからない。
    「でも、駅近いし…」
    「ほら行こうぜ、終電無くなるって」
     そしてそれは悟の言うとおりであり、いつまでもこんなところでまごついているわけにもいかないのである。
     傑は促されるままに部屋を出て鍵を閉める悟の背中を見つめると、それについていくようにマンションのエレベーターに乗り込んだ。
    「寒くねえ?」
    「あ、うん、大丈夫」
    「でもここ出たら寒いと思うから」
     これ、と悟は上着のポケットに突っ込んでいた手を傑に差し出した。
     傑は思わずその手の甲を凝視してしまうも、慌てて両手をその下に合わせると、ぽとんっと手のひらに暖かいものが落ちてきたではないか。
     ちんっとエレベータが一階に到着する。
    「わ、カイロ?」
    「持ってけよ、家まで持つだろうし」
    「うん、ありがとう。助かるよ」
     そう言って傑がカイロを握りしめ、にぱっと笑えば、悟もそれに釣られるように表情を緩ませた。


     もしこの電車が終電じゃなかったら悟も自分が下りる最寄り駅までついてきたかもしれないな。なんて思いながら傑は、まばらに人が乗った電車の温かい座席に座り、悟に貰ったカイロを両手で揉んでいた。
     なんだか不思議な一日だった気がする。
     数日前に初めて顔を合わせたような同級生の、しかも隣のクラスの男のためにコスプレをして、写真を撮られて、しかもそいつの家にまで行ってしまった。
     そのうえ夕飯までたっぷりごちそうになって帰りは終電である。
     なんだったんだろう一体。と思う気持ちが一番強く、そしてまだ名前のわからないふわふわとした気持ちが傑の胸の内に仄かに灯っているのも無視できない。
     というかあの辛麺、自然な流れで同じ箸から一口食べさせたけど、なんでそんなことしたんだっけ?
     悟も、なんで何も言わずにそれに応じたんだっけ?
     その時は気に留めなかった出来事をこうしてゆっくりと思い出すと、もしかして自分は結構大胆な事をしでかしたんじゃないか?と数時間遅れの恥ずかしさが一気に突き上げてきたのだった。
    「う、わー…っ」
     ここが電車の中だったのが不幸中の幸いか。
     もし自室のベッドの上で思い出していたのならば、布団を被って絶叫していたに違いない。
     そんなの男相手にやったことはない。
     というより、女友達にも傑はなかなかそういうことをしないのだ。
     それなのにどうして、悟にはあんな風に出来てしまったんだ?
     自分の事なのに自分が一番不思議で、どうにも今はピンとくる理由を見つけ出すことが出来なかった。
     悟は、自分がああいうのに慣れた人間だと思っただろうか?
     それはちょっとやだな…なんて思うと、傑はまたはっとしてぐしゅぐしゅとカイロを無駄に揉んでしまう。
     お腹はいっぱいで身体はぽかぽかとしているけど、今夜はすんなりと眠れる気はしなかった。
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