手作りの味噌汁で諏訪さんの胃袋をつかんで惚れさせたい その2ここまでのあらすじ
酔った諏訪さんが「手作りのあったかい味噌汁を作ってくれたら、無条件に惚れちゃうよな」なんて言ったものだから、みんな諏訪さんに味噌汁を作ってアピール合戦が開始して……
◇ ◇ ◇ ◇
太刀川
必修単位は絶対に落とせない、だから提出課題の見て欲しいと懇願されたのはいいが、その課題一式が自宅に忘れてきたというから太刀川のマンションへ行く羽目になってしまい……。
「それで、どこまで進んでんだよ」
大学にも本部にも近い立地にあるマンションの一室は、太刀川にしては片付いている。というのも、過保護な師匠がときたま片付けているとか、面倒見のいい同級生が片付けを手伝わされているとか。あと諏訪もときたま生来の世話好きを発揮して片付けているからで――。
「ここまでやったよ」
白い画面が見えたので嫌な予感がした。見て欲しいと言っていたが、これは『課題をやり遂げるのを見て欲しい』ってことなのではなかろうか。
「なっ!」画面にはたったの三行しか文章がなかった。この課題は、少なくとも三ページは必要なので「やっぱり全然やってねーじゃねーか。ハナっから俺に手伝わせようって魂胆じゃねーか」と言って怒鳴り散らす。
「だってそう言ったら諏訪さん、見てくれないじゃん。堤も風間さんも東さんも、全く取り合ってくれなかったんだよ。俺にはもう諏訪さんしかいないんだよ。お願いだから手伝って! この単位がないと、また次もこの講義を取らないといけないんだよー」
「嵐山や弓場たちと混ざって、もう一回同じ講義を受ければいいじゃねーか」
「ただでさえ苦手なのに、もう一回なんて嫌だよ。それに、もしもう一回受けることになったら、俺はまた諏訪さんを頼るよ。それでもいい?」
この単位は、月に一回はレポートを課されるのだが、適当に書いたものは再提出の必要がある。そのため、諏訪もかなり気合を入れて本気で取り組んだものだったし、今までも何度も太刀川のレポートを見てやったもので。
「俺、お前のレポート見るだけで一晩は奪われるから、少しでも進めたら呼べって言ったよな」
「だから少しだけ進めたじゃん」
「少しって、三行で進めたって言うな!」
「三行がダメって言ってなかったよ」
太刀川なりにちゃんと諏訪の言うことを聞いて実行しているので、これ以上責めることができない。
「あー! こんなことなら半分埋めてから呼べって言やよかったぜ」
「そういうことで今日もよろしくお願いします」
後悔するが遅すぎる。太刀川は、期待で目をらんらんとさせながらにんまりとする。しょうがない。出来の悪い生徒には、懇切丁寧な指導でどうにか一発でOKをもらえるようなレポートを仕上げさせるしかなさそうだ。
「あー、終わったー。疲れたー。もう朝になってんじゃねーか」
なかなかいいレポートが完成した。あの教授は、誰かの受け売りを書こうものならすぐ見抜くので、太刀川ならではの視点を引き出してレポートにさせないといけないのが本当に大変なのだ。
「諏訪さん、ありがとう。来月もお願いすると思う。よろしくね」
「なーにがよろしくだ。来月も見てほしいんなら、半分はページを埋めろ。そうじゃないともう教えねーぞ」
「はーい」
目の下に濃い隈ができているが、体力だけは無尽蔵な太刀川にはそれほど疲れが見えない。
「ちょっとだけ寝てってもいいか?」
欠伸をして、床にごろりと寝そべる。徹夜は慣れているとはいえ、脳みそをフル回転させていたので、眠くて堪らなかった。だけど――
ぐう
腹が鳴る。
「諏訪さん、お腹空いてんの?」
夢中でレポートを仕上げていたので気づかなかった。腹が鳴ったことで猛烈な空腹に襲われる。
「腹減った」
「そんじゃ、お礼に味噌汁用意してあげる」
「え?」
太刀川はほぼ自炊をしない。なのでその太刀川から味噌汁を用意すると聞き、驚いてしまう。
「諏訪さんちょっと来てよ。手伝って」
用意してあげると言っておきながら、なぜそこで諏訪を呼ぶのだ。
「作れねーんなら、別になくてもいいんだけど」
空腹と眠気で動きたくなかった。
「えー、ケチ」
「ケチって言うな、くっそ」
しょうがないので立ち上がると、太刀川は子犬みたいに無邪気な顔になる。
「やった、ありがとう。えっとね、これ用意してたんだよ」
そう言って太刀川はボトルに入った調味料みたいなものを差し出す。そのパッケージには「液体味噌」と表記がある。
「液体味噌ってなんだ?」
「これね、お湯を足せば味噌汁になるんだよ。濃縮味噌汁っていうの? 今色んなのがあるんだけど、なかなかイケるんだよ」
「へえ、便利だな。でも、それなら俺の手伝いなんて必要なくねーか」
「へへっ。だって、せっかく諏訪さんがいるんだよ。だったら一緒に作りたいじゃん」
何が恥ずかしいのか、太刀川は照れながらそんなことを言い出す。味噌汁を一緒に作ることを恥じらうなら、レポートを一人でできないことを恥じらってほしい。だけど諏訪はどうしたって手伝ってと懇願されると、無下にはできない質なので――。
「しょうがねーな。じゃ、見ててやるからさっさとお湯を沸かせよ」
「さっすが、諏訪さん。ありがとね。ちなみにこれ、赤だしなんだけど、諏訪さん、赤だしは平気?」
「好きだぞ」
赤だしはコク深い豆みそと、鰹節などのだしで仕立てたみそ汁のことで、すし屋や会席料理なんかでよく見かける。そんな上等なものが、ボトル一本ですぐ作れるとは。
「好きなの?」
太刀川がびっくりして、声が少し裏返る。赤だしが好きって言っただけで、なんでそこまで驚くのか。
「好きだよ」
「そんなハッキリ言われたら、俺、はりきっちゃうじゃん。今すぐ作るからちょっと待っててね」
ん……。なんかこの会話、変じゃないか。言葉だけ反芻すると、まるで諏訪が太刀川に告白をしたみたいに聞こえる。そのことに気づき、諏訪は途端に気まずくなる。ここは言い直した方がいいかもしれない」
「あのさ、」
「ん?」
太刀川が小首を傾げてこちらを見た拍子に、ありえない量の液体味噌をマグカップに入れているので諏訪は慌てる。
「おまっ、それ絶対入れすぎだから」太刀川の腕からボトルを取り上げて、作り方の表記を確認する「ほら、これじゃあ十人分くらいになるぞ」
「えっ、そうなの? 入れれば入れるほどおいしくなるんじゃないの」
「んなわけあるか! とりあえず、出しすぎたのは別の容器に移して、冷蔵庫で保存しとけ。タッパーとかあるか?」
「あったかな」
「くっそ、戸棚漁るぞ」
キッチンに作り付けの戸棚を開くと、ちょうどいい大きさのタッパーがあったので、それを取り出して味噌を移す。
「さーすが諏訪さん」
「頼むからできねーことをやろうとすんな。俺のことを思うなら、仕事を増やすな」
怒りと呆れで、ついテキパキと動いてしまう。味噌のタッパーを空の冷蔵庫にしまうと、予想通りそこには具になるようなものは何もなかった。
「そうなんだけど、俺レポートを手伝って疲れて眠いのに、お腹空かせてる諏訪さんに、あったかい味噌汁を作ってあげたくなっちゃんたんだよね。そうしたら、せっかくだから一緒に作りたくなっちゃって。矛盾してるのは分かるんだけど、俺って欲しいと思ったら、全部手に入れたくなっちゃうんだよ。どっちも手に入れたいんだよねー。分かる?」
「……それってただのわがままじゃねーの」
「欲望に忠実なの。そしてそれが太刀川慶なの。分かる?」
太刀川の格子状の目の奥が妖しく光る。まるで獲物を狩る肉食動物のような獰猛さで。その眼差しに一瞬魅入ってしまった数秒後、背中にゾクゾクとした衝撃が走る。
「……わ、分かったよ。そんじゃ、あとはお湯を注ぐだけだから、それはお前がやれ」
慌ててそう伝えると、太刀川は鼻先をフッと鳴らして「はーい」と返事して不敵に笑う。そうして鍋で沸かしたお湯をじょぼじょぼと足す。
「ちなみに具はないんだよな」
「そんなのあるわけないじゃん、はい、できたよ。諏訪さん、朝まで課題を見てくれて本当にありがとね」
太刀川は満面の笑みで湯気が漂うマグを寄越すので、さっきまでの困惑はどうでもよくなってくる。マグに入れられた具のない味噌だけの汁。普段、料理をしない男が、食材が何もない中で、わざわざこれを作ってくれた。その特別待遇に諏訪はくすぐったいものを感じる。
「そんじゃ、いただきます」
そうしてやたら熱い味噌汁をすする。舌が火傷しそうなくらいに熱く、安価な牛丼屋などでよく飲む味噌汁の味がする気がした。
「これ、もっと薄めたら牛丼屋の味噌汁と同じ味じゃない?」
同じ味を思い浮かんでいたようだ。
「かもしんねーな」
適当に返事すると、太刀川が得意そうに笑った。
今同じことを思ったと伝えたら、それが弱みになってしまう予感がした。だからそれはまだ言わずにおいて、笑い合っていたいと思った。
◇ ◇ ◇ ◇
東
テントの生地がしっかりしていて、雨露を通さず、紫外線や光を遮るといっても、朝になるとぼんやりと光を感じてしまう。諏訪は光の気配で目を覚ますと、野鳥の鳴き声と風で擦れる木々の音が聞こえて、自分が自然のど真ん中にいることを思い出す。
テントの中を見やると、太刀川と冬島は寝袋の中に潜って寝こけたままで、安らかな寝息が聞こえる。腕時計を確認するとまだ六時。いつもなら二度寝を決めるところだが、東の寝袋が空なのが気になって外に出ることにする。
「あ、やっぱり東さん起きてた」
東は小さな折り畳みチェアに座ったまま、簡易テーブルの上の卓上コンロでお湯を沸かしているところだった。テントの外はちょっと肌寒く、たちまち目が覚める。昨晩着てた上着があってちょうどいいくらいだった。
「お、早いな。昨日あれだけ飲んだから、まだ起きないと思ってた」
「日が昇ったら、自然と目が覚めちまった」
「繊細だな」
「うるせー。ちなみに太刀川とおっさんぐうぐう寝てる」
「じゃ、寝かせとけ。どうせあの二人は朝メシの準備はしないし」
早朝の山の空気は、薄く削いだ氷が縫い込まれたかのように、冷たくて固い。大きく息を吸い込むと、肺がキンと締まって身が引き締まるほどだった。諏訪は、テーブルを挟んだ向うに椅子を出して座った。アルミ鍋の中のお湯がふつふつと泡立ち始めていた。
「このお湯どうすんの?」
「そうだな、せっかくだから味噌汁でも作るか」
「味噌汁? それ、いいな」
コーヒーでも淹れるのかと思ったら、味噌汁と言うので諏訪は途端に嬉しくなる。起き抜けの胃に、温かい味噌汁は絶対に美味いだろう。諏訪は、人に作ってもらう味噌汁が大好きなのだ。喜ぶ諏訪を見て、東の表情はふわっと緩む。
「俺、朝のこの静謐な空間が好きでさ。自然がでかすぎて、神聖なくらいだろう」
そう言われて辺りを見回す。人間の存在感がほぼなくて、自然はいつも以上にそのままの姿をむき出しにしていた。空は光と青だけで、森は木と緑だけだった。空気はクリアで、諏訪は今にも森に飲み込まれて、水になってしまいそうな心細さを感じた。
「確かに。朝の山はすごいわ」
自分の声が森に吸い込まれていく。キャンプに来なければ、そして早起きしなかったら、知ることのない世界だった。
「そう、すごいんだよ。だけどやっぱ人間だから腹は減るんだよな」
そう言われて、諏訪は途端に空腹をおぼえる。
「まあ、食欲は人間の基本的な欲求ですからね」
「だろう。だから手早く腹に何か入れようと思ったら、味噌汁に行きついた」
「なるほど」
確かに米を炊いたり、ホットドッグを作るような気分ではない。今、ここで何か飲み食いするなら、味噌汁がぴったりだと思った。
「そういうわけで、持参しといた乾物で味噌汁を作るぞ」
そう言って東は細切りにした昆布と、カリカリに乾いた食材を鍋に投入する。
「それ、何?」
「大根とか人参とかシイタケ。乾物コーナーに売っててな、軽いから荷物にならないし、お湯で戻すといい出汁が出るんだ」
「へえ。用意がいいな」
「で、味噌」
そう言って東はクーラーボックスから味噌のタッパーを取り出すと、適量を鍋にぶち込む。途端に辺りは味噌の豊かな香りがふわりと広がる。
「うわっ、うまそう」
そんな諏訪を見て、東は満足げにほほ笑むと、器に味噌汁を一杯よそおう。
「ほら」
「あ、ありがと」
諏訪は器を受け取ると、そこには温かな一椀が。さっきはしなしなに乾いた野菜は、すっかりと水気を取り戻して、汁の中でふよふよと浮いていた。ズズッと汁をすすると、野菜の甘さと味噌の味わいがあって、実にホッとする。体中に滋養が行き渡り、力がみなぎるような味だった。
「東さん、」
「ん?」
器を口につけながら、諏訪に視線を寄越しながら返事をする。
「うまいよ。すんごいうまい」
「そうか、それはよかった」
東は見たこともない顔で微笑んだ。目元も口元もゆっくりと弧を描き、端正な顔立ちがふ、と緩むのだ。その途端、まるでそこに桜が咲いたかのような錯覚に陥って、目が離せなくなって心臓がバクバクとし始めた。
「あ、あずまさん」
「なんだ?」
「そ、その顔、あんまりしない方がいいですよ」
「その顔? どんな顔だ?」
諏訪の存在全てを許して受け入れてくれるような大きな包容力を感じさせる、底なしに優しい顔だった。心臓がさっきよりもっと高鳴ってうるさくなっていく。知らなかった。東にがこんなに慈愛に満ちた表情を見せることがあることを。元々魅力的な人だったけれど、普段は見せない表情に、諏訪はくらりときてしまっていた。
「え、えっと、それはですね。見たら好きになってもいいよって勘違いさせるくらいの魅力的な微笑み……ですね」
東から視線を反らしてそう伝えると、だんだんと鼓動は収まっていく。
「それって、今諏訪がそう思ってるってことか?」
声が意地悪な感じになっていたので東を見てみる。すると、さっきまでの優しげな表情はなくなっていて、悪魔みたいに意地悪そうな顔で笑う男に豹変していた。その余裕たっぷりでなんとも憎たらしい顔は、諏訪もよく知る東だった。それはそれで魅力的なのだろうけど、こういう東は何度も見たことがあったので、別に何とも思わない。なんせこの顔をした東に泣かされた人を、今まで何度となく見てきたのだ。
「……そうだったけど……気のせいだったのかも」
東のことをジロジロ見てみたが、何も感じない。うーん、さっきのは何だったのだろう。
「なーんだ、せっかく味噌汁まで用意したのに。惜しいことをしたな」
そう言った東は余裕たっぷりなので、何が惜しいのか全然分からない。
「味噌汁? なんでそこで味噌汁が出てくんだよ」
「だって、お前が自分で言ってだろう。覚えてないのか?」
味噌汁……何か言っただろうか。
「何のことかさっぱりなんだけど」
「そっか。まっ、お前ってそういう奴だよな」
「どういう奴だよ」
「分かっていたけど、みんな躍起になってたから、俺もつい参戦しちゃったんだよな」
「参戦?」
聞き返すと、東はあっさりと教えてくれる。
「最近、手作りの味噌汁を飲む機会が何回かあっただろう」
「えっと、あった」
二宮に堤に太刀川。なぜか三人とも、諏訪に味噌汁を作って飲ませてくれた。
「変だと思わなかったのか?」
「いや、別に。似たようなことが続くことってあるよなーって思ったくらいだよ」
「さすがだな。お前さ、手作りのあったかい味噌汁を作ってくれたら無条件に惚れるって言ったの覚えてない? まあ、酒の席だったけどな」
「はあ……」
全く覚えてなかった。すると東は大きなため息をつく。
「はあ、そうだよな。お前には遠回しなことは通用しないよな。分かった。次はもっとストレートにアピールするよ」
「は?」
ストレートにアピール……。その言葉の意味をうっすら理解したその時、諏訪は自分が東からアプローチを受けていたことに気づく。しかもどうやらそれは東だけではなかったみたいで――。
途端に全身が熱を持つ。恥ずかしさと照れくささで、沸騰して煙になってしまいそうだった。ここ最近、二宮と堤と太刀川が何か言いたそうだったことの理由が分かってしまった。なんで東は今まで諏訪が気づいてなかったことを、敢えて自覚させるのか。気づきたくなかったのに、気づいてしまった。ああ、もう。あれもこれもそれも、全部諏訪へのアピールだったのだ。諏訪の脳裏に二宮と堤と太刀川の顔が浮かぶと、自分の鈍さを呪いたくなる。次会ったら、何かしら伝えた方がよいかもしれない。
「なあ、諏訪」
いつの間に東が諏訪のすぐ近くに来てて、耳元でぼそぼそと囁くとこう続けた「俺は味噌汁で胃袋掴んで安心するような人間じゃない。掴むならお前の理性だ。自覚して意識して、お前の頭の中を俺でいっぱいにするからな」
何かがパーンと音を立ててこじ開けられたようだった。何も言い返すことができなくて、驚きながらただ東のことを馬鹿みたいに見返していると、テントの中からごそごそと音がする。
「続きは今度な」
そう言って東は、うんと意地悪な顔で微笑むと、何もなかったみたいな顔をして、テントの入り口に手をかけた。一方諏訪は、頭の中が東のことでいっぱいになって、何が何だかよく分からない状態になっていた。気づいたときには、帰宅していて夕方を迎えていた。