「おい、テツゾウ……」
馬琴はまとわりつく熱を逃がすように深く息を吐きながら持っていた筆を置き、這いつくばって紙面へ一心不乱に向かっている同居人に声をかけた。
「ナンでい、倉蔵」
返ってきた声は反して暑さを感じていないかのように涼し気で、より一層頭が煮えたぎる気分である。
暑いのだ。とにもかくにも、暑いのだ。
夏の真っ只中、家の戸を開ければ比較的涼しい風が通り抜けるはずだが、いつもより風が強い今日は同居人によって閉めきられてしまった。目の前の偏屈者は紙が飛んでしまうなどとほざいていたが、それほどまでに大切なものならば飛ばないように整理整頓でもしてみやがれと馬琴は思う。
「おぬし、暑くないのか」
「ああ……」
こちらの言葉など耳に入っていないかのような返答に、馬琴も諦めて文机に置いていた団扇を手に取る。ゆるりと流れてくる風は生ぬるく、焼け石に水とはまさにこのことである。長い溜息をひとつ。
「おぬしは……」
一に絵、二に絵、三四ももちろん絵。寝食を忘れることも日常茶飯事、周りに目もくれず、娘が泣いていようがお構いなし。ただひたすら己にしか聞こえない声に耳を傾け己にしか見えない物を見ている。その耳は何を聞いているのか、その眼は何を見ているのか、おおよそ馬琴にはわかるはずもない。
おぬしは、羨ましいほどに。
生まれ持っての天才浮世絵師、葛飾北斎なのだ。
熱せられた思考をそのままに、馬琴は団扇を動かす。じわりと汗を浮かべる同居人へ、紙が飛んでしまわないように柔らかく風を送る。
おぬしは……。
「生まれ持っての阿呆だな」
抗うようにぼそりと零した言の葉に、同居人はヘッと笑って馬琴に顔を向ける。
「お互い様だろうが」
閉めきられた薄暗い室内で、ギラギラとしたその両の眼に射られる。馬琴は己の羞恥と厭悪に耐えきれず眉を寄せながら顔を伏せた。
嗚呼、北斗星なぞ、暗闇では眩しすぎるのだ。