フォル学(オーエン)「ずいぶん仲良しなんだね、引きこもりの元生徒会長様と」
僕がそう言ったときのネロの顔ったらなかった。
屋上に行こうと思ったら、その階段から降りてくるネロとばったり会ったのだ。焦っている顔があまりにも愉快だったので追い打ちもかけてみる。
「今日も空き教室で密会なの?」
「そんなあやしいのじゃねぇって!その……ただ勉強教えてもらうだけで……」
「へえ?」
ネロは低くなった僕の声を正しく受け取って(つまり、ミスラとブラッドリーに告げ口するよ?その新しいお友達にもついでにお礼参り行こうかなというような意味合いである)動揺のあまり一冊教科書を落としたのを拾い上げながらよろよろと言い訳をする。
階段の窓から差し込む夕日が、あの糖蜜色の瞳より少し濃い琥珀色のネロの瞳に差し込んで、狼みたいに瞳がきゅうと鋭くなる。僕はちょっとだけそれに見とれた。ブラッドリーはこれが好きなのかな。
ネロのけだものみたいな瞳の光を湛えながらも、それとは裏腹に困ったように下がった眉毛と、あーとかうーとか煮えきらない曖昧な声がちぐはぐでなんだかおもしろい。そしてネロは、それほど間を置かずに僕に札を切った。話が早い。
「あのさ……もし興味あればだけど来週から購買でストロベリーチョコレートがたっぷりかかったドーナツが新作で出るんだ。写真映えしそうなトッピングもたくさんついてるやつ。木曜日と金曜日に試作品作るから、放課後に調理場来てくれたら作りたてのやつ食べられるよ」
「ふうん。まあ、行ってやってもいいよ」
「はは……良かった。じゃ、このことはさ」
ミスラとあいつには黙っといてくれよな、とネロの瞳は差し込んだ夕日から外れて、教科書と僕を往復した。
「僕の気分次第だけど」
「いいよ、それで。じゃあな」
いいんだ。たしかにここで食い下がられたらもっといじわるなことを考えてしまうかもしれなかった。
急ぎ足で僕の横を通って階段を降りていくネロからは、あの頃の血と消毒液の匂いを消すような重い香水の匂いはもうしなくて、代わりにシナモンがかすかに香った。確かに最近購買にシナモンチュロスが売っている。
この取り引きを円滑に進めるために、この脇の甘い男にひとつ助言をあげることにする。
彼が抱えていた進学校用のテキストは表紙が丸見えだ。ついでに胸には見たことのない猫っぽいチャームがついたペンも増えている。よほどあの猫好きと噂の引きこもりと仲が良くなったらしい。
僕はひとつため息をついて階段の手摺から下を覗き込む。ドーナツは食べたい。ミスラに関わると、彼の気分次第では病院送りになったりするから油断ならない。
「それ、早く仕舞ったら?さっきそこの廊下でミスラふらふらしてたよ」
それ、と指した先は例の教科書だ。
「げ」
慌てたように物音が響くのを背に、僕は埃っぽい階段を上がった。
授業が全部終わったらしく、一気ににぎやかな音に満ち溢れた学内を屋上から見下ろす。なんとなくいい気分だった。
騒がしいのは大嫌いだけど、遠くから聞いている分には好きな気がする。夏の始まりとはいえ、日が落ちてくるとまだ屋外でも涼しい。放課後の校内をうろつくのもいろんな秘密に出会ったりして有意義ではあるが、巡回してる元他校の真面目な教師に声をかけられたり、妙に人懐こい元進学校や元芸能校の生徒から部活の勧誘にあったりと面倒さもあった。
スケジュールアプリにドーナツの予定を入れる。
三校が合併した新校舎の屋上は、不良高校の生徒がたむろしててカツアゲされるという噂がたっていて、そもそも生徒も教師も近づかない。
ここ最近、そう、あの転校生が来てからなんだか変な感じではあって、たまに屋上にごろごろしに来ては、恐れ知らずなことにお茶に誘われたりすることもあった。
どこか遠くから聞こえる喧騒を聞きながら、少しまどろんだり、スマホでルーティンになっているインスタの更新分のチェックをしたりする。
まだフォロワー数が三桁もいかない頃からフォローしているインフルエンサーは、本格的に音楽活動を開始し、今度ファーストシングルを出すらしい。ギターを爪弾きながらワンフレーズ口ずさんでいるストーリーズが上がっている。
無線のイヤホンを探してポケットに手を入れると、ギィ……と重い扉の音がした。
振り向くと、そこにはまさに今画面の中で歌っている赤銅色の髪の男がいた。
光の速さでスマホの画面を消す。
男は人懐こい笑みですたすたと近寄ってくる。
「あ、オーエン……だっけ?」
「ここに来たらカツアゲされるって聞かなかったの?他に誰もいないから僕がしてあげるね」
持ってるものだして、とイヤホンケースから手を離してカインに向かって掌を出す。
「カツアゲは困るな……ええと、これ一緒に食べるか?」
カインはポケットからシンプルなリボンのかかった箱を取り出した。
「何」
「キャラメルだって。ちょっと溶けてるかもだけど、さっきもらったばっかだし」
流行りの店のおしゃれなキャラメルである。三個入りでも学生が買うには値段が張って、通販もなくて、店舗はここから少し離れたところにあって、並ばないと買えないやつ。
「ちょっと溶けてるかもってなに…。でもまあ、もらってあげる」
「悪いな。ほら、暑いしさ」
そう言って僕に箱を渡すと、カインはパタパタとシャツの胸元に空気を送り込みつつ、シャツの腕をまくりあげる。僕とは全然違うしなやかな筋肉に覆われた腕。こないだもインスタで話題になってたやつ……。むりやり目を剥がしながらキャラメルのリボンを外すと、箱の裏には手書きでインスタらしきIDと曲作りがんばって!応援してます!と書いてある。はあ。なんとなく僕は箱をカインに返したくなくて中身をのキャラメルをひとつだけカインに渡した。好きそうな味のやつ。後のふたつはたぶんカインの好みではないし(昔の配信でちょっと苦手かもと言っていた味だった)僕は好きな味だから僕のもの。
カインは特に三個中のひとつだけしか渡されなかったことにはつっこまずに、僕と同じテーブルに座ってもぐもぐとキャラメルを噛み始める。動画で撮っておきたいくらいだ。
食べ終わって、カインは自分のスマホに通知が来てるのだけ見て、軽くため息をついた。
「あ〜緊張する……」
「何が」
「さっきさ、初めて作った曲をちょっとだけインスタ上げたんだけど、反応が怖くてさ」
「……お前でもそんなふうに思うんだ」
「そりゃ、思うよ」
早い夏の朝のような明るい蜂蜜色の瞳は、ふいに赤銅色のまつげとともに伏せられた。憂いを帯びた雰囲気のせいか、実年齢よりも大人びて見える。
茜色の夕日が影を濃くしていく。
「……じゃあ、僕が観客になってあげる。今ここで聞かせて」
「えっ?ここで?オーエンが聞くのか?」
きょとんと目を丸くしたカインの瞳に夕日が映り込んできれい。
「だって、これから世界中に発信するんでしょう?知らない人だって聞くだろうし、僕もどこかで聞くかもしれないし、せっかくだし今聞いてあげる」
「……っあはは。たしかにな。これから世界中に聞いてくれって出すんだった」
それから、カインはアカペラで歌をくちずさんでくれた。屋上にはカインを迎えに来たラスティカも加わって、街に沈んでいく夕日を眺めながらなぜかお茶をしま(ラスティカが水筒と紙コップを持ってきていたため)
歌詞が思い浮かんだ…!と嬉しそうにスマホにメモを始めるカインを眺めて、なんとなく隣のラスティカと目が合って、いつの間にか夜が来ていて、空には星が瞬き始めていた。