アロが記憶喪失になる話 いつも通りのトゲトゲジャケットとビリビリシャツで、アーロンはベッドに腰掛けている。記憶障害があるくらいだから、もっと大怪我をしたり、ボロボロになっているかと思ったけれど、目立った外傷はなさそうだ。
「……アーロン」
安堵のため息と共に、呼び慣れた相棒の名を呼ぶ。
とにかく命が助かってよかった。数年分の記憶がないのは不便だろうけれど、ミカグラであったことなら僕がいくらか補填することもできる。失ったものは大きいけれど、取り返しがつかないものじゃない。
生きていれば、また絆を結ぶことはできるのだ。
「…………」
一方のアーロンは、訝しげに顔を顰めるだけだ。
クソドギー、なんてからかう声はない。それはとても寂しいけれど、いろいろ忘れてしまったアーロンの方が大変なのだから、僕が落ち込んでいる場合じゃない。
「元気そうでよかった……て言うのは、おかしいか。とにかく、大きな怪我もなさそうでよかったよ」
僕の反応を見て、知り合いだということは察したのだろう。アーロンは、バツが悪そうに頭をかいた。
「あー、悪いんだが」
「アラナさんに聞いたよ、数年分の記憶を失ったって。僕は――」
ルーク、と名乗ろうとして、ためらう。それは本来僕の名前じゃない、彼の名前だ。
数年前の彼に名乗るなら、きっとこっちだ。
「僕は、ヒーローだよ」
僕の言葉に、アーロンは目を見開いた。よかった、ヒーローのことはちゃんと覚えているみたいだ。僕は、少し安心して息を吐き、そして次の瞬間には、地面に叩きつけられていた。
「――ぁッ」
口から悲鳴とも叫びともつかない声が漏れる。背中を強か打ちつけた。衝撃に遅れて、痛みがじわじわと広がる。僕を地面に押し倒した男は、馬乗りになって僕の首を締め上げる。ぐっと体重をかけられると、息ができない。僕はただ、小さく喘いだ。生理的な涙で、視界が潤む。
アーロンは何の感情もうつさない瞳で、ただ僕を見下ろしていた。僕が苦しんでいることすら、どうでもいいと思っているようだ。
「……どのツラ下げて、今更会いにきた?」
これまで聞いたアーロンの声の中で、一番低くて硬くて、背筋が凍りつくようなひどく冷たい声だった。
彼は、僕が記憶を失っていたことを知らない。エリントン港で再会したことも、ミカグラで共に大きな事件を解決したことも、短い間だけどリカルドで同居したことだって知らない。
今のアーロンにとって、僕は相棒でもなんでもない、名前を返さず逃げた卑怯者で、帰ってこなかった裏切り者だ。
「アーロン!」
アラナさんが声を上げ駆け寄ってくる。
「何やってんの、ルークが死んじゃう!」
普段は穏やかに笑っている彼女が、取り乱したようにアーロンの腕を掴む。傍から見れば、よほど危ない状態に見えたらしい。
アラナさんにしがみつかれ、アーロンは小さく舌打ちをして、僕の首を絞めていた腕を離した。拘束が緩まり、僕は何度もゲホゲホと咳き込む。そんな僕を見て、彼が嘲るように笑った。
「ルーク? ハッ、そうか、そうだな。テメエはそうやって、人の名前で、平和なリカルドで、のうのうと暮らしてきたってワケか!」
吐き捨てるように、アーロンが言う。真正面からぶつけられる言葉は、どこまでも正しい。
エリントンで僕が過した日常は、本来なら彼が送るはずのものだ。アーロンが明日生きていられるかも分からない戦場で飢えや寒さに苦しんでいる間、僕は平和なリカルドで何も知らず過ごしていた。
思えば、ミカグラ島で相棒と呼び合った彼は、驚くくらい理性的で、優しかった。何も知らない僕の手を取って、奮い立たせてくれた。何度も支えてくれた。そばにいて、相棒でいてくれた。
今、向けられているのは、あの時彼が口にしなかった――できなかった、怒りや憎しみや激情だ。アーロンの中にあった感情なら、僕には受け止める責任がある。
とにかく、話がしたい。
強く圧迫されたせいで、まだ息苦しい。それでも、咳き込みながら、僕はなんとか彼の名前を呼ぶ。
「アーロ、ン……」
「……テメエが、その名前でオレを呼ぶのかよ」
一瞬。ほんの一瞬、アーロンの表情が歪む。泣きそうに見えたのは、目の錯覚なのか判断がつかなかった。