金瘡小草/アイ光♂ 以前の食事会のやり直しをさせて欲しい。
そう誘いを受けてから数日、冒険者は大層頭を抱えていた。あのしっとりとした熱を密かに混ぜた瞳を見てからというもの、どうにも胸の内が落ち着かず、頭からあの瞳が離れないのだ。
何もない石畳の上で躓き転びかけたり、武具の手入れ用の油を必要数以上購入してしまうなど、普段であれば滅多にしないミスを連発してしまう程に、思考が上手く回らない。
何とか旅の支度を終えたが、このままではいけないと、キャンプ・ドラゴンヘッドへ立ち寄り、雑談がてらそれとなくエマネランに相談したところ、面食らったように瞼を瞬かせ感心したように頷く。
「マブダチにもそういう感情があったんだなぁ……」
「よく分からないけど、失礼な事を思われている気がする」
「いやいや!そんなことはないぜ!?ただ、色恋沙汰に興味がないのかと思っていただけでさ」
「まあ確かにほぼ無縁……って、これは色恋沙汰になるの?」
「そりゃあだって、ずっとあの人の事が頭から離れないんだろう?」
「それはそうなんだけど……」
色恋沙汰。恋。エマネランの言う通りであれば、つまり自身はアイメリクに対してそういった感情を抱いている事になる。だが、本当にそうなのだろうか?
確かに出会った頃から、強い意思を秘めた瞳と、何よりその人柄を好ましく感じており、それは今でも変わらずだ。人たらしとも呼ばれている冒険者ではあったが、色恋沙汰というものには疎いため、いまいち理解しきれていない。
しかめ面をして思考に耽ろうとする冒険者に対し、エマネランは眉を下げ、仕方がないといったふうに息を吐く。
「あー……例えば、あの人と会話している時はどういう気持ちになる?」
「穏やかな気持ちになるし、楽しいけど……」
「けど?」
「えっと……少し、気恥ずかしいというか、落ち着かないというか……」
「じゃあやっぱり、そういうものなんだよ」
自覚を持てとでも言うかのように、バシバシと無遠慮に叩かれる背中が若干痛いが、冒険者の心情はそれどころでは無かった。
いつからか、会うたびに胸の辺りが少し落ち着かず、だけどもっと話をしていたいという気持ちを、冒険者は友と久々に会えた喜びからくるものだと思い込んでいたが、それは友愛ではなく恋慕であるという事実は、思いの外すんなりと脳が理解した。
理解はしたが、気持ちは追いついていない。まるで鈍器で頭を殴られたかのような衝撃の後、胸の内の熱がじわじわと全身に広がり、じっとりと汗が滲む。とても熱い。急激に乾く喉を潤すように、無意識に唾液を飲み込んだ。
「うわっ顔真っ赤じゃないか!大丈夫か?」
「大丈夫じゃないかもしれない……」
明日どんな顔をしてボーレル邸へ向かえば良いのか分からない。泣き言のように呻くと、エマネランは困ったように笑みを返すだけだった。
翌日。忘れられた騎士亭の一室にて、冒険者は旅用鞄の中身を一つ一つ取り出し、買い忘れたものはないか、不要な物は無いかと最終確認を行なっていた。駆け出しの頃にこれを怠り痛い目を見た為、今ではすっかり習慣付けられたものだ。その割に行く先々で草やら皮やら、色んなものを片っ端からポケットに突っ込んでいくものだから、いつも鞄の中は混沌を極めているのだが。
結局、手入れ用の油の数が多い事を除けば、いつでも旅に出られる具合には準備万端で、安心しきった頭は、自然と彼のことを思い浮かべる。既に恋慕だと自覚すれば、ある程度の落ち着きが生まれ、昨日のように泣き言を呻きたくなる気持ちは無いでもないが、それ以上に会える事に喜びを感じるのだ。気持ちを伝えたいかどうかは、一旦思考の片隅に置いておく。仮に、浮ついたままこの気持ちを伝えたとして、もし今の友としての関係に亀裂でも入ったらと考えると、安易に伝えるのはとても怖い。彼は優しい人だから、そうなったとしても、変わらず接してくれるのだろうが。
そうしている内に約束の時間が近付き、慌てて身嗜みを整える。普段のように酒場や屋台、食堂等で食事を取るならば、服装は特に気にしなくても良いのだが、貴族の家に招かれての食事会ともなれば、流石に礼節を欠いてはならない。片手で数えられる程度には、着る頻度の少ないイシュガルディアンコートに袖を通し、部屋を後にした。
ボーレル邸へ向かうと、以前のように老執事が冒険者を恭しく迎え入れる。案内された部屋の中は、白色の意匠の入った青い壁紙と石造の柱を照明が淡く照らし、暗い色合いの木目調のキャビネットや調度品は華美すぎず、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。重たい印象を与えない為か、所々に飾られた花々が細やかながらも空間に華を添えている。暖炉の火は煌々と揺らめいて暖かい。
「来てくれて嬉しいよ。さぁ、席にかけてくれ」
端正が故にどこか冷たい印象を持つ顔は、今は喜色に溢れており、唇は柔らかく弧を描いている。普段の鎧姿ではなくコートを纏ったアイメリクの姿に、見慣れなさからか思わず胸の鼓動が高鳴った。
促されるまま席に着き、老執事が音もなく料理をテーブルに配膳し、蓋を開けると芳しい香を纏いながら湯気が舞い上がる。綺麗に焦げ目がついたグラタン、セサミが散りばめられたカイザーゼンメル、そして彩り豊かな葉野菜とオレンジが添えられたオーケアニスシュニッツェルが、卓上を彩る。
以前もそうだったが、貴族の食事会というものはどうしても緊張してしまうものだ。幸い、テーブルマナー等は既にアルフィノに叩き込まれていた為、それなりに形にはなっているが、目の前の美丈夫の所作を見れば、やはり付け焼き刃でしかない。
手慣れた動作でカトラリーを扱い、切り分けたオーケアニスシュニッツェルを口に運ぶ姿は、思わず見惚れるほどに綺麗で、カトラリーを持とうとした手を止め、その所作を眺めていれば、視線に気づいたようで、
「私の顔に何かついているのだろうか?」
と、少し困ったように眉尻を下げ、こちらを真っ直ぐ見つめるアイスブルーの瞳は柔らかく細められていた。そんな目で見られるととても弱い事を知ってか知らずか、遠慮無しにぶつけてくるものだから、こちらとしてはたまったものではない。
気恥ずかしさからか、視線を彷徨わせてしまいそうになるが、あくまでも平静を取り繕う。そうでもしないと今にも顔まで赤くなりそうだから。
「えっと、所作が綺麗だなと思って・・・思わず眺めてました」
「ははっそう言ってくれるのは嬉しいが、そう見詰められると少し気恥ずかしいな」
「あっごめんなさい……」
「ほら、料理が冷める前に君も食べてくれ」
何となしに、薦められるがまま、目の前にあるカイザーゼンメルを食べやすい大きさにちぎり、口に運ぶ。やや硬めの皮とふわふわとした中の食感は、噛めば噛むほど小麦の甘さとセサミの香ばしい香りが口内に広がる。グラタンはポポトのホクホクとした食感と濃厚なホワイトソースの味がよく合い、ナツメグの仄かな甘い香りとブラックペッパーの辛みが飽きをこさせない。
オーケアニスシュニッツェルは、揚げ焼き特有のザクザクとした食感とは裏腹に、油がもたれないよう、肉に細やかに細工が施されており、振りかけられた香辛料は肉本来の旨味を余す事なく引き立てている。あまりの美味しさに思わず頬が緩んだ。
冒険者は調理師としても名が知れ渡るほどの腕前ではあるが、同じ料理でも地域や作り手によって味付けが多少異なる為、こうして自分以外の者が作った料理を味わう事が好きなのだ。
緊張した面持ちは徐々に笑みを綻ばせ、料理に舌鼓を打つ冒険者の様子に、微笑ましさからか、アイメリクはつい息を漏らす。
「口に合ったようで何よりだよ」
「はい、凄く美味しいです!寒冷地だからか、味付けは少し濃いめですが、後味がしつこくないというか、香辛料の使い方が絶妙で……」
「また後で調理人に伝えておこう。君の評価を聞いたら喜ぶだろうからね」
そう言いながら、くるりとワイングラスを回し、香りを楽しみながらワインを飲むアイメリクの姿に、美丈夫は何をしても様になるのだなと、冒険者は感心したように頷く。
「そういえば、この前サベネア島を訪れたんですが、とても良いところでしたよ」
「サベネア島といえば、独自の香辛料の文化が盛んと聞くが、どうだった?」
「そうですね……色んな香辛料をブレンドしたものを使った料理が主流でして、ちょっと香りは独特で辛いものもあるんですけど、食べてみると美味しいんですよ」
「ほう、それはまた興味深いな……君が特に気に入ったものはあるだろうか?」
「うーん……一番気に入ったのはサベネアンチャイですかね。シナモンやペパーミントなどの香辛料が効いているのでスパイシーですが甘くて……」
笹身肉の旨さと野菜の甘さを程よく引き立てながらも、辛さが後を引くハンサカレーや、香辛料をふんだんに使った近東風のシャクシュカはもちろんのこと、エーテル酔いの際に大変お世話になった甘酸っぱいアームララッシーはとても美味しかった。
だけど、大変な時に心を落ち着かせてくれたという意味でも一番印象に残っているのは、あの温かく少し甘さが強いチャイだったのだ。
「私も甘いものは嗜むが、君も結構甘いものを好むのだな」
「ふふっ旅暮らしをしていると、自然と日持ちがするものを好むようになるんですよ」
あとはお肉とかも大好きですね。どこか自信げに言えば、アイメリクは口元に手を当て、くつくつと肩を揺らす。穏やかな笑みを溢すところを見る事はあれど、静かだが、堪えきれないとでも言うように笑う姿を見るのは初めてだ。
漸く緊張も気恥ずかしさも解れ、凪いだ気持ちで話せていたのに、沸々と胸が熱くなる。何を口走ってしまうかわからないその熱を鎮めるために、やや急いたようにグラスの中のワインを飲む。やけに甘く感じたのは気のせいだと思いたい。
漸く落ち着いたのか、深くため息をつき、それでもなお堪えきれないようでクスリと喉を震わせ、アイメリクが軽く手をあげると、老執事が空いた皿を取り下げ、恭しく茶の支度を始める。
その光景を眺めていれば、見覚えのある瓶の蓋を開け、そのままカップへと傾けていた。たぷたぷと注がれるシロップの量は尋常ではなく、スプーン一杯分のささやかな贅沢が、今ではカップから溢れんばかりの贅沢になっている。
もはや茶の風味のするシロップになりつつあるそれは、以前見た光景が記憶違いでは無いことをありありと証明しており、冒険者は目をまん丸に開くしかなかった。
そんな様子を知ってか知らずか、アイメリクは口元をナプキンで拭った後、こちらへ視線を向け、口を開く。
「そういえば、先日の菓子なのだが……とても美味しかったよ。パイ生地のサクサクとした食感とアップルの甘さがまた絶妙だったな」
「えっ……あ、あぁ!ありがとうございます。結構よく焼けていたので、味には自信あったんですよ」
「ああ、私ですら食べ終わるのが惜しいと思ったくらいだったんだ。子供たちにもさぞ人気があったのだろう?」
「とても賑やかでしたよ。特にエル・トゥがハーコットゼリーを気に入ったみたいで」
試作として竜族用に作られたカトラリーを試す為に開かれた茶会は、実際大盛り上がりだった。エル・トゥは目をキラキラと輝かせ、オーディロンや彼女の師匠から指導を受け、拙いながらもどうにかフォークやスプーンを使い、アップルシュトゥルーデルやハーコットゼリーを平らげ、翼を力強く羽ばたかせ、喜びの声を上げた。ハーコットゼリーのフルフルとした食感が熱で溶け、甘酸っぱい味が口の中に広がるのが、とても不思議だったらしい。あっという間におかわりの分も食べきったのだ。
その様子を遠目から見ていた子供たちも興味を惹かれたのか、恐る恐る屋台の下へ集まり、勧められた焼き菓子を食べると、これまた目を輝かせた。子竜はどこか自慢げに味の感想を言い、釣られるように子供たちもこぞって感想を言い合い、すっかり焼き菓子は無くなっていた。そこからは茶会どころではなく、作業するところを見てみたいと、せがまれるように菓子作りをする羽目になる。
その頃には、もうすっかりエル・トゥと子供たちの仲は深まり、仲良く菓子作りを熱心に眺めていた。
「でも、流石に材料を使い切るまで作るのは疲れましたね・・・」
「ははっ、大盛況だったようで何よりだよ」
冒険者の話に耳を傾け、楽しげに相槌を打つアイメリクの表情は和らいでいる。
音もなく置かれたカップソーサーへと手を伸ばし、淹れられた茶を飲むと、まず最初に花香が鼻腔をくすぐり、程よい渋みとバーチシロップの柔らかい甘みが口の中に広がる。流石にあの量のシロップを入れたものは目の前の美丈夫のものだけだったらしい。
「それと、また料理の作業工程を見せて欲しいと言われました」
「そうか。是非私も君が料理をするところを見てみたいのだが、構わないだろうか?」
「むしろ大歓迎ですよ。もしリクエストがあれば遠慮なく仰ってください」
「そうだな……先ほど君が言っていたサベネアンチャイを飲んでみたいのだが、良いだろうか?」
「ふふっじゃあとびきり美味しいものを作らないとですね」
あの蒸し暑い中で飲むチャイも美味しかったが、寒空の下で飲むチャイもまた、格別に美味しい事だろう。香辛料に慣れていないであろうエル・トゥの事を考え、シナモンの量を控え、バーチシロップで飲みやすいようにアレンジして作ってみるのも悪くない。
チャイの濃厚な味付けに合うよう、焼き菓子はしっとりとしたケーキ類ではなく、軽い口当たりの絞り出しのクッキーが良いかもしれない。既に冒険者の頭の中ではチャイに合わせて何を作るかでいっぱいだった。
ああでもない、こうでもないと、思考に耽る冒険者の表情は百面相のようにコロコロと変わり、見ていて飽きないが、そろそろ宴もたけなわ。明日皇都を発つ冒険者は勿論、アイメリク自身も早朝から議会が待っているのだ。名残惜しいがそろそろ解散しなければ明日に響くだろう。
軽く咳払いをし、こちらへ意識を向けさせる。
「名残惜しいが、そろそろお開きにしよう。夜もふけてきそうだからね」
「もうそんな時間なんですね……ごめんなさい、お忙しいのに」
「いや、気にしないでくれ。君とこうして杯を交わす事ができてとても嬉しいんだ」
喜びからか、ため息混じりのバリトンボイスは、常よりも艶やかな色香を纏っており、冒険者の鼓膜を擽った。反動のように胸の内の火種が燃え上がり、今にでも爆発しそうなその熱をどうにか抑え込もうと意識を持っていかれ、玄関まで向かう足取りは少々覚束無い。酒に酔ったと勘違いしたのか、宿まで送ろうという申し出を丁重に断り、気持ちだけ頂く事にした。
外の冷えた風と雪が肌に止まり溶ける感覚に、少しだけ熱は引いたが、口から出る言葉はつかえるばかり。
「あっ……えっと、その、今日はありがとうございました。また詳細が決まり次第すぐ連絡しますね……」
「ああ、楽しみにしているよ」
最後の言葉はもう消え入りそうだった。それを何とも無いように返答する目の前の男の、じっとこちらを見つめるアイスブルーの瞳は相変わらず暖かな光を宿しており、口端を柔らかく持ち上げ、笑みを浮かべている。
胸はバクバクと鼓動が凄まじく、顔がとても熱い。ぎこちなく礼をしたあと、気恥ずかしさからか、冒険者は逃げるように早歩きでその場を後にする。
実のところ、冒険者がその気持ちを自覚するよりもずっと前から、アイメリクは既に自身に向けられる感情に気付いていた。その上で、いつその気持ちを自覚するのかと待ち遠しくもあったのだが、漸くその時が来たらしい。感情が素直に表情に出るその人のことを一等愛おしく思い、自然と熱いため息が漏れ出る。
「……いつかその気持ちを伝えてくれる事を、私は待っているよ」
だが、あまり待たせないで欲しい。堪えきれない想いを込めた瞳は、火傷しそうな程に爛々とした熱を孕んでおり、去りゆく背中が見えなくなるまでずっと見つめ続けていた。