終わった話男がひとり、河に飛び込んだらしい。
デラウェア河のほとり、揃えて置かれた男物の靴。水上のざわめく通行人と喧騒を余所に水面は静かにゆらめいていた。
真っ暗な空間を掻いで進む。逸る気持ちを脚に伝え底へ、底へ。河底に眠るようにうずくまる人影。
やっと逢えた──
こんな寂しい場所に居たんだねマジェ──
もう離れない、ずっとそばにいる──
ディスコはマジェントだったモノを強く抱きしめ、瞼を閉じた。
***
風がくるくる巻き毛をなでる。
遊具もない公園の真ん中で、子供がぽつんとしゃがんで足元を見つめている。5歳になったぐらいの黒髪の少し色白で痩せっぽちな男の子。自分の作る小さな影と足元の砂と小石しかない寂しい地面の上で列を作って這う蟻をただ静かに見ていた。
傾きはじめた陽射しが小さな身体を照らし、陽の光を吸った地面は熱を伝える。暑さでにじんだ汗が幼い頬を流れて、ぽとりと地面に染みた。それでも彼の視線は動かない。だから、いつの間にか小さな身体を覆い尽くしていた人影にも、気付くはずも無かった。
「マジェント」
頭の上からやさしく降ってきた声に、マジェントはようやく顔を上げた。見下ろす男の顔は呼びかけた声よりも優しく、小さな身体を見つめていた。長い両腕を伸ばし小さな身体を抱き上げる。急に地面から遠くなって不安になったのか、小さな手が男の肩口をぎゅっと掴んだ。
男はマジェントを抱きしめながら思う、自分が来なければ、このままきっと何時間でもこうして無為な時を過ごしているんだろうと。その光景が瞼に浮かんでしまうと、いても立ってもいられ無くなってしまう。せめて小さな身体に降り注ぐ陽射しから彼を守って上げたいのに、つい呼びかけてしまった。木の方がまだ無口だと木陰になり損ねた男は思った。小さなマジェントを愛おしそうに抱きしめる上背のある男。隠すように目までかかる前髪、無精髭を剃ったらさぞ人目を引くであろう整った憂いのある顔立ちの青年。年は若いがディスコだった。2人とも現代の服を着ている。
「マジェント…晩ごはんは何が食べたい…?」
腕の中の小さな彼は答えず、今まで立っていた地面を見下ろすだけだった。
ディスコはふたたび生を享けた。自分がこの世界に産まれたのならマジェントもきっと何処かにいるはずだ、それは言葉にはできない確信だった。
自分だけで生きていけるようになってからディスコはずっとマジェントを探していた。親もなく宛もなく施設の片隅でぽつんと佇むマジェントを見つけた時、どんなに嬉しかったことか。再会してからというもののディスコはマジェントがしゃべった姿を見た事が無かった。うなずいたり、ディスコの服の裾を引っ張ったりとわずかな意思表示はしてくれた。それでも…心ここにあらず、いつも呆けた顔をして遠くを見ている事が多い。以前のお喋りで騒がしかった明るい彼からは想像もつかない姿だ。
ディスコ自身は口数が少ないタイプだったので困ることはなかったが彼はマジェントの話を聞くのがとても好きだった。マジェントを見つめながらディスコは寂しげに微笑む。
(マジェントには以前の…記憶は無いようだ…オレの事も覚えていない…でもこうして再び出逢えることが出来た…それだけでオレは……しあわせだ……)
夕暮れの道を小さな手を引いて歩く。ふとマジェントが立ち止まった。張り付いたように顔が動かない。
「マジェ…?」
子供らしい柔らかなマジェントの横顔に呼びかけるが返事はない。小さな瞳の見つめる先を追っていくと目の前に舗装されていない小川があった。水面へ落ちる日の光は砕け、ゆらゆらと漂っている。
「なにか、忘れてる気がする」
突然、聞こえた声にディスコはゾッとした。それがマジェントが言った言葉だったからだ。この年頃の子供が発したとは思えない、暗い暗い音。
マジェントの瞳は水面を凝視していたが何も見てはいなかった。いや、もっと奥底、河の底の底。記憶の底。この前の記憶、産まれる前の記憶。むかしの記憶。前世の記憶──
幼いマジェントの周りに彼の愛したものが亡霊となって纏わりついるようだ、とディスコは思った。……いや、違う。彼らを引き摺り込んでしがみつきたいのだ…マジェントは。
子供に見えないほどの恐ろしい形相で水面を凝視するマジェント。愛して裏切られて見捨てられて、どんなに時が経っても生まれ変わっても、それでも思いが消えてくれない。
そして、きっと彼自身も思い出すことを、呪い呪われ続けることを……望んでいる、と──
「マジェント!」
ディスコは叫び、マジェントの小さな身体を抱きしめた。
強く、引き止めるように。
「忘れてないよ…終わった…もう終わったんだよ…」
強い力で抱きしめられ呆然とするマジェント。
「オレはずっとマジェントのそばにいるよ」
小さな頬に一筋の涙が伝った。
ディスコはその場でマジェントを抱きしめながらへたりこんだ。どれぐらい抱きしめていたのか、マジェントがもぞもぞ動くのでディスコは身体を少し離してやった。黒い小さな瞳がディスコを見た。ディスコの目には涙が浮かんでいた。マジェントは小さな指を伸ばしディスコの顔に伝った涙をゴシゴシと拭う。思ってもみなかった行動にディスコは驚いてマジェントを見る。その顔は今までと変わって呆けてはいなかった。目は生き生きとし、眉毛は生意気そうに釣り上がる。
「マ、ジェ……」
ぐうぅうぅ~~!
突然の音。小さな腹から元気な音が響いた。
「ディスコちゃん、おれ!ハンバーグが食べたいな!」
晴れの日みたいにニカッと笑うマジェントがそこにいた。マジェントの笑顔がまた見れた。ディスコたまらず顔を反らし空を見上げた。茜色に染まった夕焼けが眩しくてまた、涙が溢れそうになったから。
「うん。帰ろうか、マジェ」
笑顔で言えただろうか。声に涙が滲んでいたかもしれない。でもマジェントが嬉しそうに頷いたからこれで良かった、とディスコは思った。
立ち上がり、ふたりは歩き出した。
手に手を重ねつなぐ。強く強く、もう離れないように。
ずっとそばにいる
ずっとそばにいる