愛玩今、この国は富んでいる。豊かな人間はとにかく豊かで、手に入らないものなど存在しないだろう。きっと愛ですら金で買える。富んだ人が肥えれば肥えるだけ、貧しい人間は痩せ細ってゆく。麗しの街から通りを暗い方暗い方へ進んだ先の闊達路に俺の住処がある。
「ただいま!」
「おかえり司先生!今日はやーい!」
「おかえり司くん」
「ただいま戻りました。これ今日の日当です」
俺は闊達路にある『日車』と呼ばれる孤児院に育った。大人になった俺は同じく孤児院にいる子供たちを養うために麗街に通い工事現場などで日雇いで働いていた。給金としては微々たるもの…それでも俺が一日、日が昇る前に院を出て、日付が変わる頃戻るという生活でどうにか子供たちを食べさせてやれているのだ。今日はビルの窓拭き。下さえ見なければ割と楽しいのだ。思ったよりも早く終わったしたまにはゆっくり休みたい、と早めに日車に帰ってきた。座ると体がずしんと重くなる。あー…疲れてるな。俺に学があって生まれがしっかりしていたら…今頃、社会の掃き溜めみたいな闊達路じゃなくて麗街の高いところからきれいなものだけを見ていたりしたのだろうか。
「司先生!明が何か持ってる」
「ん?」
座ったまま寝れちゃいそう…うと…と舟を漕いでいたら俺が働きに出ている間に日車に来た明が何かを大事そうに抱えて帰ってきた。
「先生!おれ…おれやったよ!いいものとってきたんだ!これで貧乏じゃなくなる!」
「いいもの?」
明が床にアタッシュケースを置く。ケースそのものがそれなりに高価にも見える。とってきたって…何か悪さをしてきたのでは。明はスリを働いて妹と暮らしていた男の子。警察に捕まって妹と共に保護観察としてここにやってきた。悪い癖が出たのか?まいったな…内々にしておけるかな。これで監督不行き届きで支援金が減らされてしまう。
「身なりがいい男がC倉庫に入ってって、これを置いていなくなったんだ。きっといらなくなったんだよ!金が入ってたら先生が無理に働かなくたって良くなるぜ」
「それは置き引きと言って……」
明が針金でアタッシュケースの鍵を開ける。
「っ……これは…」
中には白い粉を詰めたパックがぎっ…しり入っている。粒子の細かいそれは……おそらく。
「明、なんてことを…」
「なーんだ、金とか宝石かと思った。小麦?砂糖?」
「なんてことを!」
まずいまずいまずい…麗街で危ない連中が回してるって親方が言ってた、「龍氷」と言う違法薬物だ。水に溶かして注射するやつ……一度打つと二度と戻れない、恐ろしい薬。明の肩を掴んで言葉を選びあぐねていると明の顔から血の気が引いてゆく。
「これ…もしかして、おれ、まずいこと」
「…取引で使う量だ。明は…その取引場所から盗んだことになる」
「そ、そんな!おれはあいつらが置いてったものを持ってきただけだ!!」
「置き引きといってそれも窃盗だ」
この薬を回している組織も知っている…この国で有数のマフィア『深更』…鷹の目と称されるほどの高い情報把握能力。空の見えるところであれば隠せるものはない……麗街に留まらずこの国の監視カメラの映像は全て把握されている。つまり…明がアタッシュケースを盗み出したのも、きっとバレている。そしてここに逃げ込んだのも…
「返してくる!」
「駄目だ!」
末端価格がどれほどのものかわからない。取引に使用されるような量なのだから金額にしたら俺が一生働いても返しきれない金額の損害があるのではないだろうか。そんな連中のところに幼ない子供がのこのこ行ったらどんな目に遭うか。
「俺が行くよ」
「先生…!」
「大丈夫!先生こう見えて腕は立つ方だから!」
ボディガードと言う名の肉壁のアルバイトだってしたことあるし、日車の用心棒でもあるのだ。明をはじめ騒ぎを聞きつけて寄ってきた子供達の頭を撫でアタッシュケースを抱える。明がどこから持ってきたものなのかを詳しく聞いてみるとC倉庫の中心に四つ並べられたドラム缶の上にポンと置かれていたらしい。C倉庫は麗街の粗大ゴミが集められる場所だからたまに金目のものが落ちていることもある。俺も幼い頃何度か足を運んで金のネックレスを換金したりしたっけ。言わば子供達の職場なのだ、ここは。ゴミがここに運ばれるのは午前中、昼過ぎに子供達が忍び込んで物色するから夕方以降は誰も来ない。こんな時間に来たことはないが……こんなに静かなところだったのか。子供の頃ら明るかったから怖くなかったけど陽が沈んで光のない倉庫群は不気味でもある。誰もいないはずなのに……人の気配を感じる。
「あ…あの!」
自分の声がエコーしている。まさか盗まれたのに気付いてないなんてことはないはずで。だとしたら…絶対、いるのだ。ここに。
「本当にすみません、このケース、うちの子が間違って持って帰ってしまって!イタズラで開けてしまったのですが中のものは見ていませんし触ってもいません。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
触ってつけてしまった指紋は拭いて消した。アタッシュケースをドラム缶の上に置いて踵を返し………ふわん、と独特の甘い香りがして、冷たい皮の手袋で首の後ろを掴まれた。
「……ー若いな」
ちり…と何かが燃える微かな音。溜息のように吐かれた煙が後ろから漂ってきて口を噤む。
「観ていたから知ってるよ。あの子供、これを盗んだでしょう」
「な……何のことだか…間違って持って帰ってしまったんです。わざとじゃなくて」
「取引の時間にブツがなかったって五月蠅かったんだよ。信用問題に関わる。……まあ、五月蝿過ぎてとっくに吊るしたけれど…とんだ損害だ」
首を掴む指に力が込められてきて小さく咽せた。声しか聞こえない。いつの間に背後に立たれたのかもわからない。背中から強烈な圧を感じる。
「子供のすることだって許してくれると思った?ごめんなさいじゃ許してもらえないこともあるって学ぶいい夜になる」
「…深更の人が、子供相手に本気でかかるなんてことはないでしょう?そんな、大人げないことを深更が」
「へえ………きみ、深更をずいぶんな人格者の集まりだと見積もってくれているんだね。するよ。見せしめだ」
みし、と指に力が入って首をゆったりと絞められる。
「警察だ!!全員動くな!!」
明の声!?来るなと言ったのに!ふ、と男の手が緩んで振り向きざまに手を振り払うと拳の裏が背後に立つ男の頬を打ち金属が床に落ちる音がした。その瞬間、気配だけは感じていた複数人のそれが殺気に変わる。かっと世界が光って目が眩んだ。
「ぅっ…」
「老板」
「いい」
C倉庫の明かりがつけられた。ずっと暗闇だったから目が慣れていなくてチカチカする。どうにか薄目を開けると俺の首を絞めていた男が片手をあげてコンテナの後ろに控えていた男達を制していた。出口は男の後ろ。走って逃げれば…!
「警察を呼んでいないことくらい知ってるよ。観ていたから。……でしょう、司」
名前を知られている……この男、老板と呼ばれていた…まさか本当に深更の首領?いやそんなはず…深更の首領レベルの人間がこんな田舎にいるわけがない。だんだん目が慣れてきた。黒地に金の刺繍、グレーのファー。煙管の火を鳴らして煙を吐く。今日この場を預かるリーダーだろうか。どうにか隙を作って明を助けないと…左のつま先を地面ににじり、拳を握って腰を落とした。
「もう少し頭を働かせられないの、きみ」
「……」
男が足元に落ちていたサングラスを拾い畳んで胸ポケットに入れる。黒い前髪の間から差し込む金色……猛禽の瞳。
「拳を奮う相手を選びなよ。今のは事故だと目を瞑ってあげるけど、『そのつもりで』拳の矛先が僕に向いたら……どうなるのか、本当に理解できていない?」
強く握り込んだ拳の指先が冷える。オーラに圧されて奥歯がガチガチ鳴り出した。この人………もしかして…本当に…
「老板、ガキを捕まえました」
「明!!……っ」
部下らしき巨体の男がぐったりした明を小脇に抱えている。その片足は曲がってはいけない方向に曲がっていた。なりふり構っていられるか!地面を蹴って男に殴りかかると黒と金が目の前で翻って、男の足が俺の丹田に突き刺さる。
「ゔっ、がぁっ!!」
工事現場の解体用ハンマーを食らった心地だ。息が出来ない。かはっ、とかろうじて吐いた息と共に胃液が地面に広がる。
「下手に動いたら折れた肋骨が内臓に刺さるよ」
これやばい…ほんとうに息が出来ない…!地面でのたうち回っていると男が俺のそばに屈んで髪を掴みあげる。恐怖すら感じる美貌の男の目に射抜かれて全身が震える。
「子供を殺して目玉を日車へ送りつけて」
「好的老板」
「駄目だ!!っい…駄目……明を返せ!」
いつもより五倍は重い体を無理矢理起こして飛び掛かると男に頭を小突かれて座り込む。グレーの髪の男が彼の後ろから現れて新しいサングラスを渡す。
「お…お願いします、明を、子供を殺さないで」
「きみの実子?」
「違う…けど家族だ」
一緒にいる時間は長くなかったけどあの子も大人の助けが必要な子供なのだ。煙管の煙で視界が烟る。男は俺の出方を伺うようにサングラスの向こうの美しい金色を向けてくる。
「きみが代わりにお金払うの?一生働いても返せない金額だけど」
「…必ず用意しますから」
「じゃあ手足取って売られてもいいってことだよね」
「………っ」
ぽろぽろと涙が落ちる。殺されるんだろうな……俺には想像もつかないような惨たらしい死を迎えるのだ。俺の人生ってなんなんだろう。売られて買われて流れ着いた住処でただ生きていくことすらこの世界じゃ難しい。普通に……ただ当たり前の幸福を感じて生きたいだけなのに。
「…泣いてるの、司。怖かった?」
なぜかはわからないが男が躊躇いがちに俺の顔を覗く。黒い影が視界に入ってついびくりと肩を上げ目を硬く閉じた。
「…この子は僕が引き取る」
「老板!?それでは示しがつきません」
「僕の決定を否定するの?慎一郎くん」
「好的老板」
灰色の髪の男が懐から銃を取り出して意見した男の眉間を撃ち抜いた。
「僕の決定は深更の意思だ。反論は許さない。以上」
肩の位置まで上げた左手首をくるんと回すと周囲の気配が消えてゆく。
「今日からきみは僕の犬だ。いいね」
「……は…?」
「お別れを言う時間はあげる。一時間だ。破ったら許さないよ」
「まずは病院だよ。純くん、先生のお腹蹴っただろう?」
「肋骨折ったくらいで?」
「嫌われるよ」
「……ちゃんと呼ぶよ。ペットって普通どうやって飼うの」
「僕もペットを飼ったことはないからわからないけど…まずは食事じゃないかな」
「あの体の大きさは嵩張る。体を小さくするためには食事を抜いたほうがいいんじゃないの」
「ご飯はあげよう。死んでしまうよ」
そう…死ぬか。あとはなんだろう…薬に慣れさせたいな。そうそう簡単に薬でイカレたりしないように少しずつ薬を入れてやろう。痛みよりも恐怖が苦手。まさか少し言葉で脅かすだけで泣くなんて。今まで数え切れないくらい大人のみっともない泣き顔や命乞いを見てきた。涙だけでなくよだれも鼻水も撒き散らしながら助けてくださいって。彼は僕を睨みつける勇気こそないながらもグッと言葉を飲み込んでほろほろと涙を流した。かわいかったのだ、それが。撫でてやりたくなった。そういえば犬を飼ったことがなかったな、と司を飼育することにした。素人に産毛が生えた程度ではあるけれど武の心得もないわけではないらしい。磨き方次第ではどのような宝石にもなり得る。
「来たよ」
「うん」
慎一郎くんの声で視線を上げる。時間通り。表通りに停めていた僕らの車に近寄ってきたのを確認して開いた窓から手を出し二本揃えた指を左から右に払う。撤収の合図だ。
「あの、今のは」
「司が時間に遅れたり逃げたり、隠されたりしたら日車に火をつけるよう指示していた」
「だから院の周りがガソリン臭かったのか……」
慎一郎くんが車の扉を開けて司が恐る恐る隣に乗り込む。念の為運転席からしっかり鍵を閉めさせた。
「ちゃんと誤魔化した?」
「はい……親方のところに匿ってもらうから探さないようにって」
「そう」
一人で来るつもりだった司を追って件の子供が飛び込んでくるくらいに人望があるのだから今後もし司を追ってきていたら子供とはいえ殺すよ。皮を剥いで肉を闊達路に晒して皮を日車に送ってあげる。
「司、免許あるよね。麗街の道は把握してる?」
「三分の一くらいは…あとは俺なんかの身なりで入れる場所じゃなくて」
「一日で残り覚えて。慎一郎くん、ということだからクビね」
「うん。ありがとう。先生、純くんをよろしくお願いします」
「く、くくくクビ!?ありがとう!?」
退職金は835番金庫が妥当かな。
「慎一郎くんはずっと引退したがっていたから」
「家族がいるんです」
「家族……」
「意外でしょうか……ただ妻も子供達も私がどのような仕事をしているのか、それによって恵まれた生活しているのをよくわかっています。私はきっとろくな死に方をしない。家族にはそんな思いさせたくなくて、純くん…老板に申請を」
慎一郎くんは割とマトモでいられている方だった。慎一郎くんでろくな死に方をしないのであれば僕はどうなんだろうね。
「他の運転手をつけたこともあるけどどれもすぐ死んだ。司は長生きしてね」
「ぐえっ」
隣に手を伸ばししっかりとした首を掴む。く…と親指に力を入れて喉仏から筋を撫でる。どうしようかな…ペットだから鎖骨の間に焼印を入れようと思ったけど刺青でもいい。背中にしようか肩にしようか…首輪のようにぐるりと彫るのもいい。
「…こ…ころされますか…」
「どうして。今色々やりたいこと考えてるところなのに」
長生きしろと言ったばかりだろうに。か細く呟いてまたぽろぽろ泣いている。かわいい。カン、と煙管を叩き鳴らし燃え尽きた草を捨て司に渡した。でもそれをどうしたらいいのかわからず観察しているだけ。草の入れ方も教えないといけない。仕方なく取り返し自分で草を詰めマッチで火を入れる。窓をわずかに開けているから煙はどんどん外へ逃げていった。
「俺、これからどうなるんですか」
「どう……?僕にかわいがられる」
「かわいがられる…??」
「首輪つけてあげる。餌もちゃんとあげるし頻繁に散歩にも連れていくよ」
「本当に犬なんですか俺は…運転手として雇われるんじゃなくて」
「運転手より待遇はいいよ。嬉しいでしょう」
服ももう少しいいものを。今着ているものは服じゃなくてただのボロ切れ。あとは…そうだな。もう一つある。
「一応、教えておくけれど」
「ひ…っ?」
身を乗り出して隣の司の橙の衣の裾を捲る。蹴って酷い色になった胸の下、綺麗に割れた腹筋の筋。目星をつけて火の入った煙管の先を押し付けた。
「あづ!!あつい!!」
ぽつ、と残った火傷の跡。じくじくと体液の滲みだしたそこを人差し指で抉る。
「痛!」
「ここまで入るから。覚悟はしておいて」
「へ」
おやつを取り上げられた犬のように間抜けな顔。半開きの唇に噛みついた。返事は「好的老板」のみ。………いや、司だけは「はい純さん」がいいね。そうして。