マーブル「おはよー、……ってなんかあったのか? みんなで集まって」
遊馬はハンガーからオフィスに上がる途中で、思わず足を止めた。いつもは適度に分散している人口密度が、今日はやけに偏っている。一瞬新しい装備品かなにかを皆で検分でもしてるのかと思ったが、それにしては雰囲気が華やいでいない。いや、華やいではいるのだけど、それは初めて見る機械や電子装備品を前にした機械屋たちのそれではなくて、もうちょっとくだけた華やぎ方だった。
興味に任せて人ごみに顔を突っ込むと、そこで袋から何かを配っているシゲをまず見て、次に袋の中身を見て、不覚にも一瞬固まってしまった。
「ん? 遊馬ちゃんおはよー。見りゃ分かるでしょ、チョコだよチョコ」
シゲが何か――状況から考えてチョコだろう――を口に頬張りながら答える。「食べる? そっちにはそっちで別に用意してあると思うけど」
「いや……、チョコなのは見ればわかるんだけど」
言いながら遊馬はもう一度袋の中を覗いた。
袋の中は色とりどりににぎわっている。ピンクに緑、黄色に赤、定番の茶色、そしてパッケージの銀。
子供の頃からおなじみのそれらが、袋に詰まっていた。詰まる、という単語がここまでぴったりくる状況もそうないに違いない。
その袋も、小さいとか程よい、というレベルではない。45リットルのゴミ袋と比較できるかもしれない。
そんな大きさの袋に詰まるだけ詰まっている、マーブルチョコ入りの銀。普通の大きさのものの中に時たまビックサイズマーブルチョコが混ざっていたりする。あれだけ大きいと、マーブルチョコとしてはあまりおいしくないんじゃないか、と遊馬は意味なく考えた。
「さっき泉ちゃんが持ってきたのよ。日ごろのお礼に、って」
「ああ、そういえば今日って14日だっけ」
「そう。いや、バレンタインにチョコ貰うのって久しぶりでね。しかも、『いつも本当にありがとう、みんなのおかげで安心して働けます』っていわれたりするとこう、やる気も出るってもんよ」
「でも、マーブルチョコだぜ? いいの、こんな選択で」
「泉ちゃんは考えて、これにしたみたいよ。コーティングしてあるから溶けにくいし、パッケージがこういうタイプだから扱いやすいだろうしって」
それは後付けの理由だろう。まあ、貰った本人達が喜んでいるのだから、それでいいのだろうけど。
「しかし、すごい量だなあ。これってあまるんじゃないの?」
「いや、あまんないと思うよ。こういうのって食べても食べても腹の足しにはならないから、数あっても困んないし」
「そりゃそうだ」
言っている間にも、袋の中のマーブルチョコは見る見る減っていく。遊馬は改めて、整備班の人数の多さを実感した。さすが二課人口の半分以上を占める事はあるってもんだ。
その一人一人に行き渡るようにものを用意したということが、偉いよなあ、と遊馬は単純に思った。
着替えを済ませてオフィスに入ると、先にいるはずの野明の姿は見えなかった。代わりに男性隊員、つまり野明と香貫花のを除いた机の上に、英字新聞を模倣した袋が置かれている。袋の中身は多分にもれずマーブルチョコだ。サンバイザーをおきながら、それを拾い上げる。
「なんか懐かしいですよねー。昔はよく食べたけど、まだ売ってるもんなんですねえ」
進士はそういいながら、にこにこと袋を眺めている。対称的に大田はどこか神妙な面持ちだった。一見怒っているように見えなくもないが、実際は慣れないことに戸惑っているのだろう。
「そんな、気を使わなくてもいいんですけどねえ。泉さんたちみんなに配ってるじゃないですか。大変でしょうね」
「ひろみちゃん、それこそそんなに気を使わなくてもいいんじゃないの? マーブルチョコだし。これがコージーコーナー以上のところのチョコなら、多少は恐縮するけど」
「そうですねえ。それに好意っていうものは、ありがたく頂いておくものでしょう? 来月になったらお返し考えないといけませんね。泉さんは何喜ぶと思います?」
進士にそう振られらものの、
「え? そうだなあ……、考えときます」
そういえば、イングラム以外にこれが好き! っていうものがあんまりピンと来ないな、と考えながら、遊馬はとりあえずチョコを一粒出して口に入れる。ここ十何年も食べていなかったが、たまに食べてもマーブルチョコはマーブルチョコだった。周りの砂糖を砕く歯応えがちょっと心地いい。
「そうっすねえ……、普通にクッキーとかでいいんじゃない――」
「香貫花ぁー、これ一体なんだ?」
急な大声――それもちょっと情けない響きが入っているその声に、部屋にいた一同はまず声の主を見て、次に声を掛けられた方を向いた。
部屋に入ってきたばかりの香貫花は、「なにか、って見れば分かるでしょ? 私からのチョコレートよ」とこともなげにいう。
「そりゃ見ればわかるが、なんでこんな立派なものなんだ」
「立派って、マーブルチョコのどこが立派なんだって……」
「篠原さん、どうやらもうひとつ、あるみたいですよ。ちっちゃいですけど」
「へ?」
いわれて初めて気が付いたが、大田の左手には手のひらサイズの赤い箱が握られていた。その真っ赤なラッピングからして、明らかに義理チョコ仕様のマーブルチョコとは違う。もっとも、だからといって高そうだとか、すごく気合が入ってそうなものでもないのだが。先ほど大田が黙り込んでいたのは、もうひとつのチョコレートの存在に頭を抱えていたかららしい。見れば顔も心なしか赤い。前のお見合い騒動のときも思ったが、けっこう繊細でウブな部分も持ち合わせているのだ。仕事をしてる分には全く思い出せないのだが。
そんな純情な大田と対称的に、香貫花のほうはいたってクールである。顔色ひとつ替えずに自分の席にもどって、不思議そうに太田を見た。
「大して立派でもないじゃない」
「いや、今は包装のことなどどうでもよくてなあ……」
「野明に倣っただけよ。一応あなたは私のパートナーなんだから、その労いってところね」
「労い?」
「そうよ、私の方が労って欲しいぐらいだけど。労いにチョコレートなんて、日本の風習は面白いわね」
確かにアメリカ人である香貫花には新鮮でなじみがなく、故意味合いも気合もなにもなかったのだろう。
しかし、生粋の日本人である大田はそうではなかったというわけだ。
「……なんだ、それならそうと早く言ってくれ」
「言う前に勝手にエキサイトしたのはあなたよ」
大田はぐっ、と顔をさらに赤くして黙り込んだ。やはり単純で純情である。
「ということは、篠原さんの机の上にもあるんじゃないですか、もうひとつのチョコレート」
「いや……、ないぞ」
山崎にいわれて改めてみてみた机の上には、英字新聞がひとつ載っているきりだ。
「じゃあ、後で手渡しするつもりなんでしょうね、泉さん」
またニコニコとしながら進士が言う。
「マメですね、泉さん」
「別に机の上に置いときゃいいのに」
「あらそういうもんなの」
「香貫花だって、大田のやつ机の上に置いておいたろーが」
「それはそれ、私の流儀よ」
そういってふふん、と微笑んだ香貫花に何かを見透かされた感じがして、遊馬はちょっとだけ気まずさを感じた。しかし、なにか言い返そうにも、こういうときに限って上手い言葉は浮かばない。
「――ちょっとトイレ行って来る」
結局そう言って、それなりにさりげなく部屋を出た。
「お、遊馬おはよー」
いきなり声を掛けられる。そこには手提げ袋を持ってこちらに歩いてくる野明の姿があった。
さっきの香貫花の台詞がなにか引っかかって、なぜか少しだけ照れくさい。しかし、表面上は全くいつもと変わらないように、
「おう、おはよう。大変だなあ、朝から大量に」
「へへ。二課女性隊員一同代表として配って回ってるんだ。さっき隊長に渡してきたから、最後に第一小隊の方にこれおいてきてお終い」
「そりゃお疲れ。ところで選んだのお前だろう?」
「うん、そうだよ。香貫花連れて問屋街行って来たんだ。チロルチョコと迷ったんだけど、なんか無性に懐かしくってさ」
「というか、大量に積まれたマーブルチョコ見て、無性に買いたくなっただけと違うのか?」
「それもちょっとある」
そういって、野明はヘヘ、と笑った。
「やっぱりな……」
「子供の頃やってみたかったんだよねー、うまい棒を買い占める、とか」
「で、やってみてどうだった?」
「けっこう気持ちいい。でも、問屋街って本当に安いね。今度また行ってみようかな。遊馬も行く?」
「そんとき気が向いたらな」
「よし、じゃ後で」
「おう」
そういって別れたあとに気が付いた。
――『あとで手渡しするつもりなんでしょうね』
って、なに期待しているんだ、俺は。
思わす一人ごちる。
「……ってばからしい」
回れ右をして、さっさと部屋に戻ることにする。早足になったのは、寒いからで感情的な原因ではないはずだ。
古い椅子に座ると、いつもよりスプリングが大きい音を立ててきしんだ気がした。
「気が立ってるのね」
「俺が? まさか」
香貫花はどこか楽しそうに遊馬のことを見ている。一体なんだっていうのだろう。
「なあ香貫花、さっきからなにが楽し……」
「ところで、バインダーのそばにある小さな袋はなにかしら」
「え?」
言われ、机の上をもう一度見る。バインダー立ての前に置いたカバンをどけると、そこには白い袋がひとつ、置いてあった。
カバンを置いたとき、無意識にバインダーの横に押してしまっていたようだ。そして白い色ゆえに、白いバインダーの背表紙とまぎれていたのと、
「赤い箱を探してるから、見つからなかったんでしょ」
「初めから知ってたなら……、からかったな」
「まさか、いつ気付くか、楽しみに見てただけよ」
そして、益々楽しそうに目を細める。そういうのをからかったというんだ、と反論しようとしたが、絶対に敵わない気がしたので黙っておくことにした。二課に来たときの彼女はとっつきにくい印象だったが、今は違う意味で手ごわい。
つまりひまつぶしに利用されただけなんだよな。そう思いながら袋の中身を取り出した。
箱の大きさは大田が先ほど掲げたそれと変わらない。包装紙の色は上品に抑えられた赤で、そこに柔らかい布の白いリボンが結んである。菓子類に明るいわけではないが、アメ横で売っていないことだけは確かだ。
そして、リボンで箱に留められていたカードには一言、
いつもありがと。これからもよろしく!
と、シンプルで色気のないメッセージが添えられていた。
とりあえず、野明に礼を言わないと。それからホワイトデーのお返しも考えないといけない。しかし、どれくらいのものがいいのだtろうか。それとも野明に直接聞いたほうが早いかもしれない。いやしかし……。
今後のプランが、勝手にぐるぐると回り始めた遊馬を、香貫花は面白そうに見ていた。が、やがて笑み残したまま、書類へと目をおとす。
「単純ね」
「え?」
「いいコンビだ、っていったのよ」
*************
後藤は、目の前に置かれたかわいらしい箱をぼーっと眺めた。
愛らしい赤い包装紙。柔らかめのリボン。それらを解いて、白に金の縁取りがとってある箱を開けると、中には見るからに柔らかそうなチョコレートがみっちりと並んでいる。
生チョコというものらしい。
別に知らないわけではないのだが、自分がこういう行事に縁があった頃にはなかったものだ。少なくとも自分の周りには。
――しかしマメだね、泉たちも。
先ほどこれを渡しに来た野明が抱えていた大荷物を思い出す。あの大量のマーブルチョコは整備班の男性などに配る予定らしい。高くはない商品だが、しかしここにいる男性全員に配るとなると、それでも相当の出費になったろう。そういうことをいちいち気にしないところが彼女ららしい一面でもあるのだが。
とりあえず、ひとつ食してみることにする。
生チョコ、というだけあって歯応えがあまりない。ふにゃ、とかそういう感触に近く、しかも解けるのがけっこう早い。
甘さ控えめでカカオの苦味が効いているその味は、後藤の好みの部類であった。元々余り甘いものは食べないのだが、たまにこういうものもいい。
「――悪くないね」
「何が悪くないのかしら?」
独り言に返事をしたのは、先ほどまでミーティングで部屋を空けていたしのぶだった。わき目も振らず席に着くと、そのまま出ていた書類に目を落とす。
「いや、泉たちがさ、こんなのくれてさ」
「あらよかったじゃない。どうりで顔がにやついてると思ったわ」
目を合わせることなく言う。惰性で返事はしているが、全く興味がないといった感じだ。そもそも野明たちが何をくれたのかも、見てないのかもしれない。しかし、そんなことを気にする後藤ではないから、そのまま会話を続ける。
「そんなににやついてる?」
「そうね、いつもよりも少し多いくらいかしら」
そんなあからさまに喜びを顔に出したつもりはないんだけどなあ。後藤は思わず顔を撫でた。埋立地に飛ばされて早一年とちょっと、本庁時代に培ったポーカーフェイスの技術は、少し錆付きつつあるらしい。
もうひとつ、チョコを口に運ぶ。口の中で適当に転がして、ゆっくりと溶かしながら、
「しかし、そんな気を使わんでもいいのにねえ」
「でも、まんざらではないんでしょ」
「まあね」
まんざらどころか大満足だと心の中で付け足した。自分がこういうことでまだ単純に喜べることがまた驚きである。すれた枯れたと思っていたが、実はそうでもないらしい。
まあ、確かにまだ枯れちゃいなかったな。
後藤は、相変わらず書類に没頭しているしのぶを見た。
きれいだと、素直に思う。
まさか四十路を前にしてまたこんな思いを抱えるとは思っていなかった。ただ、昔、チョコレートに少しは縁があった頃と違うのは、相手に期待を抱かなくなったことか。
ましてや、バレンタインデーにチョコを用意しているとは、全く思っていない。そもそもしのぶ自体が、そういう行事に頓着しない性格なのだから。
いや、いくら風俗などの世情に疎い方といってもバレンタインを知らないわけがないし、昔は好きな男に手作りチョコのひとつやふたつもあげたのだろう。が、ここでの生活に於いて、いちいち今日は何の日だと意識しているとは考えにくい。やれ出動だ会議だと場末の割には忙しい部署であるし、日付感覚も行事のあの雰囲気もここでは無縁なのだから。だからこそ、野明たちの行動が目立つわけである。
さらにしのぶ自身が、仕事以外のものをここに持ち込まないタイプの人間だ。意識的にか無意識のうちにか、隙がないよう、見せないようにと日々を過ごしている彼女のことだから、例え2月14日という日付を意識したとしても、そこに、しかもこの自分に対して、何らかの意味合いを見出すとは思えなかった。
その、隙がないようにという日常の中に現れる、隙というか地がまたかわいいんだけどね。
後藤はそっと笑みを漏らした。そんなこと言えるわけもないのだけど。
「――そうだわ、後藤さん」
「はい?」
唐突にしのぶが顔を上げた。出来上がったらしい書類を整えながら、
「後藤さん、お酒、好きよね」
「ええまあ」
「種類にうるさかったりする?」
「いや、あんまり強いのはあれだけど。ほら、もう年だし」
「なら良かったわ」
言って、鞄からなにやらを取り出し、そして席を立つと、足早に後藤の席の前に来て、それを机の上に置く。
渋いオレンジ色の、どっしりとした感じの箱を、後藤は不思議そうに眺めた。
「先日頂いたトリュフなのだけど私も母も苦手なのよ。確か中身はシャンパンとウィスキーのはずよ。家に置いておいても古くするだけだし失礼かもしれないけど、もし、良かったら」
そこまで一気に話して、しのぶは口を閉じた。後藤は、思わずしのぶのことを見つめてしまう。
彼女は分かっているのだろうか。今日、男性にチョコレートを渡す、という意味を。
いや、貰い物だけど、と最初に断ったじゃないか。これにも今日という日付にも多分意味なんてなくて、これは偶然の賜物に過ぎない。自分は勘ぐりすぎているのだ、恐らくは。
「いや、貰っていいなら貰うけど……」
「そう、ならよかった。お酒のつまみにはならないと思うけど、遠慮なく召し上がって」
「あ、ありがとう。でもいいの?」
「いいのよ。気にしないで」
言うだけ言うと、しのぶは書類をもって部屋を出て行こうとする。が、最後に一言、振り向きもせずに、
「本当に遠慮しないで。たまたまなんだから」
そういって、いつもよりも若干早めに、ドアを閉めていった。
しばらく後藤は、しのぶが出て行ったドアを呆けたように眺めていたが、やがて、混みあがってくる笑みを隠し切れないといった表情になった。
もちろん、たまたまなんだろうけどね。
箱を開けると、中には白いトリュフと茶色いトリュフが同数並んでいる。アルコールが入っているからとりあえず一粒、とはいけないが、食べたらさぞ甘い味がすることだろう。
ひょっとしたら。まだひょっとしたらという段階ではあるが。
――少しは期待してもいいのかもしれない。
「……かわいいねえ」
最後、出て行く寸前の横顔を思い出して。後藤はまた淡い笑みを浮かべた。