リノリウムの端と端「お待ち下さい、鬼灯先生。」
古いリノリウムの廊下を歩いていた俺の背後から、聞き慣れない男の声がする。
無造作に振り向くと、声をかけた男は一瞬怯えたように止まり、コホンと咳払いを一つする。
「あぁ、ええっと。淋博士ですね。」
「そうです。覚えていてくださって光栄。」
淋博士はニヤリと笑うと胸ポケットから複数枚の紙を取り出す。
「それでですね、本題なのですが。実はあなたが請け負っている生徒たちから、嘆願書が提出されまして。」
おそらく淋博士の手にあるそれが嘆願書なのだろう。ざっと見る限りでは24枚。俺が請け負っている生徒の数とほぼ一致する。
「なにを嘆願しているんですか?」
淋博士は困ったような呆れたような表情を見せながらその紙を見せつけてくるのだが、あいにく俺はこの「先生」という立場についても「大學」という構造についても詳しくない。
戦後、俺の居た研究所が表向きには閉鎖され、そこでしか生活をしたことのない俺に与えられた、初めての「職場」という場所。
要は研究者や医者を目指している學生に対して、俺の持つ知識と技術を教えれば良いのだと、俺の親の知人でもある元大學教授はそう語った。
「……そうですね。ご説明しますと、あなたの授業に全くついていけないと、生徒たちから嘆きの声が上がっている、ということです」
淋博士はわざとらしく眉間を揉むような仕草をしてみせ、ちらりと俺の反応を伺う。
「そうですか。そういわれましても、教科書に書いてあることを俺は教えているだけですが……。」
何が言いたいのか全くわからない。自分の授業を振り返ってみても、言われたとおりに教科書の中身を説明し、実技でも解剖と実験を生徒に見せ、そして渡されていた学習スケジュールとやらに遅れを取らないようにしてきたのだが……?
「えぇ確かに、先生の授業内容は完璧です。きっと教科書など渡さなくても、先生なら空で質の高い講義をしてみせるでしょう。しかし問題はそこではなく……」
「鬼灯先生。學生は、一度で全ての事を丸暗記は出来ないのですよ。」
夜。日付を跨ごうとしているこの時間に、東州議事堂の地下深くに作られた閉架書庫に、小さな明かりと小さな笑い声が響いた。
「それは博士の仰るとおりだ。いいか、鬼灯槐。一般的な人間は私達のように本をめくる端から暗記も出来ないし、一度見ただけの内臓や神経の位置も覚えられない。反復と確認が重要だ」
閉架書庫にある極秘書物をパラパラとめくりながら、真っ白な髪をした男が可笑しそうに答える。鬼灯槐は、その後ろ姿を見ながらため息をつく。
「えぇ、それも聞きましたよ。でも理解が出来ないから教授に聞いているんです。あんただって大昔には教壇に立っていたでしょ?どうしてたんですか?覚えられない人間に対して、まさか本当に何度も繰り返し同じことを教えるんですか?」
槐は部屋の中にある椅子に腰を掛けて、苛立ちを表すように組んだ足をぶらつかせた。
「あぁ懐かしいな。お前の父親もそうだった。凡人というものが理解できず、遠ざけ、自分の研究を崇拝するものだけを集め、結果、破滅したな。」
教授と呼ばれた男は、本から目を離し槐に顔を向ける。
真っ白な髪の毛と同様に、肌も、そして男にしては長いまつげも真っ白で、その中で唯一の色彩である真っ赤な瞳が、槐を捉えていた。
薄暗い明かりの中でのその容貌は怪しくもあり美しくもあり、槐は北の果てで生まれた男の遺伝子データをこの手で調べてみたくなった。
「私のデータならいくらでもその辺に転がっている。私の方こそお前の遺伝子を調べ尽くしたいな。東州と西州と南州の三民族の混血児であるお前は、まだまだ未知の可能性を秘めている。」
槐の思考を読み取るかのように、教授は話を変えた。
「俺のデータだって、その辺に転がっていますよ。あんたのデータは戦前のもので、解析の技術的にも古すぎる。今は西州の機器が使えるから、ちょっと血と皮膚片をください。」
ちょっとで済むのか?と教授は喉を鳴らすように笑った。
「それはお前が一人前の大學教授になれたお祝いにでもやろう。それまで私が生きていればだがな。どうだ?少しはやる気が出たか?」
そんな教授の言葉に、槐は子どもが拗ねるような顔をした。
「やる気なんて出ません。でもまぁやるしかないでしょ? あぁもしかして、講義の時間がやたらと長いのは反復のためですか?」
大きな発見をしたかのように目を見開く槐に、教授はため息を一つ吐いて再び書物に目を落とした。
「お前は案外馬鹿なのかもしれないな。それは僥倖だぞ鬼灯槐。己の視野の狭さから来る思考の限界をよく研究してみろ。おそらく、もっと膨大な発見が生まれる。」
「教授に言われたくないんですけど。」
「すべて経験則から来るアドバイスだ。年寄りのいうことは聞いておけ。」
教授はそう言うと、開いていた書物を閉じて本棚に戻した。
「もう良いですか」
槐は立ち上がると、チャリ、と鍵を取り出す。
「あぁいい。世話になったな。」
教授は着ている白衣のポケットに手を突っ込むと、幽霊のように書庫のドアを出る。槐もそれに続いて部屋を出て、なるべく音を出さないように静かに鍵を締める。
「もう次はないかもしれません。鍵を拝借するのも、結構危ない橋を渡るらしくて。」
槐はこの書庫の鍵を渡してくれた知人を思い出す。自分たちとは違い、凡人でひ弱な人間だが、槐はその男には父のような兄のような、不思議と頼りにしたいという気持ちが湧くのだ。
「結構だ。ここの書物はあらかた見終えた。私の論文……いや、名義は別だが……は30本あったが、まともに盗んだのは2,3本だな」
他は盗人の雑な研究結果や個人的な感情で、そのほとんどが意味を成さないものに成り果てていた。教授は自らの発表を盗んだ面々を思い出す。皆、研究者としては大したものではなかったが、そこが人間らしくて気に入っていた。しかし、そう思うのも、彼らがあの戦禍の中で狂い死んでいったからなのだろうか。昔の自分は彼らに対して、もっと大きな感情に飲まれていたように記憶している。
「それは……少し厳しいかもしれないな。あんたのことだから自分の研究内容は頭の中に残っているでしょうけど、他人にそれを証明するとなれば、当時発表された論文と照らし合わせるのが単純かつ明瞭かと思ったけど……。」
槐は盛大に舌打ちをしながら早足で地上に続く階段を登っていく。すでに別の手段を考えているのだろう。自分の息子たちを救うための予算と設備をもぎ取るために必要な、馬鹿でもわかる利益と報酬を示すための論文の内容を。
「焦っても仕方がない。それに、昔に比べればチャンスはまだある。なにせ東州にだけ投資を頼む必要はないのだからな。西州なら、お前の息子の身体に興味はあるだろう……」
「俺は息子をモルモットにしたいんじゃないんですよ」
低く凄みのある声が、暗く狭い階段に響く。教授は自分を見下ろす赤い目が、いつも以上に鮮やかで、開いた瞳孔を際立たせていることに小さく肩をすくめた。
「自分の大切なものを犠牲にせずになんでも叶うと思っている、そのお坊ちゃん思想には吐き気がするな。」
槐の眼に怯むことなく、教授も睨み返す。そう、元々この二人は、決してこのように雑談をしたり、協力をし合うような仲ではなかった。
「すまないが、喧嘩はそこまでにしてもらえないか?」
地上へ繋がる扉の前に、いつの間にか人影が現れていた。
「清ちゃん。また残業?」
扉の前にいる男に、槐は体の力を抜いて気安く言葉を投げかける。
「誰のせいでこの時間まで残っていると思っているんだ。あと「ちゃん」を付けるな。こっちは歳上だぞ。」
清ちゃんと呼ばれた男は盛大に溜息をつくと、槐の前に手を差し出した。槐はその手に先程の書庫の鍵を置く。
「一言あるだろう。」
「え、あぁ、ありがとうございます。」
全く、と、清ちゃんこと高原清志郎は鍵を軍服のポケットにしまう。上着は脱いでカッターシャツ一枚になっているが、下はまだ軍服のままで、彼がこの州の軍隊に属していることを示している。
「次、いつ持ち出せるかわからないが……」
「あぁ、いいよ。そこのお偉いご教授様は、もう全てご検分なされたそうな の で !」
あからさまに不機嫌なその態度に、高原は再び溜息をつく。
「お前な、もう少し大人になれよ。」
「どれだけ大人になったって、俺は永遠に清ちゃんより歳下の子どもです。」
ああ言えばこう言う。高原はこの大きな子どもにどう説教をしてやろうかと考えていると、後ろから冷たい声が響いた。
「ありがとう高原くん。随分と危険を犯してまで鍵を入手してくれた甲斐もあって、十分な情報を得られた。感謝する。」
いつの間にか高原の後ろにいた教授が、低く小さな声で感謝を述べる。
「いえ、この程度の危険など、戦中に比べれば大したことはありません。こちらこそ、お役に立てて幸いです。」
高原は少しだけにこやかな表情を作って教授に顔を向けると、教授は小さく頷いた。
(槐に比べれば社交性はあるけれど……この人も大概、上の空でしか会話をしないよな。)
教授本人にはその気はないのだろうが、言葉に込められた意味とは裏腹に、いつだって放たれる言葉は無機質で、その容姿も相まってまるで人形と話しているような気持ちになる。
「では、行こうか。」
教授は青白い両手を高原へ差し出した。高原は腰から手錠を取り出して、ゆっくりとその手首にかける。
「手間をかけるな。」
「いえ、これはこちらの決めた処遇です。むしろ教授にはご不便をおかけして申し訳ありません。」
高原は眉をひそめながら、その手錠を見る。正直、もはや誰も使わない書庫の鍵を入手するよりも、この男を檻房から外へ出す方が、危険度は高かった。
「構わないよ。私は戦犯だからね。本来なら独居房行きだろうに、広々とした部屋を自由に使わせてもらっている事に感謝する。」
「……これは個人の意見ですが、あなたは戦犯にあたる行為をしてはいません。確かに研究そのものは兵器開発に繋がるものでしたが、それは全て他の者が利用して、あなた自身は何も……」
高原がそこまで言うと、教授はわざと手錠を鳴らし、言葉を遮った。
「結果を出した時点で、責任はある。それに私は、自分で試すつもりで実験を繰り返した。人を直接殺した数で罪の重みが決まる君たち兵士とは質が異なる問題だ。」
高原もそれは理解していた。しかし、それならば何故、戦争を先導した当時の政治家の幾人かが罪を逃れたのだろうか。彼らも直接手を下してはいない。しかし、彼らの『判断』による犠牲は計り知れないものだ。
「君の思考は理解出来るよ。身の危険からほど遠い場所にいた指揮官が今ものうのうと表を歩き、身の危険から人を殺した戦友が独房に閉じ込められている矛盾。それを思うと、私の処遇にも納得がいかないだろう。」
しかしね、高原くん。
教授は手錠を手前に引いて、高原の顔を自分に向けた。
「私は、私の研究の結果、人がどのように死ぬのか、どれくらいの規模の被害が出るのか、どれだけの後遺症が残るのか……。それらを全て計算した上で、研究を続けたんだ。」
先の予測も出来ない無能たちと同じ扱いを受けるなど、そちらの方が侮辱と言うものだ。
薄らと差し込む月明かりに、教授の白い髪と赤い瞳が光って見える。そしてその奥にある唇は歪み、怒りを示しているのか微笑んでいるのか、高原には判別がつかなかった。
「……申し訳ありません。」
その迫力に、高原はただ謝罪をするしかなかった。
「いや、すまない。怯えさせてしまった。君ももう帰宅したいだろう。早く戻ろうか。」
つう、と音も立てずに教授は歩き出した。高原もそれに続く。
「あぁ、そうだ。更に手間をかけさせてすまないが、紙とペンを都合してくれないかな?」
教授は暗い廊下を真っ直ぐ見つめながら、高原に問いかけた。
「構いませんよ。ただ、紙はまだしもペンは凶器になり得るので、見張りがつくかもしれません。」
「構わないよ。」
「あと、書かれた内容は検閲されると思いますが……」
「理解が出来ないからと処分する輩がするのでなければ、構わない。」
「するのは西州の人間なので、おそらく大丈夫だと思います。」
そうか。と言う言葉を最後に、2人分の足音以外は聞こえなくなった。どうやら槐は早々に帰宅したらしい。
まぁその辺の廊下で寝転がってないだけマシか、と高原は心の中で溜息をついた。昔から苦労人である高原にとって、もはや溜息は呼吸と変わらない。
「そういえば、まだ決まった話ではないのですが、教授に西州から依頼があるかもしれません。」
先ほど放った西州という言葉で思い出した高原は、自分より少しだけ背の高い教授に話しかけた。
「西州が?私に?」
教授はゆっくりと顔だけを振り向かせた。高原はその目を捉えて頷く。
「元鬼灯研究所が、今は西州の所有になっているのはご存じですよね。今は閉鎖中ですが、近々再開するらしいです。そこで働ける科学者の育成に、再び教壇に立ってほしい……という話が持ち上がっています。」
教授は少しだけ目を見開いて、再び前を向いた。
「年寄りに容赦のない話だ。しかし決まれば断る術などないのだろう? 西州に興味はあるが、行くのは面倒だな……」
そうごちる教授に、高原は訂正をする。
「いえ、西州の大覺ではなく、東州の……槐が勤めている大覺です。」
その言葉に教授は足を止めたかと思うと、2、3回肩を震わせた。高原はどうしたのかと思い教授の前に回ると、どうやら教授は笑っていたらしい。この人間は笑うのかと高原が驚いていると、教授は目の前にいる高原に、それは是非引き受けたい話だ、と笑みを残した顔で言った。
「そして是非、鬼灯槐を助教授として私に付けてほしい。あいつに講義とは何か、教えるとは何か、時間を余す事なく使って教えてやりたい。」
そう言う教授の顔は、これまでに見た事が無いくらい楽しそうで、しかしその瞳の奥にはしっかりと怨嗟の炎が宿っていた。
うわぁ、と高原は小さく零して後ろに下がった。
教授と鬼灯家の怨恨を、高原は噂程度には知っていた。そもそも鬼灯家自体が敵の多い家であったから、どの家とも何かしらのいざこざはあったようだが、普段は真っ白な人形のような教授がここまで人間らしさを取り戻すほどの怨嗟とはどんなものだろうかと、高原は少し気になった。が、その好奇心はすぐに閉まっておいた。それが彼をここまで生かした処世術だ。
「……では、機会があればそのように進言しておきます。」
ありがとう、と教授は先ほどの礼よりも心のこもった声色で述べた。
(これは、もし通ると荒れそうだな……)
高原は、もう10年以上の付き合いになる槐の姿を思い浮かべた。小さな頃から知っているせいか、今や自分と並ぶ背丈になっている青年に対しても、どうしても弟のような子どものような心配を向けてしまう。
ましてや、一番の親友が残した忘れ形見の一つであるから、余計に。
教授を檻房に送り届け、諸々の鍵を元の位置へと戻すと、高原はようやく帰宅の途についた。
「お疲れ清ちゃん。」
東州議事堂の裏口を出てすぐの電灯の下に、帰宅したと思っていた槐が立っていた。
「なんだ、帰ってなかったのか。」
電灯の明かりを受けて煌めく金色の長い髪に、こんなところも正反対なんだなぁと、色彩のない教授を思い浮かべた。
「家まで帰るのが面倒だから泊めてもらおうと思って。大學までも近いし。」
そういうと槐は早速高原の家の方角へ歩き始めた。高原はやれやれと後を追う。
「明日の講義の準備はいいのか?」
「……それなんだよ。準備って何?」
想定内の答えに、高原はいっそ可愛らしいな、という感情を覚えた。
「まぁお前は學校というところに通ったことがないからな。そういう面では分からないことが多くても仕方がない。どこか受けてみたい講義でも受けさせてもらえばどうだ?」
それなりに良いアドバイスをした高原に、槐はうぅんと唸って「特に無いんだよなぁ……。」と呟いた。
「ある程度は受けさせてもらったんだけど、大体子どもの頃にやったものばかりだし……。むしろあれからの進歩の無さに焦りを感じてすぐにでも研究室に閉じこもりたくなった。」
「あぁ、そう。」
次元の違う世界で生きてきた旧友に、もはや自分が言うことはなにもないなと、高原はその整った横顔を眺めながら何度目かも分からない溜息をついた。
(これは逆に教授の講義を受けてもらった方が……いやいや、巻き込まれるのはごめんだ。)
苦労人・高原清志郎がそう思ったが最後と言わんばかりに、数カ月後、槐の目の前には、夜の世界でしか会うことのなかった男が立ちはだかることになる。