『あの魔法使いの飯屋が閉店した』そう耳にしたのは、ファウストが珍しく東の国の首都である雨の街へと買い出しに来たときだった。
ただの料理店であれば聞き逃していただろうが、まだ魔法使いへの根強い偏見の残る東の国で、魔法使いが堂々と料理店を開くことができる人物なんて限られるだろう。とある人物の顔がファウストの頭をよぎった。
──ネロは、最近どうしているのだろうか。
真木晶という賢者が訪れた数年後に厄災戦も終結し、不要となった魔法舎も解体された。
その後は各々自身の日々へと戻っていった。別れた後に交流の続く者もいれば、風の噂でのみ話を聞く者もいる。
東の国の四人は、それぞれ嵐の谷、ブランシェット領、雨の街へと戻ったものの、手紙のやり取りをしている。稀にネロの店を訪れたりしては、ゆるりと日常を取り戻していた。
「お兄さん、買うのかい? 買わないのかい?」
目の前からかけられた声にハッとする。ファウストは露店で手に持ったままだった群青レモンといくつか食材を手渡し、代金を支払った。
久しく会っていない友人の店に顔を出してみようか、そんなことを考えながらファウストは雨の街の少し奥まった場所にあるネロの店へと向かった。
雨の街のメイン通りを少し歩くと、ファウストは通い慣れたネロの店へ辿り着いた。店先には一つの張り紙がされている。
張り紙にはつい数日前の日付と、閉店のお知らせが少し達筆な字で記されていた。
「閉店……? 手紙にはそんな話ししていなかったのに」
少し不思議に思いながら、ファウストは店の裏口へと回る。鍵は掛かっているが、気配はない。
そう、気配がないのだ。結界が張られているなどではなく、人気がない。ネロの魔力の気配すら感じられなかった。
ファウストの背筋に、嫌な汗が流れる。あまり褒められたものではないものの、以前ネロに教えてもらった鍵開けの魔法を、裏口へと施す。
カシャン、と鍵の開く音がやけに響いた。
ゆっくり、音を立てぬよう裏口を開くと、見慣れた店内とどこか寂しげな厨房、それからネロの居住スペースである二階へと続く階段がファウストを出迎える。──ファウストの呼吸の音だけが響くほど静かだった。
誰もいない店内を一瞥したのち、ファウストは二階の居住スペースへと向かう。キシキシと鳴る階段を踏み締め辿り着いた先、閉ざされた扉を2回、ノックする。
返事はない。静かな時間が数秒過ぎる。
もう一度、先程よりも少し強めにノックをする。それでも返事はなかった。
「ネロ、いるだろうか?」
気が乗らないものの、ドアノブに手をかける。不用心にも鍵は掛かっていなかった。
ネロの居住スペース来客のために片付けられた後のように綺麗だ。否、綺麗すぎた。
この場所には片手で数えるほどではあるが訪れたことがある。広いとは言いがたいものの、ベッドとテーブルがあり、それから少しの本や観葉植物、調味料が置かれた棚が並んでいたはずだが、棚の中には何もなく、物寂しさを感じさせる。
ネロはいなかった。不在だとしても外鍵しかかけていない不用心さを指摘するため、メモでも残していこうかと思いテーブルに近づくと、開かれたノートといくつかの手紙が目に入った。それから、椅子の上でいやに光る石。
「これは……レシピノート?」
ノートには様々な料理の作り方が記載されていた。『だいたいひとつまみ』や『好みで』などと曖昧な記載がいかにもネロらしい。
魔法舎に入ってから作るようになったと言うお菓子については、以前ネロ自身が「飯と違って細かく計る必要がある」と言うだけあって、分量や時間、温度まで細かく記載されていた。
ぱらぱらとページを捲ると、ふと気付く。かつての賢者の魔法使いの好物(消し炭はなかったが)ばかりがこのノートに記載されていることに。
普段はいい加減なところも多いネロの、たまに見せる繊細な気遣いがこのノートから感じられた。
開かれていたノートを畳み、手紙を見やる。一つはブランシェットの二人へ、一つは今もまだ獄中のブラッドリーへ。そして最後の一つはファウスト宛の手紙だ。
自身宛の手紙を読んで、ファウストは後悔した。
『ファウストへ
これを読んでる頃には、俺はいないかもしれない。
こんなことを頼むのもどうかなって思うけど、お子ちゃま達には頼みにくいからアンタに頼むよ。
俺の石の一番でかいやつは、悪いけどブラッドに渡して欲しい。それ以外は売るなり使うなり、どう扱ってもいいからさ。
それから、柄じゃないかなとも思うけど、魔法舎で作ってた飯のレシピ残しておくから、気が向いたら作ってみてよ。一人で住んでた時に飯のレパートリーがないって言ってたから、たまには役に立つといいな。
夜にファウストと飲む時間がすげえ楽しかった。
それまで友人らしい友人だとか、何かを教えてくれる先生なんていたことなかったから、年甲斐もなくはしゃいじゃってたかも。
ごめん、それから、今までありがとう。』
ファウストの手から離れた手紙が床へと落ちる。ファウスト宛の手紙というよりは、遺言だった。
もうこの世界にネロはいない。わずかな魔力すら感じられないこの部屋、そして椅子の上のわずかに彼の魔力を帯びた石が、その事実を残酷なほどに物語っていた。
手が震え、落ちた手紙を拾うことができない。かつて、たくさんの仲間の死を目の当たりにした時とは異なる空虚さに包まれた。
もうあの料理を食べることも、人間のように最期に彼の顔を見ることもできない。魔法使いは死後、魔力を持つだけのただの石となるのだから。
この時どれほど魔法使いであることを悔いただろうか。──いや、互いに魔法使いでなければ出会うことすらなかったのだから、悔やむだけ無意味ではある。それをファウストも理解はしているが、納得などできなかった。
ネロだった石を、持っていたハンカチに包む。
ファウストよりも数センチ背の高かった男が、今ではこんなに小さく収まってしまった。
他に何か遺してあるものはないかと見回すものの、大きな家具以外は何も残っていない。自身の死期に合わせて処理したようだった。
3通の手紙とノートを露店で買った物とともに抱え、階段へと向かう。
「おやすみ、ネロ」
居住スペースの扉をゆっくりと閉め、階段を降りて裏口から外へ出る。念のため鍵はかけておこう。何故だかネロとの思い出の場を荒らされたくないと思った。
今日は一度帰ってから、シェフお手製のレシピでガレットでも作ろうか。手紙を渡すには今からでは少し遅い時間だから、明日ブランシェット領に行こう。
中央に収監されてる男に渡すには手続きが必要だろうから、急ぐ必要はないかもしれない。何せ魔法使いには時間がたくさんあるのだから。
その後、ファウストが雨の街に行くことはなくなった。