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    ヌヴィリオ
    ※生産工場ライン表記

    魔神任務 神座に剣が落ちた後審判を下したヌさんの背中を抱きしめてあげたい衝動に激しくかられたけどそれは最適人の人がいるから…と少し冷静になって書いた話です
    ※引用部分の問題や話に矛盾をみつけたらそっと消します

    紙一重の劇-雨に傘を、舞台へ花束を-"Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot."
    ーチャールズ・チャップリン



    「物語を形に残すのはどうだい?例えば本を書くとか」
    「その意味は?」
    「少なくとも、文字が読めるなら誰でも、いつでもその物語を知ることができる」
    「判決を記した公文書でさえ、僅かの脚色や誇張表現を逃れることはできない。事象は、その記録を試みた瞬間から、観測するものの主観という枠組みから逸脱できなくなってしまう。言葉は、事実を伝えるのには不向きだ」
    「正しいな。法廷を歌劇場に、審判をドラマにしてきた俺たちが、それを皮肉るのは都合がよすぎると思うがね。だが、歴史をフィクションにするのもメリットはある」
    「そのメリットとは?」
    「第一に、わかりやすい。もうひとつ、受け入れられやすい。専門用語がびっしり羅列され、長々と綴られた科学者の論文よりかは」
    「そのほうが、失われるべきでない事実の記録に適していると。仔細は損なわれ、真実が多少歪められても、それは残すべき『歴史』となりえるのだろうか」
    「ほかの誰にも知られず、水底に沈んでゆくだけってのが気にかかるんだろう?だから、わかりやすさと受け入れられやすさを優先したほうがいい、と思ったのさ。あんたが目にしたままの『真実』は、そのまま思い出に焼き付けておけばいい」
    もしその荷が重すぎるなら、俺でよければ肩を貸すよ。少しは重さを分かち合えるだろう。
    続いたその言葉が、奇しくも一人の罪人が裁きを受ける前、差し伸べられた提案と似た内容だったことは、その場にいた二人に知る由はなかった。





    あるメリュジーヌがひとり、新しい試みに取り組んでいた。
    彼女は時によりフォンテーヌ邸のパレ・メルモニア、エリニュス島のエピクレシス歌劇場、その水面下に座するメロピデ要塞を自由に行き来することができる。
    彼女は時により最高審判官と気軽に言葉を交わすことも、水神に謁見することも、要塞に居る同胞に会う用事のついでにそこの管理者に面会することも自由にできる。
    ある時期を境として、そんな彼女の日々には小さくはない変化が起きた。
    しかしながら、彼女の日々の殆どは、大きく変化することはなかった。
    それに気づいたとき、彼女はふと思った。
    あるいは、通りすがりに見かけたニューススタンド、そこに陳列された新聞記事、または本屋の軒先に並べられた真新しい出版物のいくつかを見たときに思いついた。
    人間の中には、文章を書くことが好きなものがいること。文章を書くことを生業にするものもいること。文章を書いて残すことに重要な使命や責務を結びつけるものがいること。
    そして幸いなことに、彼女の最も近しい立場にあり親しくもある人間のひとりが、日記を書く習慣があること。時にそういった主観に基づく手記を束ねて編集したものを、本という形にすることなどを彼女に教えてくれた。
    彼女は思いついた。
    人間はたくさんの形式の文章を書く。
    その中でも本、もっといえば『物語』というものは、たとえそこに記された内容と全く無関係の人間でも手にとって読む機会を持ち、時間の流れを飛び越えた先に生きる人間であっても、形さえ残っていればその内容に触れたいと思う魅力的なものである。
    彼女の認識ではそう分類されていた。
    歌劇場で演じられる無数の劇に似ている、とも。
    メリュジーヌである彼女では、人間の目線や価値基準での芸術の良し悪しなどには理解が及ばない。
    それでも、文章を書くことは可能だ。
    それが目下、彼女の新たな試みと目標設定された。

    フォンテーヌは近々、大きな変化を迎えた。
    その出来事は未だすべてのフォンテーヌ人の脳裏に強烈な印象を残し続けているが、それが思い出に昇華されることはあっても、いずれは時間というものが、そのイメージの輪郭を少しずつ曖昧にしてゆく。
    それに抗うように、一部の人々はペンを取り、そのイメージをできる限り鮮明なまま、後世へ残そうとする。
    物語を消費して喜びとするのは、フォンテーヌ人が歴史と共に熟成してきた特性だ。
    ペンを取る動機は、単にその歴史的事実をドラマティックに切り取って、そうした娯楽にしたい以上の意味はないこともあるかもしれない。
    少なくとも彼女、とあるメリュジーヌの動機は、親しい友人と認め合う人間のひとりが教えてくれたお礼に、いつかこの先の未来で出会う新しい友人に、この物語を伝えてあげたら喜んでくれるかもしれない、というものだった。
    記憶に不安があるわけではないが、仮に口頭での伝達手段以外に、文章という手段もあればより伝わりやすいだろうと。
    そしてその手段は、ひとりのメリュジーヌが言葉を口にするよりも時にはやく、時に広く、その物語が伝播してゆくとも知っていたために。
    そんな彼女の試みは同胞たちに容易く打ち明けられ、その輪の中で広く広く伝播してゆき、最終的にひとりの最高審判官の耳にも届いた。
    メリュジーヌたちを殊更近しく、慈しむその者にとって、そんな報せは純粋な喜びでもあり、また似たような願望のようなものを抱くきっかけとするのに、充分すぎる知見になった。





    フォンテーヌ邸パレ・メルモニア。
    その中にある最高審判官の執務室は、相応の賓客をもてなす際の応接室として使われることもよくある。
    その日もまた、賓客がひとりその部屋を訪れ、部屋の主人による丁重なもてなしを受けていた。
    賓客と認識されていたが、当人は表向き正当性のある来室理由としては、自身の抱える職務にまつわる手続き等のために赴いた、と認識している。
    実際、パレ・メルモニアに足を運ぶ必要のある仕事を抱えていた。
    「近頃のメロピデ要塞の様子はどうだろうか」
    「具体的な部分は、さっき渡した報告書の通りさ。そうだな、囚人たちのガス抜きが収束しつつあるから、そろそろウサ晴らしの機会を企む元気も盛り返してくるかもってとこか」
    「ガス抜き?」
    「フォンテーヌ全域の水没騒動だよ。こっち側の対処には、看守も囚人も入り混じって、一致団結で当たったからな。起こった騒動はともかく、そういう非日常的な出来事は、ストレス解消に役立つこともある。だが、しばらくはその余韻で落ち着いていられても、要塞の日常はすぐに変わり映えないものに整えられていった。そうなれば、刑期に服しながら鬱屈していくストレスを、ひとりひとりこっちでコントロールするのは難しい」
    そう語る賓客、メロピデ要塞の管理者として実権を握る『公爵』リオセスリ。
    口で語ることとは別に、彼本人には紛れもなく管理者、あるいは『統治者』としての才能があるのは間違いがない。
    「要塞の管理方法に大きな問題を感じたことはない。仮に問題が起きたとして、リオセスリ殿であれば、これまで通り適切な処置を取ってくれるだろう」
    「ははっ、メロピデ要塞が『自治』状態であることは、俺やヌヴィレットさん、このフォンテーヌに住まうすべての人にとって、最も都合がいい状態かもな」
    そう言いつつ笑う彼の姿を見て、一部の人間が幾許かの恐怖を感じるということを、客観的評価としてヌヴィレットは知っていた。
    だが事実として、リオセスリがメロピデ要塞の管理業務を引き継いで以降、彼の地の状況といったものが確実に好転している。
    審判とそれを下された罪人の行く末に携わる立場から聞き及ぶ範囲、また要塞内の要職につくシグウィンから直接伝えられる話においても、ある種無法地帯とも呼べる要塞の秩序が一定基準に保たれ、水の上まで大きく影響を与えるような深刻な問題が起きたことはない。
    どころか、リオセスリがあの場所で築きあげた富・地位・名声とそれによって建造を果たした方舟は、フォンテーヌが直面した災害から多くの人を救いあげた。
    彼はその明確な手柄をひけらかす事も、それを交渉材料の有力な切り札にする事もしない。
    一時の混乱が収まった直後より、まるで何事もなかったかのように、あの要塞の運営を滞りなく再開させたのみだった。
    それ以前にも、長きに渡る封を破って噴出しかけた原始胎海の水を堰き止め、ヌヴィレット自らが再度封印を施すまでの時間稼ぎをしたという点でも、フォンテーヌという国の平和と未来に大きく貢献したのは確かだ。
    だとしても彼は、己に必要がないと感じている栄誉は、真実に基づく名誉だとしても受け取りはしない。
    ある種の謙虚さ。もしくは、メロピデ要塞という国の暗部に属する者として、公の権威とは適切な距離を保つべしという信条。
    そのどちらでもないとすれば、それ以上を他人の目から推測するのは困難だ。
    そして個人的には、その推測に意味はないと感じている。
    事実のひとつひとつは、要塞の好調な運営、提出される種々の報告書類の正確さ、看守を筆頭とするかの地に直接携わる人々の態度、そういった目に見える形として存在している。
    確たる証拠に紐づく根拠は、判決における重要な材料だ。
    余分な想像をせずとも、目の前にいる人間が己にとって信頼に値するのだという証明は、すでに明快な真実である。
    「ところで、最近はずっといい天気が続いてるみたいだな」
    ティーカップを適度に傾けつつ、相手が話題を変えた。
    「晴れてる日は、海面が明るくて綺麗なんだ。太陽の光が直接差し込んでこなくても、そういう景色を見られると気分がいい。多分、他の連中も似たような気持ちだろう」
    人間たちが天気を話題に持ち出すことはよくあることだ。
    しかし往々にしてその話題選びは、他に口にするような話題がない際に場を繋ぐための、特に深い意義はないものだとも知っている。
    ただ、今の両者の立場、関係性の変遷からすると、あながち単なる世間話とも言い難かった。
    「晴れの日に心地よさを覚えるという点は、私も同感だ」
    同じくティーカップを持ち上げながら答える。
    相手が真に何を尋ねたいのかは、ある程度予想はつく。
    彼、リオセスリは間違いなく目撃者のひとりだった。
    あの時、決壊寸前の原始胎海を押し返し、封印を施した経緯。
    我がことながら、それが周囲の目に『ただの人間の成せる事であるか』と疑問を抱かせるに充分な光景だったことは否定しない。
    そもそも彼はあの時より以前から、疑問自体は抱えていた節がある。
    聡明さゆえ、闇雲に尋ねるのは得策ではないと弁えていただけにすぎないだろう。
    「君も、かの童謡を信じているのか?」
    そう言葉を続けると、相手の表情は少々意外だ、と訴える形になった。
    「へぇ。思ったよりすんなり口を割ってくれるんだな。おっと、審判官殿に対して、この言葉選びは行儀が悪すぎたか」
    軽口は彼の習慣だ。
    そして彼の口は場を弁えないという失態を犯したことはない。
    「構わない。既に互いの仕事上の用件は済ませた後だ。プライベートの会話であれば、必要以上に畏らずともいいだろう」
    「そこまで認めてくれてたとは。じゃあ、いまは親しい知人同士の談笑の範疇ってことでいいかい?」
    「これまでの私から君への態度は、あまりに他人行儀すぎただろうか」
    「そう思った瞬間もあったが、ま、立場が立場だしな。それについ最近までは、あまりふざけてばかりもいられない空気が続いてた。率直に言えば、横道にそれちゃまずいかと思って、なるべく控えめにいたのさ」
    「横道にそれる、か。どうあれ、私への気遣いのつもりだったのなら、それは適切な対応だったと言わざるをえない」
    「そいつはよかった。あんたの足を引っ張っちまってたら、今頃俺たちはこうして、プライベートの交流を楽しめてなかっただろう」
    その対応は全て、彼からの素直な好意なのだろう。
    無論、これまでの交流のなかで、その気配を微塵も感じ取らなかったわけではない。
    ただ彼の言葉通り、互いの距離は適切なまま保たれ、なおかつ好印象は持続され、そういった気遣いの果てに今があるというのみだ。
    そして、彼からの好意は如何なる打算を抜きにしても、できれば手に入れたいと思っていた関係性のひとつでもある。
    「直感と想像半々だったが、ヌヴィレットさんは一度『それ』を天秤に乗せたら、その結果の公平さにこだわらずにはいられないだろうってな。この国を飲み込もうとしていた問題の山に対して、何よりも強い責任感を持ってたのも感じてた。実際、解決するとなるとあんたの存在は欠かせない。あの顛末の全てを予想できてたわけじゃなかったが、最高審判官であるあんたがこの国におけるキーパーソンなのは、誰の目にも明らかだろ。なら、いざという場面でどんな問題が突きつけられたとて、その場には必ずヌヴィレットさんがいる。俺はそう予想してた」
    「君の予想はまさに的中だった」
    「ああ。慎重に動いて正解だったよ」
    「そして今、逼迫していた問題の殆どは解消されたと言って差し支えないだろう。君の言葉を借りるなら、脇道に足を踏み入れる余裕ができたというところか」
    そう告げると、彼はわずかに表情を緩ませた。
    予言という名の災厄、その大きな問題を前に気を張り詰めていたのは、彼も同じのはずだった。
    もし今、告げた言葉によって少しでもその緊張がほぐれたというならば、喜ばしいことなのだが。
    「それで、童謡の話だったか?知ってはいたが、どちらかというと疑ってたという観点が正しいな。その手のもんは、実話なんかを下地に生み出されることもある。フォンテーヌでは、水にまつわることは特別だろ?全くのデタラメか、でなきゃ、実話をもとにしたとして、何のためにそれが生まれたか。ちょっとした好奇心が働いたってとこだな。そうしてるうちにヌヴィレットさんと知り合って、まさかな、とさらに好奇心を唆られた」
    「確かに私は、水元素を司る水龍そのものだ。今現在は、失っていた力を取り戻し、より完全な状態に近づいている」
    その言葉を聞いて、彼は先ほどよりもはっきりと驚いた様子を見せた。
    「いいのか?そんなにあっさり打ち明けて」
    「問題ない。元々進んで隠そうというつもりはなかった事実だ。フォンテーヌの人々に改めて尋ねられたとしても、同じように解答する」
    「あんたにそう質問できるような度胸を持ってるのなんざ、一握りもいないと思うがね」
    「ならば、君はその一握り側の人間ということになる。メロピデ要塞の公爵の度胸は、いずれさらに箔がつくやもしれん」
    「っはは。新鮮だな。ヌヴィレットさんの軽口は。悪くない」
    そう言って声をたてて笑う彼の姿は、どこか年相応よりも幼なげに見えた。
    人間の基準で言えば彼はまだ若い部類に入るはずだが、それでもその人格は、落ち着いて達観しており、比較すればより成熟したものといえるだろう。
    そんな彼があまりに無防備に笑う姿は、こちらとしても新鮮でだった。
    「それに、君は誰よりも真実を知る権利があると考えている。数多のフォンテーヌの人々の中でも、問題の核心により近い場所にいたのだから。あの時も確か、後で説明をすると宣言したはずだ」
    「俺とクロリンデさんがとっくに見抜いてるのもわかっててやったんじゃないのか?」
    「そうとも言える。クロリンデもそうだが、君たちは誰に命じられるでもなく、フォンテーヌという国、そしてそこに住まう人々のために行動を起こした。私は、フォンテーヌという国に貢献するのは、己の使命であり責務であると捉えている。だが、君たちの、君の意思と行動は、すべてが献身的な善意によるものだった。この国の基幹に携わる身として、そのことにただ、純粋な感謝の意を抱いている。そして君であれば、一切の考慮は必要なく、知るべき事柄を全て知る権利がある」
    「それで打ち明けられる素性が、元素龍か」
    「驚いたかね?」
    「驚いた。だが、信じれば全部の疑問も腑に落ちる。予言も、それに打ち勝ったという事実も、間違いなく俺の目の前にある現実だしな」
    「ならば幸いだ。他に不明な部分があれば、遠慮なく言ってくれてもかまわない」
    「太っ腹だな。なら遠慮なく。晴れの日も嫌いじゃないってのも嘘じゃなさそうだな」
    「そうだ。天気の良い日に眺め下すフォンテーヌ邸の活気や、歌劇場付近を散策しているときの感覚は、とても好ましいものだ」
    「そうか。ならもし、雨が降っていたとして。偶然ヌヴィレットさんをまた見かけた時は、どう対応するのが正しいんだ?」
    その質問は、予想していなかった。
    そして、投げかけてきた相手の反応も。
    彼、リオセスリは、表情はまだ穏やかだったものの、まとう雰囲気が僅かに変わっていた。
    あえて感情の名を当てはめるとしたら、戸惑いや不安といったものに近いだろう。
    おそらく、その機微に気付けるものはごく少数だと確信したうえで。
    「……君が以前、私に傘を差してくれようとした時のことか。それを気にしていると?」
    思い当たった節を述べると、彼が頷いてみせる。
    「別に、あんたの態度が癪に障ったってわけじゃない」
    彼は少しばかり肩をすくめて見せ、場を取り繕う言葉を紡いだ。
    「結構な勢いの雨だったし、それでも突っ立ってるだけだったから、心配に思っただけさ。あんたがそれでも平気ってんなら、今度からは別の声かけをしようって、そういう話だ」
    「状況を見て、異様に思う気持ちは理解した。そして君が、改めて親切な人だということも」
    「親切そうに見せるのも、いくつかある俺の処世術のひとつなんだ。あの時はまだ、お互いのこともよく知らなかったしな。これ以上は改めて言葉にすることでもないだろ?あんたの素性っていうビッグニュースに比べれば、些細な思い違いってやつだ」
    「君が気に病んでしまうのなら、それは私としても心苦しい。ただ、常人と異なり、雨に当たることを不快と感じにくいのも事実だ」
    「それが聞ければ充分だ。ここの所は天気がいい日が続いてるし、当分、互いに気にするような場面は訪れないだろう。そう祈っておくことにするよ」
    彼は明確に、この話題を切り上げたがっているのは通じていた。
    それでも、ここでその通り切り上げて何になる?
    プライベートな時間。親しい交流。
    そういう口実を先に手札としたのはこちらだ。
    それに、踏み込む余裕があるとサインを告げているのは、相手も同じことだ。
    ならば、先に宣言した通り、少なくともこちらの事情は一切考慮する必要はない。
    「私は君から、無数の善意を受け取り続けている。以前の私であれば、対等な代償という意味で、その善意に報いるという考え方をしただろう。それが打算というものだと、ようやく理解が及んだ」
    「そういう人間関係の作り方は、まったくの悪ってわけじゃない。言ったろ?処世術だって」
    「それが君のやり方というのならば、私は、雨に濡れる人を見て傘を差し出すような行いを、もっと自然に、限りなく純粋な好意として、君に受け取ってもらえるような努力をしたい」
    告げると、彼の目が丸くなった。
    やや大きな瞳が一度瞬きをする。
    その後すぐに相貌はほころび、どこか照れたような様子で、彼の指先が頬をかく。
    「その宣言だけで充分、満腹なくらいに好意ってのを浴びせらるてる気分になるな」
    今度はこちらが瞬きをする番だった。
    自負していることだが、数百年にわたり人間を側で観察し、犯罪の審判という形でその精神の起伏や盛衰を間近で観測してきても、未だ実際のやり取りにおいて常人とずれた考え方を切り離しきれないことがある。
    その手の類の失態を犯した時の相手の反応や空気感については、やっと朧げに掴めるようになってきたという程度だ。
    普段は深刻に考えることはない。
    それでも、彼については深刻になるべきだと、どこか本能じみた部分が訴えている。
    だが、少なくともネガティブな方面での『深刻さ』は、現時点では要点から取り除いて良いのだと、先に相手から伝えられた。
    「親切ってのは、手法やタイミング、相手を間違えると、かえって迷惑になったりする。誰でも少なからずはやらかすことだ。俺も、そういう視点から、ヌヴィレットさんを困らせたんじゃないかと気にしてただけなんだ。ヌヴィレットさんがそういうふうに感じてくれてたなら、俺もこれ以上は気にしない」
    「そうか。根本的に、大半の人々にとっての突然の降雨は煩わしいものだと、何人もの相手から教わっている」
    「童謡になってるくらいだからな。でも、慰めの気持ちがまったくないとは思わないさ。あんたの力とフォンテーヌの天気に因果関係があろうがなかろうが、大雨の中に突っ立ってる人を見掛けて心配になるのは、大半の人間に備わってる善性だと思う。俺たちの祖先が元は人間じゃなかったとしても、今そういう振る舞いが自然と出てくるなら、ご先祖様たちの願いは叶ってるってことだろう。俺も、そういうささやかな善性ってのが、失くしちゃならない最後の矜持ってもんだと思ってる」
    「それは……希望を感じる言葉だ」
    「大仰だな。そういうのは、フリーナ様の十八番じゃないか?付き合いが長いから、移ったのかもな」
    彼はそこで一呼吸おき、ティーカップの中身を空にした。
    「あの時、あんたの背中を見て傘を差し出したいと思った理由をもっと詳しく分析すると、手段はべつに傘じゃなくてもいいって結論が出る。今日ヌヴィレットさんと話せて、それの裏付けがとれたよ」
    丁寧な仕草で空のティーカップがテーブルに戻され、一瞬伏せられていた彼の目と目が合う。
    「多分俺は、本当にあんたが泣いてたんじゃないかと感じて、それが気になってたんだ。晴れの日はいい。今度メロピデ要塞に来てくれる時、吹き抜けから見える天井の明るさを是非見てくれ。本当に綺麗なんだぜ?」
    そう言って彼は立ち上がった。
    互いの仕事、本来の領分に立ち返るには丁度良い頃合いだった。
    「近いうちに伺おう」
    立ち去る支度をしている彼にそう告げると、柔らかな微笑みをかえされた。
    「看護師長にも伝えておくよ。いつでも歓迎する」





    物語を書こうと決意したメリュジーヌの前に、少々判断の難しい問題が出てきていた。
    物語を物語として書こうとした以上、そこには様々な『感情』の説明が必要になる。
    そのこと自体は、彼女は初めから了承していた。
    しかし、書き記す物語を整理していく過程で、疑問が浮かんできたのだ。
    メリュジーヌは人間の感情というものを模倣できたとして、それは必ずしも完璧とは言い難い。
    そこには解消できない種族の差、もっといえば、種族差によるあらゆる心身の違い、そこからなる価値観や、決定的な部分で言えば、死生観といったものにどうしても齟齬が出てしまう。
    メリュジーヌは人間ではなく、人間もメリュジーヌではない。
    彼女はその部分を承知したうえで、この齟齬を乗り越えながら物語を綴る努力をした。
    それでも、どうしても判別がつかない疑問に行き着いてしまった。
    彼女は同胞に、最も親しい人間に、いろいろな角度から質問を繰り返した。
    そのひとつの疑問を解消する術を見つけるために。
    でなければ、彼女の綴る物語には、物語の真髄が宿らない。
    それは全体を通して最も重要で、最も心を揺さぶられるシーンで、最も読み手の、人間の興味を引き、シナリオとしてのドラマ性に強く関係する部分だからだ。
    様々な意見を集めたが、その決定的な最後のピースにふさわしいと思える答えがなんなのか、彼女は判断がとても難しい、と感じた。

    彼女の試みのつまづきもまた、広く広く輪の中で伝わり、最終的に最高審判官の耳に届いた。
    最高審判官の意見もまた、かのメリュジーヌと一致していた。
    それに答えを定義するのは、非常に困難である。
    それをひとつの答えに定着してしまうのは、非常に残酷である。
    メリュジーヌは人間とは異なる存在だ。
    だからといって、その性質がどうしようもなく人間とかけ離れてるとも言い難い。
    メリュジーヌは人間とともに過ごすことが好きだ。
    そしてメリュジーヌのそばにいる人間たちも、殆どの場合は彼女たちに友好的だ。
    ゆえに、メリュジーヌは人間から決定的に忌避されるような性質は持たないように学習してきた。
    だから、彼女が抱いた疑問、最高審判官も同意したその疑問への答えは、時に残酷な印象を与えかねないと感じた。
    『感情』に名前をつけることはそう難しすぎることはない。
    ただ、それの成否を定義することが、メリュジーヌにも人間にも、とても困難だった。

    物語は一人の『神』の一生をわかりやすくまとめたものだ。
    『神』とはいえ、その心は感情とまったく無関係な存在ではない。
    それはメリュジーヌも同じことだ。
    あるシーンの『神』は悲劇の道化であり、あるシーンの『神』は喜劇のヒロインだった。
    物語は始まり、終わりをむかえるものだ。
    終わりには往々にして、全体の内容をまとめるような、結論じみた答えを記す必要がある。
    物語を綴る彼女は、その答えを長い間悩み続けることになった。
    『神』の歩んだ運命は、幸せだったのだろうか。
    それとも、その運命は不幸と悲しみに満ちたものだったのだろうか。
    彼女がそう尋ねたとき、最高審判官もまた、明確な答えを出せずにいた。
    久しく降っていなかった雨がその日、フォンテーヌの国全域を静かに覆っていた。





    「物語を書くのはどうだい?」
    答えの出ぬ問題を抱えたまま彼の元を訪れたとき、そう返された。
    「そのメリュジーヌと同じように、メリュジーヌとは違った視点で。つまり、ヌヴィレットさん自身の主観で、その物語を整理してみたらいいんじゃないか?」
    「私の視点で、か」
    場所はメロピデ要塞のなかにある、公爵の執務室だ。
    かの最高審判官が訪問しているとあってか、それなりの時間を歓談に割いていても、急な尋ね人が入ってくる様子はない。
    「俺こそ又聞きだからなんとも言えんが、まさにその瞬間ってのを現地で目撃していたのはヌヴィレットさんだけだろ。本来のフォカロルスのことを、俺たちは誰も知らない。それこそ彼女の、まさに神意ってやつだったらしいが、それでも全てが砂上の楼閣で、泡沫のような胡乱なものでもない。俺たちの中でいえば、その核心に一番近いのは、ヌヴィレットさんだ」
    そう言い切ってから、しかし間をおかず彼は表情を緩ませる。
    「プレッシャーをかけたいわけじゃないんだ。いや、なんと言うべきかな、こいつは。確かに難しい」
    「リオセスリ殿の心遣いは伝わっている。大丈夫だ。君の言葉もまた、紛れもない事実である」
    「なら良かった。ここの管理者をやってて得た学びなんだが、考えてることを紙に書き出すのは、ただ頭の中だけで考えてるよりはやく決着がつくことがある。こういった、内面的な問題なら尚更な。ヌヴィレットさんなら文章を活字におこす、なんて日常的にやってることだと思うが、仕事以外のことはそうとも限らないんじゃないか」
    「ふむ。確かにそうだ。唯一、手紙を書くというのが最も類似する体験だが、それも回数や相手がごく僅かに限られてきた。完全に私的なものとも言い難い」
    「なら、試してみる価値はありそうだ」
    「念頭に置いておこう。リオセスリ殿は、日記などをつける習慣でも?」
    「ここじゃ紙切れもそれなりに貴重品だ。ましてや公爵になるまで、手に入れる機会すら滅多になかった。だが、頭に浮かんだことをメモしておいて、時間をあけて読み返すことはある。自分で書いた自分の意見だが、形になったそれを目で読み返すと、なぜか別の相手と討論してる気になるんでな」
    「なるほど。他者との討論は、曖昧なテーマに対する答えの模索手段としては合理的だ。紙に書くというプロセスを経ることで、自分自身を相手に、別の角度から意見の交換ができるのだな」
    「そこまで畏まらなくても、同じ事実を見てたって、人によって感じ方はそれぞれだろう?例の彼女とヌヴィレットさんとでは、物語に対する感想が違うこともあるだろうし、それは別におかしなことじゃない」
    その提案は確かに合理的で、効率的だと思えた。
    そもそもここに来るまでに、ある程度の希望めいたものは形を成し始めていた。
    最初にこの物語を書きだしたメリュジーヌの視点を疑うのでない。
    もしあの時のことを誰かに伝えようとするなら、どのように伝えるべきか。
    どう伝えれば、あの時感じた激しいまでの激情を、可能な限り等しく相手に伝えられるのだろうか。
    忘れようもない。
    高々と吊るされた、『神』を断罪するための剣。
    自らの名の下に集められた信仰によって、形なした裁きの刃。
    そのもとで儚げに舞う彼女を前に、その本意を、覚悟を受け止めた。
    それと同時に、自らの正義のために犠牲として進み出た『少女』の苦痛を、涙をこの身に浴びた。
    水は生命の起源であり、仮に『魂』と呼ぶべきものもその流れへ集うのなら、この手に触れてきたすべての涙滴には、長い年月の中で循環してきた、フォンテーヌ人のあらゆる感情が込められている。
    あるものは平穏な生を謳歌し、あるものは不合理な運命に押し潰され、あるものは悲痛の中で無念の終わりを悟り、あるものは希望を抱き歩み続けた。
    水神はそのすべてを見届けてきたはずだ。
    そのうえで、神座ごと己の命を擲つその間際、一体どんな思いを抱いていたのだろう。
    懸命に神を演じ続けるもう一人の自分を間際に見届け、どんな希望を支えとしてきたのだろう。
    そして、結論は行き当たってしまう。
    果たして、自分はそれを正しく物語に書き起こせるだろうかと。
    「リオセスリ殿」
    「ん?」
    丁度空になったカップに新しい紅茶を注ぎながらも、彼はごく自然に返事をかえしてくれた。
    「できれば、リオセスリ殿の書きおこす物語も読んでみたい」
    「俺の?」
    ポットをテーブルに置き、彼が顔を上げた。
    自身の分のカップを手に、長ソファとは少し離れた執務デスク、その縁に腰をかけながら、言葉が続く。
    「あんたや旅人からの伝聞主体になるから、余計事実は歪曲すると思うぞ」
    「それでも構わない。ただ、意見という形での感じ方が複数あるなら、それを集めてみたい。それにリオセスリ殿にとって、あの舞台での出来事はどのように映ったのか、それが気になるのだ」
    「そういう事なら。あまり気の利いた文体では書けないと思うが、それでも勘弁してくれ」
    「その点に関しては、彼女も私も君も、物語を書く事において初心者といえる。気に負う必要はないだろう」
    「それもそうだな。手頃な紙とペンを見繕っておくとしよう。タイトルは、そうだな、歌劇風にしてみるのもいいな。フリーナ様があんなに気に入ってたんだ。それを近くで見てた水神フォカロルスも、ただの歌劇なら楽しんで見ていたかもしれない」
    「……その可能性も低くはないと、私も思いたい。歌劇風というのなら、例えばどのように名付ける?」
    「例えば……『罪に餞を、罰に喝采を』、とかか?歌劇をそう何度も見てきたわけじゃない、ただのイメージさ」
    「興味深い観点だ。あれ以降、私も少しばかり罪というものに対する価値観が変わっている。無論、悪しき行いは裁かれるべきという考えに大きな変化はないが、以前ほど、その言葉そのものに対する漠然とした忌避感は薄れつつある」
    「へぇ。俺も概ね同意だ。元罪人が言うのもなんだが。本当に全ての罪が永劫に許されないのなら、メロピデ要塞もその囚人たちも、ここに存在できていない筈だからな。そして、どんなに大きな罪業でも精算する路はあると、俺たちの神様が証明してくれた」
    言葉を交わしつつ、ごく自然と席を立ち、彼のそばへと歩み寄っていた。
    どんなに大きな罪業でも精算する路はある。水神は確かにその可能性を、希望を証明してみせた。
    「とはいえ、その代償も大きかったがな」
    まさに自分が思い浮かべた通りの内容を、間髪入れず彼が口にした。
    そう、罪業を乗せた天秤がまるで平行になったかの如く、その代償も凄まじく大きなものだった。
    結果としてみれば、フォンテーヌは予言の結末を回避し、フォンテーヌ人は新たな命と歴史を紡いでゆくチャンスを得た。
    その頭上に叩きつけるよう降り注いだ涙滴の束は、この国とそこに住まう人々を愛しぬいた神の、言い表せない感情そのものだったように思う。
    その感情に相応しい名前は、まだ分かりそうにない。
    「ヌヴィレットさん?」
    ふと彼に声をかけられた。
    視界は、執務室の天井から降り注ぐ仄かな光に埋め尽くされている。
    彼と視線を合わせると、そこには見覚えのある表情が浮かべられていた。
    遡るとずいぶん前のように感じるが、いつか大雨の日に、通りがかった彼に声をかけられ、傘を差し出された時の表情。それに似ている気がした。
    それは人間が当たり前に備えているささやかな善性だと、そう教えてくれたのも彼だった。
    先に彼が口を開いた。
    「今日の天気は、確か曇りか小雨だったか。晴れてると、あの光がもっと明るくはっきりしてるんだ。要塞外部は無数のサーチライトで照らしてる。それのせいかと、最初は思っていた。ただ、例えそうだとしても、晴れの日に見上げると、より綺麗な気がするんだ」
    いつも多くの驚きや発見を見せてくれる時と同じように。
    今また彼によって、感情の機微のひとつを見せてもらった。
    「君は、多くの人間の中でも特に繊細で、鮮やかな感受性をもってこの世界を見つめているようだ。そういう生き方ができるというのは、私の知る限り、恵まれた経験のように思う」
    彼という人物、公爵リオセスリがまだこの執務室の主になる以前。
    それよりも過去、罪人という判決を言い渡されるより古い彼の歴史を、その全てを知っていた。
    法廷にて読み上げられた罪状、彼自身の自白と供述、事件現場の証拠と犠牲者のプロフィール。そういった物質の観点から。
    そのうえで、この言葉選びがしたいと感じた。
    もしかすると深く彼を傷つける言葉かもしれないと思っていても。
    純粋に心に湧き上がった感動を言い表すのに、他に言葉を持たなかった。
    彼は一瞬沈黙したのち、どこか呆れたような雰囲気で笑った。
    「生き方、という定義は多分、ヌヴィレットさんが想像するより単純なもんさ。一歩を踏み出す勇気を持てば、人はどんなどん底からでも幸せの海面に向かって浮かび上がれる」
    彼はそう言いつつ、こちらき向き直る。
    「恐れが多くの人の目を眩ます。それに負けさえしなきゃ、可能性はいくらでもあると俺は考えている。自分の手で活路を作ることも、誰かに助けを求め手を伸ばすことも、まずはその場所から一歩踏み出すことだ。暗がりを少しでも抜け出せは、あとはどうにかなる。水の流れに沿うように身をまかせてたって、進み続けていればいつかは終点に辿り着けるんだ。他人がどう見ていようと、俺は今の自分、立場、役割、そういったものを、それなりに気に入ってる。あんたとの関わりだってそうさ。ヌヴィレットさん」
    「……もし、答えのない疑問を残したまま、物語を書き終えることになったとしても。その物語を残す意義はあるだろうか」
    彼もまた、頭上に視線を一時向けていた。
    それに沿うよう、もう一度顔をあげる。
    「君に協力を求めておいて不躾とは承知しているが、それでもなお、私ではやはり、あの時の全てを正しく言い表す表現が見つかるとは思えない」
    そう吐き出すと、彼は想像よりも小気味良い笑い声を立てた。
    「最近パイモンに教わったんだ。いわゆる小説、物語に分類されるものの中には、明確な結論を読者に与えないまま終わるような作品も少なくないんだとさ。パイモンが好きなジャンルは推理小説とか言ってたな。それに関しては流石に御法度の手法だと思うが、俺たちが書こうとしてるものなら、そういう手法をとるのも悪くないんじゃないかい?」
    「ふむ……。それは、読み手から盛大な顰蹙を買わないものだろうか。それに執筆するものの責任感もまるでない」
    そう答えはしたが、内心はどこか安堵をおぼえたような、ざわついていた水面が緩やかに収束していくかのように感じた。
    最高審判官として、この身は常に他者を判じる側にあった。
    善いことも悪しきことも等しく、常にこちらから相手へと、判決を言い渡すという形式は長い歴史の間、絶えず繰り返されてきたことだった。
    そのためか、己の考えを他者から判じてもらう経験には疎い。
    その必要性がいつの頃かはあったのかもしれないが、その機会に恵まれたことがなかった。
    あくまで諭旨裁定カーディナルも判決を結果を共に裁定する存在であったが、それは作り上げられた命なき機械という認識期間が長く、今のような感覚を得たこともない。
    与えられた言葉はただ優しいものだったが、己以外の他者に路を示された、という経験そのものがひどく新鮮で、とても恵まれたことのように感じたのだ。
    「……あぁ、そういうことか」
    思わず呟いたつもりだった。
    しかし実際に室内に鳴ったのは己ではなく、彼リオセスリの声だった。
    そしてぼんやりと頭上を見上げるままの己の体に、彼の腕が回される。
    それに一切の害意や敵意はなく、ただゆっくり、少しばかりぎこちなく、文字通り抱きしめられたのだと、少し遅れて認識した。
    彼の顔を見下ろすのと、照れたようにその腕が少し離れようとするのは、ほぼ同時だって。
    「傘を、その、雨に濡れないようにと差し出そうとした時」
    少々急いだような彼の声音は、いつもより上擦っているようだった。
    「実際の行動とは一致していなかったが、多分、あんたの背中を見て、こういうふうにしてやりたかったんだと思う」
    そこまで言って、彼は逸らしていた顔をこちらに向けた。
    僅かの間伏せられていた目と目が合うと、そこには柔らかな微笑みが浮かんでいた。
    「俺の想像の中で、ヌヴィレットさん、あんたはあの時。水神フォカロルスが裁きを受けたあの時、もしかしたらあんたも、彼女にこうしてやりたかったんじゃないか?こうやって、そのとてつもない重荷を、少しでも一緒に背負ってやりたかったって。そういうふうにさ」
    その言葉は驚くほど鋭く、それでいて優しく、己の中に染み込むように腑に落ちた。
    それは完璧に正しいとは言えない表現かもしれない、だとしても、少なくとも今は最も適切だと思える。
    それが、直感めいて全身に染み渡ったように感じられた。
    そろりと離れていこうとする彼の体を、今度はこちらから捕まえた。
    一瞬驚いたように体に力が入ったものの、羞恥と困惑が入り混ざった眼差しを向けたまま、彼は大人しくしている。
    こちらも内心は少々混乱状態にあったのだが、行動に迷いや悔いはなかった。
    「感謝する。リオセスリ殿」
    そう口にしながら、彼を抱き寄せてみた。
    相変わらず戸惑いの気配はあったものの、拒絶といった様子は感じられない。
    「これで、当分また、雨は降らずにすむだろう」
    抱きとめた腕の中の彼へと語りかけると、くすくすと笑い声があがる。
    「今度はちゃんとヌヴィレットさんを庇えてよかったよ」
    その言葉につい、小さな笑い声がこぼれた。
    それは全く自然に、表面張力からあふれた雫のように、心の奥から飛び出すようにして溢れた感情だった。
    「私も君を庇う傘に、そして守る剣になろう」
    彼は変わらずじっとされるがままになっていたが、戸惑いの気配は色濃くなる。
    彼の頬に手を添えるまで、その戸惑いはまさに沸騰に到達する温度計のように、穏やかだが着実に強まっていった。
    それでも、己の唇に相手のものが重なったとしても、ただじっと体を律し続けていたのだから、やはり彼は類い稀な精神力を備えると思った。
    あるいは、等しい思いを抱いていたからこその健気な反応だったと解釈するのは、彼の言葉でいうところの『都合が良すぎる』ものだろうか。
    これもまた、明確な結論を与えずともよい物語りの終わり方なのかもしれない。





    物語を書くと決めたメリュジーヌに、転機がおとずれた。
    いかに文章を紡ぐかという難題に頭を悩ませ続けていた彼女に、同胞たちなどの口伝いに、彼女らが最も敬愛する同胞の一人として、かの最高審判官からひとつのアドバイスが伝わったのだ。
    人間がある機に行う哀悼という行いには、花束を供える手法も存在するというアドバイス。
    彼女を含めたメリュジーヌたちは人間とともに過ごすことが好きで、その生活に寄り添う最中、故人の哀悼という風習を目にしたことは何度もあった。
    それゆえ、知識として全く知らないわけではなかったのだが、今回の件に関しては盲点となり、彼女たちの人間、ひいては感情というものに対する解釈の幅を大きく広げるきっかけとなった。
    改めて言われて、彼女も気がつき、納得したのだ。
    故人の哀悼は、言い換えれば、人生という舞台の幕を引いた人への労いという見方も可能だ。
    喝采を浴びて終えた舞台に花束が捧げられるよう、自分の役目をしっかり終えたものにそうした気持ちを贈り物とすることは、きっと間違いではないはずだ。
    なにより、あの最高審判官様がそう仰るのなら、きっとなにより素敵な選択なのだろう。
    多くのメリュジーヌが、その結末に喜びと同意の声をあげた。

    時期を同じくして、メロピデ要塞にて要職につくシグウィンを通じて、また彼女たちを喜びに跳ね上げさせる話が伝わった。
    シグウィンはメリュジーヌたちの中でもいわゆる年長の側に類されるため、シグウィンの話は多くのメリュジーヌが楽しみのひとつとし、聞けば我が事のように喜んだ。
    シグウィンが看護師長を務めるメロピデ要塞の管理者もまた、多くのメリュジーヌたちにとっては比較的近しくて親しい人間だ。
    そんな人間が、メリュジーヌたちの敬愛するあの最高審判官様と、最近とても仲良くしているらしい。
    彼女たちの目から見て、メロピデ要塞の公爵という人間は近しくて親しく、概ね善い側に類する人間という共通認識がある。
    そんな人間が最高審判官様の友達になったというのもまた、概ね善いニュースとして喜ばれた。
    人間と友情を結ぶこと、友情を保ち親しく仲良く過ごすことは素晴らしいことなのだと彼女たちは学んでいる。
    それゆえに、表向きにはこっそりと伝えられたそんなニュースは、あっというまにメリュジーヌたちの間に広まり、そう遠くない未来、至極当然の事実として認識されるに至ったという。



    fin
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