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    saejima

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    saejima

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    22軸ふゆとら。
    千冬に思いを寄せながらもDV男と付き合っている一虎の話。
    視点交互で進みます。
    暴力描写、若干のモブとらシーン有り。

    #ふゆとら
    Chifuyu ×kazutora

    暴力的なタンデムを君と1.
    有線から流れているのは、おそらく流行りの洋楽だ。女性シンガーがハスキーな声で歌い上げるナンバーに、一虎君はモップを手にしたまま耳を傾けている。
    今日はそれなりに忙しかったからか、その後ろ姿は少し気だるげだ。うなじに落ちた数本のおくれ毛を、思わずじっと見つめてしまう。そこにある、小さな青あざも。
    ぶつけた、と一虎君は言った。そんなところをどうやってぶつけるのか、とは聞かなかった。どうせベッドから落ちたとか、ベタなことを言い出すに決まっているから。

    「何」
    オレの視線に気づいた一虎君が、振り返る。
    「いえ、別に」

    モップがけは大雑把だったけど、説教をする程じゃない。そんなギリギリのラインを狙って手を抜いているのではないか、なんて考えがふと頭に浮かんだ。一種の試し行為と言えばいいのか、一虎君は時々不真面目に振舞って見せて、こっちの反応をうかがうようなところがあった。その度にオレはつい、甘やかす方を選んでしまう。

    「一虎君」
    「ん、」
    「掃除はもういいんで、上がりましょうか」

    わかった、と言って、彼はそそくさとモップを片付ける。オレはオーディオの電源を落として、少し艶めかしいその曲をサビの途中で終わらせた。

    「飲みに行こうと思うんですけど、来ます?」
    「あー……」
    てっきり断られると思ったのに、一虎君は迷うそぶりを見せた。
    「おごりますよ」

    誘惑する悪魔のように囁いて、彼の首を縦に振らせる。
    スマホをポケットに突っ込み、仕事用の鞄を持ちあげたところでさりげなく、その質問を投げかけた。

    「妬きませんか、アンタの彼氏」

    彼氏が妬くから、と言って飲みの誘いを断られたのは確か、ひと月前のことだ。彼の唇からこぼれ出た「彼氏」という言葉を、受け止めて飲み下すのに難儀したのを覚えている。相手が男だからじゃない。オレは、告白さえできないまま自分が失恋したんだという事実に、半ば呆然としていたのだった。

    「今日、出張でいねーから」
    一虎君はそっけなく言った。外したエプロンを乱雑に丸めながら。
    「……なるほど」

    店じまいを終えて、夜の街を並んで歩く。滑らかな肌にじっとり浮かんだ汗と、季節に合わない長袖のハイネックを横目で盗み見ながら、他愛もない話をした。今日の昼間の客がどうだったとか、新しく入った子猫の様子がどうだとか。
    時々一人飲みをするバーに一虎君を案内して、カウンター席に着く。

    「一虎君、彼氏とはどこで出会ったんですか」

    酒が出てくるのを待ってそう尋ねれば、彼は目の前のマティーニを見つめたまま少し照れくさそうにした。その表情になんだか生々しいものを感じて、既にプラトニックではないことを悟ってしまう。

    「ひとりで飲んでたら、声かけられた」
    「ああ、ナンパされたんですね。何している人なんですか」
    「普通の会社員だけど」

    一虎君が首を傾けたので、鈴のピアスがリン、と涼やかな音をたてる。
    オレはブルームーンを一口飲んで、もう一度彼に視線を戻した。

    「その服装、暑くありませんか」

    黒のハイネックを目でなぞると、一虎君は実際撫で回されでもしたかのように身を竦める。

    「……別に、平気」
    「いい加減半袖、着ないんですか」
    「エアコン苦手だから」

    少し苛立ったように言って、一虎君はマティーニの底に沈んだ黄色いサクランボを摘まみ上げる。そして不機嫌なまま、果実を口に含んだ。

    「……カクテル言葉って、知ってます?」

    オレはそんなふうにして話題を変えた。踏み込めなかった自分の弱さを、心の奥底で呪いながら。

    「なにそれ」
    一虎君は、さして興味もなさそうに聞き返す。
    「花言葉みたいなもんですよ。例えばマティーニなら、棘のある美しさ」
    「そっちは?」
    「ブルームーンは叶わぬ恋、です」
    「いっつもそんな話題で、女口説いてんのかよ」
    「あ、バレました?」

    薄っぺらい笑みを浮かべて見せて、ブルームーンをもう一口。バイオレットリキュールの甘さが舌にまとわりついてくるのが、なんとも言えず癖になる。

    「千冬ってなんか、一見清楚だけどエロい女、好きそう」
    「なんですかそのイメージ」
    「でも、当たってんだろ?」

    何故か自信満々に言って、一虎君は口の中で結んだサクランボのヘタを空のグラスに落とした。そういうことを無意識にやっているんだとしたら、なんとも罪深い。

    「次、何にします」
    「それ。千冬が飲んでるやつ飲んでみてぇ」
    「ブルームーンは強いですよ」

    オレは忠告した。美しい色をしているけれど度数が強く、口に甘くて、淫靡な後味を残す酒だ。

    「強くていい。明日休みだし。千冬と同じのが飲みてぇの」
    「後悔しても知りませんよ」

    店を出る頃には、一虎君の足取りはおぼつかなくなっていた。ふらついて歩道から飛び出しそうになるから、腕を掴んで引き寄せる。
    「……っ!」
    その瞬間彼は眉根を寄せて、小さく苦痛の声を漏らした。
    やっぱり。思った通りだった。オレは暗澹たる気分で、一虎君見つめる。

    「アンタ、」
    その声音に咎めるような響きを感じ取ってか、彼はぷいと横を向いた。
    「帰る」
    「待ってくださいよ」
    「やだ」
    「袖、めくって見せてください」
    やだ、と一虎君は繰り返す。まるで叱られた子供だ。

    「アンタ、暴力振るわれてますよね」

    どうしてですか、とオレは問うた。普通の会社員が、一虎君より喧嘩が強いとはとても思えない。

    「別に、平気」
    一虎君は目を合わせないまま言った。
    「いざとなったらオレ、なんとかできるから。別にいい」
    「良くありませんよ」
    「オレがいいって言ってんの。千冬には関係ねぇ」

    ありますよ、と言いかけて、ギリギリで飲み込む。それを言ってしまえばきっと、恋心を自白することになる。
    半年間胸の奥で大事に育ててきたその思いが、繁華街の路上に転がされて足蹴にされても平気でいられるほど、オレは図太くも強くもなかった。

    「なんでアンタはそうやって……自分を大事にできないんですか」
    「愛してる」の代わりにこぼれ出たのは、説教じみた陳腐なセリフだ。
    「どうして、自分の父親と同じような男なんか……」
    「……違う」

    一虎君は言った。じっとりと睨むように、オレを見つめて。零れ落ちそうに大きな瞳が、かすかに揺れていた。

    「あいつとは違う」
    「どこが違うんです?」
    「全然違う。だって、殴った後謝ってくれるし。それに」
    「それに?」
    「いい父親、だから……」

    その言葉に、強烈な眩暈を覚える。いいパンチを顔面にくらったような、そんな感じだった。

    「離婚してる。だから不倫じゃねぇ」
    一虎君はそう弁明した。
    「離婚してるのに、いい父親って……」
    「だけど月に二回子供に会ってて……オレ、動画見たことあるんだけど。子供がすげー父親のこと好きだってのが伝わってくんの。演技とかじゃねぇんだよ。ほんと、息子にとってはいい父親なんだ」

    いい父親、というフレーズを一虎君は繰り返す。彼にとってはきっと、チョコレートみたいに舌に甘く、中毒性のある言葉なんだろう。

    「だけどアンタにとっちゃ、いい恋人じゃないですよね」
    「……だってオレ、女でも子供でもねぇし。別に平気だから、プレイの一環みたいなもん。ほら、首絞めセックスとか、すんじゃん」
    「そんなことしてたら、いつか死にますよ」
    「……ちゃんと手加減、されてるし」

    多分この人は、それを愛だと思っている。やんわりと首を絞められることを。殺されずにいることを。
    地獄にいるくせに、愛し愛されているふりをしている。
    その地獄に糸を垂らしてやれる方法を見つけられずに、オレは自分の無力さを噛みしめ黙り込む。

    「だから、なんにも心配いらねぇよ、千冬」
    一虎君はまるでオレを慰めるように、優しく言った。
    「オレ今、幸せなんだ。そんな顔、すんなよ」



    2.
    時間が経っても、千冬の悲しそうな顔が頭から離れなかった。
    昨夜は嘘をついた。あいつにだけは心配かけたくなかったから。
    オレは、自分が幸せなのかどうか、全くもってわかっていない。ただ、必要とされているからここにいるだけ。誰かに常に求められていないと、寂しさで気が狂いそうになってしまう。

    「なあ一虎、昨日、どうしてた」

    浴室から出てきた彼氏は上半身裸のまま、ベッドに腰を下ろした。マットレスが少し沈んで、オレの体はそっちへ傾く。

    「どうって……ゴロゴロしてただけ」
    「ふうん……」

    来いよって手招きされたから、オレはスマホを投げ出してその腕の中に納まる。
    大丈夫。ちゃんと、愛されてる。一度も抱きしめてくれなかった父親とは違う。オレは体を伸ばして、リラックスしてるフリをする。

    「オマエの店の店長さあ、飲みに誘ってきたりすんの」
    「……時々、でも断ってっから」
    「そいつ、オマエに気ぃあるんじゃねぇの」
    「まさか」
    オレは笑い飛ばした。
    「千冬がオレのこと好きになるわけねぇよ」

    だって、オレは場地を殺した男だ。千冬に愛されるはずがない。そんな資格もない。たとえ一時愛されたとして、すぐに持て余されるに決まってる。

    「……まだ、千冬って呼んでんだ」
    彼氏は、乾いた声でそう言った。
    「オレ、店長って呼べっていったはずだけど?」
    「あ……」

    違う、これは癖で、と言いかけた時にはもう、腹に一発くらっていた。
    かは、と咳き込んで、体を丸める。ベッドの上で立ち上がった彼氏は、オレの背中や尻を蹴ったり、踏みつけたりした。

    「ごめ、癖で……」
    「だから直せよ、その癖」

    腕を掴まれて、後ろ手にねじられる。関節が悲鳴を上げているけど、大丈夫。愛されてるから、脱臼させられたりはしない。

    「一虎、いてぇ?」
    「ん……」
    「そっか。いてぇか」

    拘束が緩んで、オレはベッドマットの上に崩れ落ちる。冷たい汗に濡れたオレを、彼氏は後ろから抱きしめた。

    「は……」
    「ごめんなぁ、一虎。痛かったよなぁ」
    「……平気」
    「そっかあ。オマエ強いもんなぁ」

    頭を撫でられ、それから、体を開かれていく。さっきとは一転優しい動きで、彼氏はオレを気持ちよくしてくれる。

    「あっ……んぅ……」
    「なあ、次はどこに連れてってやりゃあいいと思う?」

    巧みに指を動かしながらオレの顔を覗き込み、恋人はそんなことを聞いてきた。きっと、面会日のことだ。

    「この前は動物園。その前は遊園地」
    「ん……じゃ、水族館、とか」
    「ああ、そりゃあいいなぁ。夏だもんな」

    オレを抱いている最中だって、離れて暮らす息子のことを考えている。オレの父親みたいな冷血漢とは、絶対に違う。違うんだ、千冬。

    「ぬいぐるみとか買ってやったら、きっと喜ぶよな」
    そんなことを言いながら、片手でオレの喉元を抑え込んで、じわじわと圧迫していく。
    「ん……う……」
    「イルカか。シャチの方がかっこいいか」

    視界に白い靄がかかって、気が遠くなる。こわい、死にたくない。本能的に湧き上がってくるその感情が、オレに生の実感をくれた。

    「だけどさぁ……あいつ、モノばっか買い与え過ぎだって、文句言うんだよ」

    彼氏の声が、急に低められる。あいつっていうのは多分、別れた奥さんのこと。面会日にはいつも、三人で出かけるらしい。

    「あいつに経済力がねぇから、オレが買ってやってるんだってのに」
    「ん……」
    喉仏を抑え込む指に力が籠って、さすがに苦しくなってくる。
    「まあ、女だからぶん殴ったりしねぇけど」
    「っ……ぁ」
    「なあ、一虎」

    もう、落ちる。そう思った瞬間彼氏はオレの顔を見て、盛大に吹きだした。
    やっと力が緩められて、喘ぐ口から酸素が入り込んでくる。

    「一虎、ぶっさいく」
    「はっ……ひ、でぇ……ぶさいくじゃねぇし」
    「ぶさいくだったって、今」
    「仕方ねぇだろ首絞められてんだから」

    彼氏は笑いながらオレを組み敷いて、開いた足の間に体を入れてきた。

    「なあ」
    「なんだよ」
    「奥さんにむかついてもさぁ、子供の前では、喧嘩すんなよ」

    オレが言ったら、わかってるってと彼氏は言った。薄く笑うその顔をみて、どうやらまた余計なことを言ったらしいと気づく。

    「オマエなんかに言われなくてもさぁ。二人も殺した欠陥人間が、えらそうに」
    「っ……!」

    顔面を殴り飛ばされて、口の端にじんじんとした痛みを覚える。顔をやられたのは久しぶりで、職場での言い訳をどうしよう、だなんて妙に冷静に考えている自分がいた。

    「……悪い、」
    彼氏はすぐに謝った。
    「カッとなった」
    「ん、平気」
    「ごめんな、一虎。愛してる」
    「うん、オレも」

    抱きしめられて、首筋に歯を立てられる。
    今夜もこの体には、オレに相応しい痣が増えていく。




    「え、どうしたの羽宮さん、その怪我」

    エプロンを付けてバックヤードを出るなり、パートさんに見つかった。女ってやつは目ざとい。コンシーラーってのをわざわざ買って使ってみたのに。隠しれなかったらしい。

    「あーちょっと、酔っ払いに絡まれて……?」
    「いやね、大丈夫なの?」
    「全然平気なんで」

    おそるおそる千冬を見やれば、呆れたような、冷ややかな目をしていた。
    その日は最小限しか話しかけられもせず、呼び出されもしなかった。きっとオレはもう、千冬に見限られてしまったに違いない。
    あの男がどうしても必要だってことを、どう伝えれば良いんだろう。
    振り下ろされる拳の痛みはオレへの罰で、首を締め上げられる苦しさは生きることへの執着を思い出させてくれる。そして「愛してる」の言葉と抱擁は、オレが必要とされているってことの証。その三つが、どうしても必要だった。一つじゃ駄目だ。三つ揃っていなくちゃ、オレは生きていけない。

    「一虎君、」
    「……千冬」

    やっと千冬に声をかけられたのは、早番を終えてエプロンを外した時だった。
    昨日ねじられた肩に手を置かれて、思わず息を飲んでしまう。

    「少しだけ、付き合ってもらえませんか」
    「今日は……ちょっと、」
    「まだ17時ですよ。アンタの彼氏、いつも定時上がりなんですか」
    「……でもねぇけど」

    三十分だけ付き合ってください、と言って、千冬はオレを店の裏手に連行する。そして、通勤用のスクーターに跨った。

    「タンデムしますよ」

    オレは少し躊躇った後で、千冬の後ろに乗ってグリップを握る。
    スクーターはゆっくりと走り出した。
    XJを転がしていた千冬がどうして原付なんて、と思っていたが、このごちゃごちゃとした街には妙に合っている。歩道も車道も区別が無いような道で、千冬は人や自転車を巧みにかわしながら進み、ようやく表通りに出てからスピードを上げた。

    「どこ、行くんだよ」
    「……墓参りですよ」

    千冬は前を見たまま言った。西日にじりじりと焼かれて、長袖のハイネックが暑くて堪らない。

    「場地さんに、報告するんです」
    「何を、」
    「アンタに、恋人ができたこと。幸せだってことを」

    そう聞いた瞬間、逃げ出したくなっていた。
    信号待ちの間なら、それも可能だっただろう。だけど逃げてしまえば、千冬が正しくてオレが間違っているんだと認めることになる。
    そうこうするうちに千冬は墓地の近くにスクーターを停めて、夏草に浸食された土の道を歩き始めた。オレは何も言わないまま、その後ろをついていく。ミンミンゼミだかアブラゼミだかの鳴き声が、耳の中でハウリングしていた。

    「場地さん、今日は手ぶらですみません」

    墓石に向かって謝った後で、千冬はしゃがみ込んで手を合わせる。
    そして、オレのために場所を開けた。

    「さあ、話してくださいよ」
    「千冬、」
    「昨日彼氏にされたことも、全部場地さんに教えてあげてください」

    それができるなら、オレはもう口を出しませんよ、と言って千冬はオレの背後に立った。

    「……場地、」

    墓標と向かい合い、オレは無意識のうちに場地の姿を思い浮かべていた。
    友達だと思っていた奴らにたかられていたオレに、あいつは手を差し伸べてくれた。黒龍の連中にちょっかい出されてることを隠してたのに、場地は当然のように気づいてマイキーに相談をしていた。そして最後は、オレなんかのために命を投げ出した。

    「場地、オレ……恋人ができて……」
    千冬が後ろで続きを待っている。
    「それで……」

    思わず立ち上がろうとしたら、両肩に手を乗せられた阻止された。昨日ねじられた右肩が鈍い痛みを訴える。だけどそこだけじゃない。どこもかしこも痛い。

    「オレは、」
    「言えないんじゃないですか」
    千冬は言った。
    「アンタ、わかってますよね。場地さんが悲しむの」
    「……」
    「本当はわかってるんですよね、一虎君」

    無言のままで居たら千冬が痛めていない方の腕を引っ張って、オレを立たせる。
    来た道を引き返して、二人乗りでのろのろとXJランドまで戻った。

    「どうしますか」

    スクーターを停めたところで、千冬が振り返った。意思の強い碧い瞳に、オレが小さく映りこんでいる。

    「アンタに逃げる気があるなら、うちに連れて帰りますけど」

    オレは首を傾けた。
    連れて帰って、千冬は一体どうする気なんだろう。
    あの男と同じくらいに、オレを必要としてくれるんだろうか。
    否、違う。
    千冬はただ、虐待された子猫を保護するような気持ちでいるだけだ。オレを必要としているわけじゃない。いつだって千冬を必要としているのはオレの方で、オレはそれが堪らなく寂しいのだった。

    「オレは、」
    「……一虎?」

    ふいに、背後から声がした。次の瞬間には髪の毛を掴まれて、スクーターから引きずりおろされていた。

    「あっ……!」

    腰と背中をしたたかに打ち付けて、一瞬呼吸が止まる。頭皮もじんじんと痛い。多分何本か髪の毛が抜けている。

    「何、してやがる、オマエ」
    彼氏が、オレを見下ろしていた。その拳は怒りで震えている。
    「違う……これは、」

    千冬は、目を見開いたまま何も言わない。凍り付いたように動かない。
    驚くのも無理はなかった。
    オレの彼氏は、千冬にそっくりだったから。


    3.
    現れた男は、あまりにもオレに似ていた。
    小柄で細身の体躯に、短めの黒髪。猫のような目と、幼い顔立ち。恋人に暴力をふるうタイプにはまるで見えない外見だった。だけど確かに今この男は、一虎君をオレのスクーターから引きずりおろしたのだった。
    そしてなおも掴んだ髪を引き上げて、拳を振り下ろそうとしている。

    「やめろ」

    我に返って、その男の腕を掴む。力は大して強くない。だけど一虎君は、手を払いのけることもせずにされるがままになっていた。

    「離せよ」
    「じゃあ殴るの止めますか」
    「関係ねぇだろオマエには」
    「ありますよ。上司なんで」
    「千冬、大丈夫だから」

    一虎君は言った。男がようやく髪の毛から手を離せば、よろよろと立ち上がる。

    「オレ、帰るよ」
    その言葉に、男は勝ち誇った笑みを浮かべる。
    「少し、ちふ……店長と話がしたい。十分でいいから」
    「五分」
    一虎君の彼氏は冷ややかに言った。
    「あっちで待ってる。遅れんなよ」
    「約束する」
    「一虎君、なんで……」

    男が立ち去るのを待って、オレは尋ねた。男がオレと似ていたことでも混乱していたが、それ以上に一虎君が尚もあの男を選ぼうとしていることに少なからず打ちのめされていた。

    「多分、オマエが正しくてオレがおかしいんだろうな」

    一虎君は弱々しく言った。ひっつかまれた髪は乱れて、長い毛束が首にそって落ちている。

    「だけどオレ、頭おかしいくらい必要とされてないと、生きていけねぇの」
    「……」
    「……前に一回オレが逆らって大喧嘩になった時があってさ、オレが出てってネカフェに泊まったら、あいつ家の中のもんめちゃめちゃに壊しちゃって、会社も休んじまって……泣きながら電話してきて、」

    そういうのは、典型的なDV男のパフォーマンスだ。そう言おうとした時、一虎君はしがみつくようにオレを見つめた。

    「千冬はさ、オレのために部屋ぐちゃぐちゃにできる?仕事、放りだしてくれる?」
    「それは、」

    多分、どっちも無理だ。例えどれだけイラついたとして、物に当たることはできない。それを片付ける労力だとか、買いなおすための資金だとか、そういったことが頭にひっかかって冷静になってしまうのがオレだ。仕事をサボることも、おそらくしない。動物たちが心配で、結局出勤してしまうに違いない。

    「そういうの、できねぇのが千冬のいいとこなんだ」
    一虎君は言った。少し寂しそうに。
    「だから、そういうまともなとこを好きになってくれる相手と、幸せになってほしい」
    「一虎君、」
    「ケガしてんの見たくねぇんなら、クビにしてもいいからさ」

    じゃあな、千冬、と一虎君は言った。そして、長い影を引きずりながら離れていく。
    オレはもうその腕を掴むことができなかった。彼がこの後酷く殴られるであろうことを、わかっていたのに。
    その後ろ姿が見えなくなるまで、ただただ立ち尽くしていた。



    一体どうすれば良かったんだ?何を間違えた?
    一人暮らしをしているアパートに戻り、発泡酒を飲みながら自問自答する。
    それとも、端から無理だったのか。一虎君のために全てを捨てられないオレには。
    彼を救おうなんて考えたこと自体が、おこがましいのか。

    「場地さん、オレどうしたらいいんすかね……」

    あの人を失ってから、何度となく問いかけてきた。
    一虎君がなかなか心を開いてくれなくて悩んでいた時や、初めての喧嘩で口も利かなくなってしまった時。だけど、なんとか二人で乗り越えてきた。オレ達は結局のところ場地さんという存在で繋がっていて、なんだかんだ言っても離れられないものだと思っていた。そう、思っていたのに。

    「……ああ、なんかイライラしてきた」
    発泡酒のアルミ缶を握り潰して、オレは呟いた。
    「場地さんよりもオレよりも、ぶん殴りながら愛してるって言う男が大事なのかよ。バカ虎。ドM虎」

    ぺちゃんこにひしゃげた缶を壁に投げつけようとしたけれど、わずかに残った発泡酒が壁や床を汚すんじゃないか、と思ったらそれすらできなくなってしまう。こんなオレがすべてを捨てるなんて、土台無理だ。友人たち、母ちゃん、ペケJに店の子たち。この世界には大切なものが多すぎる。オレがオレ以外か、なんてとんでもない天秤を突き付けてきた一虎君に、今さらながら憤りを覚えていた。そして同時に、その救いがたいさを愛してもいた。
    オレはオレのままで一虎君を愛せることを証明してやりたい。肉体的な痛みなんて一切介在しない愛を、一虎君が知らないと言うのならば一から教えてやりたかった。

    「場地さん、ちょっとオレ、行ってきます」

    スクーターじゃなくてXJのキーをひっつかんで立ち上がり、宵闇の中に身を投じる。だけど駐車場の愛車に跨ったところで、一体どこへ行けば良いのかという現実的な問題が早くも立ちはだかっていた。
    一虎君の彼氏の家なんて、オレが知るわけがない。

    「くそ……」

    スマホを取り出して、履歴から電話をかける。呼び出し音を聞きながら、出てくれと一心に祈っていた。



    4.
    千冬のことが好きだった。あいつのそばにいたら、好きにならずにいられなかった。
    だけど、オレは千冬の大事なものを奪った男だ。ささやかな片思いでさえ、許されるわけがない。
    そんなある夜、オレはその男に出会った。千冬によく似た童顔の、人懐っこい男だった。肉欲と寂しさにあらがえず、その日のうちに体の関係を持っていた。
    暴力が始まったのは、男のマンションに転がり込んでからだった。うっかりLINEを既読スルーしてしまったとか、そんなことがきっかけだったような気がする。
    いきなり殴られて、蹴られて、意味がわからなかった。腹が立ってやりかえそうと思った時、ぎゅっと抱きしめられて、ごめん愛してる、と言われた。
    その瞬間電気でも流れたみたいに体が震えて、オレはすっかり反撃する気を失くしていた。
    この男は、オレと同じくらい寂しがり屋で、オレを必要としている。
    セックスそのものよりも男の束縛と独占欲が、オレに痺れる程のエクスタシーを与えてくれた。
    頭の片隅では、きっと間違っているってわかっていたんだろう。所詮、愛の真似事だ。だからオレは痣を長袖とハイネックで隠し続けたし、場地に報告することもできなかった。

    「色々聞きてぇことはあるんだけどさぁ」

    彼氏は言った。オレの上に馬乗りのなったまま。マンションに戻るなり、何発くらったかわからない。体中がじんじん痛い。

    「二ケツしてどこ行ってたんだよ」
    「……場地の、墓参り」
    「場地って、オマエが殺した奴?あの店長って後輩なんだっけ」

    オレは頷いた。顔を動かした拍子に生暖かい鼻血が流れ出す。

    「じゃ、次の質問だけど。あの店長とオレ、似てたのはなんで?」
    「偶然……」
    オレは言った。我ながら酷い言い訳だ、
    「偶然?」

    瞳がすうっと細められたかと思えば、もう一発顔を殴られる。
    口の中が切れて、今度は唇の端から血が流れ落ちていった。

    「あいつのこと、好きなのか」
    「……」
    「だからオレと付き合ったのかよ」
    「オレは……」
    「なあ、違うよな一虎」
    返り血のついた手で、彼氏はオレの髪を撫でつけた。
    「オレのこと愛してるだろ?」
    「ん……」
    「あの店も辞めるよな。これからはオレが養ってやるから」

    オレは素直に頷いた。これで、いいんだ。千冬はオレなんか忘れて、きっと今よりずっと幸せになれる。
    彼氏は、オレの服を脱がし始めていた。こんなにボコボコにされたままするなんてレイプみてぇだな、なんて頭の浅い部分で考える。実際拒否権が無いという意味では殆どレイプだったのかもしれないけど。
    オレは促されるままケダモノみたいに四つん這いになって、彼氏のモノを受け入れた。この地獄は、オレには相応しい。
    スマホがブーブーと音を立て始めた時には、痛みと快感で半ば朦朧となっていた。
    両腕はボロボロの体を支えるのに精いっぱいでスマホを掴めずにいたら、彼氏が先に掠め取ってしまう。

    「あ……」
    「あーもしもし?」
    「んうっ……」
    ぐっと突き上げられて、思わず声を漏れ出した。
    「あ、店長さん?」
    「やめ、あっ……ぁ……!」
    「こんな感じでさあ、オレたち仲良くやってっから。もうおかまいなく」

    彼氏は言いながら、スマホをオレの口元に近づけてくる。
    一虎君、という千冬の声が微かに聞こえた。

    「んあっ……や……」
    「このまましばらくハンディにしておいとくか」
    「やっ……あ……!」

    身を捩って逃げようとするけど、腰を両手でつかまれて揺さぶられたら、それだけでもう体に力が入らなくなってしまう。快楽に弱い自分を恨むしかない。

    「あっ……んっ……」
    「一虎君、どこですか。住所」
    千冬の声が言う。
    「じゅうしょ……んっ……」
    「おいおい乗り込んでくる気かよ」
    彼氏はオレを犯しながら薄く笑った。
    「じゃあ直接見てもらうか。オレらのセックス」
    「やだ……ぁ……」
    「なあ、今度墓地でやるか?」
    「んっ……なに、」
    「場地って奴の墓の前で」

    多分それは、千冬を挑発するための言葉だったんだろう。
    だけど場地の名が聞こえた瞬間、頭ん中で乾いた銃声のような音が響いた気がした。一気に体の熱が引いていく。

    「……ふざけん、な……!」
    オレはのしかかられたまま、身を捩って、背後の男に肘うち食らわせる。
    「っ……いって……」
    「離れろ、」
    「一虎、」
    「さわんな!」

    手を振り払い突き飛ばせば、男はあっけなく尻もちをついた。ああこいつ、こんなに弱かったんだ。

    「てめぇが気安く、場地とか呼んでんじゃねぇよ……」
    怒りに震える手で服をかき集め、下着とズボンに足を通す。
    「……なあ、悪かったって。冗談だよ」
    男は猫なで声で言った。
    「オレを置いてかねぇよな?」
    オレは答えないままスマホをひっつかむ。
    「一虎、」
    「じゃあな」

    最後にそれだけ言って、マンションの部屋を飛び出す。体中打ち身だらけで、まともに走ることもできない。

    「千冬、」

    夜の道を速足で進みながら、スマホを顔に押し当てる。通話はまだ続いていて、千冬の微かな息遣いが聞こえた。

    「一虎君、大丈夫ですか」
    「平気……」
    そう言った後で、言い直した。
    「平気じゃねえし、大丈夫でもねぇ」

    涙が溢れ出てくる。痛ものせいなのか、寂しいせいなのか。ただ自分が可哀想で、泣いているだけなのか。

    「今、どこですか」
    「……国道沿いで、ロイホの看板が見える」
    「そこに行きますから、待っててください」

    通話が途切れた瞬間、一気に限界が来た。
    その場にずるずると座り込み、垂れてきた鼻血を袖でぬぐう。
    酔っ払いがもしくは危ない奴だと思っているのか、通行人はオレを見て足早に通り過ぎて行った。
    どれくらい経ったか、四気筒のバイク特有の空冷排気音が聞こえてきて、オレは顔をあげた。
    ヤマハのXJ400が、オレのすぐ目の前で留まる。

    「お待たせしました」
    千冬は言った。
    「なあ……千冬、やっぱり」

    その優しい顔を見た瞬間、早くもオレは怖気づいてしまう。だって、逆恨みした男が千冬に危害を加えないとも限らない。千冬は、オレなんかのそばに居たらダメだ。
    だけど千冬は、首を振ってオレの言葉を遮った。

    「オレ、アンタのことを迎えに来たんじゃありません。誘拐しに来たんです」
    「は……」
    「アンタに拒否権ありませんよ。今のアンタはオレに勝てませんから」

    腕を掴まれ、バイクの後ろに乗せられる。
    それは、酷く暴力的なタンデム走行だった。オレは力の入らない腕で必死に千冬にしがみついて、XJは獣の咆哮のような音を立てた。
    かくしてその晩オレは、松野千冬と言う男に連れ去らわれた。
    監禁場所はこぎれいな2LDKで、黒い猫が一匹住み着いていた。



    5.
    攫ってきた一虎君を風呂で丸洗いして、体中に湿布や絆創膏を貼ってやった。

    「千冬、オレ、ここに居ていいの」
    「いなきゃだめですよ。アンタ、オレに監禁されてるんですから」
    「手錠とか、しねぇの」
    「したいって言うならネット通販しますけど」

    そう言いながら、ウーバーで頼んだ親子丼を食べさせる。一口ずつ運んでやるのは、小鳥に給餌をしているような気分だった。

    「千冬、オレのこと好き?」
    「好きですよ」
    「じゃあセックスすんの」
    「したいですけど、今日はしません。一虎君ボロボロなんで、痣が綺麗になったらしますよ」

    食べ終わった一虎君の歯を磨かせて、寝室に連れていく。一人暮らしの部屋に寝床なんて一つしかないから、セミダブルのベッドに二人でもぐりこんだ。

    「えらかったですね。逃げてきて」
    そう言って頭を撫でてやれば、一虎君はおもはゆそうな顔をする。
    「考えちゃだめですよ」
    「何を、」
    「あの男が今頃部屋をぐちゃぐちゃにしてるかもしれないってこと。明日仕事にも行けないかもしれないってことも」

    わかってる、と一虎君は言った。

    「ふざけて場地の名前出したのだけは、許せなかった」
    「場地さんが、アンタを連れ戻してくれたんですね」
    オレは言った。
    「一虎君、オレは、アンタのために全部を捨てることはできないです」
    「……」
    「でも誘拐、監禁犯になるくらいにはアンタのことが好きですし、あの男と刺し違える覚悟だってできてますよ。それじゃあ、足りないですか」
    「……わかんねぇ」
    「足りない時は、求めてください」

    言いながら、一虎君の体を抱き寄せる。足を絡めて自由を奪い、大きな琥珀色の目を覗き込んだ。

    「もう千冬はうんざりだって言いたくなるくらい、愛してみせますから」
    「……じゃあ足りねえ」
    一虎君は言った。
    「今すぐ、セックスしたい」
    「一虎君、」
    「ずっと千冬が欲しかった」

    あんなそっくりな男と付き合ってたんだから、わかってんだろ、と一虎君は言う。
    好きな相手にこんなことを言われて、その気にならない男がいるだろうか。

    「じゃあ、思いっきり優しくしますから」

    そう宣言して、一虎君に貸した部屋着を脱がせていく。
    上半身は痣だらけだから、代わりにしなやかな太腿を愛撫して、張りのあるそこにキスマークをつけた。

    「ん……」

    敏感な足の内側を、唇や舌でかわいがる。たったそれだけの刺激で、一虎君は膝を震わせた。性器は既に勃ち上がって、ボクサーパンツの布を押し上げている。

    「感じやすいんですね、一虎君」
    「やっ……くすぐった……」
    「かわいい」

    この体を抱くのが、オレが初めてじゃないのは正直悔しい。だけどオレの色に塗り替えてやりたいという欲望がむくむくと沸き上がってきて、指の動きを性急なものにする。

    「んん……千冬、」

    オレの名を呼んだ唇に蓋をするようにキスをして、その柔らかさを堪能したところで舌をねじ込む。

    「んう……ん……ふ、う……」

    口腔内の粘膜を擦り上げると、一虎君は鼻にかかったうめきを漏らした。既にその目は、とろりと蕩けだしている。

    「あぁ……やぁ……」

    今度は耳に唇を触れさせる。小さなピアス穴のある耳朶を食んだ後で、舌で耳のふちをなぞり、くちゅくちゅと濡れた音を立てながら耳介を犯した。

    「んあっ……あっ……ァ」

    一虎君はオレの下で悩まし気に身をくねらせる。耳に刺激を与え続けたまま、つんと勃ち上がった乳首を指で愛撫すれば、漏れ出す声はよりいっそう甘やかになった。

    「あ……んっ……そこ、やだぁ……」

    嫌でもないのにやだやだと言うのは、あの男のお好みだったんだろうか。まあ正直オレも嫌いではないけれど、どちらかというよりは可愛くよがってくれる方が好きだった。

    「嫌じゃ、ないですよね」
    言いながら、弾力のあるそれを指先でぴんと弾いてやる。
    「あっ……あっ……」
    「気持いいんでしょう?」

    今度は舌先で、転がすように淫猥になめ上げる。先端の小穴に唾液が溜まっているのがなんともいやらしい。

    「んっ……あぁ……アッ……!」
    「ねえ、どうなんですか」

    そこにふうっと息を吹きかけてやったら、一虎君は口をはくはくとさせて喘いだ。

    「ね、一虎君……」
    「っ……きもち、ぃ……」
    一虎君は、ついに白旗を上げた。
    「いいこですね」

    オレはにんまりと微笑んで、ぷっくり膨らんだそこを口に含んだ。じゅうっと音をたてて吸い上げる度、一虎君が掠れた喘ぎを漏らす。

    「あン……イイ……きもちいい……」

    唾液を塗り付けるようにして、両方の乳首を弄る。指の間にはさんで潰すように力を込めたその瞬間、一虎君はベッドの上で背中を反らせた。

    「あっ……あ、ああぁっ……!」

    ひと際高い嬌声。足を突っ張らせ、体は小刻みにびくつく。
    みるみるうちにボクサーパンツに染みが広がっていって、彼が達したのがわかった。

    「え……乳首だけで、イっちゃったんですか?」
    「……は……オマエ、が……いやらしくするから……」

    一虎君は涙の滲んだ目で、オレを睨み上げる。

    「こういうの、いつもなんですか」
    「いつもじゃねぇよ、馬鹿。初めてだ」
    「……はは」

    オレは思わず笑って、一虎君の汗ばんだ体を抱きしめる。

    「一虎君の初めて、もらっちゃいましたね」
    「い……から、早く」

    濡れた下着が気持ち悪いのか、一虎君は眉根を寄せた。

    「じゃ、脱がしますよ」

    ぐしょぐしょになったボクサーパンツを引っ張って脱がせて、秘部を露わにしてしまう。
    達したばかりのペニスは濡れたまま元気をなくしていたから、指でリングを形づくって擦り上げてやった。

    「ん……あ……」
    たちまちそこは芯を持って硬くなっていく。
    「あっ……は……千冬、」

    一虎君は喘ぎながら、なまめかしく腰を揺らめかせる。
    早く挿れてほしいとねだるようなその仕草に、頭がくらくらするほど煽られていた。
    だけどいざ触れようとすれば、一虎君はそのすぼみをきゅっと閉じてしまう。

    「そこ、汚ねぇから」
    「どうして、」
    「さっきまで、別の男のもん入ってた」
    「知ってますよ。でも使わないと、セックスできないじゃないですか」

    入口の襞を優しく撫でれば、そこは本人の意思に反して少しずつ綻んでいく。

    「あっ……だめ……」
    「中、疼いてるんでしょう?」
    「んう……!」

    指に一虎君が放った精液をまとわりつかせてからぐっと推し進めれば、一虎君は観念したように体の力を抜いた。
    第二関節くらいまで差し込んで、柔らかな内側の肉を優しく擦る。

    「あ……」
    「気持ちイイとこ、あるんでしたっけ」

    教えてくれませんか、と甘えたように言えば、一虎君は顔をそむけたまま腹の方、と答えてくれた。

    「ああ、こっちですね」
    「ん、もうちょいだけ、奥……」
    「このへんですか」
    「……あっ!」

    ある一点に指が触れた瞬間、一虎君の体がびくっと跳ねる。

    「んあっ……あっ、そこ……」
    「ここですね?」

    微かにぷっくりとしたそこを指の腹で撫でると、一虎君はあんあんとかわいい声を漏らした。

    「えろ……」

    思わずそう呟けば、下からじっとりと睨み上げられる。だけど尚も指で刺激してやるうちに、その目は再び蕩けていった。

    「あン……んん……」
    「前立腺って、こんなんなっちゃうんですね」

    まるで、マタタビを与えられた猫だ。一虎君はとろとろに蕩けて、甘い声を上げ続けている。

    「ふあっ……あぁ……!ちふゆ、」

    舌足らずに名前を呼んでオレにしがみつき、かすかな声でいれて、と強請る。

    「もう少し、慣らしたいんですけど」
    「ん、いいからぁ……」
    「ダメですよ。これがオレの愛し方なんで」

    しっかり体で覚えてくださいね、と言って、二本目の指を挿入する。

    「やっ……ぁ……ん……」
    「痛くないですか」
    「んっ……いたくねぇ、けど……」

    指の間で前立腺挟むように刺激すると、一虎君の腹筋がびくびくと痙攣する。

    「あっ……あぁっ……!」
    「これ、気持ちいいんですか?」
    「んっ……アッ……イイ……」

    今にも達しそうに体を突っ張らせるから、先走りを垂らしているペニスの根元を掴んで射精を妨げる。

    「んんっ……!やあぁ……」
    「まだダメですよ。一虎君はオレのでイかせるんですから」

    前立腺に触れないようにして中を広げるように指を動かしたり、中でぐるりと回したり。

    「はっ……ん、はやく……」
    「我慢してください」
    「ひど……」
    「優しくしてるじゃないですか」

    泣きそうな顔ではやく、ひどい、と言われると、まるで一虎君を苛めているような気分になってくる。

    「しょうがないですね」

    正直オレの方も限界が近かったから、慣らすのはやめにしてスウェットのズボンを下ろした。彼女が居たころに買っておいたコンドームの封を開けて、薄いゴムをまとう。

    「こっちからで大丈夫です?顔見たいんで」
    「ん……」

    足を開かせて、腰の下に枕を差し込んで角度をつける。
    柔らかくなったそこに猛ったものを押し付けたら、一虎君はひくっと喉を鳴らした。潤んだ大きな目がオレを欲しがっている。正直、かなり征服欲を煽られる状況だ。

    「あっ……千冬、」
    「すげ……きつ……」

    一虎君の様子を見ながらじりじりと腰を押し進め、奥の方まで穿つ。
    はあはあと浅い呼吸を繰り返しながらも、一虎君はオレの全てを受け入れた。

    「この辺まで、届いてます?」
    「んあっ……あぁ……」

    お腹のあたりをとんとんと押してやったら、哀れな悲鳴が上がる。

    「馬鹿、押すな、ぁ……」
    「ちゃんと、満足できてます?」
    「んっ……きもちいい……」
    「挿れてるだけで?」

    一虎君はこくこくと頷いて、オレの肩にしがみついてくる。

    「はやくぅ……動いて、」

    おねだりをしながら、自分で腰を揺らしているのがいじらしい

    「動きますよ」
    「あっ……ふっ……!」

    一虎君の足を掴んだまま腰を前後に動かして、中を擦り上げてやる。

    「っ……あぁっ……ふあっ……!」

    顎をのけぞらし、喉をさらして一虎君は悶えていた。

    「あン……イイ……もっと……」
    「もっと?」
    「奥、突いて……擦って……」

    お望み通り奥を穿てば、一虎君はひと際煽情的な声をあげた。

    「ふあっ……あぁん……んっ……」

    開いたままの唇から、きもちいい、とうわごとが唾液と共に零れ落ちる。
    たっぷり焦らしながら鳴らした分だけ、一虎君は快感に苛まれているみたいだった。

    「……あぁ……イク……イっちゃう……!」
    「いいですよ、イっても」
    「ああぁっ……!」

    ノックするように最奥を突くと、一虎君はほとんど悲鳴のような声をあげて絶頂に達した。

    「あー、メスイキ、ですか」
    勃ちあがったままのペニスを見下ろして、思わずそう呟く。
    「何回もイケるって、聞きましたけど」

    言いながら腰を打ち付けて、イったばかりの一虎君を責めたてる。一虎君はシーツの上で髪を振り乱すようにして身悶えて、よがり声をあげ続けていた。

    「んんっ……あぁぁ……やぁ……!」
    「どんな感じなんです、そのイキ方」
    「……っ……あっ……変になる……ぅ……!イクの、とまらな……」

    息も絶え絶えに言いながら、一虎君は断続的に体をびくつかせいた。女の快感は男の七倍というから、今一虎君が感じているのもそれくらいなんだろう。

    「あンっ……きもちいぃ……やめて……もっと、」

    支離滅裂なことを口走りながら、一虎君はきゅうきゅうとオレのものを締め付ける。こっちも正直限界だった。

    「……っ……イキますよ」

    オレはゴムの中に精を吐き出して、やっと彼の上から退いた。一虎君はまだ快楽の波が引かないのか、小刻みに震え続けている。
    オレは痣だらけの体を抱き寄せて、ほっぺたにキスをした。

    「どうです、まだ、もの足りないですか?」
    「ん……」

    一虎君はふるふると首を振った。
    余韻でぼんやりとしながらも、しがみついてくるのが愛おしい。

    「じゃあ、寝ましょうか」

    左腕を枕として差し出して、あやすように背中を撫でて眠らせる。
    どうか彼が怖い夢を見ませんようにと、祈りながら。



    6.
    朝目を覚ましたら、まずキスをする。というより、される。
    どんなに眠たくても、どんなに遅刻しそうでも。
    まだ頭がぼんやりしているうちから、オレはこの男のものだと教え込まれるような、マーキングに近い行為だ。ほんの触れ合うだけで消失してしまう朝のキスも、正直言うと嫌いじゃない。セックスへとつながる夜のキスとはまた違った艶めかしさがある。

    朝食はトーストと目玉焼きと、カット野菜にドレッシングをかえたサラダ。それにコーヒー。それが理想だけど、コーヒーだけの時もままあった。それでも必ず、二人で食卓に付く。
    千冬のシャツとネクタイを選ぶのはオレで、オレの服を選ぶのは千冬。おんなじ部屋で着替えて、家を出る時にもまたキスをする。

    もう三か月、オレは千冬という男に囚われたまま、そんなモーニングルーティーンをこなしていた。
    元恋人は何度がLINEや電話をよこしたけど、そのうち静かになった。なんでも養育費を払っていたというのは嘘で、そのことで元奥さんと揉めている真っ最中らしいと風の噂で聞いた。人間のふりをするのがうまい、ケダモノみたいな男だった。オレの父親によく似ている、と今ならよくわかる。

    オレの体の痣はもうすっかり綺麗になっていた。その代わり体中に所有印をちりばめられてしまったから、長袖まではいかなくてもハイネックは欠かせない。大した独占欲の持ち主に捕まったもんだと、我ながら思う。

    千冬と付き合うようになって、暴力的な程の優しさもあるのだと初めて知った。知らざるを得なかった。例えばセックスの時、早く入れてとこっちが半泣きで懇願するまで千冬は慣らすのを止めてはくれないし、一緒に風呂に入ればどれだけ恥ずかしいと言っても体中、すみずみまで泡だらけにされて洗われてしまう。
    オレが怒ればぎゅうっと抱きしめて、ごめん、でも愛してるんです、なんて囁いてくる。それに毎回ほだされて許してしまうんだから、オレも大概どうしようもない生き物だ。

    「行きますよ」
    「ん、」

    共に早番の日は、千冬のスクーターで出勤する。タンデムグリップを握るより、千冬の腰に掴まることの方が多い。密着して走る男二人を、このごちゃついた街はなんてこともないように、風景の一つとして受け入れてくれるのだった。

    「今夜、場地さんとこ行きましょうか」
    たらたらと走りながら、千冬は言った。
    「いいけど、なんで」
    「報告してないでしょう。オレたち付き合いはじめましたって」
    「場地、多分腹抱えて笑うぜ。お前らノン気なのにって」
    「今度は胸張って報告できますね」
    誘拐犯のくせに、大した自信だ。きっと場地も呆れるに違いない。
    「ちょっと、こいつの限界までスピード出してみましょうか」
    「馬鹿やってると壊れるぞ」
    「もう限界って時に出る声って、ほんとセクシーですよね。源チャも、一虎君も」
    「最悪」

    早朝の澄んだ空気を裂くように、千冬はスズキの青いアドレスを走らせる。だけど男二人を乗せているせいか、どうにも心もとなかった。

    「全然、おせーじゃん」
    「物足りないので、墓参りの帰りにペケジェーでナイトランしませんか。もちろんタンデムで」
    「えー、ケッチにしようぜ。せっかく買ってくれたんだし」

    甘い言葉とキスとセックスを毎日うんざりするほどに。それでも満たされない時は、タンデム走行で思いっきり飛ばす。千冬の腰に抱き着いたままぶん回されるのは、首を絞められるよりもよっぽどエキサイティングだった。
    ペケジェーだ、ケッチだ、と言い合いをするうちに店に到着していて、オレ達は渋々密着していた体を離した。滅多に人の入り込んでこない店の裏手でそっとキスをして、千冬が決めたモーニングルーティーンは終了だ。

    「好きですよ、一虎君」
    千冬が囁く。
    「ん、オレも」
    「それって、ストックホルム症候群じゃないんですか?」
    くすくす笑いながら、オレの恋人は言った。
    「なんだっていいじゃねぇか」
    「ま、そうですね」

    千冬は一瞬だけ、不安そうな顔をした。きっとこう考えていたに違いない。オレを暴力で支配した男と自分の間に、どんな差が有るんだろう、と。
    愛していると毎日耳の穴から溢れる程に注ぎ込むのは、どろどろに甘やかして依存させることは、暴力とは違うのか。
    だからオレは千冬の顔を両手で挟み込み、ルーティーン外のキスをする。とびっきりいやらしいやつを、たっぷりと。余計なことを考えないためには、キスで頭を酸欠にしてしまうことも時には必要だ。

    「……やっぱり、夜の予定変えたくなってきましたね」
    肉欲ですっかり馬鹿になって、千冬は言った。
    「墓参り行ったら、ホテル行きませんか」
    「じゃあ、こういうのは?」
    オレは言ってやった。
    「場地の墓参りに行って、ナイトランして、そのままホテル行くってのは」
    「ホテルとナイトラン、逆にしましょうよ。じゃないとオレ、事故ります」
    「それがいいんだろ。セックスしてぇの我慢しながら、爆走するってのが」

    きっと最高のタンデムになりますね、と千冬は笑う。
    シャッターを上げたら朝日が白いリノリウムの床で反射して、オレたち二人の目を眩ませた。
    今日も、暑い一日になりそうだ。
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