その路地にプランツ・ドールの店があることを宇佐美は知っていた。ただ、店に立ち寄ったことはなかった。その路地は単に職場への近道だからたまに利用していただけで、プランツなどに興味はなかった。しかし、その日の帰り道で宇佐美は初めて店の前で足を止めた。店内にいた、一体のドールに目を惹かれたからだった。
はじめはドールだと分からなかった。プランツ・ドールはほとんどが少女の姿で、華やかなドレスを纏っている。だから飾り気のない白いシャツと黒い半ズボンを身に着けて眠るその少年は、宇佐美の目には生きた人間の子どもに映ったのだ。
おおかた、プランツを強請ったどこぞの富豪の子息なのだろう。初めはそう思ったが、しかしそれにしては様子がおかしい。少年はうつむいており、やや長く黒い髪が顔を覆っていたが、その顔の左半分に白い包帯が巻き付いていた。少年は富豪の令息の持ち物にしてはくたびれたウサギのぬいぐるみを抱き、奥の椅子に腰かけたまま静かに眠っているように見える。そして店内には、彼の親と思しき人間の姿が一切見えない。
もしかしてあれは人形なのか?宇佐美がそう思った瞬間、窓ガラスの向こうで少年が不意に顔を上げた。眠っていたはずの右目がぱちりと開き、大きな黒い瞳が真っ直ぐに宇佐美を見る。
間違いない、伊藤君だ。この少年人形は愛くるしいというよりも鼻筋が通った凛々しい顔立ちで、伊藤君にそっくりだ。伊藤をそのまま十歳に戻したら、このプランツと生き写しになるに違いない。しかしなぜ、伊藤君がこんなところに?宇佐美は驚いて目を見張った。その瞬間確かに、その人形と目が合った。
「お客様?」
不意に声をかけられ宇佐美は振り返った。店の扉が開き、怪訝な顔の店主が宇佐美を見ている。どうやら気づかない間にショーウインドーに張り付いてしまっていたらしい。宇佐美は取り繕うように笑顔を浮かべ、短く非礼を詫びた。
「構いませんよ」
店主はくすりと笑った。そういう客は珍しくない、と言いたげだ。確かに、宇佐美は何度かこの路地でプランツを食い入るように眺める人影を見かけたことがある。しまった、そういう手合いだと思われたか。宇佐美は慌てて言い訳をしようとしたが、店主はするりと店内に戻っていく。
「どうぞお上がりください、お茶でも」
断るタイミングを失い、宇佐美は仕方なく店主の後に続く。宇佐美は初めてプランツ・ドール店に足を踏み入れた。
その少年の姿をしたプランツは、周囲にある他の少女人形が眠り続けている中でただ一人真っ直ぐに顔を上げ、まだ宇佐美を見ていた。しかし店主はそれに構わず、滑らかな手つきで茶を淹れている。
「……初めて入りました、すごいですね」
勧められた椅子に腰を下ろし、宇佐美は店内を見回した。旧く豪奢な洋館のような店内には、種々のドレスに包まれたお伽噺のお姫様のように美しい少女人形がずらりと並んでおり、甘い花の香が炊かれている。やはり、あの少年人形は異質だ。
「皆さんそう仰られます」
店主は慇懃に微笑みながら宇佐美の座る卓まで茶を運んだ。ジャスミンの香りがふわりと漂う。店主はそのまま宇佐美の向かいに座り、碗に茶を注いだ。
店主は丈の長い中国服姿で、ふわふわとした巻き毛に小さな丸い鼻眼鏡をかけている。彼はどこか白金に似ている、しかし職業的な物腰の柔らかさはむしろ自分に似ている。宇佐美はそんなことを考えながら小さな碗を受け取った。宇佐美は店主を何度か見かけてはいたが、こうして話すのは初めてだ。よい香りの茶をゆっくりと口に含むと、段々と気分が落ち着いてきた。
「……あの、あそこにいるプランツですが」
宇佐美は率直に切り出した。店主は振り返ってその少年人形を見る。
「ああ、目覚めたようですね」
あなたに惹かれたようです、と店主は事も無げに答えた。
「目覚めたとは?」
「プランツには相性がございます、飼い主は誰でもよい訳ではありません。まず、プランツに選ばれないと」
「ではあの子は、私を選んでくれたと?」
「分かりやすうございますよ」
プランツは興味のない人間に対しては起きもしませんから、そう言って店主は微笑んだ。
「……ではあの子を、私が買っても?」
知人に似ておりまして。宇佐美は言い訳のようにそう付け足したが、店主は僅かに眉根を寄せた。
「あれは……売り物ではございません。ひどく損傷しておりまして」
店主は少年人形の顔に巻かれた包帯を示した。
「前の飼い主に虐待されたのでしょう、左目に大きな傷があるのでございます。当店で下取りしたものなのですが」
そう言って店主は溜息をつき、少年人形の方に歩み寄った。虐待?その響きに宇佐美の胸がざわめく。
「それはひどい……治らないんですか?」
「顔だけならまだメンテナンスし、中古として扱うこともできたのですが……ご覧ください、これを」
店主は少年人形の髪をかき分けると何かを指し示した。宇佐美も近寄り、人形の頭をじっと見る。小さな植物の芽のようなものが環状に生えている。
「……これは」
「"花冠"でございます」
それはプランツを宿主として育つ寄生植物で、一年後にプランツの命と引き換えに大輪の花を咲かせる。これも前の飼い主によって植えられたもので、除去の手立てはない――店主は物憂げにそう説明する。
「こうなってしまっては中古品としても売り物になりません、もう処分するしか……まったくひどいことをされたものです」
店主はこめかみを押さえて頭を振った。
「――それなら、私に引き取らせてくれませんか」
「え?」
話を聞いていたのか、とでも言いたいのだろう。店主は訝し気な視線を宇佐美に向ける。
「ですから、知人に似ているんです。可哀想じゃないですか、放っておけなくて。そちらのご都合のよい価格で構いませんから」
宇佐美が口早に食い下がると、やがて店主は溜息をついた。
「……実費で結構です、ただし返品はお受けできません」
そして店主は短冊と筆を取ると、さらさらと明細を書きつけた。宇佐美がその短冊を見て頷くと、店主はてきぱきと荷物をまとめ始める。
「すぐに梱包いたします、ミルクもお付けいたしますね。世話の仕方はこちらに記載しておりますが、トイレと入浴の躾は済んでおりますのでご安心ください」
たちまちの内に諸々の道具が包まれ、車が呼ばれる。店主は少年人形を抱え上げると、慎重に宇佐美の腕に抱かせた。
「どうか大事にしてあげてくださいませ。愛情をかけられないプランツに植えられた花冠は咲かず、プランツは塗炭の苦しみを味わうといいますから」
腕の中の人形の重みに気を取られながら、宇佐美ははい、と返事をした。彼は黒い眼をぱっちりと開いたまま、大人しく宇佐美に抱かれている。人形の肌が纏う甘い花の匂いが宇佐美の鼻先に迫る。どこか現実離れした香りで、宇佐美を夢見心地にさせた。
人目を憚りながらプランツを自宅に連れ帰ると、宇佐美はそっと彼をソファーに下ろした。名前をつけてやれ、と言われたが何も思い浮かばない。仕方なく伊藤君、と呼ぶことにする。顔に巻かれた包帯を解くと、果たしてそこには左目を真っ直ぐに貫く刀傷が現れた。その痛々しさに、宇佐美は思わず顔をしかめた。
ソファーの前に跪いて顔を覗き込む。懐いたプランツは蕩けるような笑顔を浮かべるものだと聞くが、この子は無表情でただじっと宇佐美を見ている。本当に自分を懐くべき相手として認識しているのだろうか?いや、最初から疑ってかかるのはよくない。前の飼い主に虐待されていたそうだから、人間に対して不信感を持っているのかもしれない。目覚めてくれただけでもありがたいと思わなければ。
「……大丈夫ですよ、伊藤君」
宇佐美は微笑むとそっとプランツの頭を撫でた。プランツが僅かに迷惑そうに目を細めたような気がして、宇佐美はつい吹き出した。
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両手でカップを抱え、静かにミルクを飲んでいるプランツを見ながら、宇佐美は彼の来歴について頭を巡らせた。銀行賭場から近いところにこんな伊藤そっくりのプランツが現れるなど、どうしても偶然とは思えない。プランツ・ドールは富豪の道楽だ、賭場の観客に愛好者がいても不思議ではない。その誰かは明らかにこのプランツを伊藤に似せようとして、彼の顔にこんな傷を負わせたのだろう。
「……誰にやられたんですか、君?」
プランツは喋らないものだ。返事がないことを承知で問う。案の定、彼は少し訝し気な視線を宇佐美に走らせただけだった。
放置していいとは思えなかった。前の飼い主とやらは伊藤に害意があるからこんなことをしたのだ。何故、この子は手放されたのだろうか?飼い主が失脚して転売されたか、もしくは単に飽きられただけならいいのだが。とにかく、主任級の行員に対して強固な害意を隠し持つ観客が賭場に出入りしている可能性が高い。安全管理上好ましい事態とは言えない。
伊藤本人に問い質した方がいいだろうか。いや、それなら自分がこのプランツを引き取ったことを白状せざるを得なくなる。伊藤はさぞや嫌がるに違いない、すんなり心当たりを話してくれるとは思えない。さしあたっては特五経由で調査することにしよう。
いつの間にかプランツはミルクを飲み終わり、空のカップを持ったまま宇佐美を見つめていた。その視線がどこか不安気で、宇佐美はようやく自分が眉間に皺を寄せてしまっていたと気づいた。
「すみません、怖かったですね」
宇佐美はすぐに柔和な笑みを作った。そっとプランツを抱き寄せると、ぽんぽんと優しく背を撫でる。
「君は私が守ってあげますから、伊藤君」
守ってあげる、か。自分の言葉につい笑ってしまう。伊藤が最も嫌う物言いだ。伊藤はどちらかと言えば、自分が宇佐美を守る方がまだあり得ると思っているに違いない。
宇佐美の声を聞くとプランツはふっと目を閉じた。宇佐美の胸に柔らかな重みがもたれかかる。眠ってしまったのだろう。宇佐美はそっとプランツをソファーに寝かせるとブランケットをかけた。
――こっちの伊藤君は、素直ですね。
伊藤が宇佐美に大人しく守られてくれるはずなどない、だからこれは空しいごっこ遊びにすぎない。そんなことは百も承知だ、でも。伊藤に内緒で伊藤を掌中に守っておくことは、宇佐美にどこか背徳的な喜びをもたらした。
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「――どうぞ、こちらです」
差押品リストを見たい、という宇佐美の求めに黒光は怪訝な顔をしたものの、特に理由を問い質しはせず、「禁帯出」のラベルが貼られた一冊のファイルを押しやった。特0が債務者の身柄を差し押さえる時、資産価値の高い所有物も併せて差し押さえられることになっている。しかし多くの債務者は自らの身体を抵当に入れるほど経済的に追い詰められているからこんなところに来るのであり、資産価値の高い所有物など持たないことが多い。だからそのファイルは薄く、パラパラとめくっただけで通読できそうだ。
「ありがとうございます」
宇佐美は丁重にファイルを受け取ると、黒光の眼前でファイルに目を走らせた。このファイルには過去五年分ほどが記録されているようだが、どこにもプランツ・ドールについての記載はない。
「何かお探しですかな?」
黒光はそっけなく尋ねた。探し物を手伝ってやろうという親切心ではなく、さっさと帰ってもらいたいから聞いているのだろう。幸い、宇佐美の探し物に黒光が興味を持っていないことは明白だ。宇佐美は苦笑しながらも率直に答える。
「ええ、プランツ・ドールなんですけれども」
「ほう」
黒光は片眉を上げた。
「見たことがない訳ではないですがね。あれは人間の娘そっくりだ、一度債務者本人と間違われてここに運ばれてきたことがありました」
「え」
「いやいや」
黒光は笑いながら手を振る。
「あれはガキの見た目でしょう、それに人間とは全然違う。すぐ分かりましたよ、もう十年以上も前の話です」
このバカ、って運んできたやつに拳骨を食らわしてやったものです。黒光は煙草を咥えながらおかしそうに笑った。
「まあとにかく、そんなものが運ばれてきたらさすがに覚えています。俺の知る限り、プランツなんてここでは扱っておりませんな」
ああでも、と黒光はふと目を上げた。ファイルを宇佐美から取返し、数ページを繰る。
「これだ、プランツ・ドールに関係あるものだそうですよ」
黒光は一行を指先で押さえた。「種子」とだけそっけなく書かれている。
「俺は知らなかったんですがね、プランツに寄生する極めて珍しい植物の種なんだそうです。そんな気味悪ぃモン売れるのかと思ったのですが、本店の連中によればかなり高価な品だそうで」
宇佐美はその文字を凝視した。日付は先月、「売却済」の印が押されている。
「そもそもプランツなんてのが変態の遊びなんだ。その上こんな不気味な寄生植物なんてね、変態に変態の二階建てですな」
俺にはまるで理解できませんね、黒光は肩を竦めた。
「……ありがとうございます。これ、売却先は分かりますか?」
「そういうのは本店の連中が巻き取って、表の富裕層向けオークションに出します。人間じゃなきゃ正規のルートで売れるんでね」
宇佐美がきょとんとしていると、黒光はふっと煙を吐き出す。
「分からない、って意味ですよ」
ああいうオークショニアが顧客の個人情報を漏らすはずないでしょう、黒光はそう呟いた。考えてみればそれは特業部も同じことだ。
「大変参考になりました、ご協力感謝します」
宇佐美は笑顔で頭を下げた。黒光は返事をせず、軽く片手を振っただけで部屋の奥に消えた。
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ミルクの缶を包みながら、店主はさようですね、と相槌を打つ。
「仰る通りプランツの大半は少女の姿をしています、あれは特注品でしょう」
「では、発注者が」
「それは分かりませんけれども」
当店でご注文頂いたものではありませんので、店主はそう申し訳なさそうに微笑んで見せた。しかし、この類の店が顧客を明かすはずはないことは想定済みだ。宇佐美はあくまで何気ない雑談を装い、会話を続ける。
「プランツ・ドールはただでさえ高額なものですから、特注品となるとすごいお値段なのでしょうね」
あの子もきっと本来は高価いものなんでしょうに、宇佐美はいかにも残念そうにそう呟いた。
「ええ、名工の手になる業物ですよ。それなのになぜあんなひどい傷を顔につけたのか……理解に苦しみます」
店主はミルクの包みを卓に置くと、短冊と筆に手を伸ばす。
「そもそも花冠は、それなりのプランツでないと根付かないものなんです。皮肉ですが、あの花が芽吹いてしまったという事実自体があれの品質を証明しておりますね」
店主がミルクの請求額を記した短冊を差し出したが、宇佐美はそれをろくに見もせずクレジットカードを渡した。そうだ、花冠。あれの所為で彼は一年以内に枯れる。小さな"伊藤君"との秘密の暮らしは、期限付きの妖しいお遊戯でしかないのだ。そのことを思い出すと、宇佐美の胸がうっすらと重くなる。無性に早く帰りたい、伊藤君の顔を見たい。宇佐美は焦りを抑え込むように目を伏せた。
「――どうかご期待ください」
店主の言葉に宇佐美は思わず顔を上げた。店主はどこか憐れむように微笑んでいる。
「それはそれは、この世のものとは思えないほど綺麗な花ですよ」
もしかして慰めているつもりなのだろうか?反応に困り、宇佐美は曖昧な微笑でミルクの包みを受け取った。
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結局未だにこの子の出所は分からないままだ。宇佐美はダイニングで熱い茶を啜りながら、ぼんやりと傍らのプランツを眺めた。プランツは無表情でぬいぐるみを抱き、ころころと口内で飴玉を転がしている。ぬいぐるみは昼間から聞き出したクレーンゲームの景品で、飴玉はプランツの栄養剤として指定された薔薇色の砂糖玉だ。
宇佐美の家に来てからというもの、プランツはずっと表情らしい表情を見せないままだ。伊藤と同じ顔のプランツににこにこと愛想を振りまかれたいとは思っていないが、自分の扱いに何か至らないところがあるのではないかと不安になる。
頭の上の花冠はやや伸び、今では小さな冠がはっきりと黒い髪の間から見えるようになっている。飼い主から可愛がられていないと感じているプランツの花冠は咲かず、プランツは苦しんで枯れることになる。どれほど美しい花だろうが咲いてほしいとはちっとも思わないが、それ以上に苦痛を味わわせたくない。伊藤君はちゃんと自分に可愛がられていると思ってくれているのだろうか?それがどうしても不安だ。
花冠、前の飼い主とやらは一体何を考えていたのだろうか。大枚をはたいて特注品の少年人形を作らせ、わざわざ顔を傷つけて花冠を植えたことになる。全く理解できない。黒光の言う通り、極度の嗜虐趣味を抱えた変態なのだろうか。いや、それならばなぜ彼は花冠が咲くのを待たずにプランツを手放したのだろうか。それほどの加虐趣味者なら、当然プランツが苦しんで枯れるところを見たがるはずだ。そもそも、そのためにこんなお膳立てをしたのだから。
このプランツは飼い主の破産による差押品ではなく、それどころか前の飼い主はわざわざオークションで差押品だった花冠の種を買っている。別人とは思えなかった。こんな偶然が続くはずがない。彼は決して金に困ってプランツを処分した訳ではない。彼は相変わらずひとかどの素封家のままで、こうしている間も特五に傅かれて意気揚々と賭場を出入りしているに違いない。
考えれば考えるほど分からない。想像はどんどん昏さを増していくだけだ。宇佐美は頭を一つ振ると、気分転換にしいなから贈られたチョコレートの箱を開けた。ラム入りのトリュフを口に放り込むと、豊かなカカオとラムの香りが宇佐美の気を昏い想像からわずかにそらしてくれた。
ふと見ると、プランツがじっとチョコレートの箱を見ている。いつの間にか飴玉を舐め切ってしまったらしく、膨らんでいた頬は元通り端正な輪郭を作っている。もしかしてチョコレートに興味があるのだろうか?
「……食べたいんですか?」
尋ねてみたがプランツは反応せず、じっとチョコレートを見ているだけだ。どうしよう、人間の食べ物をやってはいけないと言われているが。宇佐美はしばし逡巡し、やがて箱の中からミルクガナッシュを取り出した。これなら子どもでも食べられるはずだ。指先でつまみ、おそるおそるプランツの口元に持って行く。プランツは大きな瞳を動かして宇佐美を見、そしてチョコレートの香りを確かめるように鼻を寄せた。
警戒しているのだろうか、やはりやめておこうか。宇佐美がチョコレートを引っ込めようとしたその瞬間、プランツの頤が動いた。小さな唇が素早く開き、宇佐美の指先ごとチョコレートを口に含む。
「――?!」
宇佐美は驚いたが、なんとか叫び声を抑え込むとそっと指をプランツの唇から引き抜いた。指先に柔らかな唇の感触が残って消えない。プランツは舌でゆっくりとチョコレートを転がすと、数度ぱちぱちと大きく瞬きした。
固唾を飲んでプランツを見守る。プランツは目を見開いて宇佐美を見つめたまま、ゆっくりとチョコレートを舐めていた。これは大丈夫なのだろうか、今までに見たことのない顔だ。
やがてプランツは少し上を向き、大きく喉を動かした。そしてごく微かな、小さな息をつく。チョコレートを無事飲み込んだらしい。顔色も正常で、特に異変はないようだ。
「……美味しかったですか?」
宇佐美が尋ねると、プランツはこくんと頷いた。その反応に宇佐美は再び驚く。初めて伊藤君とコミュニケーションが取れた。宇佐美は思わず身を乗り出す。
「気に入りましたか?」
見間違いではない。プランツはもう一度こくんと頷いた。宇佐美は訳の分からぬ衝動にかられ、思わずプランツを両手で抱き締めた。嬉しい、と呼ぶには激しすぎる感情に身が震える。鼻の奥がつんとして痛い。プランツは僅かに迷惑そうに眼を細めたが、宇佐美がそれに気づくことはなかった。
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渋谷は宇佐美の話を聞き終わると、笑いながら指先の紫煙を揺らめかせた。
「はは、それはなかなか剣呑ですな」
ここは渋谷の行きつけのシガーバーで、店内の照明は落とされそこここに薄い闇が落ちている。分厚い木のカウンターには反対側の隅にバーテンダーが立っているだけで、宇佐美と渋谷以外の客はいない。
ここには宇佐美が誘った。宇佐美はこの年嵩の部下の老獪さを頼りにしていた。伊藤に似た奇妙なプランツの話を、渋谷は大した驚きも見せずに黙って聞き、その態度は宇佐美を少し安心させた。
「主任のご懸念はまぁ、正しいかもしれませんなァ。言っちゃなんだが観客連中は変態ぞろいなんで、何をしでかすか分かったもんじゃない。例えば」
渋谷は宇佐美に贈られた太い葉巻をゆっくりと吸い込む。宇佐美は煙草を吸わない。ウイスキーを舐めながら渋谷の話を聞いている。
「その人形を手放した理由だって、"本人"をなんとかできる算段がついたからなのかもしれない」
最悪の想像ですけれどね、と付け加えながら、それでも渋谷はさらりと言ってのける。宇佐美にとっては悍ましすぎて考えないようにしていた可能性だが、渋谷に言われてはっきりと分かった。どんなに悍ましかろうが、検討しない訳にはいかない。宇佐美が少し顔を曇らせたのを見て、渋谷は小さく手を振る。
「もちろん他にも色んな可能性が考えられますよ。例えばその――別人だとか」
「別人?」
ええ、と渋谷は指を四本立ててみせる。
「まず、その少年人形の発注者がいる。そして少年人形の顔に傷を入れた者がいる。更に頭に花冠を植えた者、最後に人形を人形屋に売った者。全員が同一人物とは限らんでしょう」
なるほど、と宇佐美は頷いた。確かに、たった一人の狂った加虐趣味者の仕業と考えるには筋が通らない、と思っていたところだ。
「ターゲットをちゃんと見定める必要があるということですね。先程渋谷君が上げた四人のうち、もっとも注意すべき人物は誰か、というと――」
「そりゃ、花冠を植えた奴でしょうな。こいつには明確な殺意がある」
渋谷はカウンターに肘をついて煙を吐き出す。
「もちろん少年人形の顔に傷をつけた奴も危険ですがね、花冠を植えた奴に比べれば可愛いものだ。プランツは人間の姿をしていますが、生物としては人間よりも植物に近いと聞きます。目を潰したところで人間ほどの悪影響がある訳じゃない。気色の悪い趣味ですが、伊藤主任の熱烈なファンだなァで済まされる範疇ではある」
「ふむ……」
宇佐美はグラスに唇をつけながら考えた。確かに、明確にあの人形が枯れる理由となるのは花冠だ。してみると優先的に探すべきはやはり花冠の購入者か。黒光には種の売却先は分からない、と言われてしまったが、特五なら知っているかもしれない。搦め手で探ってみよう。
「ところでこの件、伊藤主任のお耳には?」
「伊藤君に君そっくりのプランツ・ドールが殺されかかっているから私が保護した、身辺に気をつけろって言えと?まさか」
「でしょうなぁ」
宇佐美が眉を寄せて答えると、渋谷は呵呵と笑った。
「まぁあの御仁にゃ敵も崇拝者も多い。今更そういうのがもう一人増えたところで、伊藤主任にしてみれば大差ないかもしれませんね」
それで、と渋谷は宇佐美に向き直る。
「可愛いですか?」
「え?」
きょとんとした宇佐美に、渋谷はどこか揶揄うような目を向ける。
「プランツですよ。私ァまじまじと見たことはありませんがね、そりゃあ可愛らしいものだと聞きますので」
「ああ」
宇佐美は苦笑する。
「そりゃあまあ、元々は可愛らしかったのだと思いますよ。でも先程話した通り、顔が潰されていますからね……その所為なのかもしれませんが、表情も変わらないんです。なんだか可哀想で」
ふうん、と渋谷は鼻を鳴らした。
「まぁ如何にプランツ・ドールと言えども、ご面相が伊藤主任じゃなァ……」
独り言めいた渋谷のつぶやきを、宇佐美は曖昧な微笑みで流す。
「とにかく、生き物の世話は飼い主の責任ですからね。どうせ残り一年にも満たないんです、ちゃんと面倒を見るつもりですよ」
言いながら心臓に小さな棘が刺さる気がする。しかし渋谷はそれには気づかない風に笑ってみせた。
「それは立派な心掛けですな。仰る通り、罪のない可哀想なプランツです。賭場も伊藤主任も彼には関係がないのですから、優しくしてあげるといい」
渋谷はそう微笑むと、もう一杯の酒を宇佐美に勧める。それを断り、宇佐美は帰路についた。
「ただいま」
なんとはなしに帰宅の挨拶をする。何らの反応も期待していなかったが、じきに廊下の向こうからとたとた、という軽い足音が近寄ってきた。
「伊藤君、ただいま帰りました」
宇佐美が微笑むと、プランツは無言で脚にぎゅう、としがみついてきた。しがみつきながら宇佐美の顔を睨む。
「ああすみません、お腹が空きましたね」
宇佐美は脚にしがみついているプランツを半ば引きずりながら台所に向かう。プランツの主食はミルクだ、欠かす訳にはいかない。
「できましたよ、どうぞ」
湯気の立っているミルクをプランツに渡す。プランツはミルクのカップを大事そうに抱えながら、それでも宇佐美を睨んでいる。
「……本当にすみません、遅くなって。蜂蜜を少し入れておきましたから」
プランツは宇佐美を睨みつけながら、いつもより早いペースでミルクを飲みほした。宇佐美が空のカップを受け取ると、再度プランツは宇佐美にしがみつく。
――伊藤君、すごく怒っていますね。
どうしよう、と宇佐美はプランツの頭を撫でる。花冠に指が触れ、心臓がずきりと痛む。どうしよう、伊藤君は私を疑っただろうか?飼い主に値しない人間だと思ってしまっただろうか。
「……伊藤君、許してください。私は君をなんとか助けたくて」
言いながら宇佐美の心がどんどん重くなる。宇佐美が何をしようが、目の前のこのプランツが助かることはない。宇佐美が助けようとしている"伊藤君"とは、この少年人形のことではないのだ。