雨と霧に包まれるロンドンを始めて見た時は、事前に抱いていたイメージの通りだと素直に思った。
スペインでも特に降水量の少ない地域で幼少期を過ごしたためか、そのミステリアスさには少々子供っぽくワクワクとさせられた。
時計塔に入学してもうすぐ半年。勉学は順調で、校内での過ごし方にもあらかた順応ができた。覚えておくべき教員や生徒の顔と名前も全て頭に入っている。
だからこそ、目の前の光景に少し驚いた。
この日は普段は立ち寄らない学科の敷地に用があり、少し早く寮を出て外を歩いていた。
一晩続いた雨で町中濡れていて、季節柄少しばかり霧も出ていて、人気の少ない細い道を歩いていると、おかしな領域にでも迷い込んだのではないか、と錯覚してしまいそうになる。
そんな中、建物をくり抜くようなアーチ下、暗がりの手前にて、俯いて立ち尽くす一人の青年を見かけた。
彼が誰なのかは、すぐにわかった。
色素の濃い金髪に浅く陽に焼けた肌。掘りが深い顔立ちと天然ではまずありえない紫色の目。見るからに重厚な黒コートがトレードマークの青年は、玉石混交とはいえただの石でも凡とは言い難い時計塔の無数の生徒の中でも、特に『有名』な面子として数えられる存在だ。
学科という体をとりつつ、実態としては少数精鋭のエリート集団。学院長直属の、この世ならざる神秘の隷属者たち、『伝承科』。
彼はその伝承科に所属する天才、デイビット・ゼム・ヴォイドだ。
天才と呼び讃えられる若者は他にもいるが、彼については次元が違う、と教員内でも有名らしい。なぜ次元が違うのかまではわからないが、その謎めいた素性含めて『伝承科が預かるこの世ならざる神秘だ』と説明され、底知れなさに困惑した。
そんな彼が目の前にいる。
反射的に息をひそめ何をしているのかと観察すると、俯いた彼の目線が足元の水溜まりに注がれていることに気づく。片手には火のついた煙草を持ち、時々咥えては白煙を吐いていた。
ただぼんやりと喫煙しているだけ、と言われればそのように見える。しかしそんなはずはないだろう、と確信する明確な『もの』が見えてしまった。
身を隠すのも不自然なため、あえて何事もなくそのそばを通り過ぎようとする。
「君、新入生か?」
ふいに声をかけられ、思わず肩が跳ねそうになった。
「急ぎでないならだが。この先の3番通りを行くならあと10分ほど時間をずらすといい。運転の荒い車両が多く通る頃合いだ。遠慮なく水飛沫をかけられるぞ」
何を言われるのかと身構えたため、内心拍子抜けしてぽかんとしてしまった。
彼の声は思ったよりは若々しく、慣れた様子で煙草を吸いながらも淡々と語る口振り含め、全てがどこかちぐはぐに聞こえる。だというのに、投げかけられた助言は従おう、と思わされるような強い説得力を感じさせた。
しかし、そばにいたいとは思えない。彼の近くにいて、その姿を見て、その声を聞いていると、説明できない違和感が喉の奥に詰まるような居心地の悪さも湧き上がってくる。決して、彼自身から不快な言動を与えられているわけではないのに。
「お気遣い、ありがとうございます」
それだけ声をかけ、そそくさとその場を後にする。彼からの言葉もそれ以上なく、何事もなかったかのようにその場を離れることができた。
実際、3番通りに出る直前、水たまりの点在する道をけたたましく通り過ぎるバスを見かけた。昨晩の雨量はそこそこで、運転が荒いというより、水がはけきっていない場所を通る以上仕方がないのでは、とも思う。それはそれとして、水をかけられないよう迂回することにしたのだが。
デイビット・ゼム・ヴォイド。おそらく彼は単純に親切なのだろう。
しかし、優しくしてもらったとして、湧き上がる違和感を無視してまで親しくしたい、とはまだ思えない。そのラインを超えてしまえば、あるいは気にならなくなるのかもしれないが。
彼と強い接点も持たない以上、そんな勇気を持つことはないだろう。
彼が見下ろしていた水たまり。そそくさと通り過ぎた一瞬で見たそこには、不明瞭でも角度的には彼本人が映っていて然るべきだった。
だが実際映っていたのは黒い煙が密集したかのような塊で、ただ人の頭部に似た部分に二つ浮かんだ『瞳』が、ぎろりとこちらを捉えたのだ。
その色は曖昧ながらも、彼の紫の目とは決定的に色が異なっていた。
見間違いではない、と思う。その黒い煙の塊はどこか人の形に似ていて、彼の動作とリンクするよう、煙草をふかしているようだった。